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「人権は論理必然的なもの」とはどういう意味ですか?
人権は、「人間が人間であることに基づいて論理必然的に享有する権利」であると説かれますが(芦部信喜「憲法(5版)」(岩波書店、2011)78頁)、具体的に何がどう論理必然的なのですか? 価値観・思想と論理は、相容れない関係にあると思われるのですが。
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- stomachman
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憲法学やら法学やら倫理学とは全く関係無しに、純粋に論理という面だけから検討してみました。ご質問にある本を読んだことはないのですけれどね。 [1] ●xがナニカに属する個体であるならば、xはそのナニカに固有の属性を持つ。 これは論理的に正しい。様相論理の言葉を使うなら「必然」です。なぜなら、そのナニカは、それに固有の何らかの属性によって、ナニカ以外と区別される。だから、xがナニカに属する個体かどうか、を判定することは、xがナニカに固有の属性を持つかどうかを判定する事と全く同義だからです。 [2] 次に、そのナニカに固有の属性の一部を「ナニカに固有の権利」と名付けることにする。すると、 ●xがナニカに属する個体であるならば、xはそのナニカに固有の権利を持つ。 という言明も論理的に必然である。 [3] そこで、ナニカが人間である場合に、「ナニカに固有の権利」のことを特に「人権」と呼び変えることにすれば、 ●xが人間であるならば、xは人権を持つ。 という言明も必然である。 さて、[3]について:ここで言う「人権」には「人間であるなら必然的に持っている属性だ」ということ以外には中身がない、という点に注意すべきです。すなわち、人権がどういうものであるか、具体的にどんな権利を包含しているのかについては何も言っていない。そこで、もし、この話とは別に「人権とはこういうものだ」と思想信条を書き並べたとすると、そこで言う「人権」と[3]の「人権」とは、ただ名称がカブってるというだけのことで、その用語が指す対象はそれぞれ全く別物であり、両者は無関係である。 ところで、カブった名称だけを足がかりにして一方と他方とを一緒くたにしてしまう、「レッテル貼り」とでも呼ぶべき詭弁は、ソクラテスがしばしば使っている古典的なものです。けれど、今なお、ことに弁論やら社会学やら法学やらではちょいちょい見られるように思います。(たとえばデカルトが「方法序説」で使っている酷い詭弁に比べても)稚拙なごまかし方であり、ちょっと冷静に考えればオカシイのは分かる筈ですけど、しかしこんな単純な手でも結構通ってしまうことが多いように思います。(もちろん、ご質問にある本がその一例だ、と主張する訳ではありませんが。) で、[1]について:xが人間かどうか、という判定が人種差別や優生学と並立しうることにも注意すべきです。たとえば人間固有の属性として「皮膚の色が白い」だとか「キリスト教徒である」だとか「天皇の赤子である」が含まれている、そういう「人間」の定義を使うこともできてしまう。なので、[3]の「権利」の概念と同様、「人間」という同じ用語で呼ばれながら意味が異なる複数の概念が、ごっちゃにされることが(意図的にか、あるいは意図せずに)起こりうる。(もちろん、ご質問にある本が「人間とは何か」という定義すら示さずに「人間」という言葉を使うほど迂闊でありながら「論理必然的」とか宣っている脳天気な本である、と主張してる訳じゃありませんけど。)
- hekiyu
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”人権は論理必然的なものであるという記述は本当のところ誤りという 理解でよいのですね。” ↑ 誤り、というのは正しくありません。 論理必然的だ、という説、ということです。 9条においても、自衛隊が合憲だ違憲だ、という 説があります。 それと同じで、論理必然だ、という説だ、という ことです。 そして、これが現在の支配的学説でもあります。 そもそも法のような社会学における論理に必然など ありません。 自然科学とは違うのです。 論理必然だ、という説もあるし、論理必然ではない という説もある。 そういう問題です。 ”人権は、「人間が人間であることに基づいて論理必然的に享有する権利」である” ↑ 論理必然だから議論の必要なし、というような 意味です。 議論の必要が無いぐらい当然だ、ということです。
- hekiyu
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人権というものは、欧米キリスト教文化圏が生み出した モノです。 だから本来は、人権は神によって与えられたモノ なのです。 神によって与えられたのだから、人間がむやみに 奪うことは許されない、として、権力者から人民を護ろう としたのです。 しかし、異教徒に神を持ち出しても通用しません。 それで神の代わりに「自然法」を持ち出します。 自然法によれば人間は人間である、というだけで 個人として尊重される、ということになります。 個人として尊重されるのだから、人権も当然有する ということになります。 この人権は、王様や政府や権力者によって与えられた ものではありません。 自然法によって与えられたモノです。 だから「享有」という言葉を遣います。 じゃあ、自然法の根拠は? という問題が出てきますが、 それは議論しない、できません。 なぜかは、神の代わりに自然法をもってきたことから お解りでしょう。 神の存在は、学問では議論しません。 それと同じです。 ”具体的に何がどう論理必然的なのですか? 価値観・思想と論理は、相容れない関係にあると思われるのですが。” ↑ 論理に、AをインプットすればBという結論が導出される。 Aが正しければ、Bも論理的に正しい、ということになります。 Aが価値、思想である場合も同じです。 ある価値を論理にインプットすれば、ある答え、結果が導出されます。 その答え、結果は正しい、ということになります。 論理と価値、思想はこのような関係にあります。 相容れない、というものではありません。
お礼
回答ありがとうございます。 では、人権は論理必然的なものであるという記述は本当のところ誤りという理解でよいのですね。