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旗本御家人と与力同心についての質問
- 旗本御家人の階級には郎党が存在し、身分として異なる。
- 旗本御家人や与力同心の子孫の現在の暮らしについての情報を知りたい。
- 町人農民の中に溶け込んだ旗本御家人家族の運命や経緯についての知識を求める。
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こんにちは。 >>1.旗本御家人の更なる下の階級というと郎党どかいうことになるのでしょうか? 幕末に限って言えば、旗本や御家人の下位には浪人や脱藩浪士なども含まれる、と考えられています。 また、郎党については、よく「一族郎党」と言われますように、 (1) 中世,武家社会における侍身分の家臣。主人と血縁関係にある家の子とは異なるとされるが,両者の差異は必ずしも判然としません。郎従とも呼ぶ。 (2) 有力者の側近や子分という考え方もあります。下男の場合は家僕とも呼ばれました。 TVや映画などでは、江戸時代の旗本や御家人の家にお内儀以外に、炊事、洗濯、掃除などをする女性(下女)が登場しますが、旗本の家格ならまだしも御家人は薄給でしたので、とてもとても下女などを雇う余裕はありませんでした。 無役の小普請組に入れられた御家人などは、当然のことながら、現代で言う「職務手当」などの加算がありませんでしたし、仕事もありませんでしたので、セッセと傘張りなどの内職で食いつなぎ、中には本物の職人よりも腕をあげた者もいたくらいです。 >>2.旗本御家人や与力同心の子孫とは今はどのような暮らしが一般的でしょうか? 私の手元に面白い本があります。 幕末の南町奉行所同心長瀬信吾という者のことを書いた本ですが、それによると、 15代将軍徳川慶喜が大政奉還を明言したことを受けて、幕府の役人たちは全て改易となり無役となった。 「もう、奉行所に出仕する必要もなくなった。今年支給されるはずであった切米はなく。昨年の秋に支給された米はとうに底をついてしまった。官軍が江戸に入れば、当然にこの家(官舎)も立ち退かなければならないだろう。・・・(略)・・・同僚たちは今まで手下として使っていた小者(岡っ引き)らに頼んで新しい職探しを始めた。まるで主従が逆転してしまったありさまだ。さて、わしはどうしようか。わしには小者がいない。誰を頼れば良いのだろうか。とりあえず金子を用意しなければ・・・(略)・・・」 と、いうことで、この長瀬は売れる物なら何でも売ったという。武士の誇りである刀や同心の象徴でもある羽織、さらには自分の衣類はもちろんのこと、妻や娘の衣類、仕舞には布団までもを売り払い、上司である与力の一人に頼み込んで、その与力の知行地である下総の庄屋の家に夜逃げをした。しかし、その庄屋の家で長逗留もできない。考えに考えた末、庄屋と相談の結果、姓名を長瀬信三郎と名乗り、庄屋から田畑を借り受けて小作人として働くこととした。 と、いうものですが、もちろん、これは半分以上は「小説」です。従って、南町奉行所に長瀬信吾なる人物が本当にいたかどうかも定かではありません。 しかし、幕末の混乱を表しているようにも思いますし、御家人の多くは何らかのツテを頼って商家で働かせてもらったり、農業に転職する者がほとんどだったのではないかと考えます。 次に、旗本の多くは、慶喜が駿河へ転封されると、それに従って駿河に移ったようです。 しかし、慶喜にしても、これまでの4万石から7千石にまでなりましたから、多くの旗本を養えるはずもなく、駿河へ移ったはいいが生活苦のために商人や農業などに転じていったと思います。 また、知行取りの旗本や御家人などは自分の知行地などへ移り住んで、農民などに身を転じた者も多かったと思います。 ただ、このようなサイトを見つけました。 中には、新政府に雇われて出世?をした人もいたことは間違いないでしょう。 http://hitosugi.web.fc2.com/uoichiba.pdf >>上野の山に立て込み、抵抗した一部の御家人家族は一度も帯刀を抜くことなく、ちりじりに散じて、一部は大川を渡り湿地であった堀切の豪農の家にすがり、身ぐるみ脱いで散っていったそうです。 これも、ある史料によると、彰義隊などに組した者は、初めの頃は1日1升の米が支給されたが、戦局が悪くなるにつれて8合ほどになった。 しかし、官軍と対峙している現状から、悠長に飯炊きなどはしていられず、飯炊きは加勢にきてくれた女たちに任せ、「にぎり飯」にしてもらって、それを頬張った。 また、中には、早くも敗れることを察してか、支給された米を半分位は隠し持って、逃げるとなれば、それが食料として食いつなぐことができる・・・と考えた者もいたようですね。 お答になっているでしょうか・・・。
その他の回答 (1)
- 川原 文月(@bungetsu)
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すみません。 一部訂正します。 徳川慶喜・・・4万石???→約800万石です。 大きなミステイクでした。
お礼
ありがとうございます。そうですね。五万石でもよぅ岡崎さまはよぅってのがありますからね。まぁ800万石でしょうね。 わざわざありがとうございました。
補足
一大変革期の一人の主役。 この人を会津の方々はどう思っているでしょうね。 私は会津の方々に何か惹かれるのです。 水戸に近い田舎で陣屋と呼ばれたり、水戸家では三軒で24時間警備する銭蔵係りとか。 50年前に逝った父は侍だったというが、侍のうちなんでしょうかね。 相当貧乏です。今は広い土地所有者として楽な生活のようですが。 明治で生活が変わったっていうので、侍たちの身の振り方に興味を持っています。
お礼
毎度ながら早速にありがとうございました。 夏からこの暮れにかけて、数種の医院に通院しほとんど毎日病院。 歯、皮膚、そして眼科ですが。 そんなで今日もアクセスが遅くなり、もったいないことをしました。 ありがとうございました。
補足
葛飾区の学芸員にこんな人がいます。 http://tokyojiten.net/presentation/1067。 下の写真をクリックすると、早口の講演がながれます。数分です。開府当時のお江戸を知る由もないが、こんな機能があったかとうなずきます。先年、卒業生の葬儀に行ってきました。(私は46年大学にいて、12年前退職)。愛知の一之宮。茨城にいる多くのいとこと同じ風情雰囲気の人たちに出会い、何か関連性を直感しました。あるいは鹿島灘あたりも江戸開府にあたって、一つの起点や上陸地になったのかもしれないなぁと、この講演を拝聴しながら連想しました。