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家紋のことを知りたい、橘小枝丸

こんにちは、 私の母方のご先祖様は「橘小枝丸」という女紋を持っていたそうですがまったく情報が見つかりません。 何でもよろしいですから どなたか何かご存知でしたら教えていただけないでしょうか? よろしくお願いします。

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  • fumkum
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回答No.8

こんにちは NO6・7で回答したfumkumです。誠に申し訳ありませんが、回答を読み返してみたところ、『寛政重修諸家譜』の「家紋」について、私が見落とした橘の家紋が幾つもありました。追記をさせていただきたいと思います。 三佐枝橘=長尾 丸に花橘=米倉 丸に橘(久世橘)=関宿藩主久世家の替紋 角切角の内橘=牧 橘(彦根橘)=彦根・与板藩主井伊家の定紋 鞠挟の内橘=村松 割橘=門奈 丸に橘(久世橘)=関宿藩主久世家の替紋 三橘(三つ葉橘)=保田・大原 細輪に橘=甲斐庄 丸に三橘(薬師寺橘)=薬師寺 橘文字(橘の角字)=山崎*「橘」の漢字を図案化した家紋 下に、「橘丸(花形家家紋)」と「丸に橘枝(安藤家の家紋)」の画像をUPしました。見ての通りですが、「橘枝丸」紋とほぼ大差はないように思います。『寛政重修諸家譜』には本来家紋の図はなく、家紋名しか記載がないとのことです。その記載をもとに、2万余の家紋の図が記載された資料から選択していったとの記述があります。墓石からとったものもあるとかで、図案の細部にかすれがある場合とのことです。また、細部については、一部実際と相違がある可能性があるとも記述されています。 見落としが多くて申し訳ありません。お詫びいたします。

  • fumkum
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回答No.7

NO6で送付した画像の内、橘枝丸は上から2段目の最右端の家紋です。 続いて、橘氏と橘門の関係についてですが、橘氏=橘紋ではありません。回答の中に次のような記述がありますが、それをもとに解説すると次のようになります。 >「山中、家紋橘和同元年(708)一月廿五日、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ=人名)、元明天皇ノ宴会ニ列シ、浮杯ノ橘ヲ賜ハル、勅ニ曰ク、橘ハ是レ菓物ノ長、則チ(すなわち)汝(なんじ)ノ姓ト為(な)セ、故ニ紋、之(これ)ヲ図ス」 橘諸兄は当時は葛城王(かつらぎのおおきみ)と名乗っていたが、元明天皇から授かった紋所であり、(橘は柑橘類で)、菓物(くだもの)の長であり、非常にめでたい紋である、これにより姓を橘とせよと言われた・・・とあります。 上記の引用は甲賀の山中(橘氏)系図に関する文書と思われるのです。同様な文書は『続群書類従』の「橘系図」等にもあります。しかし、いくつかの間違えがあります。『国史大辞典』の「出自を四姓などの貴種にかたよって改変偽作された系譜に適合させるために、-中略-橘氏は橘紋であるという付会の説にまどわされて創られ」た文書です。 この原典となる文書は六国史の中の『続日本紀』の天平八年(736)11月11日の上表文と同17日の勅答です。これを都合よく改作したものが「山中~」の文書になっています。 原文は長いのですが以下の通りです。 (11日)従三位葛城王(後の橘諸兄)、従四位上佐為王等、上表曰、「臣葛城王等言-中略-葛城親母、贈従一位県犬養橘宿祢(橘三千代)」和銅元年(708)十一月廿一日奉挙国大嘗、二十五日後宴。天皇(*元明)、誉忠誠之至、賜浮坏之橘。勅曰『橘者、果子之長上、人之所好。柯凌霜雪而繁茂、葉経寒暑而不彫。与珠玉共競光、交金銀以逾美。是以汝姓者、賜橘宿祢也』而今無継嗣者、恐失明詔。伏惟、皇帝陛下-中略-臣葛城等、願、賜橘宿祢之姓、戴先帝之厚命-以下略- (17日)詔曰、「省従三位葛城王等表-中略-誠得時宜一依来乞、賜橘宿祢-略-」 1、橘の姓は、橘諸兄の母である県犬養(あがたいぬかい)(橘)三千代が、和銅元年11月25日に元明天皇から賜ったこと。 *橘三千代は葛城王の父である美努(みぬ)王と離婚後、藤原不比等と婚姻し、後の光明皇后を生む。また、後宮に長く仕え、後宮の実力者でもあったので、女帝の元明天皇とも関係が近い。 2、橘諸兄(葛城王)は臣籍降下にあたって、天平8年(736)11月11日の聖武天皇への上表文で、母三千代にならい、橘宿祢の姓を下賜されることを願い、同月17日に勅許されと記載されています。 3、姓にちなむ「浮坏之橘」も賜ったが、家紋を賜ったとの記載はないこと。 *家紋の使用は平安後期、凡そ1100年代以降とされていて、奈良時代直前の708年とは400年以上離れています。 *「山中~」の文書にも、「故ニ紋、之(これ)ヲ図ス(そういうわけ-由緒-で家紋は、これを(橘))を図案化した」とあり、「元明天皇から授かった紋所」などとは記載されていません。 つまり、国史大事典が指摘しているように、「橘氏は橘紋であるという付会の説にまどわされて創られ」た例もあったということです。ですから、NO6にも記載したように、橘紋は橘氏のみならず、源氏・藤原氏・平氏など多くの氏族、家門にわたって使用されています。また、武士だけでなく、農家・商家など幅広く使用されています。 以上長くなりましたが参考まで。

  • fumkum
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回答No.6

こんにちは。 家紋についてですが、今は家ごとに使用する家紋はおおよそ一つですが、近世(江戸時代)では武家などでを中心に複数の家紋を持ち、その内の主要なものを定紋(表紋)と言い、その他を替紋と言います。例えば、福岡の黒田家の場合、(黒田)藤巴紋が定紋ですが、それ以外に多くの替紋を持っていて、その中には黒田橘紋もあります。中には定紋と替紋の区別があいまいなこともあります。例えば、長州の毛利家の場合、一般には一文字三ツ星紋で知られますが、江戸時代には、(毛利)抱沢潟(おもだか)紋が使用されていることが多いようです。 このように一家で複数の紋を持ったのは、1、下賜。例えば、織田信長が足利義昭から、桐紋と二引紋を下賜された例。2、分捕り。例えば、肥前の鍋島氏の杏葉(ぎょうよう)紋は、豊後の大友氏が攻め込んだ時に、鍋島の先祖が大友の総大将を討取ったことにより分捕ったとされています。3、嫁取り・婿養子・養子縁組などにより、嫁・婿・養子が実家の家紋を持参する場合。4、創作・勝手な使用などがあったとされますが、その背景には、5として、数多くの家紋を持つことは、名家であるとの考え方があったからともいわれます。 さて、女紋ですが、上記の替紋を女紋という事もあるのですが、一般には家族の中で女性だけが使用する紋を言います。その中で、母親自身が生家の母親から引継ぎ、父系の家紋・家名などの継承とは別に、母から娘と女(母)系で継承される女紋があります。この母系で継承される女紋は、大坂・京都・兵庫などの関西地方を中心に中国・四国に見られます。この女紋の継承は、古代の招婿婚に見られる母系社会の残滓と見る見方もありますが、嫁入り道具に女紋をつける習慣があり、その後に取得したものを含め、女紋を付けた物は女の私財として認められる慣習があります。 このような母系継承の女紋とは別に、(父系の)家ごとに定まった女性用の紋も女紋と言います。この種の女紋は、家紋を小さくしたり、家紋の一部を変更(外側の丸を付けたり外したりの変更を含む)したり、家紋に関係なく別の紋を使用する場合などもありますが、父系で継承される女紋をです。ただし、嫁に出る場合に婚家に持っていくなどでこの種の女紋が女系継承されることもあります。 ところで、「橘小枝丸」についてですが、「橘枝丸」と言う家紋はあります。橘枝丸と図柄の同じものを「橘丸」と言ったり、「丸に橘枝」と言ったりしたようですが、「橘小枝丸」と「小」のつく家紋を見つけられませんでした。もしかすると、父系で継承される女紋で、家紋を縮小したものを、「橘小枝丸」と呼称した可能性があるのではないでしょうか。 話を女紋に戻しますが、女紋が盛んな要因として、商家が娘に婿を取って、商売・家系を継続させることが多かったことにもよるとされます。そのため、関西を中心に西日本に多い原因ともなっているとの説があります。 さて、家紋についてですが、橘紋を使用している家の出自が橘氏と言うのは俗説です。『国史大辞典』の「紋章」の項目に、「家格の表徴とされた家紋は、出自を四姓などの貴種にかたよって改変偽作された系譜に適合させるために、源氏は笹竜胆(ささりんどう)、平家は蝶、藤原氏は藤、橘氏は橘紋であるという付会の説にまどわされて創られ、さらに賜与や、奪取、婚姻、養子縁組などの理由とともに、単一の家に、二個以上数個の家紋が作り出された。」としている程です。ですから、橘紋を使用する家は、橘氏の系譜をひく、もしくはされている家だけでなく、井伊氏などの藤原氏出自とされる家、源氏・小野氏、紀氏、菅原氏、丹治氏、伴氏出自とされる家など多岐にわたります。逆に橘氏を出自とする楠木氏のように、菊水紋を使用する(替紋として橘紋もあるとされます)例もあります。 では、橘紋を使用しているのはどのような家があるのかという事になりますが、代表的なものを各種資料から抜き出すと次のようになります。(重複や氏族の違う同名の家名があります) まず、徳川幕府が編纂した、大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜』の「家紋」。 「橘丸」(図柄は橘枝丸と同じ) 花形家が使用したとされています。ただし、花形家の本宗は、始祖勝重が駿府城代与力として出身し、子孫に代官などを出しますが、小普請(実態は無役)の子孫が続き、最後は天明年間に放逐され、断家になっています。そのため、系譜に家紋の記載がなく、橘丸以外の家紋があったのかどうか不明です。なお、分家が存続しますが、その家は橘丸の家紋の記載はありません。 「丸に橘枝」(図柄は橘枝丸と同じ) 安藤正重を祖とする安藤家が使用したとされています。藤原氏の支流の項に載ってはいますが、系譜の前文に、安倍氏にして朝任が末葉なり、-中略-旧家安藤帯刀次猷が今の呈譜に、朝任がとき藤原氏を賜ひ、旧氏と合せて安藤と称するといへり。」とあり、本来は安倍氏なのだけれど、「旧家のときも藤原の支流に収むるがゆへ、今其例にならふ。」としています。この家の家紋は、「上藤」「七畫」「丸に橘枝」の順に記載があります。ただ、他の安藤家の家紋には「丸に橘枝」の記載はありません。安藤正重は井伊吉右衛門某の男(方清)を養子として遺跡を継がし、方清の子孫が代々家を継いでいますので、方清が実家の井伊家から橘紋を持参し、それが家紋(替紋)として継承されたのかもしれません。 その他は家紋と使用家名を記載します。 丸に茶の実橘=米野 五葉の実橘(丸橘)=(深溝)松平・小島・水原・甲斐庄・浅井・今大路・福富・会田・新庄・門奈・瀬戸・植田・須田・山脇・中井・山中・山崎・杉浦・疋田・水谷・村上 丸に橘=赤井・蜂屋・小島・児島・水原・玉虫・仙波・長谷川・紅林・野尻・大平・牧・岡本・小野・富田・門奈・古田・桜井・山中・篠瀬・久保・井狩・小野・多田・森・羽根・浜田・山中・石井・増島・熊谷・伏木・岩沢・丹羽・岩室・稲野・袖岡・岩下・本山・小野・小櫛・浅香・小野・佐藤・佐野・木村・喜多村・宇佐美・林・大林・村上・深津・大野 三橘(黒田橘)=福岡と秋月藩主家の黒田家 丸に三橘=水原・長尾・川井 板橘=牧・門奈・江坂・辻 丸に三成枝橘=山中・長尾 三瓶子の内橘=宇佐美 丸に根なし橘=宇佐美 三橘(三つ追い橘)=末吉 丸に花橘=木村・和田 黒餅に橘=宇田川 六角の内橘=田中 抱橘=市野 源氏車の内橘=榊原 次に現代の『姓氏・地名・家紋総合事典』には次のように記載されています。 <源氏>深溝(松平)・瀬戸・小野・米倉・赤井・多田・蜂屋・梶田・小島・児島・久我・田中・石井・須田・森・宇田川・浜田・木村・羽根・植田・山中・水原・黒田・久世 <平氏>丹羽・増島・熊谷・伏木・五虫(玉虫の誤り?)・保田・岩沢・仙波 <藤原氏>新庄・富田・佐野・木村・喜多村・佐藤・川村・宇佐美・松村・門奈・浅香・疋田・小野・市野・井伊・曽谷・川井・水谷・小川・内田・山中・深津・安藤・久保・井狩・村上・大林・榊原・大野・末吉・篠瀬 <橘氏>甲斐庄・長谷川・紅林(くればやし)・山田・中井・橘・薬師寺・稲野・神岡・山崎・土田・岩下・辻・長尾・野尻・大平・牧・山中・岡本・福富・山脇・岩室・和田・米野・江坂・本山・浅井 <小野氏>小野 <紀氏>堀田 <菅原氏>前田 <丹治氏>小櫛 <伴氏>大原 『家紋の事典』では、「使用家」として次の氏族・家が挙げられています。 史上では橘氏族。『見聞諸家紋』では橘氏族の薬師寺氏と小寺氏。『阿波国旗下幕紋控』には武重氏、小倉氏、寄来(きらい)氏、篠原氏。藤原氏良門流に使用家が多く近江国彦根藩井伊氏、また井伊一族の貫名氏から出た日蓮が興した日蓮宗寺院の寺紋。『寛政重修諸家譜』には下総国関宿藩久世氏、小寺氏の家臣筋だった筑前国福岡藩黒田氏、他に幕臣100余氏。 なお、「分布」として、「西日本に多く分布し、和歌山県、広島県、高知県、長崎県、奈良県、香川県、大分県、愛媛県、大阪府、宮崎県の順である。」と記載しています。 上記の「分布」に関連して、母方のご先祖様が住んでおられた都道府県名と家名がお分かりならば、『都道府県別 姓氏家紋大事典』(東日本編と西日本編に分かれています)を見られることをお勧めします。最初に全県の家紋の使用順位があり、その後に家名・氏族別に使用家紋が記載されています。ただ、記載家紋はほぼ一つで、定紋が中心です。 これに対して、『苗字から引く家紋の事典』は、苗字・氏族ごとに定紋だけでなく替紋も記載されています。ただ、記載苗字が少なく、限定的です。 文が長くて分割になってしまいました。丁度橘枝丸を含めて2枚の橘紋の画像も分割で添付します。一つは、『自由に使える家紋大事典』。今一つは、『家紋の事典』の画像です。

  • 23567
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回答No.5

父片の家紋と母片の家紋の複合紋かも知れません 茄子枝丸、撫子枝丸(なでしこえだまる)の複合とか 小枝丸=子枝丸の可能性は?

  • SPS700
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回答No.4

    下記に「橘枝丸」という女紋の例が出ています。     http://www.omiyakamon.co.jp/kamon/picture_book/tachibana.html

  • 23567
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回答No.3

母系紋 女性の母方に受け継がれる紋。「女紋」 所属する家の紋章とは無関係に、母から娘に代々伝えられる紋章 母方の実家の紋を使います。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 橘紋は、いわゆる「源」「平」「藤」「橘」と称される日本古来からの由緒ある紋所です。 橘氏の系図の由緒には、 「山中、家紋橘和同元年(708)一月廿五日、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ=人名)、元明天皇ノ宴会ニ列シ、浮杯ノ橘ヲ賜ハル、勅ニ曰ク、橘ハ是レ菓物ノ長、則チ(すなわち)汝(なんじ)ノ姓ト為(な)セ、故ニ紋、之(これ)ヲ図ス」 とあり、 橘諸兄は当時は葛城王(かつらぎのおおきみ)と名乗っていたが、元明天皇から授かった紋所であり、(橘は柑橘類で)、菓物(くだもの)の長であり、非常にめでたい紋である、これにより姓を橘とせよと言われた・・・とあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84 橘をかたどった紋様はそれほど多くはなく、2~3種類しか無いのではないかと思われます。 そして、橘をあしらった紋所を使用する家系は以下の通りです。 <橘氏系> 橘、中井、薬師寺、辻、稲野、柚岡、山崎、土田、岩下、長尾、野尻、大平、山中、岡本、福富、山脇、岩室、和田、米野、牧、江坂、本山、浅井、など。 <源氏系> 瀬戸、小野、米倉、森、赤井、蜂谷、梶田、児島、小島、石井、須田、羽根、宇田川、浜田、木村、植田、水原、黒田・・・など。 <藤原氏系> 新庄、富田、佐野、木村、喜多村、佐藤、川村、松村、宇佐美、門奈、浅野、疋田、小野、市野、井伊、曽谷、川井、水谷、小川、内田、深津、甲斐庄、紅林・・・など。 <平氏系> 丹羽、増島、熊谷・・・など。 添付の紋は「枝付き橘」という紋所ですが、多分、これを○で囲んだ紋所に近いと推察いたします。

  • ithi
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回答No.1

meifai さん、こんばんわ。 橘小枝丸という女紋とは直接かかわりがあるかどうかはわかりませんが、多分これと同系統のものでしょう。 下記のURLを参照ください。 橘枝丸 https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/shop/2284.html