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差別禁止は行き過ぎではないでしょうか?
色覚異常についての問題を見て感じたのですが、 最近の差別禁止は行き過ぎではないでしょうか? 確かに、ひどい物もあるので、差別禁止が全ておかしいとは思いません ですが、色覚異常の件についても、勝手に差別につながると決めつけて逆にその人の未来を 奪うことにもなりかねないのに・・・ 一部の差別禁止は、それが差別だと思っているその人自身が差別しているのではないでしょうか? 皆さんどう思われます?
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いわゆる「差別廃止」の論調が無矛盾で無問題ということは確かにありませんが、個別具体的に廃止論を見ると、やはり相応の正当性が認められるケースが多いです。 圧力団体に対して役所等が及び腰になってしまったように見える例もあるのですが、詳しく見ると「差別している側」にこそより多くの問題があり「差別されている側」の主張が多少過剰であったり、「区別」することの必要性と「区別」することの有害性を天秤にかけて判断した経過が推し量れるような事例が大半です。 色覚異常の件ですが、学校の悉皆調査が廃止された経緯は、この検査が目的としている「学校教育上の障害の検出」を超え、事実上「児童生徒の職業選択上の障害の検出」となってしまっている現状、つまり本来ならば程度や性質によって許容されるべきものが過剰に異常として検出されてしまう「過剰検出」の問題と、加えて学校生活上で何ら問題が無い程度の異常にもかかわらず児童生徒間の「無知による差別」の原因になってしまう問題、の二つが存在したことにあります。 「勝手に差別と決め付けた」のではなく、学校生活上も職業選択上も問題が無い障害程度である児童が単純なスクリーニング検査のみによって「異常」側に分類され、不必要な「区別」によって実害を受けるという「差別」が実際にあったからです。 また、これらの問題が、測定精度が低くプライバシーの保護されにくいという悉皆検査の欠点に起因することは明らかですから、これを廃止して個別検査に移行させたのは、判断として正しいと思われます。 悉皆検査のメニューに無いといっても本人が希望すれば学校保健医が無料で個別に検査することは別に禁止されていませんし、もちろんその場合の検査は、単純な検出のみを目的とした「石原式」単独ではなく、検査目的に応じたものになるでしょう。 そもそも色覚異常が職業上の障害となるような職種は極めて限られていますし、よく事例として持ち出される消防職員などについても、障害の程度によって許容範囲があります。(自治体によって違いがあるのが不思議ですが) むしろ、生徒の進路指導の中で、身体能力や判断能力と同じように適性検査に必要な手順を個別に指導・支援することが必要なんだろうと思いますし、障害者団体が求めているのも、単なる検査反対ではなく、そういった合目的で合理的なプロセスです。 確かに、結果として自分の障害の存在に気づかずに職業選択の「未来をうばう」結果となる不幸な事例が生じるのは事実ですが、そもそも、悉皆検査による「過剰検出」によって同じように未来をうばわれた人の方が圧倒的に多かったのもまた事実ですから、これをもって「差別禁止の弊害」などと主張するなら、それは間違いだと思います。 必要なのは「差別」だとか「逆差別」などというデマゴギーで一般化することでなく、複雑な身体障害の状況に社会や制度を高度に適応させ、誰もが自分の能力を活用できるようにするための社会的配慮です。
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差別禁止は、差別なんてしたくないと思っている、優しくて良い人たちが、知らないうちにしている差別をなくすためにある。
お礼
ご回答ありがとうございました
- hideka0404
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色覚異常にもいろいろあり、単に緑と赤の区別が出来なかったり、色そのものが区別出来なかったり(色盲)、ひとによって個人差あります。 生活に支障が無い人もいれば、極端に支障があり人もいます。 でも健常者からは奇妙に思われるものです。 奇妙=キモイと認識されるので、致し方ないのです。 恨むなら、劣勢遺伝子の根源の親か先祖を恨みましょう。 遺伝子治療が発達すれば、直せる見込みも出て来るでしょう。
お礼
なるほど・・・それもこれからの未来次第ですね ご回答ありがとうございました
- toshipee
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だから、勉強するんですよ。弱い者も強い者も。知恵がないのに区別するのが差別です。
お礼
なるほど ご回答ありがとうございました
- mikku2011
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差別は無くてはならない秩序でもありモラルです。 様々な価値観の相違により同じ物も、人も、景色など違った視点で捉えるのが 人としての魅力の一つでもありますが、この違いのせいで著しく不快になるような事もしばしば。 容姿、身体にリスクを抱えている方々を揶揄し笑い者にしたりする事を 良くない事と教えられたりしますが、その教えに最初に差別を教えている事に 多くの大人方が気づいていません。 何故か。 それが人の見かたであるからだと思う。 人とはまず先に身近な見える範囲内の現状しか知らずに育つ。 成長につれ見る範囲は広がり色んな”初めて”と見聞きしたり経験したりする。 その中に病気、事故、遺伝など未知なる現象に遭遇すると人間はどうなるのか。 まず先に情報処理を行いますよね。 これは何?どういう事?みたいに。 その際に蓄積された知識の箪笥を調べても相応しい答えが見つからないと 人はどうするか。 一番簡単で一番楽な方法を選択します。 それは幼くして自然と蓄えられてきた先人達(親や身近な大人含む)の知識が選ばれる。 考えるよりも楽だから、これはこうなんだと思い込む。 そうする事で不可解な事を解消したりする。 人間の本能的な部分での問題回避が巡り巡って人を差別する容認になっていく。 この容認が広まると決まって否認が出てくるのも、同じ理屈。 一部の差別は一部の差別をしているのは明白だが人間には、まず欲と情(心)があるから こういった問題は消えない。 要は自分が何を良しとし悪と決めるのかで起こるのが差別でしょうか。 単純に言うと個人の自己満足、エゴによって非道であったり救われたりなどあるように。 私が言う秩序とモラルは人としての大事な部分を失うなという意味ですが、多くの人は 判ってないですね。 なんのために人間に思考という学習能力があるのか考えて欲しいもんです。 天は人の上に人を創らず人の下に人を創らないんじゃなくて 敢えて人は人の下に人を造りたがる生物だ。 じゃなきゃ家族というピラミット式の家系になぞならん。 ここで差別生れるから、そもそも差別された位置での家族だもの。
お礼
全く持って差別をなくすのは不可能であるというのを学ばさせていただきました たしかに家族はピラミッド式ですね 長文ありがとうございました
お礼
私自身の間違いにも気づかせていただいたのでBAにさせてもらいました 確かにやりすぎるものよくないのでしょうね 考えを改めさせていただきました ありがとうございました