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個人全集の楽しみ?
夏目漱石や太宰治や三島由紀夫石川啄木中原中也などなど、有名な小説家や詩人などの、個人全集があります. 図書館に行くと、たくさんたくさんあります。 こういった個人全集には、文庫本でも出ている「作品全集」と「日記や手紙や手帳」などの発表を意図せずに書かれたプライベートな文章をも集めた「完全全集」の2種類があります。 作品全集の楽しみは、分かるような気がしますし、実際何人かの作家の全集を読んだことがありますが、作品全集ばかりでなく、完全全集も手にとる人には、どういった楽しみ(興味)で、作家や詩人の私的な文章を読まれるのでしょうか? ぜひ教えてください.
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- LN-TF
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御要望がありましたので、再度答えさせて頂きます。 なお、前回回答した際、「絶版」とすべき箇所が誤変換で「全般」となって居りました。大変失礼いたしました。お詫びして訂正致します。 扨、「全集」を利用する場合は、幾つかあります。 先ず、所謂作品集や傑作集等に収録されて居ない或いは収録されて居る本が入手難とか高価であるとかです。 例:エンゲルス-マルクス『神聖家族』:岩波文庫に収録されてるが実質絶版で入手困難。大月書店の全集は当時比較的入手可能だった。(現在では何れも入手困難) モーリス・ルブラン『赤い輪』、『真夜中から七時まで』。前者は別訳は有るが、創元推理文庫版は入手難。保篠龍緒訳は旧式の訳で問題があるため、偕成社版の全集によるしかない。後者は戦後の訳は記者が知る限りこれしかない。 その作者の作を或る程度纏めて読みたいと思うと、下手に傑作選等を利用すると重複が多く却って使い辛い。例:江戸川乱歩。春陽堂文庫、角川文庫、創元推理文庫、新潮文庫、岩波文庫などに入っているが、互いに重複が多い。小説のみならば光文社文庫の全集を利用したした方が重複がない。 流布本に信頼がおけない。或いは校異があるので利用する。 例:江戸川乱歩。ポプラ社版の「少年探偵団」シリーズ(B6判のもの及びクラシック文庫のもの。現行の変形型の本は多少改善されているとの事)は出版社による勝手な書き換えとしか思われない箇所が少なくなくテクストとして信頼が置けない。旧い光文社の「少年探偵団全集」は入手が難しいので同書をも利用して校異を記載した光文社文庫版の全集が良い。 主な処はこんな処でしょうか。 中には、学生時代友人とテクストを共通化するために、岩波版の「ヘーゲル全集」の或る巻を使った事もあります。(訳書として当時一番信用が置けた)が、これはテキストの信頼性の置ける版はと云う事ですから「全集」と云う事からは少しくズレます。
- LN-TF
- ベストアンサー率53% (320/596)
所謂全集と云っても色々あります。 日本では、「全」集と云って居ながら、実はあれが入って居ないこれが抜けて居るとか、中には高名な売れそうの作のみを収めた本を何冊かにして「全集」と唱えているものもあります。(例。横溝正史全集-講談社。ヘーゲル全集-岩波書店。ゲーテ全集-潮出版など) 独逸式の歴史的批判的全集と迄はいかずともその人の書いたものを断簡零墨迄収録しようとしている全集もあります。或いはそこ迄行かずとも発表された作品は全て収録しようとしているものもあります。(例。漱石全集-岩波書店。鴎外全集-岩波書店。折口信夫全集-中央公論社。以下は発表分を全て収録せんとしたもの:カント全集-理想社。アリストテレス全集-河出書房(但し、版元蹉跌のため中絶)シェイクスピア全集-中央公論社。ショーペンハウエル全集-白水社。刊行可能なものを全て刊行しようとしたものにマルクス-エンゲルス全集-改造社がある) こう云った完全の収録の全集には、校異が付いているものがあります。これによって作品の推移が判る事がありますし、江戸川乱歩の様に初出後検閲等によって伏字が増え戦後伏字を起こす際に間違えた儘長く流通していた等と云う例すらあります。作者が亡くなったあとに出版された本に編集者が恣意を加えて改変したものがその儘流通している場合もあります。そういった事によって作者の真意や最初に発表したときの気持ちがその後どのように変わっていったのか。或いは「編集」と称してどのように改竄されていったのかが判ります。 又、書翰や日記などと照らし合わす事によって、発表された文章の奥底に秘められた作者の思いや作者の事情が判る場合もあります。(友人を事故亡くした。実家が破産して経済的に大変だった。夫婦仲が悪くなり決定的な亀裂が入った。など) こう云った事は「研究」とでも云う事に成るのですが、本統に好きな作家とか著者とか或いは深く研究してみようとする場合には可也有効です。研究の場合は最終的には、原典にあたる必要があるのですが。それは中々難しい事だろうと思いますし、場合によっては、既に原典は失われて仕舞って居る場合もあります。(戦災、事故などや関係者の不注意や習慣などによるもの、著者の意向で原稿が既に存在しない場合も珍しくありません) 只、完全に収録しようとしている全集でも、色々の理由で抜けて居るものがある場合があります。先ず、考えられるのが、全集編集者にそういったものは有る筈とは判って居ても、現物なり写なりが入手出来なかった場合。次に書翰などは刊行後に、新たに見つかったなどと云う場合があります。そして著作権が有効な場合に版権の関係が発生します。これは遺族がその作はもう版に付さないで呉といったり著者が生前に絶版を命じて居たのでと云う場合もあります。(著者が全般を命じて居た例。司馬遼太郎の「サラリーマン論語」-同書は著者の本名で出版されていた。部分的には雑誌などに再録されている。手塚治虫「ブラック・ジャック」の「快楽の座」の巻)尚。一時期差別用語などの問題などで改変や削除される事がありましたが最近は、「研究的な」ものや「完全版」を目指しているものは「御断り」などをつけてその儘出版されているようです。 従って、「完全」全集といえども、「完全」では無い場合もあります。 又、戦前の著者の場合、最近は新字・新かなになおして仕舞うのが一般的ですが、これは出版社側の事情もあるようです。(旧字が揃わない、校正が難しいなど。旧字・旧かなでは購買者数に限りがあると考えているなど) 御参考にならば幸甚です。
お礼
回答ありがとうございます。 すっかり放置してしまいました. ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございます。 色々と教えていただき ありがとうございます。 なるほど、『研究』の場合、作品の背後の隠された世界などが分かると言うのですね. ところで、あなたはどのような興味で「全集』を読まれるのでしょうか? ぜひ、教えてください.
- kamobedanjoh
- ベストアンサー率27% (1021/3686)
同感できる点、感銘を覚える記述、啓蒙されたと思える叙述や文章形成、作法などからその作家が大好きになる事は有ります。 好きになりすぎると、異性への恋にも似た感情から、その作家の全生涯をトコトン知りたいと思う人もいるでしょう。移り気な人は、好きな作家も次々移ろいます。 若かりし頃、森鴎外の学術的記述、探究心の深さと心理描写の巧みさ、そうした中にも多くの登場人物への心配り、差別的表現の少なさに感動し、全集を読みました。 残念なことに、当時の自分の能力では、鴎外の文章は理解しかねました。 漱石の「坊ちゃん」は読んでいて可笑しくもあり、何故か引き込まれる所が強かったのですが、「こころ」などは青二才だった頃には不可解な作品でした。 芥川全集や直木三十五の「中山七里」等も、学ぶべき点が多いと好きになりました。 小林多喜二の「蟹工船」では、目を開かされた感動を覚えました。 小生、移り気で浮気性な読者のようです。
お礼
早速の回答 ありがとうございます。 ファンになった場合には、とことん、となるのでしょうね. 中高生の頃の国語の教科書に、梶井基次郎の手紙が掲載されており、内容は忘れましたが.鮮烈な表現に出会ったような気がしました. しかし、教科書に載っていたので読んだまでで、個人全集を紐解くまでにはなりませんでした. 森鴎外の全集は、最も遠い全集ですが、機会があったら触れて見ます. どうも、ありがとうございました。
お礼
再答 ありがとうございました。 どうも こちらの趣旨と外れてしまいます。 質問の仕方に問題があるのかも知れません. 考えてみますので ひとまず打ち切ります ありがとうございました。