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ひとは何故生きないかと問うべきではないか?
1. ひとはなぜ生きるか? ではなく なぜ生きないのか? と問うのが自然である。 2. 生きないという前提は あり得ない。 3. まして ひとを――他人をも自分をも――ころしてもよいという前提は 成り立たない。 4. なぜ生きないかの問いに答えられないからである。答え得たときに ひょっとして考えることが出て来るだろうか。 5. いのちあっての物種ということわざは 生きていないのだろうか? 6. ほかの命をたすけるためにどうしても必要なときなど 例外の場合のみ 大前提が見直される。のではないのか? 7. ひとは何故生きるのか? と問うことは いのちに対して・また自分に対して 失礼ではないか? 授かったものを。 8. たとえ自死をえらぶとしても それは失礼を承知の上でなのではないか?
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- Y Y(@yy8yy8az)
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 人は生きる。生きている。と云う“大前提”が有るからこそ、その大前提に対して“なぜ”と思うのが自然なので、 ☆ 微妙に違うと思います。 ○ 人は生きる。生きている。と云う“大前提”が有〔って 実際に生きているとき その生きることをめぐって困難な問題が生じる あるいは 人びとのあいだに交通渋滞がやはり生じ〕るからこそ、その大前提〔にもとづき起きて来る問題〕に対して“なぜ”と思うのが自然なので、 ★ そこを通過した〔という見通しが立った〕からこそ「人はなぜ生きないか」との問いが現れる ☆ そのとおりです。 ★ ソクラテスはなぜ問わなければならなかったのでしょう。 / また「弁明」せざるを得なかったのでしょう。 ☆ ソクラテスは その内なる思いでいちばん憂慮したのは 弟子であった〔とされる〕アルキビアデスらが 祖国アテナイに対して戦争での敗北をもたらしたことだったのではないか。責任を感じたのだと。 ★ 真理に弁明が不要である事は、釈迦、キリストから学ぶことが出来るのではないでしょうか。 ☆ ひとつに 《弁明》などを必要としない――経験合理性にもとづく妥当性の有る無しといった問題をあつかう人間の知性 この知性を超えているゆえその(真理じたいの)自己弁明などは要らない――ゆえにこそ 《真理》というものが想定される。 ひとつに それでもこの真理は 一般に《神》として受け容れられ そのときには人の内面において《神とわれとの関係〔なる動態=信仰〕》が 始められます。(無い神の場合にも 無神論という信仰がやはり始まります)。ですから そのときには 確かに《なぜ神は 真理であるのに 沈黙しているのか?》とか やはり同じ内容として《神はなぜ道理のあることが世に通らないといった不条理をゆるしているのか?》とかのうたがいを人びとはいだきますから これについて――ただし人間がなのですが―― 神の弁明にこれつとめる。といった事態もあり得ています。 ゴータマは イカサマ・ペテン師です。学べません。