- 締切済み
古文について
古文がわかりません。 若紫の、 「この世にののしりたまふ光源氏、かかるついでに見たてまつり給はんや」 の部分です。 これは、「この世で評判でなさる光源氏をこのような機会に見申し上げなさいませんか。」という訳になるとならってんですが、私は、「この世で評判でなさる光源氏がこのような機会に見申し上げなさっているだろうか。」と訳してしまいました。 簾を上げていて丸見えの状態だったので 光源氏が、中を見ているだろうかという解釈をしてしまいました。 こういう訳にならない理由は何かありますか?教えていただけると嬉しいです。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
「この世にののしりたまふ光源氏、かかるついでに見たてまつり給はんや」を質問者は誰の言葉だと思ったのですか。 ここから話が違ってきます。(実際には僧都の言葉なのですが)誰であれば光源氏に謙譲語を使って話すことが出来るのか、それこそ理解不能です。 実際に即して、説明します。尼君が源氏を見る時は単に「見る」とは言えません。「見たてまつる」という謙譲語を使って話し手僧都の源氏に対する敬意を表しました。詳しく言えば、 敬意の方向は 僧津→源氏です。 「見る」という動作をしたのは(実際にはしていないのですが、話の都合上)尼君ですが、その動作を受ける(=見られる)のは源氏です。これを受け手尊敬と言います。この「受け手尊敬」が謙譲語なのです。 「見る」という動作をしたのは、言うまでも無く尼君です。「給ふ」という尊敬語を使って、尼君に対する敬意を表しました。 敬意の方向は 僧都→尼君です。 「見る」という動作をした人 「為手尊敬」が尊敬語なのです。 【話題】 登場人物A=尼君 「見る」という動作 登場人物B=源氏 (見た) (尼君の) (見られた) ↑ ↑ 「見給ふ」 「見たてまつる」 為手尊敬(尊敬語) 話し手=僧都 受け手尊敬(謙譲語) もう少し分かりやすい図が書ければいいのですが、このサイトではちょっと無理です。話題の中に登場する人物と、「見る」という動作の為手と受け手の意味を理解してください。「↑」の印は話し手の敬意の向かう先を表します。 「見たてまつる」(謙譲語)と「見給ふ」(尊敬語)を一つにまとめたのが「見たてまつり給ふ」です。
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
再度No.2です。最近、ミスが多くなりました。訂正です。 「ののしる」は自動詞で、「人に騒がれる」という意味の動詞でした。したがって普通の用法のようです。 敬語の使い方も正しく、「人に騒がれなさる」と訳していいでしょう。意訳すれば「世間で騒がれていらっしゃる」でもいいかと思います。
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
No.2です。 ある意味で、もっと大切なことを忘れていました。 「かかるついでに見たてまつり給はんや」が源氏の動作であるとするなら、「見たてまつり」という謙譲表現がどうして使われたのかということです。「尊敬」「謙譲」というのは「待遇表現」と呼ばれ、登場人物をどう待遇するかと言うことで、それを決定するのは話し手にあるわけです。「会話文」の場合は会話の話し手ですが、地の文では「話し手」=作者になります。 作者の設定した、登場人物である「光源氏」は天皇の子であり、皇太子にもなり得る人と言っています。地の文であっても、誰かとの会話文の中であっても「拝見する」という謙譲語を使うことは、「見る」の対象者が限られた人(帝など)になり、この場合のように「尼君」などではあり得ないのです。 なお、待遇表現(敬譲表現)の決定権は、地の文では作者に、会話文の場合では話し手にあると言いましたが、このような「創作物語」においては、最終的にすべて作者にあることは言うまでもありません。 話は変わりますが、「この世にののしりたまふ光源氏」の部分で、「この世で評判でなさる光源氏」と日本語にあり得ないような訳語が当ててありますが、実はそうなる原因は、「ののしりたまふ」の「たまふ」が誰に対する尊敬語かが分かりにくいのです。「ののしる」は騒ぐの意味ですが、世間の人々が騒ぐのにどうして敬語が使ってあるのか分かりません。受け身にして「ののしられたまふ」なら分かるのですが、これが源氏物語の難解な理由の一つでしょうか。例に挙げた現代語訳は「大評判でいらっしゃる」と意訳してありますが。
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
No.1の方がおっしゃるように、「見る」という動作が誰の動作かが問題です。そのためには、この部分だけでなく直前の所を見る必要があります。 原文を引くのが本当なのですが、難しいので現代語訳で代用します。(現代語訳は下記サイト参照・その若紫の巻・第一章・第三段) <僧都>「ここは人目につくのではないでしょうか。今日に限って、端近にいらっしゃいますね。この上の聖の坊に、源氏中将が瘧病のまじないにいらっしゃったのを、たった今、聞きつけました。ひどくお忍びでいらっしゃったので、知りませんで、ここにおりながら、お見舞いにも上がりませんでした」とおっしゃると、 <尼君> 「まあ大変。とても見苦しい様子を、誰か見たでしょうかしら」と言って、簾を下ろしてしまった。 <僧都>「世間で、大評判でいらっしゃる光源氏を、この機会に拝見なさいませんか。俗世を捨てた法師の気持ちにも、たいそう世俗の憂えを忘れ、寿命が延びるご様子の方です。どれ、ご挨拶を申し上げよう」 結果的には、僧都が尼君に「源氏の君を拝見しませんか」と勧めている所です。 『かかるついでに見たてまつり給はんや』についての注釈 謙譲の補助動詞「たてまつり」連用形、源氏に対する敬語表現。尊敬の補助動詞「たまは」未然形、尼君に対する敬語表現。推量の助動詞「む」終止形、勧誘の意。終助詞「や」疑問。拝見なさいませんかの意。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
僕はド素人なんですが、終わりの「見たてまつり給はんや」が、光源氏を主語とするか(説1)、目的語とするか(説2)、ですね。話者を(い)、相手を(ろ)、光源氏を(は)とします。 「見」という動詞の語幹についている「たてまつり給はんや」という述語が、社会的に(い)より(ろ)が高く(給う)、(ろ)より(は)が高い(たてまつる)事を示しているので説1が妥当だと思います。
お礼
何度もありがとうございます。 「たてまつり」の敬語の対象が尼君、 「なさる」の敬意の対象が光源氏ではおかしいということで 大丈夫でしょうか? 「たてまつり」と「なさる」では「たてまつり」は より身分の高い人の方に使われるということですか? 理解力がなくてすみませんすみ