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クメール帝国の首都発見か。
最近の新聞記事ですが、クメール帝国の首都が見つかったそうです。 当時の日本とクメール王朝(802-1431)とは何らかの関係がありますか。 例えば、クメールの産物が日本へ来ているとか、クメールの人と中国で出会った記録があるとか。 また、新聞記事では「帝国」となっていますが、世界史では「帝国」と呼ばれているのですか。 よろしくお願いします。 日本経済新聞 カンボジアで巨大遺跡発見 クメール帝国首都か 筑波大などの国際研究チーム http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG28007_Y3A620C1000000/
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802年にジャワから独立し、その後巨大な遺跡を残すほど繁栄したクメール王朝ですが 世界史的には「帝国」とまでは呼ばれていたかどうかはわかりません。 日本では「クメール王国」と呼ばれるのが普通のようですね。 ただ、唐への朝貢記録はクメール再興後の813年と814年以後途絶えてしまうんです。 これをどう解釈するかですね。 衰えたりとはいえ大唐帝国は907年まで続きますから、まだまだ周辺諸国への 影響力は侮れません。この時期に朝貢をやめてしまうというのは、かなり思い切った行動です。 おそらく自分たちの国は大唐帝国と並ぶ帝国なのだという意識があったと 考えるのが自然だろうと思います。
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- PopoAmin
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一世紀から十世紀初頭までの朝貢記録を調べてみました。 天竺(インド)波斯(ペルシャ)大食(アラブ)等は古くから中国へ朝貢していますね。 天竺は2世紀(西暦159年)から朝貢しています。 さてここで真蝋(カンボジア)からの朝貢が記録されているのは 永淳元年(682年)が最初のようです。真蝋というのは初期クメール王朝です。 その後真蝋は陸真蝋(北部)と水真蝋(南部)に分裂しますが両方とも朝貢を続けます。 750年に陸真蝋が朝貢したあと、813年に朝貢が復活するまで真蝋からの朝貢は中断します。 774年ごろから802年まで真蝋はジャワのシャイレーンドラ朝の 侵略を受けて占領されていたんです。朝貢がないのはそのためです。 その後ジャヤヴァルマン2世(在位802~834)が802年にジャワからの 独立を果たします。クメールがクメール帝国とまで呼ばれるほど発展したのはその後ですね。 この王はカンボジアに残る刻文資料によると750年頃生まれて770年頃まで ジャワで育ったようです。 さてクメール王朝(真臘)からの朝貢が682年からとなりますと、 当時は日本から遣唐使が行っていました。 遣唐使とクメール王朝からの朝貢使が出会った可能性があるのは717年です。 この年にはクメール王朝からの朝貢がありましたが、 同じ717年には日本からも遣唐使が行ってます。 このとき日本から行ったのは阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉といった面々でした。 それ以外は両者は最も近くても4~5年外れています。 カンボジアやベトナムからは伽羅や白檀といった香木が産出しましたから 当然平安時代の日本にもそういった香木が唐を経由して輸入されていたはずです。 平安貴族の暮らしには高価な香木が不可欠でしたし、仏教の儀式にも使われています。 それらの香木は海のシルクロードと呼ばれる海域アジア世界から 海路で中国へもたらされていたのです。
- tanuki4u
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http://edition.cnn.com/2013/07/01/travel/cambodia-temple-discovery ニュースでは Angkor was the capital of the Khmer Empire なんて説明している 東南アジアと中国ですと、基本はベトナムまでが朝貢国でしたので、クメール関係は聞きませんね。 清朝ですと、タイが出てきますが、そのころにはクメール王朝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%B5%84 ちょっと前だと義浄が立ち寄ったんですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 Angkorは、産業革命以前の世界では、世界的な大都市だったのですね。 「帝国」と呼んでもよいのではないかと。 This makes Angkor the world's largest urban conurbation prior to Britain's 18th-century Industrial 日本人が主体で発見したのかと思っていましたが、CNNを読むと日本人は出てこないですね。大変参考になりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 伽羅や白檀について調べました。 正倉院御物の中に、今となっては産地を特定できなくても、クメール原産のものがあるかも知れませんね。 遣唐使がクメールの使節と唐の都で出会った可能性もありますね。 ご回答のお陰でクメールを身近に感じるようになりました。 >ただ、唐への朝貢記録はクメール再興後の813年と814年以後途絶えてしまうんです。 これをどう解釈するかですね。 私では解釈どころか想像すらできませんが、 「おそらく自分たちの国は大唐帝国と並ぶ帝国なのだという意識があったと考えるのが自然だろう」との解釈になるほどと納得しています。 丁寧なご回答、誠にありがとうございました。