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《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?

 (1) たとえば《地球家族》という言葉を 耳にしました。   これは 表題の意味内容とかかわっているのでしょうか?  (2) 《宇宙は 自己の補完である》とは どういう意味でしょうか?  (3) 質問者には 次のような意味のほかは 分かりません。   (あ) ヒトは 宇宙の中に存在する。   (い) その人という存在があたかも小宇宙と呼ばれるような宇宙の縮図を成している〔という主観想像的な見方が出来るかも知れない〕。   (う) その存在という存在は 相対的なものであるから 互いに関係しあっている。  (4) すなわち 前項の(う)については そこからさらに次のように考えられます。   (え) ただしその相互の存在関係は 互いに依存しあう側面すらあっても ヒトの場合は――つまり社会的なあくまで関係性としてある存在であっても―― その自然本性として中核を成す自由意志が 一人ひとりに〔相対的な〕独立性を持って発揮されるからには その意味での《独立性》をも同時に持つ。と考えられる。  (仮りに複数の人間による共同でひとつの意志があるとしても それが発揮されるのは 個々の人間それぞれによってに限られる)。     (お) つまり そのとき 《補完》というのは そぐわない。と考えられる。   (か) すなわち ひとりの人間として《わたしがわたしである》ことは あたかも――あたかもです あたかも――《独り満ち足りている》かのごとくその相対的で関係性の内にありながらの独立性・自立性を持ち得る。  (5) それとも  ここで《補完》という場合には 容易には知り得ないもっと深い意味があるのでしょうか?  よろしくどうぞ。

みんなの回答

回答No.4

「宇宙は自己の補完である」というのを換言すれば、 「自我仮説(時間軸=時間の流れ=記憶=過去=超光速)」と 「時空仮説(空間軸=空間の広がり=予測=未来=光速下)」 は相補分化している、という事です。 多少違うのは、『宇宙』という場合には、空間だけでなく 時間的流れも加わって存在性が可能になっており、 『自己』という場合は、時間だけでなく空間的広がりも 加わって意識が可能になっている、というオーバーラップ においてです。 この「相補分化」において、物理の根源(超弦=量子定常波) である量子性=不確定性原理は可能になっているのです。 即ち、「位置(S)と運動量(St/エネルギー)、時点(T)と 質量(Ts/エネルギー)の2対のそれぞれが相補的不確定性を 成す(一方を確定化しようとすると他方が無限不確定に発散 する(=無))」という時の相補性は、先に「相補分化」した 自我仮説(T)と時空仮説(S)の仮説的延長(階層現象的な 表面的定性化(経験的にいい加減に捉える)による非光速性 に依拠した)における直交基底において可能になっているの です。 つまり、物理の2大柱、量子論は、その仮説的延長における 無=不確定性無限の分化(*)として自動的に導かれ、また そこにおいて超光速領域が過去化する事で、光速限界=相対性 理論も自ずと現れるのです。 (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づい ており無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と 等しくなります。この「絶対無=不確定性無限」において、 その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的 に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン) の向うに自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識 するのです)

bragelonne
質問者

お礼

 ぷしゅてくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  分からないからには 質問をかさねて行くしかありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「自我仮説(時間軸=時間の流れ=記憶=過去=超光速)」と  「時空仮説(空間軸=空間の広がり=予測=未来=光速下)」  は相補分化している、  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (6) 《自我仮説》と《時空仮説》とのふたつで 《宇宙》つまりこの世界や特にヒトなる存在は成り立っているということですか? 宇宙には ほかにはないということですか?  (7) もしふたつの仮説のほかには宇宙には何もないのだとしますと これらふたつのものが何故《相補分化》したのですか?   (8) もとは宇宙としてひとつであったものが 相補分化した状態にある。ゆえに この自我仮説と時空仮説とは 互いに補完しあう。ということですか? 分かれ切ったわけではないということですか?  (9) あるいはつまり この《相補分化》というのは むしろ――推測によってものをたずねますが――《分化》していないのではないですか? ただ認識の上で ふたつの仮説に分析的に分けて捉えているだけなのではないですか?  (10) つまり要するに《自我仮説》と《時空仮説》とは 宇宙そのものとしてその全体としてひとつの存在の中に互いにじゅうぶん・つねにつながっているのではないですか? あるいはもっと言えば ふたつの仮説の内容は つねに一体であり けっきょく《ひとつ》なのではないですか?  (11) あるいはつまり宇宙が つねにその要素として自我仮説と時空仮説とに 分析して捉えられるとしてもつねにそれらは一体であり分けられないと見るとした場合 そのことは取りも直さず ヒトにおいても当てはまるのであって 人間はそれぞれが つねに《自我仮説および時空仮説の一体となった中身をもった存在》であると言えませんか?  (12) ★ ~~~~~~~~~~   「自我仮説(時間軸=時間の流れ=記憶=過去=超光速)」と   「時空仮説(空間軸=空間の広がり=予測=未来=光速下)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば《過去》と《未来》とは ワタシの生きるこの《現在》のうちに一体となって存在するのではないですか?  (13) 《宇宙は自己の補完である》と表現した場合 それはむしろ     ○ 《自我仮説および時空仮説の一体となったひとりの存在》である自己      つまり《わたし》と《宇宙》との関係を問うという視点  なのではないのですか?   (14) あるいはつまり 《自我仮説》とは 人間にとって どういうコトですか? 《時空仮説》とは どうなのでしょう? ふたつとも人間つまり《わたし》なる自己におさまるコトなのではないですか? いま・ここなるワタシの《階層現象表面的仮象》のうえにも 収斂して一体となっておさまっている。のではないですか?  (15) 《補完》というのは すでにふたつの相異なる存在どうしが何らかの相互影響を与え合うということであって すでに《一体であるものの内で その部分要素が互いにその機能をおぎない合う》ということには用いないのではないですか? あるいは用いたとしてもここでの《宇宙は自己の補完である》の場合は 別々の存在どうしを言っていますから 当てはまらないと思われます。  ★ この「相補分化」において、物理の根源(超弦=量子定常波)である量子性=不確定性原理は可能になっているのです。  ☆ (16) このコトと 人間のワタシとは どういう関係にありますか? 存在にとっては関係ないのではないですか? つまりただそう認識するのみというコトなのではないですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~  即ち、  「位置(S)と運動量(St/エネルギー)、   時点(T)と質量(Ts/エネルギー)  の2対のそれぞれが相補的不確定性を成す (一方を確定化しようとすると他方が無限不確定に発散  する(=無))」  という時の相補性は、  先に「相補分化」した  自我仮説(T)と時空仮説(S)の仮説的延長  (階層現象的な表面的定性化(経験的にいい加減に捉える)による非光速性  に依拠した)  における直交基底において可能になっているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (17) 《非光速性》が分からないのですが それでも この《可能になっている》コトは もともと《一体であった自我仮説および時空仮説としての宇宙》についてのひとつの説明である。ということではないのですか?   (18) つまり《宇宙は自己の補完である》という命題については 何も説明していないのではないですか? つまりもともと 何か特別の補完関係にあるものが 自己と宇宙とのあいだにあるというのではなかった・このことが確認されているだけなのではないですか?     ★ 超光速領域が過去化する  ☆(19) というのではなく ワタシが生きるというとき そのワタシは時間的存在であると同時に空間的存在でもある(あるいはまた そのぎゃく)であることを言ったに過ぎないのではないですか? つまり人間は 時空間を生きているということを言ったに過ぎないのではないですか?  ★ ・・・超光速領域が過去化する事で、光速限界=相対性理論も自ずと現れるのです。  ☆(20)  いえ。たぶん やはりワタシが生きるとき そのワタシなる存在は 時空間としての存在であって その人間は互いに相対的な存在であるということを捉えているなら 相対性理論は 得られるということではないですか? 《理論が現われる》のではないでしょう。    ★ (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  ☆(21) この《無限につめ込むと》というコトは 経験的に実験できることですか? 推論の問題ですか? つまり推論のみによるとすれば 《存在が 無と等しくなる》ということは経験現象としてはないわけですか?  ★ この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ☆(22) つまりこの《絶対無=不確定性無限》というのは架空のものですね?  (23) あるいは言いかえると この《不確定な存在》として 人間なら人間が すでに自我仮説および時空仮説の一体となった中身をもって生きている。ということであって 《宇宙と自己とのあいだに補完関係がある》というのは 言い過ぎなのではないですか?  (24)★ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ☆ ここで認識するという《自己の補完(相補的不確定性)》は・つまりそれ《としての宇宙》は もともと自我仮説および時空仮説の一体となったワタシなる存在の中身としてあったものではないですか? 《絶対無》を想定しそこからあらためて 過去と未来 あるいは 心と物といった双対をそれぞれ互いに補完関係にあると見直した。こう言っているのではないですか?

noname#183015
noname#183015
回答No.3

ANo1です。 反論ではありません。なぜか? 質問内容が《宇宙は 自己の補完である》との意味。 を私が、どのように考えるのかですから。 先ず、宇宙が理解されていません私です。 至近な先人の言葉に理解を頼った判断を申し上げました。 お気に召さなかったら、スル~してください。 《地球家族》これは自己=ヒト=社会から 表題の意味内容とかかわっています。 質問者さんは 次の意味は分かる。 >ヒトは 宇宙の中に存在する。 >人の存在は小宇宙と呼ばれる。 >その存在は相対的なもの。 →これ以後、私と歯車が合わないと感じられます。 >互いに依存しあう? →宇宙はヒトには依存しては居ないのではと考えます。 >社会的な関係性の存在であっても? →ヒトの思惑など宇宙は関係がないのでは、と考えます。 >その自然本性? →宇宙の心理はヒトの想像以上なのではないのでしょうか、 若し図る事が可能ならヒトを語る事が可能なのですが、 ヒトの宇宙理解が不完全なのです。→小宇宙論へ。 だからヒトには宇宙が必要だと思います、ヒトが依存です。 >「宇宙的な中核を成す自由意志? →思考は各ヒトの勝手な事は否定されてはいません。 >ですから、一人ひとりに〔相対的な〕独立性を持って発揮されるし、 その意味での《独立性》をも同時に持つ。と考えられる。 →否定をされるものでは在りません。 >つまりそのとき《補完》というのは そぐわない。 →そ~ですね、ヒトは宇宙からして補完にもならないのではと思います。 >すなわち ひとりの人間として《わたしがわたしである》ことは、 あたかも、あたかも《独り満ち足りている》かのごとく その相対的で関係性の内にありながらの独立性・自立性を持ち得る。 →宇宙を考える事は、妄想です。地球上ではヒトにしか出来ないとされています。 でも猿の思考がヒトを上まってつていて、既に思考を停止したのかもと、 妄想しますと、ヒトの妄想も信用できません。 《補完》という意味があまりに尊大な思考で有るのだ!と言う事に成ります。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。さほど見解が異なるのではないと分かりました。というより わたしは《補完》という言葉じたいに対して カンカンになって怒りました。  ゆりこ3さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。  一つひとつ見てまいります。  ★ 《地球家族》これは自己=ヒト=社会から / 表題の意味内容とかかわっています。  ☆ ええ。すでにその言葉を拾い上げてきた質問は 削除されてしまいましたが わたしもそのように《かかわりがある》と見ました。  ★ ~~~~~~~~~~   >互いに依存しあう?  →宇宙はヒトには依存しては居ないのではと考えます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そうでもあるでしょうし そうではない場合もあると思います。   つまりは 《宇宙》を ほかの人びとととれば 難なく《相互依存の関係にある》と言えると思いますから。  ★ >社会的な関係性の存在であっても? →ヒトの思惑など宇宙は関係がないのでは、と考えます。  ☆ これも おっしゃるとおり自然環界が 人間やその思わくに左右されるわけではない。  と同時に 自然を保護するか汚染するかの点では 関係がありそうです。  そして 前項で述べたように 《宇宙》が《人びと》のことだとしたら やはり関係しあっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~    >その自然本性?  →宇宙の心理はヒトの想像以上なのではないのでしょうか、  若し図る事が可能ならヒトを語る事が可能なのですが、  ヒトの宇宙理解が不完全なのです。→小宇宙論へ。  だからヒトには宇宙が必要だと思います、ヒトが依存です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 地球を超えたその宇宙にかんしては つけ加えることもないと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~    >「宇宙的な中核を成す自由意志?  →思考は各ヒトの勝手な事は否定されてはいません。    >ですから、一人ひとりに〔相対的な〕独立性を持って発揮されるし、    その意味での《独立性》をも同時に持つ。と考えられる。  →否定をされるものでは在りません。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうやって見てまいりますと 《宇宙》の意味をどう取っているかで 少し食い違いが出て来ているのかも知れません。  自然環界にかんしては おっしゃることをそのまま理解します。  そして宇宙には この地球世界もふくまれており 中んづく 《人間》をふくむと思われ それをどう扱うかが 質問者には焦点となっているのかも知れません。(ただし もし量子論との関係が この《宇宙は自己の補完である》という命題にあるのなら それ相応の理論があるのかも分かりません。これは なおその回答を俟ちます)。  ★ >つまりそのとき《補完》というのは そぐわない。 →そ~ですね、ヒトは宇宙からして補完にもならないのではと思います。  ☆ ということは ヒトからすれば宇宙は それぞれの人にとって補完してくれる。ということですね。  回答No.2におけるやり取りで書いたのですが もし人間にかんしてなら    補完は ひとの能力や性質などについて 互いにおぎない合うことはある。    と同時に もしヒトという存在それ自体にかんしてなら 相対的な存在で   ありつつも 互いの存在関係としては 同時にその存在についての認識が   成るのであって 誰かが ほかの誰かよりも早く認識されて その認識が   遅かった人は 早かった人によって補完される・・・というようなことは   ない。  と考えられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~    >すなわち ひとりの人間として《わたしがわたしである》ことは、    あたかも、あたかも《独り満ち足りている》かのごとく    その相対的で関係性の内にありながらの独立性・自立性を持ち得る。  →宇宙を考える事は、妄想です。地球上ではヒトにしか出来ないとされています。  でも猿の思考がヒトを上まってつていて、既に思考を停止したのかもと、  妄想しますと、ヒトの妄想も信用できません。  《補完》という意味があまりに尊大な思考で有るのだ!と言う事に成ります。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは いまひとつよくは分からなかったのですが こういうことでしょうか?  すなわち     ヒトは確かに宇宙から見れば ちいさな存在である。     そして実際に宇宙ないし自然の環境の中に生活しており あるいは生物や鉱物    によってそのモノじたいをおぎなわれつつ生きている。     けれども それを《補完》と言っている。たしかに しかも宇宙の側は ヒト    によっておぎなわれているわけではないにもかかわらずに。     このとき そこまで人間が 《宇宙》の側に立ち宇宙の味方をして話をつくる    必要もないのではないか。     ただふつうに単純にヒトも生物もほかの宇宙のもろもろのモノゴトも そこで    共存しているというだけのことではないか。  いや分かりません。  あるいはつまり 量子論だかほかの自然科学の理論だかによって それとしての説明を聞かないことには 何をどう扱えばよいかが分かりがたい。ということかも知れません。どうなんでしょうね。

noname#194996
noname#194996
回答No.2

>宇宙は 自己の補完である 私としてはさほど大層な意味はこれにはない、と思っています。一見至極当然なことではないでしょうか。 客観的に宇宙とわたしを見た場合、宇宙があって、それの一部分としてわたし(自己)がある。わたしのそばの他人(家族含め)も、もちろん宇宙(わたしでない宇宙の一部)です。 その二つの関係が、お互いに補完の関係にある。これは疑えない事実でしょう。 わたしには様々な可能性がありますが、わたしにない、わたしをカヴァーしてくれる可能性を宇宙は持っていると言う意味、そう私は考えています。いつもの通り、シンプルな考え方しか出来ません。 ご参考になれば。

bragelonne
質問者

お礼

 こまあす88さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ええ。ふつうにそのおっしゃるようにわたしも解釈しています。それでは 見落としがあるのかも知れないと思って 問いました。  ★ 客観的に宇宙とわたしを見た場合、宇宙があって、それの一部分としてわたし(自己)がある。わたしのそばの他人(家族含め)も、もちろん宇宙(わたしでない宇宙の一部)です。  ☆ よね。  ★ その二つの関係が、お互いに補完の関係にある。これは疑えない事実でしょう。  ☆ おそらく言おうとするところは 前項と同じくであって 異なる見解とは思えません。  ただし中で 《補完》という用語にはわたしは――回答No.1へのお礼欄で そこでは《共同自治》という主題のもとにでしたが 関連して述べました そのように――抵抗があります。  片や 人間という相対的で互いに社会的に共存する存在どうしであるという関係性と 片や 一人の個人としての特には自由意志によってそれぞれがおのれの社会的行為をおこなっているというその意味での独立性と これらの両方が同時に成立すると考えています。  とすると 《補完》という言葉は 考え方として一方の側面である《独立性》をないがしろにするおそれがある。よって 抵抗を持つ。と考えています。  ★ わたしには様々な可能性がありますが、わたしにない、わたしをカヴァーしてくれる可能性を宇宙は持っていると言う意味、そう私は考えています。いつもの通り、シンプルな考え方しか出来ません。  ☆ 片や ふつうにそのとおりであると考えると同時に 片やそのときの《カヴァーしてくれる可能性》という表現には 抵抗感がやはり残ります。    というのは その《カヴァー》としての意味が 《補完性》と同じものであって もしその補完性を抜きにしては 《わたしがわたしである》という存在のあり方が 成り立ち得ないということであれば それには異を唱えたい。こう思います。  その《補完性》は 存在〔としての《わたし》〕にとってではなく そうではなく 言わば存在にとって共生して行く上でのさまざまな属性としてであれば よいと考えます。  つまり おまえはぶっきらぼうであるから 愛想のよさという性質を属性として 周りの人びとという宇宙は 補完してくれる。というのなら 分かります。  もし《存在》としても ほかの人間がいて初めて成り立つというのであれば それは それぞれの《わたし》どうしが そういう社会的な関係性なる存在として 同時に成り立つということだと考えます。  つまり わたしの存在は ほかの人びとの存在を俟って初めて成り立つという場合には なぜそのように――わたしとほかの人とのあいだに――時間差を持つかたちで規定しなければならないのか? と問い返したい気持ちになります。  《関係性》としての存在なら すでにつねにそれぞれの《わたし》どうしが 同時に互いの成り立ちを認識するものであろう。と考えます。――これは 表現として《補完》というよりは 《相対性》や《社会的な動物であるという関係性》の問題である。言いかえれば そのような相対的な存在であっても 互いに同時に成立したということは もしその存在が互いに補完し合っていると言うのなら その存在が認識された時点で《補完し合い終えている》。となると考えます。  そのあと存在ではなく その性質ないし属性が互いにおぎない合われるという場合には 何の問題もなくそのように捉えられると思います。補完性と言ってもよいはずです。  最新の質問の中から拾った言葉ですが この《宇宙は自己の補完である》ですとかあるいは おそらくそこから派生させたところの《ひとはみな互いに地球家族であること――さらには そこに原始共産制を見ると言います――》ですとかに関連して これはあらためて一度きちんと整理しておかないとダメではないかと考えました。  例の量子論もからんでいるようで もう少し様子を見てみます。つまり そういった回答を俟つことにします。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄で 《最新の質問から拾った》と言いましたが いま見ると その質問は削除されたようです。  でもこの主題は 広く一般的なものですから ひきつづいて回答を俟ちたいと思います。

noname#183015
noname#183015
回答No.1

おはようございます。 宇宙は…ですから、自己の…ヨリ前です。 補完性原理(ほかんせいげんり)。 決定や自治などをおこなう自己は、最少単位。 これら単位で出来ない事ことを、 より大きな単位の団体、宇宙で補完していくという概念。 補完性 原則。英語でサブシディアリティともいう。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます ゆりこ3さん。ご回答をありがとうございます。  ▲ (ヰキぺ:補完性原理) ~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E5%AE%8C%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86 (ほかんせいげんり)とは、   決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念。  補完性原則、あるい英語からサブシディアリティともいう。  § 2 補完性原理の起源  補完性原理というのは、基本的には個人や小規模グループのできないことだけを政府がカバーするという考え方である。  この考えの基本には「個人の尊厳」があり、国家や政府が個人に奉仕するという考え方がある。  補完性原理は個人および個人からなる小グループ(家族、教会、ボランティアグループ)のイニシアティブを重視する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも《共同自治》のひとつの原則を言おうとしたもののようですね。  おそらく一点において マチガイを有していると考えます。  いわゆる市民社会 つまり社会を形成して共生する人びとのふつうの人間どうしとしてのヨコの関係から成る社会 これは たしかにその上にもっぱらの公民が構成して住む第二階をつくって 国の家としては二階建て構造になりました。成りましたが 何も一階の住民は 二階の人びとにたましいを売ったわけではありません。公民によって市民らは奴隷となったわけではありません。  むしろいわゆる主権をたもちつつ ただ単に仮りにその全体の経営をまかせただけのことです。しかもつねに 自分たちの税金でこのもっぱらの公民たちを食わせてやって来ています。雇ってやっているに過ぎません。  よろしく経営せよということはあっても おありがとうごぜえますだとは言っていません。もしそう言ったとしても それは公民たちの威丈高の姿勢に合わせてやっただけのことです。  つまり 決して・決して・決して 市民社会は お二階の経営陣たちによってその生活共同を《補完》してもらっているわけではありません。雇われ役人たちが 市民社会のためにはたらくのは むろんとうぜんのことです。  そうして 公民の仕事は すべからく人びと一般の共生および共同自治の施策の一環であるに過ぎません。《補完》などという言葉は 一階と二階とを逆立ちさせて来たところより錯覚を起こしさらにはこれを保守するといった血迷った精神から出て来ているに過ぎないでしょう。  と考えます。  反論をお俟ちします。