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古代ギリシャとインド哲学の関係について
- 古代ギリシャとインドの哲学者達は接触があったが、交流が途絶えた理由はなぜか?
- なぜインド思想は東アジアに広まり、西洋には広まらなかったのか?
- 古代ギリシャ哲学の影響力は大きかったが、インド哲学はアジアの中心にならなかった理由は?
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6です。 1. アレクサンドリア図書館の経緯は諸説ありますがご存知ですよね。 キリスト教勢力による焼き打ちというもっとも妥当な線をキリスト教会は否定していますが。 当時図書館に集める価値があったものには、エジプト医学、メソポタミア医学、天文学、数学、灌水土木、インドのアーユルヴェーダが含まれます。ヘルメス学の揺り籠です。 そこで学ばれしたためられた医書・薬草書は軍医や権力者や修道僧の手で運ばれていき、ギリシア医学、やがてアラビア医学に集大成します。 2. 4世紀~12世紀までの世界をみると、中国やインドにとって西方とはアラビアで、その向こうは野蛮なる辺境です。ヨーロッパ史とは、野蛮人がいかにして産業革命を起こし、市場経済を樹立するかの歴史ですので。 3. まずおっしゃることを確認しなければなりません。ギリシャの文化がはじめて西欧キリスト教社会に認識されたのはおもに12世紀です。すでにシリア語訳やアラビア語訳となったものをラテン語訳にするという手順です。 ギリシャの文化が西欧に根底的影響を与えたとお考えのようですが、キリスト教を根底とする西欧が、あらためてギリシャ文化を根元付近に移植することにしたのです。 だから西欧の精神性および哲学と科学に、中心的と言える影響を与えたのは、スコラ哲学、ついでルネサンス文化です。 こまかい事だと思うかもしれませんが、ギリシャ哲学を中心哲学であるというのは西欧中心主義の吹かすお気楽な物言いであるのと同時に、西欧は辺境の寄せ集めであるため、実質的には多様な文化出自と精神風土を併せ持っていることを思い出す必要があります。 それから、質問者さんは学のオリジナリティを単純に考え過ぎているきらいがありませんか。 たぶん、科学とおっしゃっているのは近代科学のことだと思いますが、西欧の近代科学を遡ってルネサンスに端を発する以前の道をギリシャに帰すことはほとんど意味がありません。 バビロニア数学からギリシャ数学へ、ギリシャ数学から幾何へ、ギリシャ数学とインド数学からアラビア数学へ、アラビア数学から代数へ、いったい、コペルニクスやニュートンが数学を学ぶ上で何の影響を受けたと言えますか? 彼らは、このような文化的アマルガムの数学やスコラ哲学を、ギリシャ語とラテン語の読本を論拠にして学んだわけです。そしてまた、アッバース朝にて飛躍したイスラム科学の文化的アマルガムである錬金術は彼らを虜にしています。 当時の西欧にキリスト教を除いて中心哲学はないといったほうが正直でしょう。そして、スコラ哲学者、ルネサンスの神学者がギリシャ哲学を解釈したときから西欧の哲学は始まったというべきで、ギリシャ哲学って西欧の懐にハテナとなって聳え立っているんですね。
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- amaguappa
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ご質問の中で、バビロニアはどういう位置付けになっていますか? バビロニアの科学という読み物は、クセジュ文庫で見つかると思います。 一般的に言っても、シュメール人に発するメソポタミア文明から、東西への流れの分岐があるという考えのはずですが。
お礼
お礼が遅くなりました。 見覚えがあると思ったら以前ヘルメス主義について質問した時に丁寧な回答を頂きましてありがとうございました。さっそくブルーノとヘルメス主義についての本を図書館でチェックしてきました。 バビロニアについては正直難しいですね。事実関係を歴史的事実からどうやって正確に追えばいいのか、私の勉強不足から詳しい内容が言えません。メソポタミア、そしてバビロニアの歴史はあまりに長いため、流れを連続的に捉えて、あるいはどこかで区切ってその影響力を把握するのが困難なように思えます。私にとってこれはブラックボックスです。後のギリシャやインドへ与えた影響力が大なのか小なのか、直接の関係があるのか間接的にも関係があるのか、残念ながら知識がないため答えられません。
A ★ イギリス・スウェーデンのガンダーラ彫刻 ★ インドの「ガンダーラ彫刻」は、昔は辺境だったイギリスやスウェーデンでも見つかっているそうです。 「東北イングランドのノーサンバーランド(Northumberland)の旧ローマ城壁の内部に ガンダーラ彫刻がいくつか発見された(これは考古学者マーシャルの公の報告に出ている)。」 (中村元 『インドと西洋の思想交流』 p.239) 「1954年7月にストックホルムから約16キロの距離のところにあるメイラレン湖の東部のエケレー島で、青銅製の小さな仏像が発見された。そこの遺跡は5世紀から8世紀であるらしい。通高約10センチ・・・」 (同・思想交流 p.240) 「スウェーデンの仏教遺跡としては、ストックホルムに近い所にある孤島ヘルゴエ(Helgö)が知られている。ヘルゴエとは「神聖な島」という意味である。小さな島であるが、かつてはそこに住民の居住地があり、幾世紀にもわたってヨーロッパおよびイギリスの諸島と手びろく交易を行なっていたことが発掘によって知られている。・・・・ヘルゴエは4世紀から11世紀にわたる600年間に栄えていたらしい。発見された多くの物品は西紀400-800年にあいだのものである。・・・・そこで発見された仏像(6世紀)は・・・・ごく小さい。わずか8.4センチの高さで、蓮華の台座の上で結跏趺坐している。」 (同・思想交流 p.241) http://members3.jcom.home.ne.jp/rotch/Alex/12_Shiryou.htm#BM12-1 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ The island is perhaps best known for a major archaeological area. The old trading town on Helgö began to emerge around the year 200 AD, 500 years before Birka at Björkö. The first archaeological dig in 1954 uncovered the remains of the early settlement, including a workshop area which attracted international interest. The most notable finds included a small Buddha statuette from North India and a christening scoop from Egypt, both dating from the 6th century. The Indian Buddha statuette, the Irish crozier and the Egyptian scoop which were found on Helgö, are presently on display in the Swedish Museum of National Antiquities in Stockholm. [1][2] Helgö http://en.wikipedia.org/wiki/Helg%C3%B6 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ The Buddha in Viking Sweden http://www.strangehistory.net/2010/08/20/the-buddha-in-viking-sweden/ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これをどう考えればいいのかわかりませんが。
お礼
回答ありがとうございます。 調べてみたらヨーロッパ唯一の仏教国としてカルムイキア共和国というのがあり、他にもギリシャ美術と融合したガンダーラ美術の存在やマニ教の存在など、いろいろと調べる事柄が多そうでした。 紹介していただいた本は早速読んでみようと思います。ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 次の主題にしぼっての投稿です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3.・・・古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう疑問=主題は初めてですので 戸惑っていますが そこまでの考え方は いまのところ むつかしいかと思いました。 次に示すようにフィリピンのタガログ語はきわめて論理的な・動詞の時制や相の形成および語幹からの複合語の形成にかんする組織を持っています。これを考えるなら その言語の話し手は ことごとく論理的な思考の持ち主であると帰結してしまってもおかしくないほどだと思います。 * マレー語がマレー半島から東の方面では 台湾からスマトラの範囲内で さらに東はハワイやイースターまでの太平洋の諸島にまで広まったと言われる――おっと もう一つマダガスカルを忘れちゃいけません 小舟で渡って行ったのでしょうね――そのオーストロネシア(南島)語族。 その言語の特徴で動詞にかんするきわめて関心を惹くものは フィリピンのタガログ語に見出されます。 接辞(接頭辞・接中辞・接尾辞)がきわめて論理的に発達していることです。 まづは次の表をごらんください。 ▲ 〔動詞 kain =《食べる》(語幹)の活用〕 ~~~~~~~~~ (1) 動作主=主語を取り立てる場合:接中辞 -um- を用いる。 (A) 不定相: k-um-ain (食べる) (B) 完了相: k-um-ain (食べた) (C) 想念相: ka-kain (食べよう=未来相) (D) 未完了相: k-um-a-kain (食べている=存続相・現在相) * 綴字においてハイフンは通常つけません。 (2) 目的=賓格語を取り立てる場合:接〔中〕辞 -in- を用いる。 (A) 不定相: kain-in (食べる) (B) 完了相: k-in-ain (食べた) (C) 想念相: ka-kain-in (食べよう) (D) 未完了相: k-in-a-kain-in (食べている) (3) 場所=処格を取り立て場合:接尾辞 -an を賓格用接辞とともに用いる。 (A) 不定相: kain-an (意味は同じ《食べる》です。cf.のちに掲げる文例) (B) 完了相: k-in-ain-an (C) 想念相: ka-kain-an (D) 未完了相: k-in-a-kain-an ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これだけ規則的であれば フィリピン人は よほど論理思考に秀でているのではないかとも思えるのですが どうなんでしょうねぇ。 ほかにもこの論理学は 展開していきます。 ▲ 〔動詞 の活用・つづき〕 ~~~~~~~~~~~~~~~ (4) 受益者=与格を取り立てる場合:接頭辞 i- を賓格辞 -in- とともに用いる。 (5) 手段・道具=具格を取り立てる場合:接頭辞 ipang- を賓格接辞 -in- とともに用いる。 * 同じくこの(1)~(5)の区分法は あとに触れる ▲〔文例〕 で見比べてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あるいはさらに 動詞の動作じたいの意味内容を形式区分して これをやはり接辞によって表わす。 ▲ 〔動詞 の活用・その三〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 一般動作の形式:接辞 -um-, ほかに mag-, ma-, i-, etc. (い) 反復形式: mang-, pang-・・・-in(接頭辞かつ接尾辞) (う) 可能形式: maka-, ma- (え) 婉曲形式: maki-, paki- (お) 使役形式: magpa-, pa-・・・-in, pa-・・・-an, ipa- (か) 命令形式:各形式の不定相の形態を用いる。(う)はない。 ▲ 〔文例〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 動詞: bili =買う (1‐B) 主語取り立て形( -um- )にて用いる例 ○ B-um-ili ako ng saging sa tindahan para sa guro'. = Bought I bananas at the store for the teacher. = わたしはバナナをその店で先生のために買った。 (2‐B) 目的語取り立て形( -in- )に用いる。 ○ B-in-ili ko ang saging sa tindahan para sa guro'. = Bought I bananas at the store for the teacher. = バナナはわたしが・・・買った。 * 主語の《わたし》は (1‐B)の《 ako 》から簡略形の《 ko 》に変わっている。 * また目的語に対する冠詞が《 ng 》から 取り立てられることによって 《 ang 》に変わっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あたかも人造言語のごとく規則ただしく活用しています。 次に依拠しています。 ▲ Teresita V. Ramos : Tagalog dictionary 1971-1985 というタガログ語なのですが。・・・
お礼
回答ありがとうございます。 私も以前フィリピンに行ったことがあり、その時地球の歩き方にのっていたタガログ語をいくつか使いましたが、そのタガログ語が極めて論理的な言語だとは思っていもいませんでした。回答者様はタガログ語の専門家でしょうか? ちなみに私の返答なんですが、論理的な構造を持つ言語は高度な論理学を生み出すのかという点については先の回答者の方と内容が類似していますので、私の返答も先の方と同じものだと思って参照して頂けると幸いです。
- NemurinekoNya
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~~~~~~ 1 「ミリンダ王の問い」という本があるように、アレクサンドロス大王がインドまでやってきてから古代ギリシャとインドの哲学者達は少なくとも接触はあったはずなのに、どうしてその後お互いの交流が途絶えてしまったのでしょうか?ヨーロッパで仏教がちゃんと紹介されたのは1800年頃だと思います。なぜ古代中世の西洋にはインド思想の影響が見受けられないのでしょうか。 ~~~~~~ ローマVSパルティアなど、絶えず戦争が続いていたから。 インド・ヨーロッパの間にゾロアスター教があったから。 そうこうしている間に、ヨーロッパではキリスト教がひろまっていたから。 ~~~~~~ 2 インド思想(仏教など)は急速に東アジアに広まりました。東に広まったのなら、同じようになぜ西には広まらなかったのでしょうか?インドの哲学者たちはわざわざ中国まで出向いて経典や教えを授けてきた歴史があります。それならなぜ西側にも向かおうと思わなかったのでしょうか。 ~~~~~~ 誤解があります。 中国に仏教をもたらしたのは、俗に西域僧と呼ばれる、非インド出身の仏教者たちです。 また、西側にも向かっています。現在のロシア、ヨーロッパに属するロシア部分にも、多数の仏教遺跡があります。そして、帝政ロシア時代には、首都であるレニングラードにも仏教寺院が存在し、仏教は保護されていました。スターリン時代の一時期、仏教は迫害されましたが、後に、スターリンは、仏教を保護するように方針転換しており、その方針は現在まで継承されています。ただ、西ヨーロッパに広がらなかったでけですよ。 ~~~~~~ 3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか? ~~~~~~ ☆古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。 ◇それは、ヨーロッパの植民地支配とその統治政策としてのキリスト教布教と密接な関係があります。また、ヨーロッパの思想が、世界の主流になったのは、産業革命以後の話です。 ☆それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。 ◇東アジアや東南アジア世界の考え方、思想に及ぼした仏教の影響は、はかりしれません。仏教がなければ、現在伝わっている儒教もなければ、道教も存在していません。儒教の確立に、仏教的思弁は必要だったのです。そして、現在、日本に住む我々も、インド発祥の仏教思想の影響を、陰に陽に強く受けています。 仏教を抜きに、東アジア、シルクロード、東南アジアの思想、思想史を語っているものがあるとしたら、見てみたいと思いますね~、わたし。 ~~~~~~ 4 これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。 ~~~~~~ はっきり言って偏見です。これは、独断以上のなにものでもないです。 今日、古代ギリシアの哲学や数学などと呼ばれるものの多くは、当時先進諸国であったオリエント諸国からもたらされた外来の思想です。その起源の多くは、オリエントにあるのです。 ☆これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。 ◇アラビア哲学があります。これは非常に精緻な体系です。自然科学、医学、歴史学、言語学、論理学など、様々な分野に及び、この多くをヨーロッパが輸入し、現在のヨーロッパがあるのです。古代ギリシアの哲学の復興は、アラビアに端を発するんですよ。現在の数学につながる数学も、高度に発展していたアラビア数学があればこそです。 ☆なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。 ◇アラビア語は、インド・ヨーロッパ語族に属していません。いわゆるオリエント諸国は、セム語系です。シュメル語はセム語系でもありません。むしろ、先進文明は、非インド・ヨーロッパ語族の世界で生まれたのです。 ☆そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。 ◇日本語は、印欧語の中で格変化がもっとも複雑なサンスクリット語に遜色がないくらいに、格変化が複雑です。そして、これは何も日本語に限らず、他の言語にもこのような言語は多数存在します。 もし、質問者の提示した仮設にしたがいますと、そうした言語を話す世界では、極めて高度な哲学や論理学が発生することになります。 矛盾していませんか? わたしは、言語学の専門家ではないので、問題提起程度で終わりますけれども、この哲学カテには、言語学に精通したbragelonneさんとおっしゃる方がいらっしゃいますので、この件については、bragelonneさんが、おそらく答えてくれる、と思います。 ~~~~~~ 5 五番目の質問は全く根拠がない推測なのですが、ブラフマー(梵)とアブラハムは音がにていると思いませんか? Brahma 、Abraham ブラフマーのお尻の文字だけを頭に持ってくると「a」Brahmとなります。これはただの偶然でしょうか?語源的な知識をお持ちの方がいれば解説をお願いしたいです。 ~~~~~~~ ◇アブラハムの語源については、Wikipediaを引用します。 ───────── アブラハムはかつて、古代ヘブライ語ではアブラム(אַבְרָם、Abram)で、「群衆(多数のもの)の父」の意味であった。そのアブラムが、神の指示によりアブラハム(אַבְרָהָם、Abraham)に変更された。このことにならったかのような母音付加が、これ以後、パレスチナ地方の言語にはよく見受けられる現象となる。同時に、このことが古代ヘブライ語や古代アラム語の正確な読みをわかりにくくさせている原因となっている。 http://okwave.jp/qa/q8292190.html ───────── サンスクリット語のbrahmanの語源は、現在のところ、まったく分かっておりません。 ただ言えるのは、brahmanがバラモンの祭式原理と深く関係するものである、ということです。 そして、確実に言えるのは、 abrahamとbrahmanはまったく関係がない、 ということです。 ☆古代、インドにやってきたアーリア人はメソポタミアの地方からやってきました。つまりインドに侵入したアーリア人は元々の段階でメソポタミアの思想の影響を少しは受けていてもおかしくないと思うのですが・・・ ◇メソポタミア? イランをメソポタミアに含めれば、まぁ、そういうこともできるのかもしれませんが。 それよりも、インド土着の文化の影響を強く受けています。それは、リグ・ヴェーダなどから、容易に推測できます。 ちなみに、印欧語の祖語説は、仮説の域を脱していませんよ。
お礼
回答ありがとうございます。丁寧な回答をいただきましたので、私の返答も長文になってしまいましたがどうかお付き合い下さい。 2については他の方の回答も参考にして、ヨーロッパ地域にも仏教の痕跡があるようでしたのでこれから調べてみようと思います。 3について、 >>宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。 これは私の言い方が悪かったんだと思いますが、ギリシャ哲学が生み出した論理学の体型やアリストテレスといった存在は12世紀ルネサンスを経て世界で唯一科学革命を起こすことになるヨーロッパの思想の土台となりました。その点インド哲学はジャイナ教やニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派、アージーヴィカ派、サーンキヤ派、チャールヴァーカやローカーヤタなどギリシャと全く遜色のない論理的な原子論を唱えましたし、むしろヨーロッパの原子論者のデモクリトスはディオゲネス・ラエルティオスの哲学者列伝の記述によるとインドで原子論者に出会ったという記述があるので、そもそも原子論の創始はインドにあるのではないかとも思えます。 つまり私が聞きたかったのは宗教面の話ではなくて、ヨーロッパはギリシャ思想を科学に昇華させることが出来たけれども、インドはギリシャと比肩する思想を持っていたのにどうしてアジアは科学を生み出すに至らなかったかという質問です。 4について、 アラビア哲学というのはギリシャ哲学の影響を受けて成立したものですよね?アラビアに哲学が成立したのはイスラム教成立以降の話だと思うので、今回の話はあくまで紀元前6世紀頃を舞台にしていると考えてください。 メソポタミアの思想が古代ギリシャにどれだけの影響を与えたのかは、確かにあったと思いますが具体的に何かということになると例を挙げるのは難しいのではないでしょうか。少なくともメソポタミアに原子論を唱えた哲学者がいたという話は聞いたことがありませんし、ペルシャ戦争の様子を考えてみても、ギリシャとオリエントは文化的に異質な気風が漂っていたと思います。 それとアラビア語についてですが、前述の通りアラビアの登場は後半になってしまうので、今回の話ではすみませんが省かせて下さい。 格変化についてですが、質問に質問で返すような具合になって申し訳ないのですが、他の回答者の方のタガログ語の指摘もある通り、豊富な格変化と持つ言語や論理的な言語というのは世界に数多く存在すると思います。 ですがそうすると、なぜそういう言語全てが高度な哲学や論理学を生み出さなかったのかという疑問よりも、なぜギリシャとインドだけが高度な論理学を発達させることができたのかと問うほうがより根本的な疑問だと思っています。特に紀元前6世紀ごろの話です。ヤスパースはこの時代を枢軸時代と呼んでいますが、ギリシャ論理学とインド論理学は明らかに他と異なる独自性を持っているので、この高度な論理学の起源が何に由来するのかと問えば、そしてなぜギリシャとインドなのか、客観的に判断できる共通性はインド・ヨーロッパ語族であるという点です。今の私の知識ではそれ以外に判断する材料がありません。 もしよろしければこれについても、より深い考察や指摘を頂けると幸いです。 5について、 アーリア人がインドに侵入してドラヴィダ人を征服し、バラモン教や聖典ヴェーダを成立させていったのは紀元前13世紀以降ですが、インドの地はインダス文明のころからメソポタミアと貿易があったことがわかっています。アーリア人の紀元前13世紀という年代もこれに比べればかなり後の出来事なので、それ以前に何か関係がなかったのか、むしろないと考えるほうが不自然です。そういうところから今回の点についても何か関係があるのではないかと考えていたのですが、ご指摘のとおりサンスクリット語の語源が不明なのであれば、肯定もできないけれどまったく関係がないと言い切ることもできないのではないでしょうか。 ちなみに肯定する場合でも何の根拠もありません。この問いについてはあくまで提議だけで机上の空論です。
基本的には自然観の違いです。 仏教哲学の根底にあるのは、輪廻転生という考え方です。 今でも、インドにはお墓と云うものがありません。 お骨はガンジス川に流して、ハイおしまい!です。 死後どうなるのかというという問いに、お釈迦さまは知らないと明言しています。 死後どうなるかというのは、その後の人達が付け加えただけです。 輪廻転生というのは、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄という六つの世界をぐるぐる回るという考え方です。 つまり、死んでもまた生まれ変わるという考え方です。 これは、インドを初め植物の生育が旺盛な地帯では簡単に受け入れられますが、植物の育成が難しい砂漠地帯では受け入れ難い考え方です。 植物は、育って、花が咲いて、実がなって、本体は枯れても、再び種から芽が出ます。 インドや東南アジアでは年中花が咲いていて新しい芽もふいています。 これに対して砂漠地帯では、死ねば干からびてしまうだけで何も起きません。 植物はオアシスの周りに細々と見受けられますが、砂漠地帯の植物は本体の寿命が長い上に、新しい芽吹きは難しいです。 ということで、ヨーロッパに伝わる前に、途中の人達が受け入れませんでした。 イスラム教では死後の再生の際には、散り散りになった骨が砂の中から神の力によって集められるとされています。 中国へ伝わっても途中の砂漠地帯には、現在でもイスラム教が広がっています。一部キリスト教系の宗教も残っています。 ギリシャ哲学とインド哲学の共通部分を敢えてあげれば、時間に対する考え方です。 ギリシャもインドも時間は循環するものであると考えました。 これに対してキリスト教もイスラム教も一方的に進む直線的なものと考えました。 結果として、物事には全て初めと終わりがあると考えます。 ギリシャもインドも、全てに初めも終わりも無くただひたすら回り続けるだけと考えます。 この循環から超越したものを仏と呼びました。仏の世界には人間界のような時間は存在しないと考えています。 これによって、人間界の時間を超越して、仏はいつでも人の前に現れて救済してくれることになります。 末法だのなんだのという考え方は後世の人が付け加えた考えですので、全体から見れば現在の仏教の考え方には矛盾が含まれています。 以上、ザットした見方をご紹介しました。 多々反論があって未だに学問的には解消されていません。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。参考にさせて頂きます。回答ありがとうございました。 植物の育成が難しい砂漠地帯では輪廻転生の考えが根付かなかったというのはなるほどと思いました。地理的環境面からのアプローチも面白そうですね。
- urigadai2013
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紀元前2000年頃の中央アジアの、今のカスピ海周辺にいたアーリア人という伝説上の民族が気候変動により移動し、西に行った人たちがギリシャに到達し、そこで「有の哲学」を始め、一方東に行った人々がインドに到達し、バラモンを形成し、後に仏教が「無の哲学」を始めたとされます。 インドとギリシャなど西欧の言語には音韻的に共通なものがあることが、英国のウィリアム・ジョーンズが19世紀にインドのサンスクリット語と西欧の言語を比較して共通性があることを発見し、それを「インド・ヨーロッパ語」と命名したことからも証明されました。 インドに渡った民族もギリシャに渡った民族も同じ民族だったので、哲学・思想において「住み分け」が出来ていて、お互いに干渉しないようになっていたのではないでしょうか? 世界に民族はたくさんあれど、哲学を始めたのはギリシャとインドだけです。 それは同じ民族だったからで、アーリア人というのは哲学的な民族だったのだと思います。 かつてドイツの独裁者・ヒトラーは「アーリア民族」の血の純粋性を守るために他の民族との混血を禁止したといわれます。 アーリア人というのは金髪で、背が高く、頭脳が優秀だったといわれます。 伝説上の民族で、本当にいたのかどうか分りませんが、いたとしたらその民族だけが歴史において初めて哲学というのを生んだとすれば不思議なことだと思います。 お役に立てるかどうか分りませんが、一言申し上げました。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。参考にさせて頂きます。回答ありがとうございました。
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お礼
またお礼が遅くなり申し訳ありません。用事が重なったためこちらを見ることが出来ませんでした。皆さんの回答を全て見た上でこれを書いているのですが、すでに本質問も3ページ目へと移動して人目につきにくくなってしまいました。ですが丁寧な回答を多数頂いていますので、まだ回答が続くようであればこの質問はしばらく開いたまま継続したいと思います。 さて回答者様への返答ですが、 科学が西洋で生まれたと私が考える理由は、ギリシャ思想とキリスト教があったからこそです。 確かに古代のギリシャ思想と中世ヨーロッパの間には一度断絶があります。ギリシャの遺産を受け継いだのは西欧ではなくビザンツ帝国であり、そこからギリシャの著作がシリア等を経由してアラビアへ翻訳されてアラビア思想の基礎となり、ようやく12世紀になって翻訳運動が始まり西ヨーロッパに古代ギリシャ思想が数世紀ぶりに逆輸入されました。 いわゆる12世紀ルネサンスというものですね。ご指摘のとおり、偉大なアリストテレスやプトレマイオス、さらにはユークリッドの幾何学など人類の遺産とも言うべきものはほとんどが12世紀になってから西ヨーロッパに知らされており、それ以前の西欧は彼らの存在とは無縁でした。 ですが、その前提を踏まえたとしても、ヨーロッパで科学が誕生したのは、源流としてギリシャ哲学の存在を挙げるだけでなく、直接的な原因としても近代ヨーロッパの飛躍は12世紀ルネサンスで用意されたものの上に成り立っていると言えると思います。回答者様がルネサンスと言っているのはレオナルド・ダ・ヴィンチらのあの時代のことだと思いますが、科学に限っていうのであれば西欧の方向性を決定ずけたのは12世紀ルネサンスであって、イタリアルネサンスはその発展系に過ぎないと言えるかと思います。 科学にとって大いなる年と言うべき1543年、この年にコペルニクスは天球の回転についてを著し、ヴェサリウスはファブリカという医学書を書きました。しかしこの年にこういった出来事がおきたのは、全て12世紀ルネサンスに端を発する延長線上の出来事に過ぎません。 中世ヨーロッパの科学の発展とは、アリストテレスの思想の逆輸入に始まり、それがキリスト教と融合して、ついにはアリストテレスそのものを批判的に乗り越えることで達成されたと言えます。そのため西欧で科学が誕生した必要原因を二つ挙げるならアリストテレス(ギリシャ哲学)とキリスト教です。 これを具体的に説明するならば、トマス・アクィナスの存在がかかせません。ギリシャ哲学、特にアリストテレスがヨーロッパに逆輸入されたとき、キリスト教の思想と相容れない考えがあることが重要な問題となりました。中世哲学の最初の重要問題である普遍論争もアリストテレスの範疇論がきっかけとなりました。雑多な内容は省略しますが、最終的にトマス・アクィナスがその思想によってアリストテレスとキリスト教が融合されたことによって科学史上に一つの画期が訪れたと言えると思います。 これによって西欧のキリスト教徒たちはアリストテレスの論理学を学んでいくことになりました。 そしてこれが真の科学になる経緯とはまさに、一度トマス・アクィナスによって融合されたアリストテレス論理学とキリスト教思想が再び袂を分ちていく過程こそ「近代科学」の産声なんです。 ですから回答者様は古代ギリシャの直接の影響を否定されていますが、全ては12世紀ルネサンスにおきたアリストテレスと、アクィナスのキリスト教との融合によって端を発している以上、ギリシャとキリスト教がなければ科学は生まれなかったと言っていいと思います。