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《因果の道理》は 道理ではない。
つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。 ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86 § まえがき (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。 § 概説 (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。 (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。 (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。 (お) 仏教において因果は次のように説かれる。 善因善果…善を行うことが新たな善を促す 悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す 善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く 悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。 (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。 (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。 (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。 (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。 (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。 (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。 (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。 (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで記事の全部です。 (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。 (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。 (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう? (つ) 一つ目の問いは こうです。 善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか? (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。 * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。 (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。 (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。 (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。 (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。 (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。 (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。 (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。 (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。 (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。
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- a_hona
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ん?因果律というのは、此れがないとき彼がない、此れがある時彼がある、と言ったような話ではなかったっけ。 苦集滅道に通じる論理形式だったような気がするが、、要するにたった一つの根本苦を滅したなら全ての苦が消滅するという話なんやけど。あかんねぇ、俺は何一つ完全に理解してないから、まともなアドバイス一つしてやれんわ。それにしても猫君は健気やねえ。いろいろ勉強になります。 それにしても主の質問は毎度混み入っとるなぁ。 このままでは冷やかしと思われたらあかんから、業異熟についての俺の見解を一つ述べようと思う。 この諸行無常の中で、確かなものなどないこの世の中で、安らぎの根拠を解脱に求めた釈迦が観じたものに、ダルマがある。ダルマは、何事も思う通りには行かない世の中で、正しいということを以って普遍に通ずる理、ことわりであるらしい。つまりダルマにおいては業異熟も、然るべくして成るもので、無常の観点からは決してわからないその内実が、ダルマの観点からは明らかになるものであるのではないか。という推測を俺は立てた。今は無常の観点からカルマ論を見ているために議論が永続的に紛糾しているが、もしダルマを悟ってダルマの側からカルマとその運行を観ることができたなら、全然違う見え方をするのではないか、というような推察をしてみる。一種神のごとき観点を解脱者は得ているのではないかという話。そこから見れば業異熟も実に理にかなった運びをしているのではないか? 例えばカオスのように見える水の運びも、流体力学や高度なシュミレーション技術によって解明出来るみたいに、ダルマを悟ればカルマの見え方も全然違うものになるのではないか。釈迦の説法をしっかり理解するには、結局は覚りの境地に至らなくては無理な話なのでは。じゃあ、何故誰も理解出来ない法を説いたのか?それは、きっといつかは理解できるということを信じて説いたのではなかろうかと思う。 俺は主と違って釈迦を卑下していない。むしろ一目も二目もおいている。だからこういう発想になる。せやけど、理解できへん教説の部分はたくさんあるし、それを理解できへんまま信じるのは難しいことやな。 なんか腹痛なってきたわ(笑) なれんことは言うもんではないね。 ほんまは釈迦の話に理解でけへんところがあるからこそ、一目置いてんねやろな。俺は。
- 0fool0
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No.2/4です。 >みっともないと言われたのかなと思ったという意味になります。 これは意地悪な言い方だと自分でも思いますが、誰に対してみっともないのでしょう? >その人たちに対して なんでそんなに気を遣わなければならないのか? これに関しては、憐憫と言うか哀れみと言うか・・・。 歴史上の事実が関わって来てしまっているので、それはそれで仕方ないのかなぁと思います。 でもそのお陰かどうか知りませんが、日本仏教はとても深く練れています。 惜しむらくは(私が知る限り)最終段階の導師がいない事ですね。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 誰に対してみっともないのでしょう? ☆ 世間一般に対してですが この問題は わたしが慣れないことをやったというだけのことです。世間体は気にしない行き方で 基本的にはこれからもすすみます。と了解してくださればさいわいです。 ★ 日本仏教はとても深く練れています。 ☆ 飲めません。ただいま取り上げている因果論が そもそもナンセンスぶりを発揮しています。るる説明して来ています。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆多様なものを善か悪かに分けてそれぞれを束ねる。束ねたものなら 善なら善 悪なら悪 つまり善からは善の結果が・また悪からは悪の結果がそれぞれ一本の線として因果関係をかたちづくっていると ブディズムは言っているはずです。 ◇そんなことは言っていませんって。 ───────── 「応報の因」とは何か。 応報の因とは、悪なる(ダルマ)と煩悩ある善なる(ダルマ)とである。 ───────── ───────── 次に、この「応報の果」とはいかなるものか。 応報とは、(善とも悪とも)言えない(中性の)ダルマ。 ───────── と『阿毘達磨倶舎論』には書いてあります。 この《応報》というのが《異熟》です。 善と悪の因から、無記性のダルマが生まれることもあるんですよ。 だから、 《善因善果》や《悪因悪果》は子供だましの教えですよ、 と言っているんです。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ◇ そんなことは言っていませんって。 ☆ もしオシエとしてそうだと(つまり 言っていないと)しますと そのような因果論は 一般に人びとにとって通念として持たれていると考えられます。 つまり因果応報説として ブディズムはしっかりと正面から説いていると思われているはずです。 そういう通念について ここでは扱い それがブディズムであると思われている限りで 通念としてのブディズムをも問題としています。 ▼ 応報の因とは、悪なる(ダルマ)と煩悩ある善なる(ダルマ)とである。 ☆ ですから ここでダルマとは あらゆる人間の行為やそのほか社会的・自然的な事象のことでしょうから それを議論じょう 人間の行為であるカルマとそれ以外とに分けています。しかも一般に間接的な原因となる《縁》についてはこれも 一たん措いておいて おこない=つまりカルマに焦点を当てて 問い求めようとしています。 つまり最も広い概念であるダルマのうち このむしろワタシの思いやおこないであるカルマをめぐって その因果関係は わざわざ価値判断をともなった場合には どのようにブディズムは説いているか。これです。 つまり カルマが 善か悪かそれともどちらでもない無記かに分かれるということで よいはずです。(ただし 善なるカルマと言っても その善のありかたは 一度のおこないにあたっていくつかのかたちがあるという前提としても捉えています。それでも 善は善としてたばねた一本として見るかたちであろうとも捉えています)。 ▼ この「応報の果」とはいかなるものか。 / 応報とは、(善とも悪とも)言えない(中性の)ダルマ。 ☆ この《(中性の)ダルマ》について ブディズムの内外を問わない一般的な視点で捉えるなら 次のようになるであろうと ここでは踏んでいます。 1. すでに触れたように 範囲の広いダルマ(諸法・あらゆる事象)ではなくワタシのカルマ=おこないにしぼって 議論しています。言いかえると またはそのダルマをもワタシにとってその価値(つまり善悪)がどうであるかと判定するものとしてわが心に取り込んで捉えているかたちです。 2. 《(善とも悪とも)言えない(中性の)ダルマ》というのは カルマに絞って見た場合 けっきょく中性≒つまり無記としての楽果か苦果かのいづれかであると――これまでのやり取りにもとづくなら――なるはずです。 3. 《中性の》と言っても 楽か苦かだということです。つまりそれらは《自分の思うように成るか成らないか》であってみれば そしてたとえ《感覚的な快不快》に過ぎないものであろうと やはり主観にとっては 善か悪かに分類される。と見て マチガイはないでしょう。 4. つまり カルマにしぼってブディズムの因果論を捉えるならば 善因楽果か悪因苦果かのどちらか一筋の歴史的な線分を言っていると捉えられます。 5. ところが ワタシの或る時点における思惟や行動は つねにその要素として多種の善もあれば同時に多様な悪もある。この状態が 過去にもあってそれが原因となったその結果がそのいまの状態である。またこのいまの状態から繰り出される思いや行為が 〔善をも悪をも含んだ〕原因となって未来の結果をもたらす。――この図式が つねに成り立つはずです。 6. すなわち この恒常的な《善悪をふくむワタシの状態》が 社会の中で時間的にいとなむ履歴の中から因果関係を取り出す。そのとき ブディズムはそこからわざわざ善の系列か悪のそれかどちらか一本に分けてしまって 善なら善 悪なら悪といったそれぞれの要因だけのかたちをした因果論を説いている。善と悪とは あたかも水と油のごとく分かれているという錯覚をも起こさせがちである。 7. これは きわめて一面的な狭い見方である。というよりも 明らかに世界観としてマチガイである。ワタシの世界の見方は 善と悪とのふたつの世界に分けられてしまう。そんなばかな話はないというお話です。他人の意見や行動についてワタシ寄りの片寄った見方をもたらし 一般にワタシのものの見方に害悪をもたらすという糾弾です。 ◇ 善と悪の因から、無記性のダルマが生まれることもあるんですよ。 ☆ このいまの段階におよんで なおこのような宇宙の果てはどうなっているかのたぐいの発言が出されて来るということは 問い求めの放棄であると断定します。
補足
次のようにおぎないます。 ゴータマは けっきょく無明からは無明が 明知からは明知が それぞれもたらされると言っているはずです。 すなわち 善因楽果 悪因苦果をそれぞれ言っており またそのいづれか一本の線によって 縁起説ないし因果論を説いた。 これは 一面的で狭い見方である。と考えられます。だれもが つねに 仏性もあれば 同時に地獄界をも持つ。修行をさまたげない善をもさまたげる悪をもふくむ。つねに そういう状態である。のだから。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆☆ この見方が 一面的な一本線であると言っています。悪因もむろん多様な悪をふくみますが その多様な悪因のほかに その人のワタシにしてみれば 善因もあるはずだと言っています。つねに《善因と悪因とをふくむ》はずだと言っています。 ◇ですから、 因果や縁起は《多因多果》です、と言っているんですけれど・・・。 結果から見ると、 樹木の枝のように《果》から《因》は枝分かれしています。 そして、 その一つの《因》も複数の《果》につながっていますよ。 はっきりいって、 《善因善果》は、子供だましの教えですよ。 入門者向けの超~やさしい教えです。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いえ。分かりません。 ◇ 因果や縁起は《多因多果》です、と言っているんですけれど・・・。 ☆ 善のにしろ悪のにしろ原因や結果がそれぞれ多様な善また多様な悪をふくむというのは すでに互いの了解事項であるはずです。 多様なものを善か悪かに分けてそれぞれを束ねる。束ねたものなら 善なら善 悪なら悪 つまり善からは善の結果が・また悪からは悪の結果がそれぞれ一本の線として因果関係をかたちづくっていると ブディズムは言っているはずです。 それが 狭い一面的な見方であるという批判です。 そしてもし全体として《多様な善および多様な悪を 原因も結果もがそれぞれ含む》のだと言うのなら それは あらゆる可能性を言ったまでであって けっきょくは何も言っていないにひとしい。とも指摘して やはり批判をしています。 つまりは 価値判断をまじえた因果論は 無用の長物だという批判です。 ◇ 《善因善果》は、子供だましの教えですよ。 ☆ いえ。タトエではなく マチガイです。言い方が 子どもだましに成っているということではなく ブディズムは この因果論をじっさいの世界観としての見方であると主張しているはずです。 ◇ 入門者向けの超~やさしい教えです。 ☆ オシエでも何でもなく 無用の長物であるという批判です。 いわゆる因果応報説 これは イカサマです。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆(5) しかも 因縁そして果がいかに複雑であったとしても そこから 善因楽果や悪因苦果のいづれかひとつの筋として因果論を説くのは いただけません。という物言いです。 ◇佐々木元順が『業の思想』(レグルス文庫・文明出版社)で述べておりますが、 因果や縁起は、《多因他果》です。 《一因一果》ではありません。 多くの因が一つの果を生み、同時に一つの因が多くの果と結びついています。 数学的に言うと、因と果は《多対多》の対応関係です。 《一因一果》という誤解を与えるから、Wikipediaの記述は誤っている、と言ったんですよ。 しかも、《異熟》という語を別の意味で使っていますし・・・。 ───少なくとも、『阿毘達磨倶舎論』でいう《異熟》の意味では使っていない─── ☆☆(12) いわゆる常識から 善悪として判断しています。それが 的外れだとすれば ブディズムはよほど《世間ばなれ》しているとなることでしょう。そして その点でもおそらく人びと一般の心をまどわしており たぶんすでにうらぎっていることでしょう。 ◇ゴータマさんの仏教とされているものは、そもそも、出家者のためのものです。 それを世俗にまで当てハメようとするのがそもそも間違いなんです。 だから、大乗仏教が生まれたんです。 ~~~~~~ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教でいう《楽》、《苦》というのは、感覚的なもの、《快》・《不快》程度の意味なので、 う~ん、《善・悪》はちと微妙ですね~。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(12) いわゆる常識から 善悪として判断しています。それが 的外れだとすれば ブディズムはよほど《世間ばなれ》しているとなることでしょう。そして その点でもおそらく人びと一般の心をまどわしており たぶんすでにうらぎっていることでしょう。 ~~~~~~ たとえば、何か悪いことをして、富を得、そのことを喜ぶ。 確かに、悪因から善果や楽果が生まれたように見える。 こうした考え方が間違った考え、顛倒したものの見方だというんです。 悪いことをしたことは、習慣性となって残る。《クセ》として残る。 そして、悪事を再び重ね、 人間性や人間性といわれるものは、どんどんと損なわれていく。 これを《悪因悪果》としてとらえればいいんです。 そして、これは一人の人間のみならず、社会にもあてはまる。 ~~~~~~~ (18) ◇ 懺悔 ☆ は 無です。強いて言えば カッコつけです。世間体のためのみにおこなう仕業です。意味がないか もしくはマイナスの意味がある。最低の思想の発露です。 ~~~~~~~ この件につきましては、 ───────── 六月には、七月から始まる加行(けぎょう)に向けての前行として繞堂行(にょうどうぎょうと読み根来のお堂をお経を読みながら練り歩く) を行いますが、最後の結願(けちがん)の時に奥の院の御廟の前(興教大師の墓)でこの懺悔の文を読みます。 ここで涙を流さない僧はいないと思います。 (私たちの中には大声を出して泣くものさえ居ました。) http://www.sakado-jigenji.jp/kougyoudaishi.htm ───────── これは恰好つけですか。 仏教の懺悔というのは、 自身の罪滅ぼしのためにするのではなく、 前非を心から悔い、 「わたしは、二度と同じ過ちを起こしません」と 神さま、仏さまに誓う行為です。
お礼
あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (22) ◇ 《一因一果》という誤解を与えるから、Wikipediaの記述は誤っている、と言ったんですよ。 ☆ いえ。必ずしもそうではないと思います。 多くの善因・多くの善(または楽)果という一本線として述べていると思われます。 わたしは 一本線であることを批判しています。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかも、《異熟》という語を別の意味で使っていますし・・・。 ───少なくとも、『阿毘達磨倶舎論』でいう《異熟》の意味では使っていない─── ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そのように指摘されるのなら 留意しますが それによって 《善因楽果・悪因苦果》のいづれか一本線による見方が変わるかどうかだと思います。 (23) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ゴータマさんの仏教とされているものは、そもそも、出家者のためのものです。 それを世俗にまで当てハメようとするのがそもそも間違いなんです。 だから、大乗仏教が生まれたんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについては 前回の補足欄におぎないました。 ☆☆ (No.5補足欄) ~~~~~~~~~~~ (21) けっきょくブディズムの善は ◇ 仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。 / 仏道修行に役立つかどうか。 ☆ であるなら ブッダになることへの妨げのないことが 善であることになります。ということは 世間一般でも ブッダになることは 善だと見ていますから――または ブッダターの発揮は 善だと見なしますから―― 世間離れしているとも思えません。同じ定義であるように思います。 要するに無明でないこと・渇愛のないこと・煩悩から自由であること これは善でありその反対は 悪だということであれば 同じ定義だと見られます。 その善を因としておこなう行為の結果が 楽だとすれば その楽というのは ブッダである状態だとなります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ブッダになること》という共通の目的があるなら それほど違いがあるとも思えません。 (24) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 悪いことをしたことは、習慣性となって残る。《クセ》として残る。 そして、悪事を再び重ね、 人間性や人間性といわれるものは、どんどんと損なわれていく。 これを《悪因悪果》としてとらえればいいんです。 そして、これは一人の人間のみならず、社会にもあてはまる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この見方が 一面的な一本線であると言っています。悪因もむろん多様な悪をふくみますが その多様な悪因のほかに その人のワタシにしてみれば 善因もあるはずだと言っています。つねに《善因と悪因とをふくむ》はずだと言っています。 《悪因悪果》という一本の筋だけを拾い上げて それで因果関係を捉えたのだぞというのは 一面的であり狭い見方であると非難しています。 (25) ◇ これ(* 繞堂行ならびに懺悔の文を読むこと)は恰好つけですか。 ☆ というより お義理でやむなくやっているという感じです。 覚鑁を思うなら 高野山は ただちに解散するのが 反省であると考えます。 誇ることのできる思想やおこないを遺したひとをたたえるのなら とうぜんその人の思想を一人ひとりがみづから解釈して 批判すべきところは批判して さらにその思想内容を展開することです。それが 反省だと考えます。 悔いれば ゆるされると思うことが マチガイです。誓えば ブッダターがそのハタラキを現わすと思っているのが 心の高ぶりにしか過ぎません。 恰好をつけておけば 反省が出来たと思っているわるい例です。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 Wikipediaの記述は、はっきり言って、嘘!! 《ま・ち・が・い》、《間違い》、《間違》っている!! 質問中の(か)~(す)は《ま・ち・が・い》!! これを信じてはいけない!! 《異熟》は、その果は《無記性》で、《善・悪》ではない!! 《異熟》の特徴は、 1 因と果の異時性 2 果の無記性 の二点で~す。 仏教の《縁起》は、Wikipediaに記されているような、そんな単純なものではない。 一つの現象が起きるにしてもは、そこには無数の因と縁が複雑に絡み合って生み出される!! 戦争で、敵兵を多くのヒトを殺せば、英雄と世の人に讃えられる。 《縁起》や《因縁生起》は、こうしたことまで含む《オシエ》で~す。 縁起の教えは、《縁》にこそ主眼がある。 おなじ《人殺し》という行為が、《犯罪》になるか《名誉》になるかは、《縁》の相違にある!! 因と縁、果の関係を、本気で議論しようとすると、 四縁・六因・五果というヒジョ~に煩瑣で精確な議論をしないといけないので、 ───わたしは、これを正確に行える自信がまったくない─── これ以上は、パス!! ☆善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか? ◇前にも言いましたが、 仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。 仏道修行に役立つかどうか。 世間的な意味における《善・悪》ではないというのがポイントです。 で、《善・悪》は分類されています。 説一切有部では、《大善地法》や《○煩悩地法》、 唯識では、《善》と《煩悩》・《随煩悩》として、ずらっと羅列されています。 興味がございましたら、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29 をご覧になってください。 仏教でいう《楽》、《苦》というのは、感覚的なもの、《快》・《不快》程度の意味なので、 う~ん、《善・悪》はちと微妙ですね~。 まして、 ゴータマさん仏教は、《苦》のみならず、《楽》すら否定しちゃうんで。。。 《苦受》・《楽受》を超越してしまわないといけない。 《不楽不苦受》や《捨受》とかいうのですが・・・。 ☆(な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。 ◇一本線ではありませんよ。 その行為をするしないの自由意志があるので。 《因果》の法則(?)というのは、決定論的なものではない。 もっとも、 結果の方から見れば、一本線になりますけれども。 ちなみに、《同類因》はすぐに《等流果》となります。 ☆(と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。 ◇「あたりまえ」のことですよ。 でも、ヒトは、こんな「あたりまえ」のことに気づいていない。 あるいは、 すぐに忘れてしまう。 で、 自分だけは、この例外者であると思い、日々、悪事を重ねる。 仏教の《縁起》の教えは、このことをも説いているということで。 ☆ (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。 ◇Wikipediaの記述は、間違っていますよ。 この記事を書いた人の解釈、理解、勘違い、誤解が入っていま~す。 この世のものは原因・《因》と条件・《縁》の結果である、 という意味であるのであれば、 まぁ、 《大宇宙の真理》と言えなくもないのかもしれませんが・・・。 《縁起》説は、《大宇宙の真理》というような大層なものではなく、当たり前のことです。 でも、 こんな当たり前のことを、忘れちまうんだな~。 他人はともかく、 自分だけは例外だと思ってしまうんだな~。 ☆(ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。 ◇「自分だけは例外である」という過ちを気づかせてくれるからではないでしょうか。 ☆(は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。 ◇ではなく、 「ブディストよ、恥を知れ!!」です。 「ブディストよ、お前たちとて、《縁起》の例外者ではない。そのことの自覚があるのか!!」です。 口では《無我》を唱えつつ、 オノレが《無我》であることを忘れているのではないか!! ───────── 密厳院発露懺悔文 我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏(まと)はされて衆罪(しゅざい)を造る 身口意(しんくい)業 常に顛倒(てんどう)して 誤って無量不善の業(ごう)を犯す (中略) 諸佛の厭悪(えんあく)したまう所を慚(は)じず 菩薩の苦悩する所を畏れず 遊戯笑語(ゆうげしょうご)して 徒ら(いたずら)に年を送り 諂誑詐欺(てんのうさぎ)して空しく日を過ぐ (中略) 若し善根を作せ(なせ)ば有相(うそう)に住し 還って輪廻生死(りんねしょうじ)の因と成る http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/mitsugon.htm ─────────
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 さて こちらからは お説を吟味してまいります。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 《異熟》は、その果は《無記性》で、《善・悪》ではない!! 《異熟》の特徴は、 1 因と果の異時性 2 果の無記性 の二点で~す。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (1) 異熟の果は 無記性だと言っても 善因から楽果 そして悪因から苦果がそれぞれみちびかれるということだそうですが 楽は 自分の思うようにことが運ぶなら 大きく主観にとって善いことであり 苦は 自分の思うようにならないのであるからには 主観にとって悪いことである。となるのではありませんか? (2) 因果の倶時か異時かは あまり議論しなくてもよいでしょう。倶時が現象としては 異時として成るといったふうに説くでしょうから。 (3) よって (さ)(し)(す)の説明は 大きく捉えて 同じことを言っている。つまり マチガイではないと考えられます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教の《縁起》は、Wikipediaに記されているような、そんな単純なものではない。 一つの現象が起きるにしてもは、そこには無数の因と縁が複雑に絡み合って生み出される!! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (4) これは あたりまえだと考えられます。ヰキぺ氏も 単純に説明しているだけであって 複数の因や縁が複雑に作用しあうというのは 前提であるはずです。 (5) しかも 因縁そして果がいかに複雑であったとしても そこから 善因楽果や悪因苦果のいづれかひとつの筋として因果論を説くのは いただけません。という物言いです。 (6) というよりも 一時点でのワタシの状態は 過去のすべての因縁が――善も悪もからみあいつつ――あつまってもたらした結果でしょうし その結果なる状態から繰り出される行為が これも善と悪とをふくむ因となって 次の結果をみちびくということ。このような《現在時における〈因果をふくむ状態〉》は つねに成り立っている。こう見なければならないでしょう。 (7) ということは 因果論は 世界に生きているかぎり そのワタシにあてはまる見方であって その全体観としてなら あまりにも当たり前であるでしょうし その中から善因楽果というひとつの筋を取り出して ワタシにあてはめるのは あまりにも一面的であるでしょう。 (8) つまり 因果論は 無用の長物です。善因楽果もしくは悪因苦果というどちらか一筋だけの因果関係において おのれの精神の履歴を捉えては むしろ いけないのです。 * 価値判断を控えた・事実についての因果関係の認識は それとして成されます。科学ないし学問です。 ◇ 戦争で、敵兵を多くのヒトを殺せば、英雄と世の人に讃えられる。 ☆ (8) これは 昔の考え方です。基本的に 昔においても人間の心としては ひとを殺したら 人殺しです。ひとの意志を無視したという咎がかけられます。暴力論のもんだいです。 ◇ おなじ《人殺し》という行為が、《犯罪》になるか《名誉》になるかは、《縁》の相違にある!! ☆ (9) これは 世の中の社会力学というそれこそ無記の――そしてしばしば 無効の――意志行為関係からなるカザリまたはシガラミです。仮象です。ひとごろしは つねに 意志の無視という暴力です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。 仏道修行に役立つかどうか。 世間的な意味における《善・悪》ではないというのがポイントです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(10) もしそのことが 世間の常識としての善悪観と違っているという意味であるなら それは その時点で そもそもブディズムなるものを放っておきます。 (11) ただし 思想として一般・公共の場にも出て来ますから その場合の思想を捉えて批評します。言いかえると 世間の常識から見て これこれは こうである・ああであると批評します。いまそうおこなっています。 世間一般の側からの主体的なブディズム批判です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教でいう《楽》、《苦》というのは、感覚的なもの、《快》・《不快》程度の意味なので、 う~ん、《善・悪》はちと微妙ですね~。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(12) いわゆる常識から 善悪として判断しています。それが 的外れだとすれば ブディズムはよほど《世間ばなれ》しているとなることでしょう。そして その点でもおそらく人びと一般の心をまどわしており たぶんすでにうらぎっていることでしょう。 (13) ブッダになることが ただ《感覚的な快不快》の問題だというのであれば そのような結果をすでにまねいていることでしょう。 こういうことが判明するだけでも 質問に意義があります。 (14) 《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)のいづれかの一本線について ◇ もっとも、 / 結果の方から見れば、一本線になりますけれども。 ☆ という見方が 一面的であると考えられます。つまりは 自分の都合に合わせて いづれかに当てはまる要因を拾い上げて その一本線として捉えている。と考えられます。つねにその一時点におけるワタシの状態は 善悪のいくつかの要因のあつまったかたちであると考えられるからです。 (15) (と)について: ◇ 仏教の《縁起》の教えは、このことをも説いているということで。 ☆ 説いていませんよ。世間の常識とは 善悪や苦楽の概念が異なると言ったぢゃないですか。《一時点のワタシにあらゆる善悪の要素があつまっていて 過去からの結果を成しつつ 未来への原因と成って行くこと》が当たり前だということを ブディズムは説いていませんよ。 (16) それに 善因楽果か悪因苦果かのいづれか一本線になると言ったではないですか。そうではなく つねに――つねにです――複雑だというのが この(と)の命題です。これが 世間の常識であり あたりまえの善悪をめぐる因果関係論です。 その世間離れしているのなら もう放っておきますが 公共の場にたとえばヰキぺとして出て来るのなら それを取り上げ批評します。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ この世のものは原因・《因》と条件・《縁》の結果である、 という意味であるのであれば、 まぁ、 《大宇宙の真理》と言えなくもないのかもしれませんが・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(17) この考え方が マチガイだという物言いです。すべての因縁果の関係を説いていることは けっきょく何も言わなかったことにひとしい。という批判です。 言ったとするなら 例の一本線による片寄った見方です。それは 飲めないとすでに述べました。 (18) ◇ 懺悔 ☆ は 無です。強いて言えば カッコつけです。世間体のためのみにおこなう仕業です。意味がないか もしくはマイナスの意味がある。最低の思想の発露です。 (19) 仮りにいやしくも反省が意味を持つとするなら それは ひとに知られずにおこないます。反省をしますという事柄を持ち出して来ることも 意味がありません。他人に対して・または他人のことで 懺悔を持ち出すことが 意味がありません。もしくは 体裁をととのえるだけのことになります。 基本的にそういうことだと考えます。 (20) ゴータマは イカサマ師だとあきらかなかたちで言って 初めて――もしそうだとすれば――反省が成ります。
補足
お礼欄からのつづきです。 (21) けっきょくブディズムの善は ◇ 仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。 / 仏道修行に役立つかどうか。 ☆ であるなら ブッダになることへの妨げのないことが 善であることになります。ということは 世間一般でも ブッダになることは 善だと見ていますから――または ブッダターの発揮は 善だと見なしますから―― 世間離れしているとも思えません。同じ定義であるように思います。 要するに無明でないこと・渇愛のないこと・煩悩から自由であること これは善でありその反対は 悪だということであれば 同じ定義だと見られます。 その善を因としておこなう行為の結果が 楽だとすれば その楽というのは ブッダである状態だとなります。
- 0fool0
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No.2です。 表現がお気に触ったのでしょうか? だとしたら申し訳ないです。 私はただ単に、心を囚われている事を言いたかっただけなのです。 釈尊は今はもういない人間です。 それだけの事です。 そこに心を置いていては、心が動けないままです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 表現がお気に触ったのでしょうか? ☆ 触ったとしたら それは あまりにも露骨にいぢわるなことを言っているのでそのわたしの姿が みっともないと言われたのかなと思ったという意味になります。 そう見られてもかまわないタチですので いいのですが 質問とそのやり取りの場としては 少しは恰好よくすることも必要かなと ふと思ったものですから。 慣れないことを言ったりやったりすると 変に気を遣わせるものかも知れません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 釈尊は今はもういない人間です。 それだけの事です。 そこに心を置いていては、心が動けないままです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ これなら はっきりと説明することが出来ます。 すなわち ゴータマ・ブッダは もういませんが その《ブッダ》に何かと気を遣っている人びとが いまでもいるわけです。 その人たちに対して なんでそんなに気を遣わなければならないのか? という問いを発する意味で 昔むかしのゴータマ氏のことを取り上げています。 心は割り合い 自由ですよ。
- tomoka_m
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さすが哲学カテの又吉イエスですね。とりあえず読んでみたけど、 釈迦の縁起説には因果と縁があると説いており、質問者が毎度のように 曲解しているだけというオチで、回答が終わってしまいます。 因果のそれぞれを善と悪と切り分けている箇所なんて全くありません。 どの経典にそれが載っているか説明しましょう。できないですよね。 それに、そのリンク元は縁起説を持ち出していても、「縁」について 全く説明が成されていません。 こんな低レベルなサイトを見て、釈迦の説いた全ての論理を 理解していると思い込んでいる質問者の病状の重さに深く同情します。 まあ、山本太郎とか福島瑞穂に褒められたら、人間として終わりです。 キチガイにいたんし扱いされるのは、至極真っ当だとさえ思えます。 別に、質問者の事を狂人と言っているわけではないですから、 いつものように曲解しないで下さいね。
お礼
ともか_mさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうしますと これこれこういう原典での説明があるのだから 質問者が ★ 曲解しているだけ ☆ だというふうな説明は いただけないのですね。 はないちもんめのごとく 自分〔たち〕の欲しい人やものの名前を言って おしまいの回答なのですね。 ♪ あの子が欲しい。 ♪ あの子ぢゃ分からん。 とどこまでも言い合いをつづけるということですね。 ところで ★ 又吉イエス ☆ って何ですか?
補足
お礼欄をおぎないます。 ★ 釈迦の縁起説には因果と縁があると説いており ☆ (1) 《縁》にかんしては まづ因・果と同じく 善・悪・無記のいづれも場合もありうる。つまりは ひとつの周囲の環境や情況が そのまま善も悪をもその要素としてふくんでいることがあり得ます。 (2) ということは もしそう分かっていて 《縁起説》を説いたとすれば どういう意味があるか? (3) それは ただただ自己の行為が まわりの人びとや社会環境の中で その人びとの意志行為や社会的な人間の広い意味での身分関係からの影響を受けて(つまり 縁が縁となって) 結果へとみちびかれる。と言ったまでです。これに過ぎません。 (4) つまり 一般にワタシは 外界にかこまれていると言っただけにひとしい。 (5) そしてもうひとつは ワタシを取り巻く情況は 何も縁つまり間接的な原因となるという問題だけに終わらない。《縁》は 社会形態としては ひとが変えていくことの出来る社会条件でもある。こう言わなければおかしい。 (6) もっと言えば 相手つまり人間に対しても 或る程度は 心をつうじて変えることが出来る。つまりは本人がわれに立ち帰ることを促すきっかけになることは出来る。 (7) このことは―― 一般に善の問題ですが むしろ善悪の問題を超えて――その場や自己あるいは相手の状態に応じて 必然的にそのような人間の変革への行為へとうながされる場合もあり得ます。困っているときや あるいは逆にこちらに危害を加えようとするときなど あたかも待ったなしの情況にあっては 特にそういう問題としても発生します。 (8) ★ 縁起説には因果と縁があると説いており ☆ という だからどうなのでしょう? いま上に触れたようなところまで説明を願いたいと考えます。 (9) ★ 釈迦の説いた全ての論理を理解している ☆ と主張される ともか_m さんには ぜひさらなる説明を願いたいものです。
- 0fool0
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>ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。 別にペテン師でも屁の河童でもどちらでもいいのですが、貴方の心は釈尊の価値によって動いてしまっています。
お礼
0ふーる0さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 いささかお見苦しいすがたを露呈していますか? ★ 別にペテン師でも屁の河童でもどちらでもいいのですが、 ☆ そんな悠長なことを言わずに このゴータマのインチキ野郎め はよう成仏せよやと言ってやってください。 ★ 貴方の心は釈尊の価値によって動いてしまっています。 ☆ そうですか。 ただ思うにですが これしきのことでは ブディズム界は あちらのほうこそが 屁とも思っていないみたいですよ。既得権益があるのでしょうか。 何とか 0ふーる0さんも 考えてみてくださいな。いい方法を。われわれが このただ足踏みをしているだけのような状態と情況をどう切り抜けるかの。そして 復興のための。
私はもう仏教については特に言及することも無いのですが 因果の道理というのが「理法」とかいうやつでしょうか? 世の中には理解できる人がいるそうです。 因果そのものは生滅しないのかな? と思った。
お礼
無学とは もうまなぶことはないという意味だそうですが。 ご回答をありがとうございます。 ん? 因果の道理ないし理法を ★ 世の中には理解できる人がいるそうです。 ☆ ですか。 そうですね。《因果関係》はまづ 世の中の事実にかんしてできるだけ主観の共同性に堪え得て普遍性という理念に合った認識をおこないつつ その時系列を捉えることとして あり得ます。社会についても自然環界ないしモノについても 科学的な認識の問題です。 しかるに ここでの因果は けっきょく価値判断が入ります。(科学的認識には入らないということではなく 科学については 一般的な検証が成されます)。 一般に――主観的でありながら――善および悪またはいづれでもない無記という要素で判定しつつ 時系列を明らかにしようとするものです。 それを《理解できる》ということは ○ 因果の道理ないし理法 ☆ を知るということにつながりますか? ★ 因果そのものは生滅しないのかな? ☆ つまり 因果関係は 主観的な価値判断をまじえている場合には 善も悪もまた無記もすべての要素が つねにその一時点においてひとりの人間たるワタシについて あてはまる。と言わなければならないのではありませんか? 因果そのものは消滅しないで あるということは そういうことではないですか? つまり 善因善果(ないし善因楽果)または悪因悪果(ないし悪因苦果)という一筋の因果関係を取り上げること すなわち 全体の歴史の中からそれらのいづれかの一面だけを取り出して来て これこそが 因果の理法だと言うのは 狭すぎる見方ではありませんか? これが 問うところです。どうでしょう。
お礼
★ それにしても主の質問は毎度混み入っとるなぁ。 ☆ それにしてもおぬしの回答は 毎度 ええ加減やなぁ。 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ つまりダルマにおいては業異熟も、然るべくして成るもので、無常の観点からは決してわからないその内実が、ダルマの観点からは明らかになるものであるのではないか。という推測を俺は立てた。 ☆ これは 何もむつかしい話ではありません。 司法の思うところを立法として条文化しこれにもとづき行政がその内容を執行する。という社会の仕組みについて見れば その真理の法とたぶん呼べるダルマにかんしては 一瞬のうちに その《思うところが決まりその内容どおりに実行されている》といった姿が描かれるということ。理念としてそのようだと捉えられます。 ★ 無常の観点からは決してわからないその内実 ☆ などと言って 表現としてのですがその規定をあきらめなくてもよいはずです。法身は常住であるという場合のダルマの内実です。 つまりは 人間のおこなうカルマにかんしては 思いと実行とのあいだに時間差がある。たとえ思いと同じ内容が実現したとしても 時間差がある。おまけにその内容は じつに 刻々と言ってよいほど 変わって行ってしまう。つまり 自分が確実だと思っていたことであっても その中身は 変わってしまう。また社会の中で変わらざるを得ないという結果にもなる。 内容の変化と実現までに時間差があるということ このことが 真理なるダルマにはない。 そして このダルマによってチカラがあたえられたなら 即身成仏であると言われている。 ★ ダルマは、何事も思う通りには行かない世の中で、正しいということを以って普遍に通ずる理、ことわりであるらしい。 ☆ 《真理》ということですが そこまでの普遍性を人間が把握することが出来るか? という問題もあります。 いま上で即得往生のことを言いましたが それはあくまで《非思考の庭》における・つまりは信仰としての動態の中に ちらっと垣間見る程度のことだと 実際には 考えられます。 (つまり この反論は 《ただしい》ということばないし概念をあまり振り回さないほうがよいというアドバイスです)。 ★ 今は無常の観点からカルマ論を見ているために議論が永続的に紛糾しているが、 ☆ いいえ。すでに答えは出ています。初めから出ています。ブディズムに未練のある人が その答えを受け容れられずにいるだけの話です。 ★ もしダルマを悟ってダルマの側からカルマとその運行を観ることができたなら、全然違う見え方をするのではないか、というような推察をしてみる。 ☆ もうこの議論はしました。あしからず。 ★ 一種神のごとき観点を解脱者は得ているのではないかという話。そこから見れば業異熟も実に理にかなった運びをしているのではないか? ☆ ではその《理にかなった〔現実におけるものごとの〕運び》をいっぺん見せてくださいな。それからの話になります。 解脱者などという嘘っぱちを言うから 未練たらたらの状態が出て来るのであり それがいつまで経ってもなおらない。さとりとは インチキであると知るべきです。 ★ ほんまは釈迦の話に理解でけへんところがあるからこそ、一目置いてんねやろな。俺は。 ☆ 自由ですが そのお話は 近所迷惑になります。インチキなるさとり論を 半永久的に聞かされなければならない身にもなってくださいな。 ゴータマは 屁の河童なり。とひとこと口にしてみれば それで何もかもすっきりします。