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差別されること・すること
- 差別問題について考える
- 自己と差別の関係を探る
- スルースキルと包容力の難しさ
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質問者が選んだベストアンサー
(1) 自分や自分と関係の深い人・物が差別を受けた時に,腹立たしく思ったり悔しく思ったりすることがあるか。 Yes (2) (1)で腹立たしいと思う人は,そのあと自分を納得させているか,あるいは抱え込んだままにしているか。自分を納得させるとしたらどのように納得させるか 差別の内容自体には決して納得しない。 しかし、差別をした人について、「それしか見えない見解や世界の狭い人」、「用語を間違えているのでは」など、内容が意図的な差別かどうか考える。 その後、この差別が不利益を与える事項について、自分は積極的に関与して戦うか、傍観者のようにみえても自分は同じことをしないという決意を守る程度のことをするか、無視してもよい程度のことか、見極める。 (3) (1)で腹立たしいと思わない人は,質問者のように腹立たしいと思う人がいる一方で,なぜ自分は腹立たしいと思わないのだと考えられるか,あるいはどのようにして腹立たしいと思わないようにしているか 該当せず (4) 差別してはいけないと思っていながらも心の底で差別してしまうことはあるか。 Yes (5) (4)であるという人は,そのことについてどう思うか。 自分のセルフイメージに対して脅威をおぼえる場合。 同じ問題をかかえている(たとえば障害)人と私が、同じグループにカテゴライズされそうな場合、「同類と思われたくない」などと感じてしまう。 個人的ではなく、社会的に(←ここがポイント)「あなたたちは同類」と決められることに危機感を覚える。 なぜなら、私がセルフイメージに対してマイナスと思う もしくは私が問題と思っていなくても「社会において問題」という権威をもってカテゴリを設定されると、問題のインパクトが、公私に及ぶ。 また、もう一人の人が困難について、自分と同じ捉え方をしているとは限らないし、どんな人かも分からない。だから、共通項があるとはいえ、その問題だけで「同じ」だといってほしくない、という意識が働いて、「私は違う」と抵抗してしまう。 それが時には、相手を低く見るような、差別の形で表れることがある(自分の心の中だけの話だが)。 (6) スルースキルを身につけたり,誰でも差別をせず受け付けるだけの包容力を身につけるのは難しいことだと思うか。また,どのようにすれば身につけられると思うか。 個人がスキルを身につけたり、包容力を身につけることは、ある程度まで可能だと思う。 しかし問題は、個人が個人の決定だけで行動を起こせない点にあると思う。 たとえばインドの不可賤民と、その一ランク上のグループとのやりとりのように、一歩足を踏み外すと社会の最低ラインに転がり落ちる、という状態であれば、自分の地位を死守しようとして、不可賤民の差別 つまり自分たちの優位性の主張と社会的承認のとりつけにやっきになる。 同様のことが、日本で「問題がある」とされる人に近い立場の人や、そういう人との関わりを持つ人への世間の目によって、「自分は違う」、「私はあんなにひどくない」などと宣伝することを要求される。言う人は声を出しているが、なぜ声を出すのかというと、傍観者としての社会が、マジョリティへの同調性を強要したり、差別をじっと見守って圧力をかけてくるからである。 また包容力は、異質性を排除せずに等価と見る訓練をすれば身についてくると思う。 区別と差別については、日常的な認識からいえば、前者は違いの認識、後者は違いに異なる価値を付けることで成り立っていると思う。 また、差別というのはすでに政治用語になっており、何が差別に相当するか、制度的に定義されている場合もあるので、その範囲内で考えることもできる。 しかし人の好みによって違うものに違う価値がつくことは避けられない。 差別が問題になるのは、人の尊厳を侵害する場合である。 つまりチューリップのほうがヒマワリより好き、といった、好みの問題は、人の尊厳を侵害しないはず。 人の尊厳を侵害するかどうかが、鍵となると思う。
その他の回答 (6)
(1)多少は思うこともあるし、ちょっとそのとき引っかかるだけのときも。なんともないときも(2と3は時と場合、両方答えます)。 (2)相手に言ってわかると思えなかったり、底から悪意があるようには思えなかったりで、ちょっと我慢。 (3)よくあることだと思えるので。 (4)おそらく、しています。前の世代からの教育もあるし、それが人の、本来の性質だから。 (5)まず、これは差別だという知識。 (6)誰でもは・・。 差別が無くならない最も大きな原因は、差別する人が、差別していることに気づいていないことです。
お礼
>(2)底から悪意があるようには思えなかったり 確かに底から悪意が感じられるものなどそうそうないです。ネットとリアルというように区別するならば,リアルのほうがよほどそういう悪意を痛烈に感じることが多いのも確かです。 >(4)…それが人の、本来の性質だから。 本来の性質ですか…。人が自然状態で生活していたころはそういう差別はあったのかな…? まあ幼稚園のクラスでさえいじめっ子といじめられっ子が別れてしまうところを見ると本来の性質なのかな…。 いずれにせよ大人の対応をする努力は必要だと思います。 (6) 誰でもは難しいですね。確かに。知らないで生きていた方が幸せという場合のほうが多い気がしますが,色々な世界に飛びこんでいく以上,身につける努力をしていくしかないですね。 差別も悪意を持った差別なのかそうでないのかに大別されると思いますが,より厄介なのは後者のほうでしょう。仰る通り,前の世代からの教育もありますし,ある特定のものを差別することが自然だと思えばそれを完全するには一度不自然な状態にしなければいけない。その労力は相当のものです。そのようなことからも,改めて教育の力強さを感じます。 ご回答ありがとうございました。
- hyakkinman
- ベストアンサー率16% (738/4426)
1、 悲しいですね。 2、3、 ネットでの誹謗中傷は、相手にしません。 リアルで差別されたら、泣いて逃げると思います。 闘うエネルギーは、ありません。 実際に「ひどい差別」をうけたことがないので、わかりませんが。 4、 あります。 世界中の人を…、 いや、身近な友人であっても、平等に扱うのはムリです。 どうしても、好き嫌いの感情を優先してしまいます。 5、 それが、人間の性ですよ。 でも、同時に… 差別をしても、相手を精神的に苦しめない配慮ができるのも人間ですから… そうできるように、心がけています。 6、 難しいです。 世界中の、より多くの人と積極的に関わっていくしかないような気がします。 視野を広げていかないと、せまい価値観のままでは、限界があると思います。
お礼
ネットとリアルの誹謗中傷はまたちがうと思いますが,私などはネットとはそういう場所だとわかっていながらも,腹が立ちます。もちろん闘ったりとかはしませんし,闘いにエネルギーを使うのももったいない気がします。 好き嫌いの感情を優先してしまうのが人間の性ですね。実際今までだってそうだったのだから仕方が無い。あとはどれだけ精神的に苦しめない配慮ができるか…ということですね。配慮のできる人間になりたいものです。 世界中の多くの人と積極的にかかわって行ける身近な場がまさしくインターネットだと思うのですが,差別したりそれに向きになって変に戦いを仕掛けたりするよりも,視野を広げるという目的で使う方がよほど賢い使い方だと思いました。 回答ありがとうございました。
- heiwa3
- ベストアンサー率14% (7/50)
こんにちは。 (1) 自分や自分と関係の深い人・物が差別を受けた時に,腹立たしく思ったり悔しく思ったりすることがあるか。 自分が差別を受けたら、その場から去ります。 自分と関係の深い人(家族とか)の場合は、自分で対応するでしょう。 (同じく、その場を去るでしょう) (3) (1)で腹立たしいと思わない人は,質問者のように腹立たしいと思う人がいる一方で,なぜ自分は腹立たしいと思わないのだと考えられるか,あるいはどのようにして腹立たしいと思わないようにしているか 他に、やりたいことが、いくらでもあります。 おかしなのと関わっていたら、時間がいくらあっても足りません。 (4) 差別してはいけないと思っていながらも心の底で差別してしまうことはあるか。 ありません。 (自分の価値を、自分で下げる意味は?) (6) スルースキルを身につけたり,誰でも差別をせず受け付けるだけの包容力を身につけるのは難しいことだと思うか。また,どのようにすれば身につけられると思うか。 世界平和とは、こころ、のことではないでしょうか? 人の心を傷つけることを止めない人に、将来は無い気がします。 ※自分に、最も向かない(適性が無い)仕事をしていて、つくづく思います。 働くことに、上も下も、無い。(役割分担しているだけ) ちなみに、そんなレベルの低いことは、私は、小学生で卒業しました。(つもり。) ※※インターネットの本質(使い方)を、もう一度、検討されたし。<(_ _)>
お礼
>他に、やりたいことが、いくらでもあります。 >おかしなのと関わっていたら、時間がいくらあっても足りません。 確かに。そんなことに時間を割かれてしまっては,もったいない。回答者様は賢い方ですね。 私もそれに時間を割くことはありませんし,ある程度は割り切ってやっているつもりですが,どうしても不快に思ってしまうことは確かなので,ほかの方はどのようにされているのかな,と気になって質問いたしました。 >世界平和とは、こころ、のことではないでしょうか? 結局はそれに委ねられるでしょう。少なくとも人為的な問題については。 >インターネットの本質(使い方)を、もう一度、検討されたし。<(_ _)> 私もまだまだインターネットの世界ではヒヨコです。意味わからないのがたくさんいる一方で,素晴らしい人もたくさんいるというのがこの世界です。意味わからないのに構っているよりも,素晴らしい人との交流を図る方がよっぽど賢いインターネットの使い方ではないかと思います。某動画投稿サイトとかを見ていて特に思うことですが,いい意味でネットの世界も馬鹿にはできないな,と。ですからそういう人たちがネットのイメージを下げているのを私はとても残念に思うのです。そういう人たちを一掃するのはインターネットの本質上不可能なこととはおもいますが。 OKWaveは居心地のよい場所だと思います。こうしてこんな回答しにくい質問に回答してくださる方もたくさんいるわけですし。 ご回答ありがとうございました。
- vaierun
- ベストアンサー率22% (331/1496)
面と向かって言われれば勿論不快ですが 「自分より下に位置する者を捏造しなければ自分を保てない下らない人」だと思います。 例えば、私日本人ですが外国の方とトラブルになったとして 相手が私を罵るのに日本人差別に繋がるような発言をしたとします。 確かに不快ですけれど 「お前のかぁちゃん出べそ」と そう変わらない発言だと思うのです。 ネットは世界に発信されるものですから 言葉には留意しなければなりませんね^^ しかし本人同士は個人対個人になっていたり ともすれば個人のみ、自己満足で居もしない下の存在をつくって 何も知らないのに肯定的に語るだけ。 無知で無責任なんです。 日本国内であっても、足袋をはくのが上品なのか、裸足が格式なのかの時代がありました。 難癖はどのようにでもつけられます。 日本には「謙虚さ」を重んじた風習もあったのですから 相手を尊ぶ心を大切にしたいものです。
お礼
>「自分より下に位置する者を捏造しなければ自分を保てない下らない人」 そうかもしれないですね。よくネット上では底辺とか言われますが,まったくその通りのことを表しているのではないかな,と思いました。 >「お前のかぁちゃん出べそ」とそう変わらない 確かに。不快なだけでどうでもいいことですな。 難癖をつけるのは簡単で,謙虚に生きるというのは難しいことですね。言葉に十分注意して,あえて無知を暴露しないような言動をしたいもので,そのための「謙虚さ」なのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。
- Oruko000
- ベストアンサー率31% (335/1079)
(1)場合にもよりますが、思わない方です。 「言い過ぎ!」と言って黙らせてしまうと思います。 (3)何故思わないか…私自身がそう思っているのではないので、揺らがない、傷つかないのだと思います。 また最初から差別的な人を心で差別しているのかもしれません。 (4)差別する人を気持ちで差別していることはあると思います。 何故差別をするのか、ということを理解しようとしない意味で。 (5)どう思うか…特にありません。 (6)ある意味、腹が立つ=認めているということになりませんか。 私自身が思わないことであれば、何を言われようと相手にしません。 スルースキルが身に付くまで戦ってみればいいと思います。 差別的な人は、差別によりどんどん自分に関わる人を狭めていると思います。 それは端から見てて気の毒に思います。
お礼
>「言い過ぎ!」と言って黙らせてしまうと思います。 ある意味最強の言葉ですな。面と向かって言えばまさか「いや、そうでもないよ」とかえしてくる強者はなかなかいないでしょうね。そのような言葉を用意しておくのもある種のトラブル回避術で大事だな,と思いました。 >差別的な人を心で差別しているのかもしれません そいういう考え方もありかな、と思いました。差別的な人というのはその差別対象と比較した場合の優越感に浸っているうちに,自分をわからないうちにどんどん正当化していって,しまいには自分が全てわかっているかのような感覚に陥ってしまう人もいる。そういう杭を打つような斬新さがあります。 >何故差別をするのか、ということを理解しようとしない意味で。 差別をする人を具体的な議論に持ち込む前に受け付けない,ということでしょうか。自分はあれこれと考えを巡らせてしまう方なので,それができない人間なのですが,できるようになったほうが絶対に幸せだな,と思ったりします。ある意味これができるのは才能です。 >腹が立つ=認めている 先述の理由から,少なくとも私に関してはそうと断言できないと思います。あれこれと相手について考えを巡らせているうちに腹が立ってくることもあれば,無根拠な差別を平然としている態度に腹が立つこともあります。腹を立てる対象は人それぞれであるのもまた難しい問題かなと思います。 >差別的な人は、差別によりどんどん自分に関わる人を狭めている 全くその通りだと思います。そういう意味で差別的な人は頑固な人なのでしょう。いろいろな世界観あるのに,一方的な批判によってそれを理解しようとしないのは,ある意味とてももったいないことですね。それ以上の発展は望めないかと思います。
>(1) 自分や自分と関係の深い人・物が差別を受けた時に, >腹立たしく思ったり悔しく思ったりすることがあるか。 とても腹立たしく思いますし、それを根本から解決してやる事が出来ない等、 自分の力が足りない事を悔しく思う事もあります。 その人を守ってあげれなかったということもまた悔しく感じる事が多々あります。 >(2) (1)で腹立たしいと思う人は,そのあと自分を納得させているか, >あるいは抱え込んだままにしているか。自分を納得させるとしたらどのように納得させるか 「自分が腹の底から納得をした事」は一度も無いと思います。 理解は出来ますし、起きてしまった事は事実として受け止めますが、 どうしても、納得は出来ないんですよ、何故だか。 >(3) (1)で腹立たしいと思わない人は,質問者のように腹立たしいと思う人がいる一方で, >なぜ自分は腹立たしいと思わないのだと考えられるか, >あるいはどのようにして腹立たしいと思わないようにしているか >(4) 差別してはいけないと思っていながらも心の底で差別してしまうことはあるか。 自分の主観的には「差別」をしている訳ではありませんが、 そういう、「色眼鏡で見ている」事が無いかと訊かれると、「無い」と 自身を持って云う事は出来ません。 例えば、私は朝鮮民族を、「劣勢民族」と思っている訳ではありませんが、 過去に日本にした事、今現在も続けている事を考えると、どうにも。 >(5) (4)であるという人は,そのことについてどう思うか。 (4)に書いた通りです。 ですが、かつてネグロイドの方々がそうされていた様に、迫害するつもりは毛頭ありませんし、 同じ学校の同じクラスに韓国人が居たからといって、荷物を隠す・壊す・暴力を加える、 そういった事はしませんし、別に普段の行動も他の日本人に対してのそれと変わりなく、 通常通りに接するでしょう。 >(6) スルースキルを身につけたり,誰でも差別をせず受け付けるだけの >包容力を身につけるのは難しいことだと思うか。 >また,どのようにすれば身につけられると思うか。 「人間が持つ器」の大きさが小さい人は、少しのもの、日本人だけであったり、 日本人とアメリカ人だけ、など入れておけるものは少ないですよね。 そしてそこから溢れてしまったものを、「入っているもの」と「入っていないもの」と 差別してしまいます。 器というものは、生まれてから大体高校生くらいまでで 粗方の大きさは決まってきて、歳をとるごとに身体の成長が止まってくるように、 精神的な成長(器の成長)も止まってきて、段々と頑固になります。 ですからその前に、「世の中の事を知らせる」「人間の事を知らせる」など、 具体的に何をすれば、というのはわかりませんが、 鉄は熱いうちに打たなければならないように、 早くに成長させておくことは必要かな、と思います。
お礼
確かにどうしても納得はできないものですよね。 人間の器、つまり「入れておけるもの」をより多くしておくというのは自分にとって何か斬新な気がしました。 器も固まってくる前に大きく仕上げていかなければならない,と考えると色々な人に小さいうちから接するということは大事なことなのかもしれませんね。 また「主観的には差別をしている訳ではない」ということですが,こう考えると差別をなくすというのは不可能に近いことですね。「過去に日本にした事、今現在も続けている事を考えると、どうも」という文から,国レベル同士で仲が良くなるというのも重要だということを感じました。多分朝鮮半島の方もそう思っている人は多いことでしょう。個人の努力だけではどうにもなることでないですね。解釈の余地がある意図的な差別の撤廃はまだできるかもしれないが,「完全な」差別の撤廃というのものはさらに難しいことかもしれませんね。 「近所の大人」と「子ども」とがもっといろいろなことを話すと,もっとその子にとっての世界観がかわるんじゃないか,とか思ってます(自分は平成生まれの人間なのでそんなことをはっきり言えるよな年齢でないのですが,思ってることなので)。 こんな回答しにくい問題に,ご丁寧に回答くださって本当にありがとうございます。
お礼
>(2) 差別に対して冷静に対処することのできる人の思考プロセスがよくわかりました。「それしか見えない見解や世界の狭い人」として問題を片付けてしまうだけでなく,その差別とどのように関与するかという点まで具体的に考えていらっしゃる,こういうことができる人がいるものなのだな,と感心いたしました。 >(5) たしかに差別される相手が社会的に通用する権威であったりすると,面倒な問題ですね。自分の価値観や考え方とは関係なく,社会的かつ絶対的に問題があると決めつけられてしまう。いくら共通項があるとはいえ,それだけでまったく同じものと思われるのは困る。つまり,機械的に差別の型にはめていってほしくない,というところでしょうか。その抵抗が結果的に差別につながるとこもある,ということですね。 別に差別でもなんでもありませんので適切な例かどうかわかりませんが,「お年寄りの方には席を譲りましょう」と言われて,いかにもおじいさんという人が来たのでそうしたのに,「わしを年寄り扱いするな!」というのも,本質は同じことでしょう。いろいろなものの見方が交錯しているから起こりえる問題だと思うのです。もし,「お年寄りの方は社会的弱者で頑固だから,もしその方が意地を張っていらないといっても,席を譲るのが善」というのが普遍化されたとすると,社会的なレベルでの問題になるでしょう。差別をする側にしては何気ない行為でも,結果的にされる側としては抵抗せざるを得ない,というのは意外に多い場合かもしれませんね。 >(6) すばらしい論ですね。この問題について相当な関心をもって研究されているのでしょうか。自分のような素人がこの文章について自分の意見を述べるのは少々恥ずかしいですが,頑張って述べさせていただきます。 個人の意志だけでは,どうにも上手くいかないことがあります。その大きな原因が「社会的に問題があるとされる人たち」と同化させようとする世間の目であったりするので,その力と正面から闘うことは規模の違いから行ってまず難しい。 しかしながら,確かに個性を認めるのも重要なことであるが,社会として機能している以上,ある程度人をカテゴライズして処理をしやすくしないといけない。ジレンマが付きまとうわけで,双方の力に対する理解を深めなければ解決には近付かないのだと思いました。 きっと文章を書き慣れている方だとお見受けいたしました。丁寧なご回答,本当にありがとうございました。