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三島「金閣寺」と水上「金閣炎上」
三島由紀夫の「金閣寺」を読まれた方、水上勉の「金閣炎上」を読まれた方、そのいずれかでもかまいませんし、両者を読まれた方でもかまいません。ご感想を聞かせて下さい。
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どっちも読みました。 三島由紀夫の「金閣寺」も水上勉の「金閣炎上」も、いずれも放火犯林養賢に対する、詳細にわたる、精力的な取材にもとづいて制作されている点では共通しますが、小説制作におけるその活用のされ方という点で、両者はほとんど好対照の関係にあると言えるのではないでしょうか。 三島の「金閣寺」の場合、入念な取材を通じて放火犯の放火の動機を探り、それを自分自身の問題と捉えることができたからこそ、良くも悪くも三島色に潤色された放火の動機、放火に至る犯人の心理を描く小説が出来上がったのではないでしょうか。 その意味では、「金閣寺」は、きわめてオーソドックスな芸術制作の手順、手続きを経て制作された近代小説であり、主人公は作者の血を分与された、まさに作者の分身そのものであると言えます。 その点、読者には、主人公の【語り】と作者自身の【独白】との区別ができないと言うか、主人公はあまりにも三島自身の美意識、現実世界・他者に対する忌避・憎悪の念を代弁しすぎているが故に、良くも悪くも三島自身の【観念小説】と評されざるを得ないような気がします。 一方、水上の「金閣炎上」の場合、彼の後期の他の作品がそうであるように、常識的な意味での小説と言うよりも、一種のノンフィクション、実録、ドキュメンタリー小説とでも評し得るのではないでしょうか。 言い換えますと、水上の場合、あくまでも、国宝金閣に放火するという前代未聞の大事件を起こさざるを得なかった林養賢という、一人物の実像にできるだけ肉薄することが「金閣炎上」の主動機だったと考えられます。 それは、彼も貧しい境遇で生まれ育ち、京都の寺に徒弟僧として預けられ、逃亡を謀って連れ戻されたりしただけに、自分自身の過去と林養賢の境遇とを重ね合わせざるを得なかったからでしょうね。 三島の場合、小説の主人公は、たとえ実在の人物がモデルとなった場合でも、十分に抽象化され、三島自身の内面世界を分与され、さらには作者の分身として観念化・典型化され、こうして三島自身の命を吹き込まれ、作中に蘇生させられていると言えるのではないでしょうか。 以上のように、三島と水上とでは、そもそも小説観、芸術観、特に小説制作の根本動機が互いに大きく異なっていたが故に、同じ現実上の事件、人物をモデルにしつつも、結果的に「金閣寺」と「金閣炎上」とが互いに似ても似つかぬ小説になったと考えられます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >主人公は作者の血を分与された、まさに作者の分身そのものであると言えます。 →そのように思っていましたが、水上の「金閣炎上」を読んでそのことをすっかり忘れていました。 >その点、読者には、主人公の【語り】と作者自身の【独白】との区別ができないと言うか、 →このあたりは難しいですね。もう一度三島を読み返してみます。 >主人公はあまりにも三島自身の美意識、現実世界・他者に対する忌避・憎悪の念を代弁しすぎているが故に、 >良くも悪くも三島自身の【観念小説】と評されざるを得ないような気がします。 →こうなると三島の読み方がさらに難しいですね。私はすぐにパトグラフィー的視点で三島を分析しようとしてしまいます。英語訳とか市川雷蔵主役の金閣寺なんかを見たりして、分析に集中してしまいます。文学そのものに没頭することが三島そのものになりきることなんでしょうか・・・? 水上も最初は推理小説から始めたみたいですが、何となく推理小説・社会派小説のような気がしました。どちらの金閣が好きかというと実際の林養賢を自身の姿になぞらえながら理解しようとする水上の姿勢に少し引かれます。三島が「金閣寺」を出すとすぐに「金閣炎上」を出すところは、三島に挑戦したような気がしました。水上の仏教を持ち上げ、最後にはすどーんと落とす姿勢にはとまどいを感じながら、仏教そのものにも新たな視点を与えてくれます。 ありがとうございました。三島の読み方を変えてみます。