※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《まじわり》をめぐる或る対話)
まじわりをめぐる対話とは?
このQ&Aのポイント
人間のコミュニケーションの本質を問う対話について考える。
過去の思い出や記憶について、自分自身の存在や他者との関係を探る。
言葉が届かない疎外感や孤独について考え、他者への語りかけの重要性を強調する。
お茶が入りました。
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【あ】 なぜ、人間はコミュニケーションを求めるのか、というような、そういう問い語りです。
【い】 ちょっと変な言葉遣いをします。
「人が言うということ」は、聞かれる者において「言われること」の背後に、忘れられて残っている。この実在的なもの――つまり、人間は決して「言いたいこと」が言えないという、この現実と気持ちとの乖離こそが、人間を言語に駆り立てる原動力になっているのではないか、という事です。これは理屈ですが。では、実践へ。
【う】 例えば、僕たちは過去に経験したちょっと忘れられないような思い出について、出来事の細部までを生々しく覚えていて、語って再現する事ができる。けれど、その語る「こと」のなかには時として、その記憶の風景に自分自身が映りこんでいるときがある。
そんな経験はないでしょうか。
【え】 その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。
そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。
【お】 もしそこに映っているのが自分だとしたら、その自分を見ているのは、いったい誰の視線であり、その記憶はいったい誰のものだったのか。あるとき自分の記憶を思い返してみて、このような事実に気付いてしまうと、間違いないはずの自分の記憶と、その記憶によって裏付けられた自分の正当性とのあいだに、乖離感、あるいは疎外感を、感じてしまうのではないだろうか。そして、信じていた自分の正当性は、いったいどのような言葉となって語られていたのだろうか。
【か】 このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。
【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。だからこそ、人は他者に語りかけるのではないか。だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。
僕には、そんなふうに思われます。
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(1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。
☆ そうではなく むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。
(2) 【き】 だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。
☆ だからこそ ひとは 何も言わずにも 分かり合える他者を持つことが出来るのではないか。たぶん 一人のみであるだろう。一人持てば その余韻として 多くのひとと分かり合えるようになるだろう。
(3) 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。
☆ わが孤独は 何かによって埋められることを待っている欠落感を知覚した。それは それが 隣人であるのだろうか。言葉は届かない。どの隣人とかかわるのだろうか。けれども 千の切なさも わたしは 飲み込んで来た。万のうれいも 精神の胃袋に消化して来た。億の悲しみに わたしは 泣いた。けれども それらすべて 埋めてきたのではないか。損ないは すべて 覆われた。
(4) 【か】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。
それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。
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☆ わたしは わたしの孤独の知覚するままに 孤独と孤独との関係において――それが 社会というものだ―― わたしの中で 自己表出が 言葉をさがし 言葉は 自己表現を求めて 文体をかたちづくる。
打ちにこたえる鐘のひびきにて。
【Q:すべてのひとを説得することができますか】
No.12のやり取りから。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4942224.html
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☆ 互いに対立しているようです。
対立していますか?
どのようにですか?
孤独とは 何ですか?
不安とは どういうことですか?
対立していないと見たとき どのように止揚されていきますか?
どうでしょう。
コーヒーや紅茶もご用意できればいいのですが。・・・
お礼
ご文章をいじってコメントを書き込むという作業は行ない得ません。 なんだか出しゃばり過ぎるとは思うのですが いちおうすでに書いた文章ですので それを使うかたちを取ります。 ☆☆ (趣旨説明欄)~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) ・・・ むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。 その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。 かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。 あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 文体相互の交響曲がひびく。 鳴り響くように持って行きましょう。 あともあなどすさん ありがとう。 こんにちはでした。ご回答をありがとうございます。 ときどきお会いしましょう。