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写実的絵画の怒りの表情は見て描くのですか

人物画をモデルを使って描く写実的絵画の場合 人物を見て描くときに笑ったり怒ったりする表情は モデルに笑ってもらって描くのですか。 画家が笑っているように画面に作ったら 写実ではなくなるのでしょうか。お教え下さい。 写実的絵画を描いたドガには怒りや笑いの人物がいないことと 関係あるような気がします。

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  • moritaroh
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回答No.4

>画家が笑っているように画面に作ったら写実ではなくなるのでしょうか。お教え下さい。 それでも写実です。 写実というのは、もちろんありのままに、見える通りに描くという意味だと思いますが、逆に言えば「自然に見えればそれで良し!」というところもあります。 ですから、それっぽく見えれば、という感じで、写実の画家はけっこう絵の中で嘘をつき、画家は表情を作ります。 もちろん、「ちょっと笑ってみせて」とか、「ちょっと怒った感じで」など、モデルに表情の注文をつけることはあるでしょうが、たいてい、それらの表情をモデルは長時間維持できないですし、また何度も同じ表情はできないので、そういったいくつかの表情から、絵の中の人物の表情を「つくり」ます。 もっとも、怒りや笑いの表情を露わにした人物画はそれほど多くありません。 ドガは確かに写実的かもしれませんが、特に有名になっている踊り子たちの絵などは、表情よりも「踊り子たちの美しいポーズ」の写実性が重要であったと思います。 そういったように、写実とは言っても、何に対して写実的であるのか、というのが画家にとって重要なのであって、それが「人物の感情」に対して写実的でありたい、と考えたとき、たとえばピカソの「泣く女」など、十分に写実的だとも思います。形は抽象化されていますが、感情という部分においては、ドガなどよりもずっと感情のありのままを表していると思います。 (どっちの画家が優れているか、という話ではありません) このように、写実、というのは、抽象の対義語として固定されたジャンルと考えるよりも、画家の志向性のようなものだと思います。 そして抽象というのもまた「物事を要約する」という意味に近く、ある意味、感情のような不定形なものを写実しようとしたら、見た目上では一般認識としての写実絵画ではなくなる(感情だけに要約される=抽象)こともあるのでしょう。 ひとつの例として、アンドリュー・ワイエスを挙げます。 ワイエスの作品は水彩なのですが、そのモデルの表情からそのときの感情まで写し取ろうとしていたりします。 で、たまたまモデルとなっている猟銃を持った老人のところへ老女がやってきて、銃口が老女の方を向いていたので「びっくりした」という瞬間の表情まで克明に描いていますが、そのエピソードとして、実際に老女が来た瞬間に、画家本人は「その表情のままそこに止まって」と老女に言ったそうです。

その他の回答 (3)

  • Postizos
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回答No.3

お礼欄読みました。 せっかくモデルを雇っているのでしたら当然怒った顔をしてもらっているでしょう。 写真のモデルでも実際に悲しいことを考えてもらうとか、楽しいことを考えてもらうとか、やってますし。 怒った表情だけを作ってもらうことも考えられますし、実際に腹立たしいことを思って怒ってもらうことも考えられます。 カーシュの撮った有名なチャーチルの写真は吸っていた葉巻を取り上げて怒ったところを撮ったと言われています。 http://www.fujifilm.co.jp/corporate/news/articleffnr_0542.html もちろん絵ですから空想で描くこともできないことではないと思いますしデフォルメも考えられます。 前に言ったように「写実的絵画」をどう定義するかの問題もあると思います。単に視覚をシミュレーションする技法と考えるならモデルが実際に怒っている必要は無く、そのようにみえればいいのではないですか。 ドガはモデルを見て描いていたようですが、怒った表情が無いのは、つまるところそれはべつに描きたくなかったからではないでしょうか。 漫画の場合にはデフォルメをする物ではないかと思います。 演技の場合、演劇の舞台ではデフォルメをしますが映画の場合はそうでもないように思います。 あまりやり過ぎると逆にコミカルな印象になりますよね。

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.2

興味深い質問でいろいろ考えました。とりあえず思いついたことを書いてみます。 写実と言っても、いろいろある事実の中から画家は何かを選んで抽象している事には違いないとは思います。 前の人が言っているようにドガは身体の動き、特にある瞬間のフォルムに魅かれていたのではないかと私も思います。 対象としてダンサーを選んだのは、風俗としての踊り子も好きではあったのでしょうが、やはりその身体が作り出すフォルムの芸術としてだったのだろうと思うのです。 ドガは彫刻も作っていますが、それは人体の動きを止めていろいろな角度から見るためであったと言っています。つまり自分で形を観るための物であって人に見せるための作品ではなかったと。 また写真にも興味を持ってやはり作品の資料として使っていたということです。 モデルにある動きのポーズを止めて演じてもらうことはあっても、表情とかいうような“演技”には興味が無かった、むしろドガの考える役のためには邪魔な要素であったでしょう。 写実的絵画とは実際の視覚を錯視的に再現する手法という言い方をする事もできますが、ドガは自分や世俗の思想を画に具現化させてあたかもあるかのように描く事(思想の絵解き)には興味が無いかそれ以上に反発をしていたようです。 そのような主観ではなくて実際に起こっている身体の動きやその合間の静止の中にある美しさをなんとかつかんで見せることをしようとしていたのではないでしょうか。 生前は展示したり売ろうとは思っていなかったドガの彫刻は逆にドガの作品として最高の物でもあるように思います。あるいは彫刻を自分の個人的表現とすることから離れようとしたことがそういう結果を示しているのかもしれないと思います。

kwm1933060
質問者

お礼

長文のご回答を有り難うございました。 クールベは「神は見えないから描かない」と言ったそうです。 クールベには怒りの人物は見かけません。 ドラクロワやジェリコの作品には怒った表情や悲しみの表情が多く見られます。 実際に画家は怒りの表情をどうやって画面に描くのですか。モデルに 怒った顔にさせるのですか。お教え下さい。 三四郎の中で画家の「原口さん」はモデルを見て描いていると 自然に表情が出てくるものだと言っています。 悲しみの表情も自然に出てくるのでしょうか。 宜しくお願い申しあげます。

  • noname67
  • ベストアンサー率39% (86/216)
回答No.1

画家の意志を反映させても、作品ですから問題ないと思います。 ドガは写実というより、人体の線や型の方に興味があったのでは。 怒りや笑いの人物がいないことは、逆に彼の心の目がそう描いていた という説もあるようです。

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