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いつごろから日本国や日本人を、自覚し始めたのですか
我々(現在の日本人)は、県や県民より、日本国や日本人を自認していますよね。 (W杯の応援の光景を見て、改めて思いました。(ただし、高校野球を見ていると、県などが未だに強く意識されているようですが) 私は、江戸時代の終盤・明治維新の前あたりから、藩(狭い意味の国)などから、国(日本国)などへ変化したのかな、と思っています。 我々が、日本国や日本人を、自覚し始めたのは、いつごろからですか?
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白村江の戦いでは庶民も「日本国」を意識したのではないでしょうか。 もちろん当時「日本」という国号はなかったのですから、唐や新羅に対して我らは、例えば“ヤマト”だと思ったことでしょう。 ヤマト王権の支配地から兵として駆り出された地方豪族配下の若者たちの数は、4万人ほどと推定されています。 大多数は庶民だったに違いありません。 長老の命ずるまま博多湾に終結した若者たちの多くは、何が何やらさっぱり分からなかったのか知れませんが、日本史上、国家の規模で行う最初の外征です。 以下、司馬遼太郎著『街道をゆく 韓のくに紀行』から引用します。 陸地を離れて洋上に出たとき、 「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」 ということに気づいたにちがいなく、同時にそれまで小さな氏族の氏人にすぎなかった自分が、日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。 敵は「唐」である。 唐を意識するとき、当然ながらかれは安曇のなにがしや大伴のなにがしではなく、日本籍のなにがしであるということを意識すまいとしても意識するようになる。 日本人が個々の意識のなかで誕生するのは、このときが最初であったにちがいない。 (引用終わり) そして同時に日本の統一的な“ぬし”はだれかということを当然意識するようになり、兵士たちは上から教えられたとおりそれが天皇(スメラミコト)である、と痛烈に思ったにちがいないと続きます。 しかし、天皇という存在を知ったとしても、なお日本人はばらばらで、 というのはたれでもおがめる統一の神をもっていなかったから、 「それぞれがそれぞれの神をいただく諸氏族連合の日本部隊」で、組織からいえば軍隊というよりは弓矢を持った集団にすぎない面も多かったに違いない、と続きます。 42年も前の著作です。 最近の研究がどうなっているのか知りませんが、こんな見方もあるという程度の回答です。
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- TANUHACHI
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スタンスは異なるかもしれませんが、heikyu氏のご指摘には何時も鋭いものを感じさせられもし敬服致しております。 確かに「領域に対する意識」は階層によっても大きく異なり、博多の町衆が商人として貿易に接していたことと信長が地球儀を眺めていた意識では余りにも違いが大き過ぎもします。 商人の論理からすれば、相手が商人であろうが国家であろうが関係はありません。ただ貿易することによって利益を得ることができるなら相手を選ぶ必要などありませんから、その様な区別をする必要もないのでしょう。 もし日本人の意識の内に「日本国」の意識があるとするならば、それを裏付けるのは「この国の主権者もしくは祭祀的主宰者」とでも呼ぶ意識があることを意味することになりもします。 しかしながら、史料としての「国王御教書」などが今現在でも発見されていないところをみますと、この「国王」との定義そのものを再検証していく必要もあるかと存じます。 鎌倉幕府の崩壊の発端ともなった蒙古襲来が、この国の統治システムの根幹に関わる問題を炙り出したことも視野にいれねばなりません。 一方は「実務部隊」ではあるものの、それに対する裏付けがないことから、必然的にその「お墨付きを与える主宰者」が一方にはいるはずです。そうした金魚鉢の中での争いを表舞台に引きづり出したのもこの一件に始まるといえるでしょう。 その両者にしても、わしら以外の下々の者の意識までは視野に入れてもいません。けれども実質的に海外との交流を支えていたのも他ならぬ彼等以外の何者でもないことは確かです。武家政権が彼等を取り込むために様々な策を弄し、一定の権利を与えたりしたことを考えても、この国にトータルな形での“Nation”との意識があったのは少なくとも明治維新以後のことであると考えても不自然ではありません。 そして具体的な形で「ウチとソトの論理の違い」に苦しんだ代表的な人物の一人が夏目漱石であることも納得のできるところです。 政治組織としての「国家」、それも遅れてやって来た不良コピーが、促成栽培的そして少数によるピラミッド型構造による枠組の再編成の手段として選んだのも、他ならぬ「歴史教育」であり、それを1945年以前は「国史」との呼び方で統一もし、臣民教育の形で刷り込みを行っていたことも確かです。 更に戦後もピラミッド構造を別な形で再編成するために遺していたのが東大の文学部-国史学科でした。 従って、「国民自らが………」との形よりも「イデオロギーとして刷り込まれてきた時期」と考えることの方が適切であるといえましょう。 因みに、海外に出掛けた時に、滞在者に与えられる言葉が“Citizen”ではなく“ètranger”なり“alien”であることもご存知でしょう。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 歴史の大きな流れを解説して頂きました。 <「日本国」の意識があるとするならば、それを裏付けるのは「この国の主権者もしくは祭祀的主宰者」とでも呼ぶ意識がある> ということなのですね。そして、 <この国にトータルな形での“Nation”との意識があったのは少なくとも明治維新以後のことであると考え> られるのですね。現在は、 <「国民自らが………」との形よりも「イデオロギーとして刷り込まれてきた時期」> なのですね。 難解な解説を、上のように読み取りましたが・・・・
- hekiyu
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我々といいますが、王侯貴族と庶民とでは 自覚が異なると思います。 王侯貴族が日本を自覚したのは壬申の乱から だと思います。 つまり7世紀中頃です。 白村江の戦いで大敗した日本は、中央集権体制 の必要を自覚し、ここから、日本国が誕生しま した。 ということで、天皇や貴族など、上層部は その頃から自覚していたと思われます。 庶民は、御指摘のように明治になってからだと 考えます。 明治になって、軍隊内で出身地藩間での争いが 多発しました。 それで、西周と山県有朋が相談して、天皇を もってくることにしました。 お前らは、薩摩藩の藩人という以前に、天皇が 治める日本、という国の国民なのだ。 日本人だ。 これが日清日露戦争を通じて強化され、日本人という 自覚が下々まで浸透したのだと思われます。 尚、中国では、大正時代の留学生ですら、中国人 という意識が無かったと言われています。 上海人、北京人ですね。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 為政者である王侯貴族は、白村江の戦いでの大敗の後の、壬申の乱から自覚はあったなのですね。 一方、大多数の庶民には、明治時代に入って、教え付けられたのですね。軍隊(おそらく政治でも)、藩閥を防ぐため、天皇を使い統一した国を自覚させたのですね。 江戸っ子や浪速っ子は、軽い意味しか持っていませんね
- phj
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いくつかの段階があると思います。 まず、日本人が「なんかおらっちの住んでいるところをなんていうんだ」という会話をして「日本」という国の単位まで話ができるようになったのは、大和朝廷が律令制をしいた後のことです(もちろん、庶民がそんな話をするとは言えませんが、そうした場合の最終的な落ち着き先が日本になったのはこの頃です) 次に鎌倉時代に元寇があり、政府レベルの人は「国防」を意識します。このとき守らなきゃいけない国土が九州・四国・本土だと意識したはずです。 そこからだいぶ時代が飛びますが、一般的な庶民が「日本」という国を意識するようになるのは、戦国時代の頃です。鉄砲が日本に輸入され、キリスト教など南蛮渡来のものがやってくるようになります。安土桃山時代には京都などに外国人がそれなりに来ていましたので、西国の人々はそれなりに南蛮/中国(当時は明)/日本と対比して考えるようになっていたでしょう。 この意識が広まり、日本国の国民のような意識(明確に日本国とは思っていなくても、公としての国家意識として)が広がるのは江戸中期にぐらいだと思います。 この時代になると、庶民にも教育が広がり、地球が丸いことや海のかなたに南蛮国などがあることは知られていましたし、また水戸藩で「大日本史」が編纂されるなど、国家という意識がだんだん形作られていったように思います。 明確に日本人の庶民に国民という意識が生まれていると考えられるのは、大黒屋光太夫や高田屋嘉平などがロシアに漂流した時代になります。大黒屋一行の漂流は1783年、高田屋一行がロシアに拉致されのは1812年です。大黒屋もロシア女王エカチェリーナに拝謁して、日本人代表として堂々としていたといわれていますし(つまり、自分の身だけを考えて故郷や国を貶めることはしなかった、という公の意識)、高田屋については、すでにロシアが北海道周辺に出没していたため、拉致される意味が分かっていたようです。 このあたりに、日本人が単に私人としてではなく、日本を代表する(せざるを得ない)公人としての役割を認知していた様子が見てとれます。 大黒屋が漂流してから約100年後のことになるのですが、大黒屋から高田屋の時代には日本近海にロシアやその他の西洋国の船が出没するようになってきており、日本も相当に情報収集をしていたようです。 庶民もそれなりに学のある人は1829年に刊行された「那波列翁伝初編」ナポレオン翁伝初編なども読んでいたようですし、アヘン戦争の情報も知っていたようです。 ですので、江戸の中期から末期には庶民もそれなりに「日本国」ということを自覚しており、自覚していたからこそペリー来航が引き金になって、幕末へ動いていったともいえるでしょう。 比較のためにいえば、それらの情報を積極的に集めず、また活用しなかった朝鮮は結局日本に併合されることになり、朝鮮には幕末・日本人のような「朝鮮人」としての自覚は無いに等しかった、といえるでしょう。 明治になり富国強兵のために、国民が学校に行き「日本人」としての教育を受けるようになったのは、西洋のやり方をみればむしろ当然です。当時ドイツの学校にはドイツ皇帝の肖像画がかかっていましたし、アメリカの学校には星条旗が当時も今も掲げられているからです。 民主国家において、国民を育成すのは当然のことなのです。 >私は、江戸時代の終盤・明治維新の前あたりから、藩(狭い意味の国)などから、国(日本国)などへ変化したのかな、と思っています。 そうだと思います。具体的に時期を揚げれば1800年に入ってから1840年ぐらいまでには国民意識はかなり浸透していたのではないか、そしてそれが幕末・明治維新への起爆剤になったと考えています。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 歴史を俯瞰していただきました。 今回のご回答で一番強く気ずかされたことは、 <このあたりに、日本人が単に私人としてではなく、日本を代表する(せざるを得ない)公人としての役割を認知していた様子> というところです。この時点で・18世紀から19世紀にかけて、公すなわち日本国や日本人が見てとれる、のですね。狭い私から広い公に移行していた、のが見えるのですね。
- あずき なな(@azuki-7)
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坂本竜馬が「日本の夜明けぜよ」と言ったそのときからでしょう
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 龍馬は、先覚者(の一人)だったのですね。
- 0fool0
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統一した見解ってありましたっけ? 一般的には明治からで、大日本帝国憲法の制定辺りが其れになります。 其れまでは政治に関れなかった民衆が参加出来る世になったというのが、大きかったようです。 しかし大和民族となると、白村江の戦辺りがターニングポイントかもしれません。 其れまでは地方豪族が独自外交を行っていたようで、二面外交の証拠も見つかっています。 それがいざ、戦が近くなるにつれ、「日本国」での大和民族としての統一された意識が出て来たようです。 ただ、此の時はあくまで、支配階級である豪族間での意識なので、民衆は無関係です。 所詮、徴税権や交易の利益の取り合いの話ですし、どの国がどの程度の距離にあり、どの位の大きさかも民衆には分かり様も無かったでしょう。 あくまで支配者が誰になって、生活がどうなるか以上の意味を持たなかった事と思います。 日本は世界的に見ても、公的な奴隷制の維持も無く、身分制度も緩やかなモノで其の壁は世界に比べて非常に低い物でした。 御家人株を買えば、武士の身分が手に入るという事は、同じ「人間同士」という意識は確実に在った筈です。 正確に「いつから」日本人の意識が出来たかは、一口での説明は難しいのではないでしょうか。 逆に現在の先進国と言われている他の国では、実は統一された意識は殆どの国は持っていません。 あくまで「国籍」の所属だけです。 (ほぼ)単一民族の先進国は日本と韓国(ホントに先進国?)だけです。 日本って、「超」特殊な国家なのです。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 <一般的には明治からで、大日本帝国憲法の制定辺り> なのですね。ただし、 <大和民族となると、白村江の戦辺り> なのですね。ただしこの時期は、民衆にとっては、無関係・無関心だったのですね。 そして、初めて知ったのですが、現在の先進国では、 <あくまで「国籍」の所属だけ> が問題なのですか。私は、言うまでもなく、単一民族の1人として、単一国家に住んでいるから、何処に属しているか(国籍は?)は意識しておりませんでした。
- StuG3
- ベストアンサー率26% (18/68)
やはり、日清・日露戦争のころですね。 ただ、この時期に急に目覚めたわけではなく、幕末からの世の中の変化にしたがって積み上げられていたと思います。 税が金銭による直接納税や自由民権運動、徴兵で息子が兵隊に取られる、兵隊になって初めて知らない土地や外国に行く、身内で都会や北海道に移り住む、電信の発達、外国文化の流入・・・これらの要素によって、それまで「村」しか知らなかった日本人の視界が広がったせいだと思います。 ここで言う「日本人」とは、人口の9割を占める農民たちです。 江戸時代末期まで、彼らは知識はあっても、「国家」意識は乏しかった。 もちろん、それ以前に支配者階級やインテリ層には、国家意識を持っている人はいました。 しかし、数で言えばほんの一握りです。 もし、この人たちを日本人の代表として定義するなら、「日本国や日本人を、自覚し始めた」のは、飛鳥時代にまでさかのぼります。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 (No2のtanuki4u様も触れられていましたが) <人口の9割を占める農民> と <支配者階級やインテリ層> とに分けて、考えるべきなのですね。前者にとっては、次第に視野が広がってきて、 <日清・日露戦争のころ> なのですね。一方、後者にとっては、 <飛鳥時代までにさかのぼ> るのですね。
>我々が、日本国や日本人を、自覚し始めたのは、いつごろからですか? 日本以外の国を意識すると、自動的に、我々は日本人とか日本国というものを自覚します。 百済から仏像と経典がもたらされたときにも、外つ国(とつくに)の客人(まれひと)神、として理解しました。 日本以外の国の神という認識ですから、裏を返せば百済に対して日本国というのを自覚しています。 大宰府には水城を構築して外交窓口としての機能も備えていました。 聖徳太子が隋の煬帝に、有名な日出ずる国の云々という文書を送っています。 明らかに隋に対して日本国というものを意識しています。 平安時代にも、遣唐使というものを派遣しています。 渤海からは使節が来朝しています。 鎌倉時代には元が来襲してきています。 室町時代以降海外との通商が盛んになり、東南アジアの諸地方に日本人町を作りました。 そのときの日本の船には、後に日章旗とよばれるデザインの船籍識別旗を掲げていました。 日本人どうしであれば、だれの持ち船であっても日本から来た船ということで掲揚していました。 つまり、中国やルソン、シャム、大越に対して日本国の人間だということを認識しています。 江戸時代に入ると、オランダに対して明確に日本国というものを位置付けています。 朝鮮通信使という使節が将軍の代替わりごとに来朝しています。 異国船打ち払い令を出しています。異国すなわち日本国ではない国の船です。 庶民も三国一の花嫁とかなんとか言って、唐、天竺、日本ときちんと分けて認識しています。 江戸時代には藩が国で日本国という考え方はなかった、と吹聴したのは司馬遼太郎です。 一介の時代小説家の言説に惑わされないようにして下さい。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 <日本以外の国を意識すると> の際なのですね。他者を意識すると、自分が際立つのですね。古くは、 <外つ国(とつくに)の客人(まれひと)神> なのですね。 <三国一の花嫁> などは、庶民も関心を持っていた例ですね。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34516)
明治維新後の、学校教育によってです。その目的は、「国家に忠誠を誓う軍隊を作るため」です。 近代国家の軍隊というのは、国家そのものに忠誠を誓っています。だからもしその人物が国家にとって危険な人物となってしまったら、それがどんなに人気がある人でも軍人は国の命令とあらばその人に銃を向けなければいけません。 これは警察なら、その人物が犯罪を犯したなら警察庁長官でも首相でも逮捕しなきゃいけないのと同じことです。警察官は、警察庁長官や首相に忠誠を誓っているのではなく、国家に対して忠誠を誓っていますからね。 ご指摘の通り、幕末の薩摩軍や長州軍は、藩主に忠誠を誓った軍隊です。だけど明治日本の軍隊は藩主に対しての忠誠ではなく、国家そのものへ忠誠を誓わないといけません。え?天皇じゃないの?と思うところですが、もし天皇が野望をもって国家を私的に使うことがあってはいけませんから、本来は国家そのものです。 しかし、国家つまり政府となると、政権交代するたびに忠誠相手が変わったり、政治家の思惑で軍隊が政治的に利用される危険がありますから、日本軍は「政府に私的流用されない」ために、天皇の直属であるという「統帥権」を持ちました。そうじゃないと命令系統がややこしいからです。そしてその統帥権が逆手に取られて軍隊が暴走したのはご存じのとおりです。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 <「国家に忠誠を誓う軍隊を作るため」> に作り上げた、のですね。すなわち、日本国や日本人ということは、気長に自然に育つのを待つのではなく、意図的に構築しなければばならなかった、のですね。近代国家の軍隊には、 <国家そのものに忠誠を誓> わせなければ、ならなかった、のですね。
- tanuki4u
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一般国民的には 日清戦争前後 一般の国民が「外国」を強烈に意識させられた。 もうちょっと世界観がある層では、18世紀後半 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2 対ロシアを国防上で認識したかどうかです。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 <「外国」を強烈に意識させられた。> 際ですね。それは、日清戦争前後であり、ロシアの南下が契機なのですね。
- blackhill224
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自覚というより、明治政府が啓発したというのが正確でしょう。伝統的教養を身に着けた当時の人びとがそれをいかに受け止めたかは、たとえば漱石や荷風を読めば分かるのではないでしょうか。 隣国との摩擦の中で自覚を深めるというのは、かなり不健全です。排日法とか黄禍論を思い起こします。
お礼
早急なご回答ありがとうございました。 <明治政府が啓発した> のですね。 <隣国との摩擦> によるものは、健全ではないのですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。 引用して頂いた「韓のくに紀行」は、恥ずかしながら、本棚の奥にしまい忘れていました。これから読み返して見ます。ご回答で印象的だった文章は、この白村江の戦いで庶民までが、 <「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」> <日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。> です。日本が具体的にどの様になっているかはわからずとも、何となく日本である、ということが意識されたのですね。また、手段として、スメラミコトを活用したのですね。