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漢文:解釈問題
『史記』仲尼弟子列伝第七巻には、瑞木賜の「何敢望回(なんぞあえてかいをのぞまん)」という台詞があるようですが、この文が解釈出来ません。具体的には、此の現代語訳は「顔回に追いつけるとは思ってもいない」となっているのですが、原文の「望」が訳文の「追いつける」になっているのは何故なのでしょうか。元々の文章は「何敢望回」でぐぐれば見つかると思います。 辞書を引いても特にそれらしいものは見当たらなかったので質問致しました。そもそも、漢字の読みと其の読みの時の意味をちゃんと載せた、漢文勉強に適した辞典はあるのでしょうか。ついでではありますが心当たりがある方は教えていただけたらと思います。
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こんばんは、夜分に失礼します。 司馬遷の手になる『史記』は中国初の「正史」として知られている書物です。その構成は「12本紀 30世家 70列伝」などとも呼ばれ、本紀は歴代の王朝そして王と皇帝、世家と列伝ではその時代と彼等が生存してい以後に多大な影響を及ぼした人物達の事跡が「紀伝体」と呼ばれる読み物にも似た形で綴られていることを特色とします。又、この史書全体を貫く中心的なカテゴリーは「天道是か非か」と一般に呼ばれる価値観であるともされています。 こうした編纂記述方針に基づくことから、取材された対象(採り上げられた人物群)も王侯や英雄のみならず諸子百家と呼ばれる様々な思想のグループをはじめ侠客や中国を取り巻く周辺民族にまで及ぶとのバリエーションの広さを示してもいます。 閑話休題、質問に挙げられているのは「列伝」の一章ですが、ここにある「仲尼」が誰を指すのか、これはテキストや参考書には記載がありますよね?。孔子のことです。 そしてここに記されているのは、その孔子の「弟子達」の人となりや孔子との関係にまつわるエピソードです。この孔子の高弟達を一般に「孔門十哲」などと呼び、瑞木賜と(願)回もその代表的な人物です。実名は瑞木賜ですが、字(あざな、現在で言うペンネームや芸名などに相当する呼び方です)を子貢(しこう)と呼ばれる人物です。子貢は孔子の門弟下でも弁舌や商才の点では他に引けを取ることのなかった人物としても知られています。 当該の部分は、この子貢に対する孔子の評価であって、その前後に続く文と読み合わせることで初めて意味を通じるところとなります。 「(仲尼)問うて曰く、汝と回と孰れ(いずれ)が愈るか(まさるか)、と。 対へて(こたえて)曰く、賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や(または回の、と読むこともあります)一を聞きて以て十を知る。賜や(同じく賜のと読むこともあります)一を聞いて以て二を知るのみ、と」と読み下します。 現代語訳にするならば差し詰め「ある時、孔子が子貢にこんな質問を投げかけた。お前と顔回とではどちらが優れていると思うか、と。すると賜(子貢)はこの様に応えた、私のように未熟な者がどうして顔回の様に秀でた方に比肩することができるでしょう。顔回は一を聴いて十を知るとの言葉があるようにその背後にある幾つもの深遠な問題に応えることもできますが、私にはせいぜい一つか二つができるほどの皮相的な部分しか応えることができません、と。」くらいになるでしょう。 ここで質問者様が参照された「顔回に追いつけるとは思ってもいない」との訳文事例はあくまでも「事例」であることを考えてみてください。範解はあくまでも「一つの例」であって、それ以外は全く不可であるなどとはなりません。ある程度の許容幅もあります。その許容幅の意味は「回答としてほぼ適切な内容であり、同一趣旨を示す記述」ということになります。 「望」という言葉から、なぜ顔回に追いつけるとなるのかとの質問に答えるのであれば、「顔回は孔子の数居る弟子達の中でも最も優れた人物だが、その顔回ですらも未だに自らが研鑽の途上にあることを熟知している」と顔回は子貢にとって敬愛もしくは憧憬にも近い意識を抱くことのできる存在であることがわかり、同時にそうした人物に「比肩できるように自分もなりたい」と願ってもいる。そうした「仰ぎ見て尊敬する存在」と「自らもそうなりたい」との意識が「望」との文字表記に表されてもいます。「望む」はそうした二重の意味で使われていることとなります。「追いつく」としたニュアンスは「切磋琢磨する」ほどの使い方と推測できますが、10代の方々にとっては少し言葉足らずかもしれませんね。 漢和辞典をご希望であれば、角川書店刊の『新字源 改訂版』もしくは『増補 字源』。座右に置くことのできる参考書ならば、洛陽社刊の『漢文研究法』をお勧めします。 古文も漢文も、表現手段としては同じ「言葉」です。少しだけ「今の言葉の使い方」と異なっているだけです。もし国語科そのものに苦手意識をお持ちならば、「先ずは現代文の文章を読む」ことから始めては如何でしょう。「文章」は「文の集まり」で、その「文」も「言葉の集まり」といえます。であるならば「言葉と言葉の結びつき」そして言葉と言葉の受けと掛かりなどといった「関係」に対し、御自身の意見を書くのではなく「書き手の目線を追う作業」に重心を置いてみれば、作品そのものを理解する手掛かりともなります。少し遠回りをするように感じても、「答だけをいきなり求める」スタイルをひとまず横に除けておいて、焦らずに少しばかり「ロジカルに手順を追って考える」トレーニングを僕はお勧めします。 国語科の科目は意外にも理系的な発想に基づいて構築されていることがお解りになるかと存じます。
お礼
夜中にも関わらず丁寧な回答を有難う御座います。「望」一字から其れだけのことを読み取れるとは……勉強になりました。 私自身現代文にも苦手意識がありますので、御指摘の通りにしてみようと思います。漢和辞典についても参考にさせていただきます。