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幻想と現実の狭間で

幻想、頭の中だけで考えられた事柄と、現実、考えではなく厳然としてあるものとの間に、自分があるような感覚でいます。 完全に現実的になることも、完全に幻想的になる事も叶いませんが、多かれ少なかれ、人というものはそのような狭間に生きているのではないかと思います。 先日、このカテゴリにて、幻想を捨てて、現実的になるべき、と言うような旨のご意見を頂いたのですが、このご意見をうまく自分のものとする事が出来ないでいます。 どの程度現実的でいられて、どの程度なら幻想も許されるのでしょうか。どのような生き方が、調和の取れたものと言いえるでしょうか。

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  • kanto-i
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回答No.15

私の見方考え方です。 幻想は、あくまでも幻なので私は追いかけません。 想像はやります。 事実認識を見直して、そこから組み立てる 発展性のある想像が主です。 現実は、想像したものをやり方に移行して行動したことが現実です。 実りが現れたから現実と言えますね。 何をどのように実らせたいかが、現実を作っていく原動力です。 他の人から見て幻想のように見えたとした内容でも、事実から組み立てていけば 実現可能なので他者の意見は問題ありません。 他者に制限をかけられて、鵜呑みにすることは無いようにしています。 常識で考えてありえるかありえないかなど、私にはどうでもいいことです。 何を現実にしたいか。 それだけが存在する現実を創りだすものだと思います。 あなたに、より良き現実が訪れんことを。

noname#181644
質問者

お礼

具体的かつ力強い御回答有り難うございます。大変参考になりました。

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回答No.5

もう一度立ち返るというのは、 具体的に「沈黙した生活を執り行う」ということです。 今ならまだ取り返しがつきます。 質問者様の使用されている用語について 「幻想と現実の狭間」を分析すると、 事実として 「狭間」が存在しません。 証明)この狭間を計測しようとすると計測機会・機器がない。単位としてあらわすことができない。距離としてのはざまは、実際 存在しない。ゆえに狭間自体が存在しない。 原因として述べるべきことは、幻想そして幻想のようなものが、存在しないので、 「そのなんだかわからないもの」と 現実の「存在」との距離は、測るにあたわない。 霊魂の重量は何キログラムですか?と質問しているのと同じです。 答えがファンタジーになってしまうということです。 ストーカーが、お前と俺は「神の霊魂」でつながっている!と叫んで 痴漢ストーカー行為を繰り返しているのと同じです。 ようは、怒りっぽい昔の自分とつながりを切りたくない「ノスタルジックな自分」「ブルーな自分・アグレッシブな自分に酔いどれているだけです。酔いから覚め、学問やスポーツで心身を鍛えるべきです。

noname#181644
質問者

お礼

たしかに、現実に立ち返れば今よりもこう言った事柄に関しては無口になると思われます。 酔いから覚め、(学問やスポーツに身を投じえるほどの余裕は今はありませんが、)地に足の着いた生活を営みたいものです。 幻想に関しては、心理学的アプローチの方が優れているのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.4

>人として抱える正邪の矛盾を包含してそれを超えているような、 >人間の完成を見るような在り方が正しい というのは 私の言葉ではありません。 完成は 私が取りざたしたものではありません。 でも照査・組上はでききますし、 体系的にとり進めていくことができます。 手がかりはそこにあります。大風呂敷は幻想への逆行です。 >人間の完成 などという命題は どうでもよいこと と発言する人は、人間ができていない。 その人が こんなことを言う料簡ではないという事実に目を向けるべきです。 人間ができておらず「こうだったらよかったのに実現できなかった」と毎日愚痴をこぼしている 失敗者の意見をきいても成功につながることは、まずないでしょう。 どっちを信じるかはあなたの自由ですし。すっからかんに何を詰めてもすっからかんのままです。底なしです。大体私は文学ではない。文学は読むもので抱くものではない。 こいつの言葉に信憑性がないと一方で宣伝し、他方で、聖書・パウルスの宣伝広告は欠かさない。 プロパガンダとはこのことです。 パウロスが キリストそのひと とは関係なく 迫害まで堂々としておきながら、鞍替えしたペテン師である という事実は歴史が証明しています。僧の俗性インタレストが、悪であるといわれる根本原因そのひとです。 基礎的用語・誰でも知ってることに関しても、ほとんど何も知らないのに「大風呂敷を広げるのはいいことだ」ということだけを主張するは、ばかげています。 俺は自己表現をしているだけだ、邪魔するな!なにがわるい!うるさい!というのは、他人の邪魔をするだけで面白がっている高齢頑固ぢぢいです。 「これからなにかいれればいいんだろ」と突っかかってくるくせに、結局何もわからなくて「おしえてください」と頭を下げてくる。分別がない無節操な人間=キリスト者の典型です。 ま じぶんできめることですね。

noname#181644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 先日の、ユニコーンの喩えは分かりやすかったです。 自分は大風呂敷を広げるつもりはなかったのですが、虚勢を張っていたというのはあるでしょう。その点から見直して行こうと思います。

回答No.3

たとえば、1匹の犬を見たとしても人によって 印象は違います。犬好きな人ならかわいいと思うでしょう。 嫌いな人なら怖いと感じるかもしれません。 潔癖症なら汚いと思うでしょう。 同じ犬なのに、なぜ感じ方が違うのでしょう。 それは、人は犬そのものをそのまま見ずに 犬を見たときに自分の脳が作ったイメージを見ている からです。人間は、何を見ても聞いても考えても それは自分が作ったイメージ(幻想)であって 現実を認識できません。 すべては幻想です。すべては幻想だという考え方も 幻想です。すべては幻想だと言っている自己も幻想なんです。

noname#181644
質問者

お礼

今ちょうどそのことを考えていたところです。ご回答ありがとうございます。 果たして、現実を直接に示唆する言葉は存在するのだろうかと。例えば月と言った時、月と言う言葉の組成は何から成り立っているのだろうと。 現実の事象を言葉に置き換える時に、何か中身を一つでも、言葉に付帯することができるだろうかと。むしろ言葉自体が間接的な代物であって、その中身は常に揺らいでおり、実態は箱のような代物で、中身は常に現実から供給されているのではないかと。むしろそうであってこそ言葉が言葉として機能するとしたら、人間の心象と言うあやふやなものでさえ、言葉にできるならば、その存在を確かに認知せざるを得ない。。 何か考えが進んだ気がいたします。

回答No.2

 こんにちは。  ひとつの観点からです。  ◆(某なな・・・) ~~~~  完成は、部分の整斉・組上から始まります。  言葉が整理できていない現状で大風呂敷を広げ、「何か自分で分かってもいないこと」を語ろうとしているようです。出発点に引き返して、もっと確実な手がかりを作ってから先に進むほうがいいと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) 《完成》ないし《完全》は 有限でうつろいゆく存在にとって それほどこだわらなくてよいと考えます。  或る程度は 文学的な修辞であると見られます。  パウロは 次のように相い矛盾するふたつの命題を語っています。  (あ) ・・・わたしが完全であると言おうとするものではない。(=むろん不完全である)。  (い) ・・・わたしのように完全な者になりなさい。(=過程をあゆむその姿は むろん不完全であるが あやまちを犯してもただちに我れに立ち帰ることが出来て その立ち帰り方はすでに完全であると自負している)。  (2) 《大風呂敷を広げた》なら そこにしかるべきモノをじゅうぶん一杯になるように容れて包み込めばよいわけです。  No.1さんも言っていますが かつての《幻想》は やがて《現実》になることもあります。  ならなければ ならなかったなぁと振り返ればよいわけです。  《確実な手掛かり》は すでに広げた大風呂敷をたずさえて 歩きながら問い求め 得るようにすればよいでしょう。  《言葉が整理できていない》からこそ ひとは《自己表出》するのだと思います。ただの心のさけびであってもこれを表出します。概念で整理して しっかりとした自己表現に書き直していけばよいのではないでしょうか。  (3) 《現実》は もっと大きな広い実態としてあり そういう概念として捉えられると思います。  つまりは 《想像・幻想》をも容れたかたちの上位概念としての現実が 現実ではないでしょうか。

noname#181644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 励まされたような気持ちでいます。 現実が幻想の上位概念、であるならば、今の私の幻想を持った生き方は、まっとうでないと言えそうですが、おっしゃるように中身を求めて、確かな歩みとできるように、努力したいと思います。

  • SPROCKETER
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回答No.1

 人間という生き物は野生世界の弱肉強食の現実があまりにも厳し過ぎたので、道具を発明した後は、それを使って仮想現実を作り出して、世界を変えるようになり、それが文明へと繋がったようです。  現在の貨幣経済にしても、紙幣という仮想現実を作り出した結果、成り立っている経済社会であって、紙幣が価値を持たなくなれば、野生世界と同じで、食料を得る為に自然界で争わなければなりません。  産業社会や情報社会にしても、古代人から見れば、実現不可能な幻想に過ぎないものです。飛行機で空を飛んだり、ロケットで宇宙を飛ぶのも、古代人から見れば、夢や幻想の産物に過ぎませんでした。  鏡の中に現実の世界を記憶して残すという古代人の願望は、現在、DVDやBDなどの光学ディスクという形で現実化しています。デジカメ写真の実現で、自分の姿を色褪せることなく、半永久的に残すのも可能になりましたし、壊れたら作り直さなければならなかった道具や機械類も、何度も復元生産出来る3Dプリンタという技術が普及期に入りつつあります。地球上の全ての地域の情報を知りたいという願望も、インターネットの実現で現実のものとなりました。もはや、魔法の世界と呼んでも良い社会が実現しているのが、現在の状況です。  幻想か、現実かではなくて、幻想だったものが現実になっていく過程にあるのが現在であるのが実態でしょう。今後、ますます魔法のような技術が実現するようになり、それと共に、我々の価値観も魔法使いの考え方に近づいていくのではないかと思います。

noname#181644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 科学技術の発達は目覚しいものがありますよね。それこそ私のような凡人には魔法の世界以外の何物でもありませんが、生産の現場からすれば、緻密な実験や観察、技術の積み重ねで作られているのであり、まごう事なき現実の世界であると考えられます。そのような、生産と消費の立場の違いによる認識の質的ギャップが拡大しているのが、今と言う世界なのかもしれないと思いました。

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