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1人の人の道が30人の漬かった人達を覚まさせる

  一人の劣悪な教師が30人のクラスを完璧にシラケさせることは簡単である。 また一人の悪ガキが30人のクラスを完全な学級崩壊に導くことは容易いそーである。 では一人の人の道が30人の漬かった人達を覚まさせることは可能か。    

質問者が選んだベストアンサー

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noname#214841
noname#214841
回答No.1

>>一人の人の道が30人の漬かった人達を覚まさせることは可能か。 http://questionbox.jp.msn.com/qa6651343.html 「ブータン帰りのあの人」なら可能かもしれません。 外国語カテゴリで、明白なカテ違ひの質問を見つけたので、指摘しておいたのですが、質問者は移動するつもりがないやうです。どうにかならないものかと、思案中です。ブータンの質問をなぜ外国語カテゴリに投稿するのでせうか。わけがわかりません。 http://questionbox.jp.msn.com/qa8739669.html

hitonomichi33
質問者

お礼

>「ブータン帰りのあの人」なら可能かもしれません。 ふむふむ、「ブータン帰りのあの人」ね、思い出した。 とりあえず「ブータン帰りのあの人」の言葉を載せておきます。 ブータン的な、あまりにブータン的なものとは何かと考えたとき、 思い浮かぶものとゆーと、    愛、すなわち社会生命的自覚化であり、 時間、すなわち自我仮説であり、 空間、すなわち時空仮説であり、 現在、すなわち感受表面であり、 認識、すなわち存在的宇宙であり、 存在性、すなわち有限認識であり、 現実、すなわち存在的認識であり、 無、すなわち無限不確定化であり、 悪、すなわち非認識、非充足であり、 常識、すなわち非自覚的判断であり、 嘘、すなわち相対有であり、 原理、すなわち絶対化であり、 実体化、すなわち非現実的有限化であり、 進化、すなわち反エントロピーであり、       ・       ・       ・ 「ブータン帰りのあの人」はおもろい。  

hitonomichi33
質問者

補足

さてさて、No.4にその「ブータン帰りのあの人」ご本人が参上して参りました。  

その他の回答 (12)

回答No.13

諦めて、あなたも浸かりなさい(((o(*゜▽゜*)o)))

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

人の道さま、こんばんは。 >「一人の劣悪な教師が30人のクラスを完璧にシラケさせることは簡単である。」 そりゃ、相当に劣悪ですね。 >「また一人の悪ガキが30人のクラスを完全な学級崩壊に導くことは容易いそーである。」 ・・・ >「では一人の人の道が30人の漬かった人達を覚まさせることは可能か。」 懺悔ですか。

回答No.11

 早くひとことで言えば:   アルケーの神は 人間としてのあなたが自分で漬けた漬物である。  おあとがよろしいようで。

回答No.10

 みなさん こんばんは。  一連のやり取りの中で特にはNo.9の回答に対するお礼欄の内容で すべては決しました。  どちらが《漬かっている》のか? 目を覚まさなければならないのは どちらなのか? これが よく分かったと思います。  しっかりと証拠になる見解が示されました。  アルケーの神とは いったいどういう神であるかは もはや明らかでしょう。  切腹したも同然のようですから 介錯は みなさんにお任せいたします。

hitonomichi33
質問者

お礼

  んで、例によってしっぽを巻いて豚面するってゆー。 そんでまた非思考の庭に入るってゆー。    

hitonomichi33
質問者

補足

人の道とアルケーの神との仲介役として天使のよーなものがいなければならないってゆーておるんかいなもし。 なぜそのよーな仲介役がいなければいけないのかさっぱり理解できません。 神と人との関係は一対一で正面から向き合うものである。 そんな仲介役なんて必要ない。 そんなんでは信仰としても成り立たない。    

回答No.9

 No.8を承けます。  二点指摘します。  あなたの場合も 《神》を打ち出している。したがって《神とわれとの関係》は 成り立っている。  天使は そのあいだをあたかも行き来する使者である。  ならば おおよそこの天使論があっても おかしくはない。  それを聞けば 《漬かる》問題は 明らかなかたちで雲散霧消するでしょう。  ただし あなたのほうには しゃべる蛸壺としての《漬物》問題がよこたわっている。  もう一点は 上の第一点の裏づけのための議論です。  なぜなら 《いかなる国語にも属さない心の言葉》という概念を基にして説明したのであるから そこからクリスチアニズムにおける天使の問題が出て来ることはあったとしても このいまのわたしの質問にかんしては 神をめぐる一般的な理論における天使を問うている。だから その点すらも理解できないということを露呈してしまった。  けっきょくそのつどマチガイを侵している。ということを しっかりと心得るべきでしょう。  相手をののしることだけに精力をついやすのではなく しっかりと相手の言うことを聞き おのれの考えをまとめて明らかにするように心を配りなさい。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >天使は そのあいだをあたかも行き来する使者である。 >ならば おおよそこの天使論があっても おかしくはない。 人の道において、神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神である。 人の道とアルケーの神との関係は直接的なものである。 仲介者など存在しない、必要もない。 アルケーの神と直にふれ合うからである。 人の道の世界とキリスト教神学の世界とは根本的に世界が異なる、次元が異なると初めから申しております。 そのことが理解できずキリスト教神学の世界で全てを語ろうとしている。 そもそも天使などとゆーものは聖書記者の作に過ぎないということすら理解できていない。 あまりに愚かであるゆー以外ない。  

回答No.8

 ☆☆ (回答No.7) ~~~~~~~~~~~  次の質問に対して あなたは どう答えるか? ブディズムでなくて あなたの《神とわれとの関係》においては どうか? こう問うてみよう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ この説明を無視しましたね。  そのように小さなことでも 一つひとつ 相手の意志と心とをないがしろにすることによって バカになって行くのです。死んでも直らないバカということです。  もちろん 初めから話し合いが成り立つとは思っていなかったが 思っていなかった分だけ もう少しおつき合いしましょう。  先の(冒頭の)言い分に対して どう答えるか。そのようなたぐいの主題についての考えを聞けば 《漬かる》ということの問題が解けて行きましょう。おそらく。    それを見て 精神錯乱がつづくようなら そろそろと引き揚げます。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >☆ この説明を無視しましたね。 言っておくけど既に答えは示されています。 だから言ったではないか、天使というのはキリスト教神学の世界にのみ登場する固有の観念であると。 だからそのような観念とは無縁の世界であれば、それが仏教の世界であれ、人の道の世界であれ、相手がなんであれ、世界観が全く異なるのであり、相互乗り換えが不可能な世界なのであり、共通項の見い出せない全く異質な世界なのであり、数学的表現を用いれば互いに直交する世界であると言ったのである。 だから答えは十分示されているのであり、もちろんそのような問いかけは無意味であると結論しているのである。 あんたが分かろうとしないだけであって、分かろうと思って読めば答えは示されていることが分かる。  

回答No.7

 《漬かった人》の中身がまだ分からない。参照の質問にも書いていない。  と言うだけで答えては おそらくがっかりするであろう。  問い方を変えてみよう。  次の質問に対して あなたは どう答えるか? ブディズムでなくて あなたの《神とわれとの関係》においては どうか? こう問うてみよう。     *  【Q:《天使》を ブディズムでは何と言うか?】  天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

hitonomichi33
質問者

お礼

>【Q:《天使》を ブディズムでは何と言うか?】 天使というのはキリスト教神学に登場する固有の観念であり、仏教(ブディズム)には不要なもの、無意味な観念である。 つまりキリスト教神学の世界にのみ存在する天使を仏教の世界に投影しても何も出てこない、無にしかならない。 このような2つの世界は世界観が全く異なるが故に相互乗り換えが不可能な世界なのであり、共通項の見い出せない全く異質な世界であり、数理モデル的には互いに直交する世界であるとしか表現できません。 だから互いに直交する世界を比較しようとしても比較できないのであり、無意味な問いかけでしかない。 またそのような無意味なことばかりに明け暮れているから、非思考の庭とか、分かるか分からないかが分からないナゾのなんたらかんたらなどとゆーちゃらんぽらんな話に終始することになる。 これがつまり漬かってるてっことなんだよ。  

回答No.6

 こんにちは。  愚問である。  ★ 劣悪・シラケ・悪ガキ・学級崩壊  ☆ この言葉は 一般に使われています。  ★ 人の道  ☆ これは これも同じく一般に通用する言葉ですが ただし質問者にあっては 別様の意味合いへと変質しているかも知れない。  ★ 漬かった人  ☆ これは 一般には決して通用しません。  このような前提で問答ないし話し合いをしても 何の意義もありません。  回答を寄せる人たちが このけったいな質問の主をつけ上がらせているのだと断定します。  この質問者のアヤマチを説得するのに 五年かかっています。  しかもなお 同じマチガイを繰り返そうとしています。  これは 醜いことではないでしょうか。  バカは死んでも直りません。

hitonomichi33
質問者

お礼

まず漬かった人を覚まさせるにはどうすればよいか考えた。 それにはまず漬かった人と語り合うことが必要であろーと考えたのである。 それゆえ次のように問うたのであった。 漬かった人と語り合うことは可能か。 http://okwave.jp/qa/q8005228.html そして人の道が漬かった人と語り合うことは可能であると知ったのである。 そして次にその漬かった人達を覚まさせるにはどうすればよいかと問うているのである。  

noname#214841
noname#214841
回答No.5

「補足」を拝見いたしました。 >>「ブータン帰りのあの人」ご本人が参上して参りました。 「30人の漬かった人達」のうちの一人が、外国語カテゴリに質問を投稿してゐますので、なにか気の利いた助言をしていただけると、喜ばしいのですけれど。ときどきアンケートカテゴリでおもしろい回答を読んでゐます。 ブータンヤマト語の入門書、文法書、辞書はamazonで入手可能ですか。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >ブータンヤマト語の入門書、文法書、辞書はamazonで入手可能ですか。 間違ってもamazonでは売ってません。 嘘だと思ったら「ブータン帰りのあの人」に訊いてみたらえー。  

回答No.4

真の自覚は、他律的に得られるものではなく、抜本的 な環境認識の深化によって得られるものだ。 それは、学校教育の詰め込み教育の結果の通俗的な 素朴唯物論に毒されて成長してしまった脳には、困難 なようだ。 小学校から量子論について考え続け、中学で無からの 相補分化以外では真の解答は得られないと理解し、 大学で超光速の虚数エネルギー化の自乗をマイナス (時間逆行)の正エネルギーとの等価に活路を見出し ながら、それを日常の感受(宇宙膨張や階層現象性)の 向こうに不断に見出す事の困難さに、豊富な余暇のある 青年海外協力隊と海外コンサルに参加して、サバンナの 果てやヒマラヤの山奥で感受と概念の間での自己変革 に苦闘し続け、ぼんやりと“看える”ようになり、「反慣性 論(Antinertia Theory)」としてソロモン諸島で発表する までに20年近くかかった(でもまだ不完全)。 そうした「覚醒」が本当の意味で可能なのは、脳の神経 線維が生後の刺激で成長する数才までか、せめてその スイッチであるシナプス結合の形成が終了する十数才 までであって、それができるのは母親や(私の場合の こども科学百科のような)幼児期の環境といったミーム (DNAによらない世代間伝承因子)によるのだろう。 「人を導いて」などというのは、「導かれる」時点で違う。 カリスマは無用だ(幼児にカリスマが存在すれば別だが)。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >「人を導いて」などというのは、「導かれる」時点で違う。 カリスマは無用だ(幼児にカリスマが存在すれば別だが)。 つまり3歳を過ぎれば人の心が変わることはないという結論に至っている訳である。 わたしはこの結論には反対である。 その結論からは実のある世界は訪れない。 真理の探求によって人は変わると思っている。 人の道を歩むべし。    

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