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精神は 神ではない。

 一口メモによる情報交換です。  精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。  しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。  よって 精神は 神ではない。  自由なお考えをお寄せください。

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  • titelist1
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回答No.1

精神は精神病と言う病気になるぐらいですから生身の人間に付随しているものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ そうなんでしょうか。  つまり のっけから私見を持ち出しますが   ★ 精神病  ☆ というのは じつは けっしてあり得ないとわたしは考えています。  その心は?  つまり もし何らかの困った状態・いわゆる症状が出たとしますと それはみな心理――心の動きです――の状態がたとえば交通渋滞を起こしたというようなコトまでだと捉えます。  (もし重大な症状があるとすれば それは 身体のほうの疾患であろうと見ます。器質ですね)。  (心理としての動きが詰まったりするとした場合 その場合にも神経細胞なり何なりの身体の問題にも現われるとも捉えます。心理ではなく《精神》のしっかりしている人は なおおのれの務めを果たそうとしますから むしろ身体のほうで おまえ ちょっと休めというドクターストップがかかるのでしょう。そのとき身体のほうに何らかの差し障りが出ることがあります)。  精神は つねに――じつは――きよらかです。  きよらかな心にさからう心ないし精神ないし理性は あり得ます。起き得ます。  しかもそのことをわが心は――つまり精神は―― 知っています。そういうことは 身体にしても感性の知覚としてちゃんとご存じです。へそ曲がりになった理性は これにも・つまりこの明らかな自覚にも 平然としてさからいます。のしをつけて。つまり アマテラス学術語を駆使して どうぢゃい こういう立派な理屈がとおるであろうとうそぶきます。  精神は つねにみどりです。みづみづしい。感性の原野でさえ みづみづしい限りです。  ただ へそ曲がりがあるのみです。  病気は 曲がったへそが 三度のご飯よりも大好きだという人間に じつは起きています。しかもこのへそ曲がり人間とつき合わざるを得ない人 あるいはおのれの自由意志で しょうがないなぁと言いながらも 体当たりで人格を賭けて つき合うことを選択した人 こういう人に《病気》が移ります。つまりは へそ曲がりによる疾患を 相手のほうが引き受けているという恰好です。  世の中が どんでん返しを経験するとき この《取り替えばや( quid pro quo )物語》は一瞬の内に世界が開けて まづその疾患を引き受けていた人びとの半分の人が すっくと立って元気になります。病気になる謂われがないからです。  あとの半分は 多少とも自分にもやましいところがあるので 癒されるのが延びます。  精神は 神ではないという命題に賛成票を投じていただいたのですが 《精神病》という事項にかんしましては 以上のような物言いを勝手につけさせてもらいました。どうでしょうか。

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  • kohichiro
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回答No.16

ブラジュロンヌさん、こんばんは。 ひさしぶりにブラジュロンヌさんらしいご質問ですね。 一口メモですからひとくちで 「生きている精神はどうしても環境に左右されてうつろうので神にはなれないが、けだかい精神の結晶はたまたまであるが神になる、あるいはなってしまう場合がある。」

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ [・・・]けだかい精神の結晶はたまたまであるが神になる、あるいはなってしまう場合がある  ☆ そうですね。  文学的な表現のアヤだとは言いませんが 意味を取るにむつかしい命題でしょうね。  わたしの解釈を初めからすでに言いますと おそらく《神の嘉するところとなった》というのが 伝統的な説明例でしょうね。  でも これだと分かりにくいですよね。  《神の霊につつまれるようになった》。――これも ふるい表現ですね。  《神の後ろ姿を見た》。――でも 分かりづらいですね。  《みづから傷つけた人格(身と心)が 復活させられた》 ですかね。  《キリストよりも大きなことを成すようになる》 かな。    ただし 人間が自分のチカラでそうなるのだとは わたしは考えません。絶対他力だと思っています。  こんな感じでしょうか。  むつかしい命題を持ち出して来ましたね。

noname#205373
noname#205373
回答No.15

休憩 お菓子と言うのはニュアンスです・・・ 精神世界は 食べる事はしません・・ 神の愛がエネルギーとなるのです・・・ 心とは どういった物かが あなたに伝われば 全て解かるが あなたは まだ 其処まで到達するには時間が必要なので 今は何を言っても無駄だと判断しました・・・ まっ とりあえず もっともっと勉強して下さいね・・ そうすれば神を知るまでは出来ます・・それ以上は勉強では神は見えないだけ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 休憩 お菓子と言うのはニュアンスです・・・  ☆ 文学的な表現のアヤですか。  でも それでもわたしは いただけないとは思っています。同行二人といった表現のアヤにしても むしろ独りにして放り出すほどのことのほうが ふさわしいのではないかと考えるからです。  ただし この問題は 議論になじまない。やはり主観の中の問題だと思いますから。(つまりは 主観内面のことを わざわざそちらが持ち出したので 取り上げました)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  精神世界は 食べる事はしません・・  神の愛がエネルギーとなるのです・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《精神世界》の問題ではありません。精神は身体と一体であり モノとしての糧が必要です。  たとえばイエスが言ったこととしては 例のサマリアの女のくだりで 弟子たちが食物を買いに行っていたあいだに イエスは何か食べたかのように話をしたので どうなのかを尋ねると イエスはこう言いました。《わたしには 〔モノとしての糧の〕ほかに食べ物がある》と。  これは確かに 人びとに信仰を説き神を指し示すこと このおこないをすることがイエスにとっては《食べること》だという意味だと考えますが そのことと  ★ 神の愛がエネルギーとなるのです  ☆ という命題との異同をしっかりと捉えなくてはならないでしょうね。  つまり  ★ 神の愛がエネルギーとなるのです  ☆ は その解釈がさだまらないのではないですか? この一文を読んで あぁ それは こういうことだよと説明できる人はいるでしょうか? なかなかむつかしいと考えます。  言いっ放しにしておくのは けっきょく意味も確かめずに表現のアヤとしてよさそうだと思って何となく出しただけではないのですか?  あとは はないちもんめとでも歌っているだけの文章でしょう。取るに足りません。

noname#205373
noname#205373
回答No.14

そうですか(#^.^#)情報交換ですか(#^.^#) まっ情報交換にしては 俺の回答に あなたが批判的に感じるが・・ それは置いといて・・ 神は 人間と一緒に宇宙(これからの時代は天宙と呼様になります)を永遠に存在させる目的があるのです・・・ 天宙は まだ 完成されて無いのです・・神と人間が一緒に創るものだから・・ 人間の親でも 子供と一緒に何かを作る時 手伝ったり 子供自身の想像力 独創性 等で子供だけに作らせたり・・・そして 完成間近かで ひと休憩・・お菓子等食べながら完成するのを一緒に祝う・・或いは 完成して一緒に祝う・・・そんな関係が「神と人間」の本来の世界なのです・・・

bragelonne
質問者

お礼

 誰の回答ゆえに評価するあるいはまた批判するということは ありません。    あるいは もっと詳しく言うなら 回答内容に自信を持っているというかたちの投稿行為に対しては いちいち容赦することなく 思ったとおりの批判を書き込みます。  つつましやかな投稿形式の場合には 批判すべきところを ていねいにやわらかく表現します。批判はします。  ご回答をありがとうございます。  ところで神は 人間と同じように《休憩》したり《お菓子を食べたり》するのですか?  休憩は 聖書にそれらしきくだりがあります。サバト。  けれどもこれは そのまま神の休憩であって――物語によると この世界を創造するときの七日目に取ったやすみの日であって―― この創造なる行為を人間がおこなって休憩を取るというわけのものではない。  その七日間に倣って 生活のリズムとして一週間が出来た。だから日曜日や土曜日等々の曜日にそれとして人間も休日を持つ。  つまり言いたいことは 人間のいとなみの側から 神のほうへと休憩が要請されるものなのか? という問いです。  神も 人間と同じように休憩したりお菓子を食べたりするのですか?  神と人間とが一緒にというのは お地蔵さんがそこかしこで人間を見守っているというようなこととは別なのでしょう?  文学的表現としてなら かまいませんが 哲学としてこの《神と人間が一緒に創る・祝う》というのは 理解がむつかしいです。  (ちなみに 一人のひとの主観内部でそういうこと――神とわたしとは一緒である(同行二人?)――を思っていても何ら これも構いません。しかし 他人に向かって そういうことを言っても はいそうですかで済ませられます。そこんところを しっかりと考えてみてください)。

noname#205373
noname#205373
回答No.13

あなた 何か間違ってませんか!? あなたが「自由なお考えをお寄せください」と質問してるのだから 例え どんな回答が付こうと あなたが望んでる回答なのですよ・・ それをイチャモンつける方が間違い・・

bragelonne
質問者

お礼

 《情報交換》ですよ。  応答ゼロをのぞむということですか?  それならそれと言ってください。  ご回答をありがとう。

noname#210533
noname#210533
回答No.12

一口メモなら書きましょう。 返事不要です。 思い込みが強くて視野が恐ろしく狭い 一方的な批判など聴く意味が無いから。 でも、あなたは私の書き込みを読む。 「自由な考えをお寄せください。」 ・・・そうしただけだから。 で。 あなたがどう捉えるかは一切無関係に、 人は今、人工的な神を造り「そうに」なっています。 IBMもgoogleもAI、という言い方はしませんが、 いよいよ人工知能が人間の知性を超えることを 極めて現実的に予測できる状態になってきました。 根拠など示しません。 知ろうとしない人に話してもチンプンカンプンでしょうし、 理解できないが故に無意味で無価値なガラクタ、と 言う以上の反応はないでしょうからです。 ただ、世界規模で言えば合計で数兆円の関連予算が 国家レベルでも民間レベルでも投下され、超、が付く 天才や秀才が雲霞のように集まってフル回転で 人工の神の構築をしています。  古典的な精神、だとか神、だとかの古語だけを 組み合わせて思考するのは、中世の神学者が 科学を頑なに否定した姿勢と何一つ変わりません。 神、とか精神、という不可知なもの(中世では、です)を 崇高で不可侵なもの、という立脚点から組み上げた 壮大な「詩」でしかないものが宗教です。科学ではない。 科学万能だの古臭い議論も意義に乏しい。 莫大な金が惜しみなく注がれる、想像を遥かに超える 情報の海が信じられない規模と速度で膨れ上がり 成長している言語・非言語のデータベースの中で 現実に今、揺籃されているのです。 人間の知性を超えるモノが出来つつある、という 現実であり、事実です。 宗教家が考える神や精神は、所詮人が唱える 祈りの中にしかありません。 どんなにそれに言葉をくっつけて超越、絶対不可侵を 語ろうとしても、そこには根本的に欠けているものが あるからです。 それは、「実現性」です。 自然現象の確実な再現は、その機序の解明と原理と 応用の確立に結びついて科学と技術の両輪を回して 来ましたが、宗教は未だ現代世界のどこにも、自分達が 唱える神を可視化させることが出来ません。 そのことについて宗教的屁理屈で韜晦するだけです。 もっと簡単に。 神を人々の前に顕して見せて?という、実に簡単な話です。 あたかも超人として人間の完全体のように語る者ばかり。 神は不可知だと「都合の良い言葉」を語るばかり。 心の拠り所として、多くの虐げられている者達が祈りの 対象として「信じる」、神、という概念や理念の集合。 科学者が研究をすればするほど、その機序、カラクリとでも 言えばよいか、それに対する不思議。 ともすると思考を停止させて「大いなる意思を感じる」などと 言って終わりにしてしまいそうなことでも、科学者たちは 科学者である故に、明快に説明できる式や論理を考察し、 それを沢山の研究者に検証してもらおうとする。 そうして「これは間違いなさそうだ」という理論が確立すると いよいよ「現実化」のプロセスに入る。 長文で飽きましたか? なじみの無い単語や思考を追うことは疲れることですね。 もう少しで終わりです。 宗教家が何故、世界を変えていく力を失っていったのか。 そこは否定しても仕方ないことです。 科学をこき下ろしても生み出されたテクノロジーを否定する 程バカバカしいものはない。 こうやって匿名の人間同士がネット空間で対話している こと自体が、テクノロジーそのものなのですから。 誰がやっても再現できる。 だから、共有知として人々の思考の骨格になり材料になる。 そして、人間は長い歴史の中で人間を、或いは自らの持つ 知性そのものを造ろうとして来ました。 今蒼い眠りから目覚めようとしているそれは、単なる人類を 脅かす機械知性の人工知能ではありません。 その構造にも材料にも、あなたや私のような「人間達の思考」が 使われる、人工知能型の並列化されたプログラム群との キメラのような融合体です。 しかも想像を絶する速度と広さ、深さで進化する。 爆発的に世界が変わっていくでしょう。 そして、どうしても科学と言う人間の営みを肯定的に見る 側面を持てない人々、宗教家にはこのタイプが多いけど、 そういう人達が時にテロリズムにさえ手を伸ばして、 科学で築き上げられた文明と文化を壊して7世紀に 逆行させようとするでしょう。 多分、極めて個人的理由で、社会を受け入れられないの でしょう。 それも人それぞれですが。 宗教に走ってしまう人は、超越した究極の存在である 「神」を必要とする個人的な理由があるのです。 それは無数にあるでしょうが、一括りにすれば、 生きる痛みや苦しみこそ、それでしょう。 神がいるとかいないとかは、現在の先進国での 社会運営に際しての基本理念ではあり得ません。 良くも悪くも経済であり、科学であり、人間の様々な 欲望と欲求の制御された巨大なシステムです。 数十億、数百億或いはそれ以上の資産を持つ 特権階級は、もはや自分でPC画面をいくつも 並べて株の売買などしません。 24時間地球上を回りながら動作する、秒単位で 売買を繰り返すロボットプログラムに錬金術を 行わせています。 どんな言葉でも文章でも一秒も立たずに検索する プログラムというものがどれほどとてつもないものか、 考えて見ればわかるはずです。 「人工の神」が夢物語ではなく、現実に遍く世界に 広く生まれつつあることを、です。 並列化、というものは例えば、私のある記憶と思考が コピーされ、それらが全て別々の個体として独自に 作動し、そこで得られた行動や思考の記録を再び まとめて一個体に戻せることです。 無数のデータベースの集合体であるネットは、 これから更に無数の情報を取り込み、自由自在に 取捨選択と分解・再構成が世界中で並列的に 行われるようになります。 あなたや私が死んでも、その言葉や思考は生きた 状態で保管され、無数の場所で無数の人やAI群に よって再利用される、ということです。 果たして誰に、どのように使われるのかは想像も 出来ません。 でも、一個体としての思考や感情ではなく、無数の 知性、それも感性や感情を備えた知性の、それは 個であったり群であったりの離合集散を繰り返しつつ、 自律的な知性の海として進化していく。 哲学的にも能力的にも価値的にも全ての意味において、 「神」と呼ばれるに近いものになるでしょう。 宗教家がどんなに「真の神は人間に捉える事など 出来ぬ超越したものだ」と口角泡を飛ばしても、 不可知で人間に関わらぬものは無数の知性達に 相手になどされるわけがないのですから。 宗教家が説く神は、人類に進歩を止め古代に退行 することを求めます。 進化と神は実は相容れないからです。 命は個から群へ、そして再び全体で1つの生命に、 離合集散と並列化を繰り返しながら進化する。 我々の能力も命も悲しいほどにちっぽけなのは、 海の水の一滴が海に比べようも無いと嘆くほど 無意味なことです。 だって、海に帰るし、また海から出ずるからです。 個と集合は、究極のところ等価なものです。 シチュエーションに応じて分化したり有形化したり しているだけの、おそらくは巨大な海、或いは「場」の 一時の「相」に過ぎません。 その意味では、 私は私であり、私でしかなく 私はあなたでもあり、全ての存在でもある。 私は、存在しない、そして、遍く(あまねく)存在する。 私はどこにでもいて、そしてどこにもいない。 ということになるでしょうね。 最後に繰り返しますが、私にとって無意味な批判は 不要だし、質問者が問うた「考えを聞かせて」に 答えただけです。 それを切り刻んで否定してみせるあなたの手法に うんざりしている人は私だけではないはず。 あなたは、ご自分で書いたとおりにしなければ ならないのです。 考えを、聞かせてください、と。 あなたは聞かなくては、ならないのです。 そう、言ったのだから。 そうして受け入れるとか受け入れないとかでは なくて、ただ自分の考えを誰彼無く押し付けて 認めさせたいという欲求が見えたなら。 神などではなく、それが唯の個人的欲求に 過ぎないことも客観的に見据えなければ ならないと思うんですよ。 だって、それじゃ唯の、自分を見失って脳という 肉体の欲求に振り回されている中毒患者と 同じになってしまうからです。 先程の私の私見に矛盾すると言うかも知れませんが、 個と集合を混同させては正しい機能はしないのです。 そこには、分解と再構成という生と死を繰り返す再生が 不可欠なんです。 病的なまでに山ほど書いて、そして急かして書かせて 独りよがりの言葉と理屈で評価し、批判し、そのくせ 自分は神の説明者です、私をやっつけても無駄ですよ、と。 神という「途方も無い知性の海」があるならそんな小さい 個人的自尊心なんかのために動くでしょうか。 海は、海です。 一匹の魚のために存在しているわけではない。 理想的な完全体の魚として存在しているわけでも ないし、それは其々の個体の生と死、ある種の勃興、 それら全てを「相」として持ちながらも、生かそうとも 殺そうとも、いかなる「意思」も持ちません。 何故って、「意思」というのは個体の生命維持を保障する 生命体に組み込まれた「機能」でしかないからです。 もう書ける文字数があまり残っていません。 この辺にしておきますが、聞くつもりなら、聞かねば。 いくつになっても未知を学ばなければ、です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人工知能  ☆ これについては つまりラプラスの悪魔のごとく 歴史の以前から歴史時代の世界のすべての人すべての出来事について その一つひとつの因果関係をぜんぶ知っていて その解けない問題についてもすべて解決方法を知っておりその実行ができるチカラをも持つといった存在であれば まあまあ神に匹敵すると言ってよいでしょう。  ただ人間の能力を超えると言うんぢゃ 話に成りません。  神について誤解があると言わねばならないでしょう。

noname#205373
noname#205373
回答No.11

神は人間を超えてはいません・・・ と言うか 人間が神と同様の性質を持ってるのです 神は 崇拝されたり 支配する為に 人間を創造したのでは無く 唯 神の子として 愛し 愛され(授受作用と言います)共に楽しく過ごしたいだけ・・・ 人類歴史が人間始祖の堕落に拠り 神の想いと全く違った歴史になるのを 神が復帰の道に繋げているだけ・・ それだけの事なのです・・・

bragelonne
質問者

お礼

 だとしたら 人間のほかに神という存在をいちいちわざわざ持って来る必要は何にもない。となりませんか?  アニメ・キャラとしてのように おもしろそうだから持ち出したのだと言われれば あぁ そうですかとこたえますが それは 神の存在が必要だとかもっともなことだとかと認めたものではありません。おあそびですから。  ★ 人類歴史が人間始祖の堕落に拠り 神の想いと全く違った歴史になるのを〔うんぬん〕  ☆ と言うのなら この《神の想い》は そのまま人間の想いでもあることになる。いちいちわざわざ神を持ち出す必要はさらさらないことになります。  ご回答をありがとうございます。

回答No.10

bragelonneさん おはようございます。 この投稿の質問に答えるには、bragelonneさんの「精神の定義」をしてくれないと回答不能です。 日本語における精神を考えると、ひとつはデカルトの思惟のような精神として解釈をされますが、一方で、日本人の精神性は和を重んじることだ、というように使われます。 英語において「psyche」「mind」「spirit」を英和辞典を引くと、すべて精神とか心と訳されてます。 時代によって言葉は揺らぎますし、造語されたりします。 「意識」は英語で「consciousness」ですが、18世紀のドイツのC・ヴォルフによる造語で、デカルトの「conscientia」というラテン語を訳す際、作った造語であり、ラテン語ではもともと、「良心」を意味していました。 脱線しますが「自然」は現在では、英語の「nature」が一般的ですが、bragelonneさんはご存知と思いますが、江戸時代において「自然」は「じねん」という仏教用語で、現在の「自然」という言葉は、一般的に「森羅万象」という言葉があてられていて、この時代は本草学というものがありましたが、現在のような、西洋科学というものは日本には、まだなかったそうです。そして、明治時代に、近代化するため、大急ぎで「nature」を邦訳し「自然(しぜん)」として西洋科学を導入した。 オーストリアの精神学者・心理学者のV・E・フランクルは精神と意識を区別し、心を考察しました。 しかし、心と精神を分離して考察するする人もいます。bragelonneさんは、いかに「精神」を考え、定義し、この投稿をしているのですか? 哲学は長い歴史を持ちます。時代と共に言葉のニュアンスが変わると思いますし、新たに造語されたりします。そして、原書が出来た他の国において訳される場合、原書とニュアンスが違った訳文として紹介されます。 bragelonneさんが哲学を完成させ、日本語で書いても、海外において訳されたら、beagelonneさんの考えと全く違う意味で翻訳されるかもしれませんよ。 では、お礼にてbragelonne哲学における精神の定義をお礼にてお待ちしております。

bragelonne
質問者

お礼

 amenhotep2000 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ この投稿の質問に答えるには、bragelonneさんの「精神の定義」をしてくれないと回答不能です。  ☆ これは そのとおりかも知れません。と同時に そうでもないようにも感じられます。  まづ スレッドの中で或る程度の説明を入れる機会がありました。  ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  〔精神について〕定義を示します。  (あ) ひとは 自然本性として 身と心とから成る。身体と精神です。  (い) 身体に感性を当てるときには たいてい精神には 理性をあてるはずです。  (う) ただし 精神は 一般に三つの行為能力から成る。記憶と知解と意志です。理性は 特には知解能力の一環です。  (え) 精神があたかも精神するとき そこに展開されるのは 一般に知覚(感性)をつうじて得たものを悟性で認識した知識 この知識ないし情報について あたかも自己組織化のごとく われわれが意識せずとも 整理整頓してみづからの倉庫におさめる。――これが 記憶行為です。覚えて秩序立ててしまっておく。  (お) ものごとについて考える行為が来ます。知解能力です。記憶の倉庫から知識を引き出して来て 当面の主題についてさらにあらたな展開をかたちづくるように筋道立てておのれの見方考え方を持つようにする。  (か) 意志は すでに知解行為に先だっているとも見られる。主題をどう捉えるかを欲するところから始まるから。そうして 知解が 結論を出し処方箋を書く。その選択肢の中からえらぶのは意志であり その実行も意志が受け持つ。  (き) したがって 記憶・知解および意志から成る精神は 《概念や言葉の構成物》だというのは 簡単すぎる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうしてこの定義がないと《回答不能》だというのは言い過ぎではないかとも思ったというのは 質問では《精神は 神ではない》と言おうとしているからです。  したがって 或る人は いや 精神が神であるという内容を回答して来るかも知れないし また或る人は――精神の定義をまだ明らかにしていない段階でではあるが―― そのとおり 精神を神だとしてその想像のかなたへただただ憧れて行ってしまってはならないのだと答えて来るかも知れません。  まづは そういうかたちで最初の応答が成り問答として始まればよいわけです。  上に触れた第二の回答者なら けっきょく精神を神としてはいけない そうするとそれはただ思考や想像によって人間がつくった観念の神でしかないことになってしまうとつけ加えてくれるかもわかりません。まづは こうしたやり取りが出来ればよいわけです。  精神とは何かをめぐって 英語等のヨーロッパの言葉との関係は如何に? やあるいは 意識と良心 またネイチャーと自然 じねん と しぜん 等々についてあきらかにしていただきました。    ★ V・E・フランクルは精神と意識を区別し、心を考察しました。  ☆ そういうことを言うと うりがだい氏からは いったいどこに――脳組織のほかに――心があるんだ? と言われそうですが やり取りの流れに沿って必要な事柄を随時入れて行ってください。  精神の定義だけではなく このスレッドでは うりがだいさんとのやり取りをぜひ全体にわたって参照していただきたい こう思います。

回答No.9

再度、補足します、 この忙しい世の中で、長文で、わざわざ、私のヒマつぶしの、つまらない文章に回答して頂き恐縮しますが、私は日本人で、あなたのようにキリスト教徒でもないし、神の存在なんか信じていないし、精神が人間にあるなんて思っていないし、あるのは感性と知性でしかないと思っているので、あなたの仰っていることは私には到底受け入れられません。 (あ)ひとは自然本性として身と心からなる、身体と精神です。 ・・・・・と仰いますが、私は唯物論者ですから、あるのは基本的に物質だけであって、心とか意識だとか、そんなモノは脳の活動の随伴現象で、派生体だと思っていますから、それを「自然本性」だなんて思いません。 脳は神経・ニューロンと化学物質・シナプスのニューラル・ネット・ワークで、心はその変換装置にしかすぎません。 刺激・インプットと反応・アウトプットを中継し、それを変換する装置、それが心です。 精神なんて脳のどこにもありません。 いったい、そのあなたの仰る精神というのは何で、どこにあるというのですか? (い)身体に感性を当てる時は、たいてい精神には理性を当てるはずです。 カントによれば、感性というのは外界を感覚器官を通して受容する能力のことです。 「身体に感性を当てるときは」、とは何のことを言っているのでしょうか? 身体の下位に感性があるとしたら、精神の下位に理性があるとでも? ということは精神とは理性の上位の能力だということですか? たしかにヘーゲルの「精神現象学」では、感性・悟性・理性の上に精神が乗っかってますから、上位にあるのは確かかもしれませんが、精神というのは単なる抽象的な概念に過ぎないですよね? ところがあなたは精神を実体化し、人格化し、擬人化し、あたかも人間の頭の上に超越者のように君臨しているものと考えているように思いますが、ヘーゲルはそれを「自己疎外」と言ったのでしたよね? 神という概念、そして神の存在も、人間が作ったものなのに、それを「自己疎外」によって、あたかも人間とは独立に存在しているものと勘違いする、マルクスも労働者は商品を自分が作ったのに、逆に商品によって支配されているという事態を「自己疎外」と言っていましたよね? それを本末転倒と言っています。 (い)ただし、精神は一般に三つの行為能力からなる。記憶と知解と意思です。理性は特には知解能力の一環です。 私はカント哲学は読みますが、カントはほとんど精神という言葉は使いません。 だから、記憶と知解と意志の能力は知性があれば充分で、精神を必要としませんと申し上げております。 理性は主として判断の能力ですから、記憶や地解や意志に理性の判断を必要としませんから、理性だって必要ではないと思います。 知性だけあれば充分です。 (う)精神があたかも精神するとき、そこに展開されるのは一般に知覚(感性)をつうじて得たものを悟性で記憶した知識、この知識ないし情報について、あたかも自己組織化のごとくわれわれが意識せずとも整理整頓してみずからの倉庫におさめる。これが記憶行為です。覚えて秩序立ててしまっておく。 ・・・・・あなたは精神という言葉がよほど好きなように思えます。精神・精神、と繰り返しています。 そういう言葉は、精神なんてないと思っている人間には馬耳東風です。 それに整理整頓してみずからの倉庫にしまっておくと言いますが、それはメタファーであって実際ではないですよね? だって、脳は細胞でぎっしり詰まっていて、隙間なんてないのですから、記憶をしまっておけるような倉庫なんてないし、だいいち、私が申し上げたのように脳は神経・ニューロンと化学物質・シナプスのニューラル・ネットワークで、心もないし、私というものがそこにあるわけでもないのですから。 脳をいくら解剖したとしても、ここに心があります、ここに精神があります、と言って取り出して見せられないのですから。 現代のアメリカの「心の哲学」では、心とか意識は脳の活動に伴う「機能状態」のことです。 脳の状態に対応する心的状態、それが心とか意識と言われるものです。 「機能」というのは「働き」のこと、車でいえば、車の機能といえば、何でしょうか? そう、「走る」ことです。 そして走ることは、名詞でなく動詞ですから、車のどこにもありません。 それと同じで、心とか意識は人間の身体のどこにもありません。 そもそも存在するものではなく、「働き」なんですから。 カントも「純粋理性批判」で、デカルトの心が実体という考えを批判して、それは文法の主語を実体と勘違いする「実体論的誤謬推理」だと言ってデカルトの心が実体という考えを葬りました。 あなたが、精神・精神と連呼しているのも、私から見るとカントがいうように「実体論的誤謬推理」を犯しているように見えます。 事実、アリストテレスも「文法で主語に置かれたものが実体である」といい、主語と実体を同一視しました。 「精神は・・・・・」とか「私は・・・・・」と、精神や私を主語において語ると、人間はその主語を実体と勘違いします。 私はあなたが精神を実体化して考えていると思います。 まだまだ、言いたいことはたくさんありますが、あなたの考えと私の考えは根本的に相容れませんから、あなたの考えに私はことごとく賛同できないし、まったく説得力はないし、それはあなたも同様で、私のいうことにぜんぜん耳を傾けたりしないでしょう。 だったら、いくら述べても、馬耳東風、馬の耳に念仏、徒労でしかありません。 こんなことをするくらいだったら、じっくりと本を読んでいた方がましです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (あ)   ★ いったい、そのあなたの仰る精神というのは何で、どこにあるというのですか?  ☆ そのように・このように言葉で対話をしている姿 それが〔身体と連動しているところの〕精神でありそのハタラキです。  (い)  ★ 「身体に感性を当てるときは」、とは何のことを言っているのでしょうか?  ☆ 《身と心》の一体について《身》を《身体》と言いかえたときには 《心》は《精神》と呼ぶ。  身体についてそのハタラキを言うときには 《感性〔あるいは知覚〕》という言葉で当てる。という意味です。  ★ 身体の下位に感性があるとしたら、精神の下位に理性があるとでも?  ☆ 《下位》ではありません。ハタラキです。感性に対応する言葉は 精神において《理性》であろうと言ったまでです。これは 流動的でしょう。深い意味はありません。  理性は 知解という能力の一環であると述べています。悟性もあります。  あるいは もちろん《知性》という言葉もあります。  ですから 理性は 必ずしも精神のハタラキを代表するわけではありません。ありませんが 身体∽感性というときには 精神∽理性と言ったりしますねと軽く触れたまでです。  おっしゃるように《知性》は 知解能力に全体として対応しますし あるいは記憶や意志というハタラキをも含めて精神の全体に対応する概念であり得るとまで確かに考えます。使わなかったのは 《知》と言ってしまえばけっきょく人間が世界を知ることのすべてに当てはまるからには 意味内容が拡散することをおそれた。このゆえです。ほかに意図はありません。  ★ ところがあなたは精神を実体化し、人格化し、擬人化し、あたかも人間の頭の上に超越者のように君臨しているものと考えているように思いますが、ヘーゲルはそれを「自己疎外」と言ったのでしたよね?  ☆ 次の図示で《思考の緑野》と言っているのは――《思考》は 知解能力の一環ですから 狭い規定になってしまっていますが―― けっきょくのところでは《精神》のことです。部分概念で全体概念を表わそうとしたものです。他意はありません。  ○ 人間に生まれつきそなわった自然本性の内容 ~~~~~~   信じる(クレド):非思考の庭:ヒラメキ直観   ----------------------   考える(コギト):思考の緑野:経験合理性   感じる(センスス);感性の原野:知覚・共通感覚  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《精神は 神ではない》という命題のもとにこれを検証しようとしているわけですから 精神を《超越者》だとは見ることはありません。  ★ [・・・]だから、記憶と知解と意志の能力は知性があれば充分で、精神を必要としませんと申し上げております。  ☆ 《知性》についてすでに触れましたとおり おそらくこの認識内容は互いに同じく共有しているものと受け取ります。言葉が違っているだけであると。  ★ それに整理整頓してみずからの倉庫にしまっておくと言いますが、それはメタファーであって実際ではないですよね?  ☆ この記憶という能力行為は でも実際にそのハタラキは現象していると誰もがみとめるところですよね? むろん神経組織においてその仕事がおこなわれています。  その作業場ないしそのやはりハタラキを いくら  ★ 脳をいくら解剖したとしても、ここに心があります、ここに精神があります、と言って取り出して見せられないのですから。  ☆ というふうに言われても その心なり精神なりとして名づけて使ってよいと考えますが。精神脳とか心脳とかと言えばよいですか?  だって  ★ 現代のアメリカの「心の哲学」では、心とか意識は脳の活動に伴う「機能状態」のことです。  ☆ なのですから。  ★ 脳の状態に対応する心的状態、それが心とか意識と言われるものです。  ☆ いや そうではなく 脳の神経組織がおこなっている作業そのことが 心であり精神であると呼んでいるのです こちらの考えでは。身と心とは一体です。  あぁ  ★ [・・・]それと同じで、心とか意識は人間の身体のどこにもありません。  ☆ わたしが 心や精神はそれとして何か独立した場所でありチカラであるとでも受け取られたのでしょうか。身と心とが一体である自然本性に潜在するものという捉え方です。よ。  身体と一体である精神は 三つの行為能力また能力行為から成ると言っています。どうぞ今後ともお見知りおきのほどを。    ★ 事実、アリストテレスも「文法で主語に置かれたものが実体である」といい、主語と実体を同一視しました。  ☆ これについて簡単に触れますが 次のように図示すると分かりやすいと考えます。  ○ 文の成り立ち ~~~~~~~~~~~~~~~~   話し手:文としての自己表現   話者格:文としての格   -------------------   〔我は言う〕:《文法で主語に置かれたものが実体である》というのは 《実体》の用法にあやまちがある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 《話し手としての我れ》に《精神》は含まれますが 別にその精神を主語としているわけではなく その精神が語っているわけでもなく(ワタシが語っているのであり) ましてその精神に《実体》があると言っているわけではありません。ここは はっきりと受け留めていただきたいと思います。  ただし 精神や身体を超えた場として《非思考の庭》を――神の想定のもとにその想定している神をわが心に受けれ容れたときに成ると見る《非思考の庭》を つまりはそれが 《信仰の動態》なのですがこれを――やはり想定してはいます。  唯物論者にも無神論者にも その人が同じ自然本性として存在する人間であるかぎり この――思考や感性をも超えた場としての――非思考の庭があるはずだとは言っています。  唯物論というのは その究極の原因が形相のない第一質料だと言うからには・つまりその意味で〔のみ〕《物質》だと言うからには 目に見えるモノたる質料を立てているのではないわけです。唯だモノ論ではないわけです。拝金主義の裏返しなんかではないはずです。  《物質》というのは・つまり第一質料というのは 質料のない形相としての第一形相つまりはヘーゲルなら《絶対精神》と呼ぶところの神とまったく同じ概念内容なのです。よ。類型としてけっきょく同じになるわけです。  つまり 唯物論も唯心論もみな 《非知なるナゾとカカハリを持つと想定している信仰》です。目に見える(心の目に見える)身や心の問題ではないという世界認識のもとに 質料と形相とをさらにさかのぼろうとしたわけです。その結果得られたものは 《非知》であるはずなのです。  したがって 誰もに《非思考の庭》は成っています。わづかにこれは 《精神》以上に雲をつかむお話だというのみです。  無神論の場合には 《神を信じない》というのは 《神を信じないという・神とのカカハリを持つ》という信仰形式なわけです。  あるいは 有神論が 絶対有としての神を受け容れているのに対して その代わりに絶対無としての神を――《無い神〔という神〕》を――非思考の庭に受け留めたかたちです。そのあとは いっさいこの神については問わない・触れない・科学の道のみにてすすむという実存の形式なわけです。  だれもが 人間なら 信仰の徒です。泣いても笑っても 神は非知なるナゾです。  ただし 精神ではないと言っています。つまり 《思考や想像》によってつくったところの観念の神 これは そのまま精神における観念であり 言ってみれば神を理解したいという願望が作り上げた或る種の補助線であるかも知れないけれど まるで神本体ではない。とはっきり言って行かねばなりません。この問題を問うています。  〔ニーチェは この神つまり観念の神が死んだと言ったのです。けれども 補助線としての神は初めから模造であり死んでいます〕。  ★ まだまだ、言いたいことはたくさんありますが  ☆ どうぞご自由に気ままに 気が向いたと思われたときには 何か書いてください。  この《非知》の神学あるいは《非思考の庭》なる哲学は わたしのほかに言っている人を知りませんので そのぶん受け容れられるのにまだ道のりが遠いかも知れません。つまりは ぎゃくにそれだけのことだと見ることができるのかも知れません。  うりがだい氏は うすうすお分かりになっているのではありませんか?

回答No.8

今回はいい勉強になった。 よくよくあんたの意見をかみしめると。 頭に血が上ってない時はとても親切なんだね。 ありがとサン。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ そうかい。  そうとしておこう。  ご回答をありがとう。

回答No.7

感想だよ。 精神が経験事象であるなら、それは現実だから神とかかわらない。 精神とは脳の現象である。 そう説明しているように見えるよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ 精神が経験事象であるなら、それは現実だから神とかかわらない。  ☆ ここは きびしく捉え表現することにするけれど    精神が経験事象であるゆえ 神ではない。  と言うことと    精神が神とかかわらない。  と言うこととは違って来ると思う。  なぜなら 神は 絶対的に精神〔や身体や 要するに人間〕と隔たっているということは その神が 経験事象つまり人間を覆い包み込むということがあり得る。  神の霊が 経験存在であるわれわれの身をも心をも突き抜けて行っているということもあり得る。   神の霊が われわれの心に入り込んでいることもあり得る。  つまりは 神は 人間の精神とかかわりを持ち得る。  ★ 精神とは脳の現象である。 / そう説明しているように見えるよ。  ☆ そのあと――いま上でも触れたように―― 神は神のほうから われわれの心の窓をいつの日かにノックしているかも知れない。  そのノックを受け容れるなら 人間は・その精神(心)は 単に《脳の現象》にとどまらず プラスαがあるかに思われる。  それが 精神(特に思考の緑野)でも身体(感性)でもなくそれらを超えたところなる《非思考の庭》である。そういう想定が出来ると思う。  そのことは 特にはここでは言っていない。ともかく精神は 神ではないことを共通の認識にすることは 大事なことだと思っている。

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