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吉備真備が阿部内親王の教育係をしたのはいつ頃から?
- 吉備真備は735年に帰朝後、阿部内親王の教育係をしていたようです。
- 真備は天平13年(741年)に東宮学士として皇太子・阿倍内親王に『漢書』や『礼記』を教授した。
- 真備が阿部内親王の教育係を始めたのはいつからかはっきりしていません。
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こんにちは 吉備真備が、孝謙・称徳天皇(阿倍内親王)の教育係となったことに関連する根本史料は、2点、実質3点しかありません。 1、『続日本紀』の天平十三年七月三日の条 正五位下下道(後、吉備)ノ朝臣真備ヲ為ス2東宮学士ト1 2、『続日本紀』の宝亀六年十月二日の条(吉備真備の薨伝。死亡時の略伝のこと) 前右大臣勲二等吉備ノ朝臣真備ス。右衛士ノ少尉下道ノ朝臣国勝之子也。霊亀二年。年廿二.従テレ使ニ入唐シ。受クレ業ヲ。研-2覧テ経史ヲ1。該-2渉レリ衆芸ニ1。我カ朝ノ学生播ス2名ヲ唐国ニ1者ハ。唯リ大臣及朝衡二人而已。天平七年(底本は五年)帰朝ス。授ク2正六位下ヲ1。拝ス2大学ノ助ニ1。高野ノ天皇師トスレ之ヲ。受ク2礼記及ビ漢書ヲ1。恩寵甚ダ渥フス。賜フ2姓ヲ吉備ノ朝臣ト1。七歳ノ中ニ。至ル2従四位上右京ノ大夫兼右衛士ノ督ニ。十一年。式部少輔従五位下藤原ノ朝臣広嗣。与2玄昉法師有リレ隙。出テ為ル2大宰ノ少弐ト1。到テレ任イ即起シテレ兵ヲ反ス。以テレ討テ2玄昉及ヒ真備ヲ1為スレ名ト。-以下略- 3、『公卿補任』の天平宝字八年の従三位吉備朝臣真備の条(公卿初任時の過去の官歴) 前略-霊亀二年従使入唐。留学受業。我朝学生播名唐国者。唯大臣及朝衡二人而已。豊桜彦天皇十二年。天平七年三月随入唐使。自唐国至。四月入唐留学生下道朝臣真備。献唐礼一百三十(三十の原本は横一に、三本の縦棒)巻-中略-及三種角弓箭等。授正六位下。拝大学助。八年正月授(授は前田侯爵家所蔵新写一本による)外従五位下(年四十三)。十二年月丙寅加従五位上。高野天皇師之。受礼記漢書。賜姓吉備朝臣。式部少輔従五位下藤原朝臣広嗣。与玄昉法師有隙。出為大宰少弐。到任即起兵反。以討玄昉及真備。 まず、史料の説明から。『続日本紀』は六国史の二番目で、文武天皇元(697)年~桓武天皇の延暦10(791)年までの歴史が記述された正史です。『公卿補任』は成立年代がはっきりしない史料ながら、古くからの朝廷関係などの資料、『歴名土代(りゃくみょうどだい)』や『歴運記』などの先行資料などを用いて作成されたもので、六国史などに比べて信頼性に今一歩劣るものの、根本史料として信頼性の高いものです。ただし、先行研究によって、平安時代初期の記述に関しては、他の年代の記述と比べて、信頼性に著しくかける例が多いなど指摘されていますし、平安時代初期の直前の、奈良時代後半も、権力闘争の激化した時代で、記述に正確性に欠ける部分があります。 さて、1~3の内容を見ると次のようになります。 1、天平13(741)年7月3日に、阿倍皇太子の東宮学士となった。 2、a、天平7年(月日不明)に、高野(孝謙・称徳天皇)天皇の師となった。 b、天平13(741)年7月3日の東宮学士の記述が紛れ込んだ。 3、a、天平12年の丙寅の日(月は不明)に、高野天皇の師となった。 b、天平13(741)年7月3日の東宮学士の記述が紛れ込んだ。 この内、1についてははっきりしているので、説明する必要もなしのですが、2・3について。 2についてですが、漢文は、年月日の記述は、次の年月日の記述までの間の文の全てに、係っていくという性質を持ちます。つまり、2の文章では、「天平七年」は、次の、「十一年」までの間の文の時間を規定していることになります。「帰朝ス。」「授ク2正六位下ヲ1。」「拝ス2大学ノ助ニ1。」「高野ノ天皇師トスレ之ヲ。受ク2礼記及ビ漢書ヲ1。恩寵甚ダ渥フス。」「賜フ2姓ヲ吉備ノ朝臣ト1。」「七歳ノ中ニ(天平7年から7年間の間にの意味)。至ル2従四位上右京ノ大夫兼右衛士ノ督ニ。」の文の全ては、天平7(735)年にあったことや、天平7年を起点とする出来事であることになります。 ところが、「賜フ2姓ヲ吉備ノ朝臣ト1。」は、『続日本紀』の天平18(746)年10月の条に、「従四位下下道朝臣真備。賜姓吉備朝臣。」とあること。「七歳ノ中ニ。至ル2従四位上右京ノ大夫兼右衛士ノ督ニ。」についても、「右衛士督」だけは、天平9(737)年(翌10年説あり)に任官と合致しますが、「従四位上」は天平勝宝元(749)年、「右京大夫」は、天平19(747)年に任官と、天平7(735)年から7年の間とはとても言えず、「高野ノ天皇師トスレ之ヲ。受ク2礼記及ビ漢書ヲ1。」がはたして天平7(735)年の事なのか、疑問が呈せられ、天平13(741)年7月3日の東宮学士の記述が紛れ込んだ(誤記・錯誤など)のではないかとされているのです。 3の『公卿補任』の記述につては、2の「薨伝」とよく似ています。豊桜彦天皇十二年は、聖武天皇の12年という事で、これは天平7(735)年の事なので問題はありませんが、真備が天皇の師となったのが、天平12年と記述されており、豊桜彦天皇十二年の12年と何か関係があるのかとはきになりますが。 2、3の史料の問題点を簡単にあげましたが、天平13(741)年7月3日の東宮学士の記述についても問題点はあるのです。それは、阿倍内親王が皇太子に立てられたのが、天平10(738)年1月13日であることです。皇太子となると、東宮(春宮)坊が置かれ、東宮傅(ふ)、東宮大夫以下の四等官等、東宮学士(2名)が任命されます。傅は任命されなかったようですが、東宮大夫は立太子の当月(日は不明)に巨勢奈良麿が任命されていることが『公卿補任』で確認できます。学士についは位階相当が従五位下ですので、前年の12月27日に従五位下となっていて、大学助の真備が天平10年に任命されてもおかしくないように思われるのですが。 さらに、東宮学士の職掌は、養老律令の『東宮職員令』(大宝律令では東宮家令官員令ですが、大宝律令は現存しない)に、「学士二人。掌執経奉説。」とあって、東宮学士の職掌は、「経」を教えることとされていますが、この「経」は、「周易・尚書・周礼・儀礼・礼記・毛詩・春秋左氏伝」こととされます。「受ク2礼記及ビ漢書ヲ1」の中の、「漢書」は規定にないのです。また、「礼記」についても、真備が唐より持ち帰ったのが「唐礼一百三十(三十の原本は横一に、三本の縦棒)巻」だったので、この「礼記」は「唐礼」の事を指すのではないかとする有力な説があります。学士が教えるべき書籍ではなかったので特記したとの考え方もありますが、逆に特別な内容を教授したので、特記したとも考えられています。 ところで、天皇・皇族の教育係・師と言われるのは、東宮学士だけではなく、侍読(じとう・じどく)とよばれる存在がありました。天皇に侍読があったことは知られていることですが、親王などにも侍読が置かれていたことが分かっています。天皇の場合には、大学寮の中の、文章博士等博士が任命されることが多いようです。当然、大学頭・助の任命も見られます。つまり、大学助であった真備が、阿倍内親王の侍読となってもおかしくないことですし、学士や侍読でなくとも、大学助として、教えることもあったのではないかとされているのです。つまり、「拝ス2大学ノ助ニ1。高野ノ天皇師トスレ之ヲ。受ク2礼記及ビ漢書ヲ1。」の部分の、「拝ス2大学ノ助ニ1。」と、「高野ノ天皇師トスレ之ヲ。」は相互に関連すると考えられるという事です。 ただ、学士や侍読だけでなくても、天皇・皇族に教授する場合、学士の職掌にあった「周易・尚書・周礼・儀礼・礼記・毛詩・春秋左氏伝」、「四書五経」を教えることが当然で、「礼記及ビ漢書」であったので、特記されたのであり、逆に学士となった場合、教えづらかったとも考えられます。 天平13年の東宮学士任命以前に、真備が阿倍内親王の教育係をしていた可能性はあったでしょうし、その上限は、真備が唐から帰国した天平7年まで遡ることも考えられます。 「阿部内親王が皇太子に立てられる以前から真備が教育係をしていたように書かれたものも」があるのは、以上のような考え方・先行論文等があるからです。 奈良時代は史料が少ない上に、政争が激しかったためか、史料に錯誤、省略、隠蔽、捏造などがあるようで、信頼性に欠ける点があり、類推しなければならない点も多々あります。 以上、長くなってしまいましたが、参考まで。
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- ithi
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zouco10 さん、こんにちは。 そうですね。公式的には天平13年説で正しいと思います。ただ、彼は唐から帰って来た時から聖武天皇や巧妙皇后に注目を浴びていたようで、かなり異例の出世をしていますね。彼の知識は文字通り、唐の最新の知識ですから当然ですが、確か、天平7年に大学寮の次官である大学助になっているのでそれが理解できます。 阿部内親王が立太子するのは天平10年ですから、真備は中宮亮でしたから都にいました。微妙ですね。まあ、非公式にはあったのかもしれませんが… 孝謙天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87 吉備真備 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99
お礼
ithiさんこんにちは、ご回答いただきありがとうございます! >阿部内親王が立太子するのは天平10年ですから、真備は中宮亮でしたから都にいました。微妙ですね。まあ、非公式にはあったのかもしれませんが… うーん、やはりはっきりしないところなんですね。 真備が天平7年に大学寮の次官である大学助になっているのなら、非公式に内親王の教育係をしていたかもしれないですね。 参考になりました、まことにありがとうございましたm(_ _)m
お礼
fumkumさん、ご回答いただきありがとうございます! いやーー、すごいですね!こういうの待ってました! >「阿部内親王が皇太子に立てられる以前から真備が教育係をしていたように書かれたものも」があるのは、以上のような考え方・先行論文等があるからです。 なるほど、そういうことだったんですね。 ワタクシわりとお馬鹿さんなのでご回答読むのには正直一苦労しましたが、おかげさまで大変よくわかりました。 とても丁寧なご説明、誠にありがとうございました!