最初に、質問の文章の論理が貫かれていないので、答えにくいです。
「ジェンダーを、社会的、文化的なありようで生物的な特性とか関係ないといいます。」と既定するところから、「ジェンダーの役割(gender role)に疑問を感じる」と結びつけるのは、論理が飛躍しています。
Wikipediaの
『英語でいう「ジェンダー」は「性差」ではなく、「社会的・文化的な性のありよう」といった意味合いだ』というのは、議論の余地があります。単純に言えば、ジェンダーとは、「社会的・文化的に形成された性の属性」のことです。自分の性意識の属性とその対極を示す属性のどちらかの同一感と帰属感のことだと解釈しています。それは「ジェンダー・アイデンティティ(性自認 or 性同一性)」と、それに関連する社会層に深く結びついているものだと考えます。
フェミニズムのように、帰属意識を押し付けられたというのは、かなり極論です。
「ジェンダーフリー(Gender Free)」という語について思い出すのですが、1995年の第4回世界女性会議の北京宣言の後の報告を兼ねてだったと思いますが、あるアメリカのジェンダー学の日本人女性が、講演をしてくれた時に、一体、誰が、「ジェンダーフリー」など言い出したのだ、という話になりました。英語ではふだん言わないということでした。「ジェンダー」を悪者にして、それをなくすというのは、かなり曲解しています。
結局、その時には分かりませんでしたが、後々、私が聞いた内容では、「ジェンダーフリー」というものは、1960年代の学生運動の頃まで遡り、日本人が、フランスの思想から取り入れたもので、男女の均等な扱いをするということで、どちらかというと、社会主義の考え方に近いというものです。それを、学校教育に取り入れたことが始まりだったということで、英語圏では見られない思想とも言えます。
ちなみに、英語圏では、Gender Bias Free という言葉が聞かれます。Bias は、「偏見」ということで、それを撤廃することを目的としています。従って、私は、「ジェンダーフリー」という語は使わないことにしています。一部のフェミニズムのように、男性中心の社会を破壊するとか、男性の作り上げた文化や社会そのものの仕組みや文化まで解体し否定するのは、賛成できかねるからです。本来、ジェンダーというのは、純粋には日本にはない概念だと思います。
> 本来の保守は大切なものと有害なものをわけるのですが、実際は有害な悪習も多いものです。維新前後の要人暗殺など本当に美しい国か最近疑問です。
実例を挙げないと分かりにくいのですが、なぜ、「保守」とは、過去の歴史の中で維持されたものだとするなら、それが有害だという根拠がさっぱり分かりません。もしも、少なくとも有害だと考えたら、現代においてキッパリと縁を切るはずです。それに、明治維新前後の暗殺とか言われても、人類の歴史に、血が伴わない革新・革命などあるのでしょうか。江戸城の無条件開放の無血革命のように、あっても少数だと思います。歴史は、勝者の歴史です。「美しい日本」という言葉に結びつけても、第一次安倍晋三内閣の時に施政方針の時に発した言葉ぐらいしか認識がありませんし、これだけでは抽象的で意味不明です。
脱日本主義として、結局、男女平等社会と文化的破壊を目的としたら、社会主義思想に傾いてしまうように考えています。そうすると、今までの歴史では、寡頭政治よろしく、一部の男たちが政治や外交を仕切られるようになるわけです。
>男性だから職業をもって家計を養わないといけないとか、女性だから子育てや家事をしないといけないとか。
そういう決め付けをするのは、一体誰なのですか?
だいたい、ボーヴォワールが言うように、女が女をがんじがらめにしているのではありませんか?
正式な場所だというと、女はスカートを穿かなくてはならない、と決めつけられます。それを言うのは、女が女に決め付けるのです。
>外国だったら普通のことなのに日本ではだめという不平等的なことなどです。
外国ってどこですか?不平等とは、男女格差という意味ですか?
例えば、かなりの文化的保守国のスイスは、婦人参政権が1971年に憲法で制定されました。フランスのコメディー映画の『Mr.レディーMr.マダム』という映画の続編の中に、イタリアの田舎の話が出てきますが、私は、すごくショッキングだったのは、パリで自由に生きてきた主人公の一人が、ギャングに追われイタリアの田舎に住もうとしたけれども、そこでは、ものすごく女としての決め事が多いのです。主人公の人がそこでは生きていけないと感ずるわけです。アメリカでも、ほんの100年前は、日本の女性よりも、キリスト教による、貞淑な女というジェンダー役割を押し付けられてきたのです。アメリカのDV防止法の走りさえ、私の記憶では1970年代からなのです。
『グローバル』というのは、日本人はコスモポリタニズムを連想するようですが、結局、アメリカの帝国主義思想です。盗聴など今に始まったことではないし、小泉政権など、もろに『グローバリズム』というアメリカ帝国主義に影響されていたわけです。世界各国に政治的・軍事的介入により、強いものが弱いものを凌駕し支配していくという力関係です。日本人は、戦後教育によって「コスモポリタニズム」とか、「第三帝国」とかの言葉を唱える人間が多いような気がします。しかし、それは、原始的共産主義思想であって、現実的にはありえない、架空の世界を弄んでいるだけです。
>日本の文化で日本人らしさということで自分の文化で自分を抑圧していたり、外国だったら普通のことなのに日本ではだめという不平等的なことなどです。
日本人らしさが、その持つ自国文化で、自分を抑圧されていると考えるのは、よほど特殊な世界の人間だと思います。外国で、その国のアイデンティティを自分のものとして取得できるものなら、すればよいのでしょう。でも、自国で抑圧されたものが、他国で抑圧が解けると考えるなら、あまりにも幼稚すぎます。そう思うのは、ツーリストぐらいなものです。
>そのような日本人像から自由になるとかどういうことになるのでしょうか。
日本人像というものは、吉本隆明の言う『共同幻想』かもしれません。それで以って、社会の一員となっている感覚を得ているようです。ただ、それを捨て去るには、新たな『幻想』が必要かもしれません。
簡単には、日本を脱出して、「亡国の民」や「流浪の民」になって、日本という国に戻らぬ覚悟で生きていけばよいのだと思います。なお、「流浪の民」は、ご存知の通り、世界に散らばったユダヤ人のことです。彼らが、自分たちのアイデンティティを強く持ち続けて、今日まで至ります。少なくとも、ユダヤ人のあり方は、日本人よりも遥かに、生活の縛りが強く厳しいものです。
いずれにしても、国外でその社会の一員となってから、振り返って、その時、どう日本を評価するかは決めればよいと思います。もしくは、無人島や山の中で一人で生活するとか、社会の一員として生きていてあれこれ言っても、本当には分からないと思います。国外ならば、日本の文化を捨て去った時に、新たな文化の重みを背負うことになるかと思います。
自由というのは、抑圧から解放されることかとは思いますが、日本の中国人妻で、何人もの相手の日本人を殺人した人がいましたが、彼女にとって、自由とは、ある意味で刑法上の罪(crime)ではなく、人としての罪(sin)意識から自由になっていたかもしれません。マサチューセッツ工科大学で、多くの人を殺害した韓国人学生も、また、文化的抑圧からの解放だったのかもしれません。それが、そういう形でしか実現できなかったのは、特例だというかもしれませんが、外国の違う文化圏では、また違う文化圏の抑圧を背負い込むか、自分の生まれた国のアイデンティティを貫きとおすか、どちらかになるのではないでしょうか。
お礼
偏見をなくすことはいいことで、Gender Bias Free は重要ですね。 外国にいって、日本人のアイデンティティがわかってくるというのはおもしろいです。 ご回答ありがとうございます。