《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?
( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?
(あー1) 長い目で見てにしろ・わざとではないにしろ 自己の精神的充足が自己の利益をおもんぱかることとは無縁だという場合 その事例や根拠はありますか?
(い) 《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?
(いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか?
(いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成り立ちますか?
(う) 《助け合い》は 《利己》ではないですか? 相互利己ではないですか?
(うー1) もし利己だけではなく 《利他》もあると言おうと思うなら それは わづかにその手助けの行為について相手に おこなってもよいかと問うて その同意や了解を得ているときに 自己の満足(自己のよろこび)とともに味わう共同作業のよろこびのことではないですか?
(う-2) すなわち 困ったときはお互いさまということであって それが 基本であると考えられます。つまりそのとき――利己だけではないとしても――ことさら 《利他》を《主張》しうる事態でもないでしょう。
(うー3) 仮りに利己心のほかに人には 利他心があるとします。そうしますと それにしても 利己心としての満足(よろこび)と利他心が満たされたという満足(よろこび)とで どういう違いがありますか?
(うー4) どちらも《主観》というつねに自己閉鎖的になりがちな意志と心との思いであって どこかに《利他の神による報いに浴することが出来た》とでも言うような・特別の――利己心とは別の――栄光がありますか?
(うー5) もし仮りにその利他心の充足には 特別なかたちで満ちたりて行く心の思いとその栄光があるとしたら それは 《自己満足を得て 利己心が満たされたこと》とどう違いますか?
(うー6) つまり ワタシの利己心からおこなう社会的行為――経済活動など――によって社会がわづかにでも利益を得るように成ること これはあると考えられますが そのときの《心のよろこび》とどう違いますか?
お礼
びぢーえむ38489さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 知るは楽しいというより、知ることを楽しめるようになれば、勉強も楽しくなるということでしょうね。 ☆ 馬と人参といった言い方にこだわるなかれ。でしょうか。 たのしいを通り越したたのしさが あるのでしょうか? ● 其の意を悟り其の義を楽しむ ☆ こういう場面も ぜんぜん無いというわけではないと思うんですけれど。一般の場合にもです。 部分的な・一時的なものなのでしょうか。 そう言えば 《勉強》というものについて いろんな思いが現われてまいります。試験を抜きにすれば それほどはいやぢゃなかったのですけれど。