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<マイノリティの利権>という「言説」

日本社会においては,<マイノリティの利権>という「言説」がありますが,マジョリティである「いわゆる純日本人」にとって,このような「言説」を「高らかに主張」することによって,どのような「メリット」が考えられるのでしょうか? 参考までに: 利権というものは,マイノリティだけの特徴ではありません。マジョリティの側に立つ人々のなかにも,なにかしらの利権から,さまざまな恩恵を受けている人々が多くいます。 わたし自身はマイノリティのひとりとして日本社会のなかで生活をしていますが,生まれてから一度も,<マイノリティの利権>による恩恵を受けたことがありません。ひとりのマイノリティとして,そのような「言説」が,さも事実であるかのように扱われることは,大変遺憾なことです。 <マイノリティの利権>という「言説」の社会的な背景には,マジョリティである「いわゆる純日本人」の「ネタミの心」があると,わたしは考えます。このことを,わたし自身の「経験」をとおして,考えてみることにします。 わたしは台湾系日本人です。そして,親や親族のつながりなど,さまざまな「良い影響」があったので,わたし自身はみずからの台湾との「つながり」を,大切なもの,欠けがえのないものとして受けとめています。 このような事情があって,わたしはたびたび,台湾系日本人,あるいは,台湾につながりをもつ日本人であることを,自己紹介のときなどに「主張」しています。 ところが,このような自己紹介をすることを,快く思わない「いわゆる純日本人」がいました。そういった人々にとっては,わたしがみずからのアイデンティティを「強調」することが,台湾系という,(「いわゆる純日本人」からみれば)特殊なアイデンティティを,「利権のようなもの」として扱っていると,「誤解」したと(あるいは,「曲解」したと),わたしは考えます。言葉をかえると,「ハーフであることが特権のようなものであるという,大きな誤解をした」ということになります。 日本社会という,マイノリティにたいしては「同化の強制」が存在する社会のなかにおいて,みずからのアイデンティティを確立することは,容易なことではありません。わたし自身の場合は,みずからの「日本のアイデンティティ」を第一に尊重したうえで(そうでないと,日本社会のなかで認められない),台湾系であることの「意味」,「意義」,「日本社会に貢献できる要素」を見出すことは,難しい作業でした。 多くの「いわゆる純日本人」にとっては,民族的なバックグラウンドというものは,「手にすることのできない,輝かしいもの」なのかもしれません。「ハーフにたいするあこがれ」というものがありますが,いまだに,そのような「幻想」をもっている「いわゆる純日本人」は少なくありません。 しかしながら,「みにくいアヒルの子」という童話のごとく,民族的なバックグラウンドを当事者が重要なアイデンティティとして受けいれるためには,さまざまな「試練」があることを,「いわゆる純日本人」は理解しなければなりません。

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  • booter
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回答No.6

こんばんは。 嫌な体験があった上でも日本を受け入れて下さっていること、偏見があること 私は小さい頃、どちらかというといじめられていた方なのでそうしたつらさは分かります。 厳密に言うともっともっと複雑なのですが、この話しはここで終わりにしておきます。 > では,次のポイントにいきます。 > 「我々が「過労死」しながら収めている税金を、それこそ働かないで受け取っている人がいるという現状が腹立たしいのです。まるで奴隷と王族ではありませんか。」 > このような主張にたいしては,たいがいの日本人が,一部の外国につながりをもつ人々,特定の民族集団にたいする「スケープゴート」として「利用」しています。 誤解があるようです。 私は特定の諸外国人を差別したいが為に、この名目を使って糾弾している訳ではありません。 何度も繰り返しますが、何人であれ、社会に対する貢献をせずにその恩恵だけ受けているのを非難しているのです。 > さらには,あなたが主張したい「問題」については,いわゆる同和地区とつながりのある人々も関係していませんか?  まさしくその通りです。日本人からは、生活保護を不正受給している人は日本人であれ、外国人であれ同じように嫌われています。 achievecharityさんが外国系の日本人であるから、非難が外国人、あるいは外国系日本人に対してのみに与えられているように思われているのかもしれませんが、実際にはそれらの非難は同じように等価で与えられています。 繰り返しますが、achievecharityさんが不正受給していないのであれば、それは非難の対象ではありません。 > 同和地区につながりのある人々は,外国出身者や,外国につながりをもつ人々ではありません。日本人,それも,いわゆる純日本人,のはずです。かつては,まったく人種の異なる人々であるとされたのですが。 いや、正確には人種が違うのではなく、階層が違うということだったのですよ。人種は同じです。 > あなたが主張するところの「奴隷と王族」というたとえのなかで,「王族」にはいるだろう人々は,いわゆる純日本人のほうが多いでしょう。なぜならば,日本社会には,外国出身者,外国につながりをもつ人々は,あまりいないからです。確かに,外国につながりをもつ人々が,あなたの主張するところの「王族」として,のうのうと暮らしている,ということも考えられるでしょう。しかしながら,それよりも,さらに多い数の,いわゆる純日本人が,あなたの主張するところの「王族」になっているのですから,「奴隷と王族」というたとえを使って,外国につながる人々,外国出身者を「たたく」ことは,「きわめてアンフェア」であると,わたしは考えます。 そうなると私は王族ということになりますが、私は以前仕事で過労で倒れたことがあります。過労で倒れる王族なんていますか? いや、確かに私は社会から差別的意識は感じたことは少しだけしかないですけれども、のうのうと暮らしている訳ではないのです。 が、ちょっと齟齬があるので整理します。 私の立ち位置からでは労働とその報酬に関する再分配が上手く機能していないという点で、「奴隷と王族」と言ったのです。 生活保護の不正受給をしていないであろうachievecharityさんはこの中には入っていません。 そしてachievecharityさんの主張が見えてきましたが、社会における労働と報酬の再配分とは関係なく、いわれの無い偏見によって疎外される、そのコミュニティからの排斥が奴隷的なのであり、そのコミュニティの内側にいる人間が王族なのですね?  > いわゆる,ヘイトスピーチの問題において,わたしが「危惧」していることは,ヘイトスピーチの「ターゲット」とは,非常に流動的なものであり,それは,斜めに置いたステンレス製のバットに,墨汁をたらりと垂らすようなものです。たらした墨汁は,バッドの表面の,さまざまなところに流れます。それは,「操作できないもの」であり,それは,まさに,いまの日本社会における,外国出身者や外国につながりをもつ人々にたいする「スケープゴート」の「正体」であると,わたしは考えます。 教えて下さい。achievecharityさんは、今現在の日本人から<ヘイトスピーチ>なるもので何と言われたのですか?  > たとえば,日本と台湾のあいだにも,領有権の問題があります。この問題においては,両国の政府が穏便な対応をしたので,大きな問題になることは考えられないのですが,万が一にも,お互いの関係が険悪なムードになったとき,まっさきに「スケープゴート」になるのは,わたし自身をふくめた,台湾からやってきた人々と,台湾につながりをもつ人々です。 私は極力その方向には向かわせたくありません。 ですがこれはその通りです。中国のナショナリズムと日米の安全保障が衝突した時、外省人の政権で大陸寄りの政策を取っていたなら、真っ先に攻撃されるのは中国系、そして台湾系の人たちです。ここは悲しい同意をせねばなりません。 > さらには,日本社会においては,台湾系日本人の国会議員による「悪行」があることから,わたし自身は,台湾系であっても,日本社会における「イメージ」は,必ずしも,良いものではないと受けとめています。 いいえ、現在の台湾イメージはすごくいいですよ。ダメな例であの議員がいただけで。 > もうひとつ,指摘すべき点もあります。日本人,いわゆる純日本人のなかには,やたらと台湾を「ヨイショ」したがる人々がいますが,その「理由」はというと,台湾以外の東アジアの国々が,「信用ならん!」ということなので,「台湾ならばトモダチになれるだろう…」などという,ある種の「上から目線」の「事情」があるからです。 これも違います。ただ単純に台湾の人が日本のことを好きだと言ってくれるから、その一点です。 嫌いだという人はこちらも嫌いになります。そんな人に好きだと言ってもつけあがるだけなので。 そんな友達を選り好みできるほど日本人は偉くはないですよ。 > 日本人にとって,台湾,台湾人,台湾につながりのある人々は,「利用できる存在」なのでしょうか?  NO! NO! NO! 違いますよ。やな奴だったら付き合わん、いい奴だったら友達になれたらいいなくらいですよ。 いや、ビジネスだと利用したりされたりの部分もありますが、それはビジネスだからでしょ。 > あなたは,中華民国籍の著名な野球選手を「例」にしていますが,そういったことも,「ほかのアジア諸国が信用ならんので,台湾ならば…」という,ある種の「淡い期待」があるからでしょうか?  いや、ていうかどんだけ自信が無いんですか。台湾と日本は気性あいまくりじゃないですか。今更何言うてんねん。 もしそれで問題あるならもはや民族どうこう、外人どうこうの話ではなく、個人の性格の問題です。 また「ほかのアジア諸国」とは恐らく中朝韓のことだと思いますが、そうすると洪思翊とかの説明がつきませんよ。 しかし中朝韓が信用ならん、というのは確かです。 > 台湾は「利用する存在」,「カモのような存在」ではありません! > 「上から目線の日台友好」には,わたしは強く反対しています。 あー、使えるから友達になっちゃる、ということなんですか・・・。 そういう人がそういうこと言って寄って来たら、日本人の中でも特段変なヤツなんで、近づかない方がいいです。そういう人と友達になる必要なんてありません。 自分もむかっぱら立てたくないでしょう? 

noname#181693
質問者

お礼

毎度のレスポンス,ありがとうございます。 「そしてachievecharityさんの主張が見えてきましたが、社会における労働と報酬の再配分とは関係なく、いわれの無い偏見によって疎外される、そのコミュニティからの排斥が奴隷的なのであり、そのコミュニティの内側にいる人間が王族なのですね?」 わたし自身は,現在の日本社会における,「反外国出身者」という「特殊な感情」にかんしては,それにかんする最も大きな要素として,あなたが指摘したところの「いわれの無い偏見」を挙げます。そして,あなたが指摘したところの「いわれの無い偏見」によって,日本社会においては,いわゆる同和地区に関係する社会問題が,いまもなお,根強く残っています。日本政府においては,そのような社会問題を「お金の力」だけに頼ったことで,この問題は解決が「難しい」ことになってしまったと,わたしは考えています。しかしながら,「敗戦」という事情を考慮すると,「お金に頼るしかなかった」といわざるをえないのでしょう。(「敗戦」ということにかんしては,日本政府の「身から出たサビ」,言いかえると,「日本政府の落ち度」があったことも,否定できません。) そのような視点に立ったとき,わたしは「親がガイジン」,あるいは,「移民二世(親が外国から日本に帰化したから)」という立場から,みずからが日本社会においては,マイノリティであると認識しています。さらには,わたしには滞米経験があったのですが,アメリカ社会においても,わたしはアジア系ということで,マイノリティということになります。わたしは,どこに行ってもマイノリティであり,言いかえると「周辺化を経験している」ことになると,わたしは受けとめています。 どこに行っても「アウェー」なのです。わたしにとっての「ホーム」とは,どこでしょうか? 日本の国籍があるのだから,日本が「ホーム」だと受けとめたいところですが,わたし自身のような「親がガイジンの日本人」を歓迎したくない日本人,いわゆる純日本人がいるものですから,「あなたにとってのホームは日本です」と言われても,すぐに頭をたてにふることができません。 「親がガイジン」であることや,親族が外国にいることなどから,わたし自身は「国境」なんてものがなくなればよい,あるいは「地球国籍」なるものがあれば…,などと思ったものです。そうすれば,台湾にいる親族にも簡単に会えるだろう,と思ったものです。これは,国際結婚を経験した人々や,国際結婚によって生まれた人々にとっては,なにかと「わずらわしさ」を感じてしまうことがあると,わたしは思います。 「教えて下さい。achievecharityさんは、今現在の日本人から<ヘイトスピーチ>なるもので何と言われたのですか? 」 このようなことを質問することは,ときとして,デリカシーに欠けた質問になりかねません。現代の日本社会においては,あなたが指摘するような<ヘイトスピーチ>は,特定の民族的なバックグラウンドをもった人々や,同和地区につながりのある人々にたいするものが多く,わたし自身の民族的出自にたいするものは,いまのところは,存在しないと受けとめています。しかしながら,「陰口」までは,わたしはわかりません。わたし自身のように,「ガイジンの親をもつ日本人」が,日本のこと,日本人のこと,さらには,日本社会のことを論じることを快く思わない人々,いわゆる純日本人がいることを,わたしは知っています。 あなたが指摘した<ヘイトスピーチ>ではありませんが,わたしは過去に,みずからの民族的バックグラウンドを理由とした「イジメ」にあっています。誰が,どのような場面で,わたしにたいして,そのようなことをしたのか,わたしは今でも,その人物の名前を覚えています。わたし自身は,あえて,彼ら,彼女らを許すことはしません。「いわゆる純日本人の醜い姿」として,みずからの「記憶」に刻みこみました。このようなことは,わたし自身のみならず,外国出身の,わたしの親も経験しました。そして,わたしはみずからの経験した「イジメ」とともに,親から聞いた「いわゆる純日本人の醜態」についても,その「醜さ」を知ることとなりました。 多様性の包摂や,いわゆる多文化共生というトピックにおいて何かを語るとき,どうしても,ネガティヴな話がでてきます。重ねて,わたし自身は日本が好きであること,「日本のアイデンティティ」にたいしては,「特別な思い」をもっています。 「台湾の人が日本のことを好きだと言ってくれるから、その一点です。」 このような考え方にたいしては,「冷静な判断」が必要です。台湾においては,長らく「白色テロ」の時代があり,そのような時代的な,社会的な背景があったので,日本にたいする「親しみ」があります。もちろん,それ以外の要素もあるのですが。 台湾としては,日本と「親しくなる」ことで,「経済的な利益」などにつなげようとする「意図」があります。台湾,台湾の人々は,基本的には,「非常にマテリアリスティック」なのです。人間関係においては,何かしらの「意図」,「利益」を求めます。これは,彼ら,彼女らが,いわゆる「先天的に自己中」ということではなく,「中国大陸との関係」,「アメリカとの関係」など,「特殊な国民国家間の問題」をかかえているからです。 台湾のなかでは,日本にたいする「親しみ」,「親近感」があります。それは,日本にとっても,台湾にとっても,お互いの「利益」になることです。これにかんしては,重要なことは,このような台湾社会の「特徴」の,「歴史的,時代的,社会的な背景」を理解する必要があることです。 多くの日本人,いわゆる純日本人にとっては,台湾人のイメージのひとつには「拝金主義」が挙げられると,わたしは考えます。 「台湾人と交際したら,やたらと,お金のことを質問された。」 「台湾人と交際したら,高価なものをプレゼントする羽目にあった。」 このようなことを経験した人々は,少なくないでしょう。 わたし自身の台湾観でもありますが,「儒教」と「お金」で社会を機能させている,人間関係を機能させている,という印象を,わたしはもっています。「儒教」という,「長幼の序」を基礎とした人間関係で,一族の長子の親族が「お金持ち」となり,表向きには「相互扶助の役割」をになっているものの,その「実態」とは,「お金の力」を使い,「儒教」を利用した,「親族支配の構造」であると,わたしは受けとめています。このようなことを書くと,多くの人々の台湾にたいする印象が変わってしまいそうですが,「うわべだけでトモダチ」になるのであれば,台湾人は「うってつけの相手」なのかもしれません。 これについては,わたし自身,「あなたは日本人の彼女がほしいのですか,台湾人の彼女がほしいのですか?」という質問をされたことがあったとき,その返答に困った経験がありました。日本人は基本的に「ゼノフォビック」で,やたらと「血統」にこだわる一方で,台湾人は「お金のことしか考えない,自己中,そして,気に入らないことがあると“暴れる”」ので,わたしは,誰が信頼できるのか,誰と交際できるのかと言われたときに,すごく悩みました。 日本のアイデンティティ,台湾のアイデンティティ,双方のアイデンティティを受けいれることは,双方の「良い部分」のみならず,「悪い部分」も受けいれることになります。そのなかで,いろいろな「考え方」があるため,「混乱」するときもあります。ただし,それが命にかかわるようなレベルではないこと,思わず笑ってしまって,ハイおしまい!,というレベルのものであることから(わたし自身が,そこまで理解できるようになった),非常に深刻なことであるとは,受けとめてはいませんが。 「日本における台湾のイメージ」についても,考えるひつようがあります。かつては,台湾といえば,「性風俗」というイメージがありました。現在のように,家族で旅行に行くようなイメージとは程遠い,中年男性の性欲のはけ口のようなイメージがありました。(現在も,そういったことを目的に,台湾を訪れる,いわゆる純日本人がいますね。) また,台湾にたいしては,梶原一騎の娘の惨殺,大学生の惨殺事件,台湾系日本人タレントによるタクシー運転手暴行事件など,「犯罪」,「台湾ヤクザ」というイメージがつきまとっています。「台湾は治安が良い」なんてことを言っている人々がいますが,わたし自身は台湾の「影」を知っているので,多くの,いわゆる純日本人のように,諸手を挙げて台湾のことを「ヨイショ」するつもりはありません。あくまでも,台湾系日本人ということで,「冷静なまなざし」でもって,台湾のことを受けとめています。 ほんとうの意味において,「日台友好」を実践したいのであれば,台湾人の「負の部分」にも向きあうべきです。わたし自身にとっては,いまの日本社会における「台湾を歓迎するムード」が非常に異常なものとして映っています。異常なまでに「台湾を歓迎する」ということは,その一方で,日本社会においては,ほかのアジア諸国にたいする「諸問題」があることの証左だと,わたしは考えています。 日本人が大切にしていることのひとつに,「仲の悪い相手も,仲良くできるように努力する」というものがあります。「仲良くするための努力。」これは,日本においては,教育の現場などで,よく子供たちに教えていることです。「色々な事情」があることをわたしは理解していますが,それでもなお,台湾以外のアジア諸国にたいしては,「仲良くするための努力」を,いわゆる純日本人が継続して実践すべきだと,わたしは思

  • booter
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回答No.5

こんにちは。 過去のQA「日本社会の一員であるための「条件」」で回答したものです。 もしかしたら、と思って回答させて戴きます。 私が上記のQAでは次のように回答しました。 「本当の日本人として生きたければ、日本人としてのアイデンティティを持たなければならないのです。外部からの理解をするのではなく、内部での体現をしなければ日本人として生きるのは難しいです。 そしてそれには決してうれしいことや楽しいことばかりではありません。日本でもつらさや悲しさがあるのです。これらは美しい悲劇などではなく、精神的に汚く、穢れた部分も共有するということです。これは中韓の人たちが外部から日本を批判している内容を指しているのではありません。日本人が日本人の内部に対して持つ穢れた精神を批判するものです。例えばいじめ問題だとか、雇用問題だとか、景気、ねたみ、ひがみ、皮肉、内政の問題・・・こうした面において、日本人に同化するという行為については「こんな苦労を外国の人がわざわざしなくてもいい」と思う人はかなりいる、と私は推測します。」 この発言がある種のきっかけになって、日本人が台湾系の人に対し妬みやひがみをしている、というのは誤解です。もしそうした誤解をなさられているならお詫び致します。 ちょっと直截的に言わなければならないようですので、はっきり言います。 ハーフだから憧れる・・・というのも、日本人からすればちょっとはあるのかもしれませんが、いやいや日本人は日本人で自らのことをある種誇りに思ってますよ。文化的な美徳に「謙遜」というものが社会的に通底しているので、それが表に表れにくい構造になっているのです。そしてWW2の敗戦経過からその自らの能力を自認する構造が長く失われてしまった。このことから、日本人は自らの優勢を表現しないし、自認もしない。それが震災時対応の各国からの賞賛・非難とそれに対する日本人の対応(賞賛→いやなんでこれが誉められるのか分からない、非難→各国に迷惑かけてしまった)に繋がるのです。 しかし日本人には独特の弱度の民族的感覚が失われない程度に社会の記憶として通底しているのです。その感覚の多寡をもってして、諸外国における強度の民族的感覚に憧れているというのであれば、それは誤りです。 話しを戻しますと、日本人にとって外国人とはある種の特権ですが、ある種の特権ではありません。ここを少し詳しく説明します。 外国から来られた方はある種の自分の家に来たお客さんなので、それなりに良い待遇を受けます。だけれども、じゃあ一緒に住みましょう、となると、その家の家事を分担しなければなりません。しかし、一緒に住んでいるのにあいつは家事もろくにやらないで、それなりに食っている。不公平じゃないか! という人たちがいます。いわゆる特権を持っているマイノリティの人たちのことです。 ここが日本人における不公平感であり、 achievecharity さんのおっしゃる<マイノリティの利権>になります。 もう少し具体的に言うと、外国人における生活保護のことですね。 我々が「過労死」しながら収めている税金を、それこそ働かないで受け取っている人がいるという現状が腹立たしいのです。まるで奴隷と王族ではありませんか。 無論、そうした上での<マイノリティの利権>があるので、日本人と肩を並べて、一緒にきちんと働いている諸外国人にそうした腹立たしさなんか絶対に覚えません。かつ、外国から来られた○○系日本人と純粋な日本人のどちらが上かなんて下品なことは表に出さないのです。大抵の日本人は「○○系なんですか、日本国籍を取得されている、おおすごいですね」、と相手を立てて終わりますが、それは日本人が日本人自身を卑下しているわけではなく、礼儀として言っていることです。 <マイノリティの利権>の言葉は私は初めて聞きましたが、何となく言いたいことは分かります。しかし、achievecharityさんの現状の認識と、日本人に通底する認識に差異があるように思われてならないのです。 achievecharityさんは日本人以外の諸外国人にその民族性から優位性が付与され、相対的に利権がつくという認識をされているようですが、それは礼儀として日本人が相手を立てるために言っているものです。それは表面的に挨拶として交わされるだけの場合もあれば、お互いに頑張りましょうという互いの独自性を認めるという社会的な本質として必要な精神を示している場合もあります。つまり諸外国人と日本というものはあくまで対等なのであって、日本人が「あなたはこういう人で、こういうことが得意なんですね。そして私はこういう人間であって、こういうことが得意です。」という対等の挨拶の後半部分を、礼儀上言っていないだけなのです。 繰り返しになりますが、<マイノリティの利権>には外国人であること、独自の民族性を有することは入りません。 それでは<マイノリティの利権>には何が入るかと言うと、飽くまで日本に住む人たちは対等であるのであって、働いた分だけの収入を貰えるという建前で、みな社会生活を送っている。みな疲労困憊で、欝になって倒れたり、あるいは過労死や自殺をするなど、ギリギリの中で生活を送っています。ただ、一部の生活保護などを受けている人はそうではありません。無論母子家庭などは除外しますが、諸外国人で就労できるのにも関わらず生活保護を貰っている人たちはいます。ひどい例になると就労していて生活保護を貰っている人もいるのです。死なずに、倒れずに、苦労をせずに。そうした中での不公平感がachievecharityさんのおっしゃる<マイノリティの利権>に入るのです。 それとachievecharityさんは新聞社の言説などに上手いこと騙されているんじゃありませんか? 台湾人で生活保護貰っている人なんていないから日本人の殆どが台湾系の人たちに利権があるだなんて全く思っていませんよ。新聞社の人たちが問題をぼかして言っていますが、言いたいのは台湾系の人たちを指しているのではありません・・・。 >日本社会においては,<マイノリティの利権>という「言説」がありますが, >マジョリティである「いわゆる純日本人」にとって,このような「言説」を >「高らかに主張」することによって,どのような「メリット」が考えられるのでしょうか? 上に挙げたように、不公平感の解消です。 繰り返しになりますが、<マイノリティの利権>の主張は社会的保証の不公平感であって、民族性や民族的価値とは何ら関連しません。そしてそこに台湾系の人間は全く入りません。 社会的保証の不公平というのは、諸外国からの○○系日本人というくくりだけでなく、通常の日本人が働けるのに働かず、そして生活保護を受けるというのは、日本社会のモラルにものすごく反しているので、例え日本人であれども、ものすごく批判されます。 そしてそのモラルに反していると考えられる例に、帰化をしない在日外国人の人たちが手当てを貰っている例が多いと考えられているので、その量的批判が在日外国人に向けられるのです(何度も繰り返しますが、ここに台湾系の人は入りません)。 その不満感が排斥意識に繋がり、いわゆるヘイトスピーチに繋がっています。 ヘイトスピーチは日本人以外の諸外国人に向けられている、これは止めよ、という美麗字句で固められますが、それは上っ面のことだけです。根本原因は社会的保障の不公平であり、台湾系の人たちはそれに巻き込まれてしまっただけにすぎません。 ですのでachievecharityさんにはヘイトスピーチや<マイノリティの利権>は全く関係ありませんので、日本社会に同化したいのであればもっと別のアプローチをすべきでしょう。 答えは簡単で、日本人と同じ食事をし、日本人と同じ仕事をし、日本人と同じ苦楽を味わって、同じ感覚を共有することです。 完全に同化した方の例で言えば、プロ野球で王貞治さんがいらっしゃいますね。この人は完全に日本社会になじんでいたので、過去にスポーツ記者から「次の選挙でどこに投票しますか? 」なんて質問されていました(その時の王さんは日本国籍が無いので投票できなかった)。王さんを人種がどうだから、民族がどうだから嫌っている人とか区別している日本人がいれば会ってみたいもんですが、王さんは台湾のアイデンティティを持ちながら日本に同化している人の一人でしょう。これも日本人と苦楽を共にして感覚が日本人と同化した為です。前回の回答では「少し無理がある」と言いましたが、可能には可能です。 私の以前の回答によっていろいろと勘違いをさせてしまった可能性もあるので、追加の質問があれば回答致します。 ヘイトスピーチについてはまた別個の質問が切られているようなので、こちらで回答しますね。

noname#181693
質問者

補足

コメントありがとうございます。 わたし自身は,「日本のアイデンティティ」を分かちあっていますので,日本人の「きれいな部分」,そして,「キタナイ部分」,いわゆる「ハレ」的なもの,そして,「ケ」的なもの,すべてを受けいれています。「日本のアイデンティティ」,つまり,「日本の血」を受けついでいるのですから,そのようなものと向きあうことは「当然のこと」であると,わたしは受けとめています。それが,「辛いこと」,「嫌なこと」であるときは,あります。しかしながら,そういった「嫌な経験」があったからといって,わたし自身が「反日主義者」になったり,「ニッポンジン・バスター」になることは,絶対にありえません。 「ハーフだから憧れる」という指摘については,いまだに,日本社会においては,いわゆる「アジア系のミックスの日本人」にたいする「偏見」が存在します。ほかの方へのコメントになりますが,わたしは,このようなコメントを書きました。 「現代の日本社会においては,ヨーロッパ系のミックスの日本人にたいしては,「良い意味」で,彼ら,彼女らのプリゼンスが受けいれられることでしょう。その一方で,台湾系,フィリピン系,朝鮮半島系,中国大陸系などについては,いまだに,「イグノランス」と「偏見」が存在しています。たとえば,フィリピン系や台湾系にたいしては,「スナック等の風俗営業」というイメージがいまだに根強く残っているほか,中国大陸系や朝鮮半島系にたいしては,「ネガティヴな意味においての,日本人男性の国際結婚」というイメージがあります。 同じ世代の子供たちにとっては,そのような,社会的,歴史的な背景を理解するまでには時間がかかることでしょう。しかしながら,「アイツの親って,どっか,変だよな?」などという,ある種の「不信感のようなもの」を,周囲の,いわゆる純日本人の子供たちはいだくものです。それが「最悪のケース」となったのが,群馬県桐生市でのケースでしょう。親がフィリピン出身であるがために,フィリピン系日本人の子供が「ゴリラ」扱いされるという「悲劇」は,ほかの外国につながる子供たちにも,そのような「経験」が多かれ少なかれ,その違いはあれども,存在すると,わたしは思いますし,確信しています。」 では,次のポイントにいきます。 「我々が「過労死」しながら収めている税金を、それこそ働かないで受け取っている人がいるという現状が腹立たしいのです。まるで奴隷と王族ではありませんか。」 このような主張にたいしては,たいがいの日本人が,一部の外国につながりをもつ人々,特定の民族集団にたいする「スケープゴート」として「利用」しています。 さらには,あなたが主張したい「問題」については,いわゆる同和地区とつながりのある人々も関係していませんか? 同和地区につながりのある人々は,外国出身者や,外国につながりをもつ人々ではありません。日本人,それも,いわゆる純日本人,のはずです。かつては,まったく人種の異なる人々であるとされたのですが。 あなたが主張するところの「奴隷と王族」というたとえのなかで,「王族」にはいるだろう人々は,いわゆる純日本人のほうが多いでしょう。なぜならば,日本社会には,外国出身者,外国につながりをもつ人々は,あまりいないからです。確かに,外国につながりをもつ人々が,あなたの主張するところの「王族」として,のうのうと暮らしている,ということも考えられるでしょう。しかしながら,それよりも,さらに多い数の,いわゆる純日本人が,あなたの主張するところの「王族」になっているのですから,「奴隷と王族」というたとえを使って,外国につながる人々,外国出身者を「たたく」ことは,「きわめてアンフェア」であると,わたしは考えます。 いわゆる,ヘイトスピーチの問題において,わたしが「危惧」していることは,ヘイトスピーチの「ターゲット」とは,非常に流動的なものであり,それは,斜めに置いたステンレス製のバットに,墨汁をたらりと垂らすようなものです。たらした墨汁は,バッドの表面の,さまざまなところに流れます。それは,「操作できないもの」であり,それは,まさに,いまの日本社会における,外国出身者や外国につながりをもつ人々にたいする「スケープゴート」の「正体」であると,わたしは考えます。 たとえば,日本と台湾のあいだにも,領有権の問題があります。この問題においては,両国の政府が穏便な対応をしたので,大きな問題になることは考えられないのですが,万が一にも,お互いの関係が険悪なムードになったとき,まっさきに「スケープゴート」になるのは,わたし自身をふくめた,台湾からやってきた人々と,台湾につながりをもつ人々です。 さらには,日本社会においては,台湾系日本人の国会議員による「悪行」があることから,わたし自身は,台湾系であっても,日本社会における「イメージ」は,必ずしも,良いものではないと受けとめています。 もうひとつ,指摘すべき点もあります。日本人,いわゆる純日本人のなかには,やたらと台湾を「ヨイショ」したがる人々がいますが,その「理由」はというと,台湾以外の東アジアの国々が,「信用ならん!」ということなので,「台湾ならばトモダチになれるだろう…」などという,ある種の「上から目線」の「事情」があるからです。 日本人にとって,台湾,台湾人,台湾につながりのある人々は,「利用できる存在」なのでしょうか? あなたは,中華民国籍の著名な野球選手を「例」にしていますが,そういったことも,「ほかのアジア諸国が信用ならんので,台湾ならば…」という,ある種の「淡い期待」があるからでしょうか? 台湾は「利用する存在」,「カモのような存在」ではありません! 「上から目線の日台友好」には,わたしは強く反対しています。

noname#194996
noname#194996
回答No.4

NO.3 です。補捉を頂きましたのでもう一度。 >「特にそれを突っ込んで穿り返すことはせず、無視すればそれでいいのではないでしょうか。」このような「意見」は,表向きには「カシコイモノ」として受けとめられそうですが,「問題の解決」にはまったく役に立たないものです。「頭の良い人の考え」のように受けとめられてしまうことが,非常に遺憾です,当事者としては。 貴方個人への不当な侮辱(のようなもの)があった事にたいして、逆きれするまでもないのではないか、というほどの意味でそう書きました。それともそれが日本人の代表的な反応だとおっしゃるのでしょうか。それは間違いだと思います。繰り返しますが人の好みは多様であり、多くの日本人はいい意味で貴方に興味を示すはずです。 >>「日本人であらねばならないという社会的要請と台湾系であるという自己の尊厳の間に大きな矛盾があったということでしょうか。普通は両立できるものだと思います。」 >このような「指摘」については,いまだに日本社会においては,いわゆる「単一民族」という考え方を根底とする,「特殊な社会観」があるため,「バイカルチャー」であることが肯定的に理解されていません。 「特殊な社会観」を否定はしませんが、「バイカルチャー」を日本社会は受け入れないと仰るのであればそれは間違っているといわねばなりません。世界で一番「中華街」が発達しているのは日本であり、他文化に寛容な日本という定説は常識です。 >「画一的な日本社会に多様性がもたらされるるようになることを願っております。」このようなコメントにたいしては,あなた自身も,「バイカルチャーの大切さ」にかんして,さらなる「理解」を示してくだされば幸いです,と申し上げておきます。 了解しました。

noname#181693
質問者

補足

「多くの日本人はいい意味で貴方に興味を示すはずです。」このようなコメントにたいしては,現代の日本社会においては,ヨーロッパ系のミックスの日本人にたいしては,「良い意味」で,彼ら,彼女らのプリゼンスが受けいれられることでしょう。その一方で,台湾系,フィリピン系,朝鮮半島系,中国大陸系などについては,いまだに,「イグノランス」と「偏見」が存在しています。たとえば,フィリピン系や台湾系にたいしては,「スナック等の風俗営業」というイメージがいまだに根強く残っているほか,中国大陸系や朝鮮半島系にたいしては,「ネガティヴな意味においての,日本人男性の国際結婚」というイメージがあります。 同じ世代の子供たちにとっては,そのような,社会的,歴史的な背景を理解するまでには時間がかかることでしょう。しかしながら,「アイツの親って,どっか,変だよな?」などという,ある種の「不信感のようなもの」を,周囲の,いわゆる純日本人の子供たちはいだくものです。それが「最悪のケース」となったのが,群馬県桐生市でのケースでしょう。親がフィリピン出身であるがために,フィリピン系日本人の子供が「ゴリラ」扱いされるという「悲劇」は,ほかの外国につながる子供たちにも,そのような「経験」が多かれ少なかれ,その違いはあれども,存在すると,わたしは思いますし,確信しています。 日本人のなかにも,「多様性を理解する人々」がいることは確かです。しかしながら,そういった人々は,「多数者」のなかに存在するのでしょうか? わたし自身,日本教育時代は,学校の先生からは,あまり良いイメージをもたれてはいませんでした。どちらかというと,「親がガイジン」ということから,「あまり関わりたくない子」であるというイメージがもたれたと,わたしは感じていました。当時は,いわゆる管理教育の残り香があるような教育事情でしたので,いわゆる「オビディエントではない人間」というサイドに置かれたわたし自身にとっては,学校は,あまり面白い場ではありませんでした。だからといって,それが,わたし自身の「日本観」を大きく形成したり,日本社会にたいする「非難の材料」になった,というわけではありません。 「他文化に寛容な日本という定説は常識です。」このような意見にたいしては,先述の群馬県桐生市での「出来事」のみならず,在日コリアンとの関係,さらには,同和地区にかんする問題,アイヌとの関係など,いまだに日本社会においては,「異文化理解」において,さまざまな「問題」をかかえています。中華街については,ひとつの「例」になるとは思いますが,それは「表面上」だけのことである,といえるのかもしれません。 あるオーストラリアの歴史学者が,日本社会の多文化化とは,「うわべだけのもの」であることを指摘し,そのような日本社会の「あり方」をきびしく非難しました。国際交流を盛んにしましょうといいながら,やっていることといえば,飲み食いのパーティーなど,外国からやってきた,日本社会の構成員を,「フル・メンバー」として扱うことはなく,「おかざり」として扱うという,日本人の「たちの悪さ」は,外国に「つながり」をもつわたし自身にとっては,非常に悲しいことです。 そのような「現実」を知ったとき,わたしが考えたことは,どのようなことをすれば,どのような「方向性」をもつことで,マイノリティが日本社会の「フル・メンバー」になれるか,ということです。わたし自身は台湾系日本人であり,「半分だけ日本人」です。「半分だけ日本人」という身分で,そういう立場で,どうすれば,ほかの,多くの日本人,いわゆる純日本人とよばれる人々から「認められる」のか? 日本の文化や歴史を学ぶこと,音楽を学んで,「芸能」を身につけること,英語を習得すること(外国語を母語と同程度に扱う能力を得ること),日本人の「ミカタ」になること…など,わたしはいろいろなことをやってきました。 もしも,わたし自身が,「単なる台湾系日本人」として活きるのであれば,いろいろな意味において「楽な人生」であったと思います。 しかしながら,これからの日本社会を活きる,多くの外国につながりをもつ子供たちのためにも,わたしなりの「生き様」,「方向性」を示すことで,これからの日本を支える人材になってほしいという,わたしなりの「願い」があって,わたしは,あえて,みずからのマイノリティ性を強調した,特殊な生き方を選択しました。それは,日本社会のなかでナミカゼを立てることではなく,日本社会にたいする「愛」があるからこその「行為」であることを,いわゆる純日本人が,「素」に理解してくだされば,幸いです。わたし自身の,「愛日」には,ウソ,イツワリは,ありません。さらにつけ加えるのであれば,日系人の歴史に向きあう人間が,「日本のアイデンティティ」をぞんざいに扱うはずがありません。それは,日本人だけではなく,日系人にたいする「侮辱」でもあるからです。

noname#194996
noname#194996
回答No.3

><マイノリティの利権> >言説 >マジョリティである「いわゆる純日本人」にとって,このような「言説」を「高らかに主張」することによって,どのような「メリット」が考えられるか? 分かり難い言葉が続きますが、全体を読んで質問者様がいいたかった「利権」の意味は、いわゆる嫌韓論者が言う「在日は生ボの取得が簡単だ」とか、偽残留孤児が日本で働きもせずに生活しているというような「現象」をあらわしておられるのでしょうか。それならちょっと違うような気がします。 利権 という言葉は余りよい印象のない、”政治的にうまく立ち回り公共団体に混じって利権を漁る不良建業者”というような使い方をされる(特殊な利益が得られる権利)というほどの言葉です。なにか言葉自体が間違っているような気がします。 社会においてマイノリティは基本的に不利な状況にたたされることがほとんどなので、福祉的な観点からその格差を是正する意味合いから彼らだけに与えられる公的な特殊な権利というような意味で使われておられるのかもしれません。たとえば被差別部落問題における補助制度のようなものですね。 しかしそういったことが日本で暮らす外国人に対して行われている例を私は知りません。最初に触れた嫌韓論者がいう議論は感情的な不当なものであり、それは単なる生活困窮者への支援であって利権などというものではありません。 言葉の問題は別にして、貴方の言われる特殊なアイデンテティは日本社会において特殊なのであって、マジョリティである「日本民族のアイデンテティ」とは対等なものです。貴方がそれにプライドを持つのは自由ですが。そういったあなたのプライドを他者が見て異様なものと感じたり、なじめないと思う人間がいるらしい事実は(私にはちょっと信じられませんが、)そういった気分もあり得るかもしれないとは思います。人間の感性は多様ですから、貴方がそれを不愉快に思う気分はもちろん理解できますが、特にそれを突っ込んで穿り返すことはせず、無視すればそれでいいのではないでしょうか。 >日本社会という,マイノリティにたいしては「同化の強制」が存在する社会のなかにおいて,みずからのアイデンティティを確立することは,容易なことではありません。 生活を確立させるというだけならアイデンテティというものは特に関係しないと思います。アイデン手ティというものは一義的に心の中の問題です。日本社会のなかに台湾集落を築くというような社会的事業を起こされるというのなら別ですが。 >わたし自身の場合は,みずからの「日本のアイデンティティ」を第一に尊重したうえで(そうでないと,日本社会のなかで認められない),台湾系であることの「意味」,「意義」,「日本社会に貢献できる要素」を見出すことは,難しい作業でした。 日本人であらねばならないという社会的要請と台湾系であるという自己の尊厳の間に大きな矛盾があったということでしょうか。普通は両立できるものだと思います。これだけでは良く分かりませんが。 最後の2節は良く理解できないままですが、貴方が出自にプライドをもっておられることは当然であり、大事にしていただきたいと思います。そういった感性などがおおいに価値を発揮され、画一的な日本社会に多様性がもたらされるるようになることを願っております。

noname#181693
質問者

補足

「特にそれを突っ込んで穿り返すことはせず、無視すればそれでいいのではないでしょうか。」このような「意見」は,表向きには「カシコイモノ」として受けとめられそうですが,「問題の解決」にはまったく役に立たないものです。「頭の良い人の考え」のように受けとめられてしまうことが,非常に遺憾です,当事者としては。 「日本人であらねばならないという社会的要請と台湾系であるという自己の尊厳の間に大きな矛盾があったということでしょうか。普通は両立できるものだと思います。」このような「指摘」については,いまだに日本社会においては,いわゆる「単一民族」という考え方を根底とする,「特殊な社会観」があるため,「バイカルチャー」であることが肯定的に理解されていません。 「画一的な日本社会に多様性がもたらされるるようになることを願っております。」このようなコメントにたいしては,あなた自身も,「バイカルチャーの大切さ」にかんして,さらなる「理解」を示してくだされば幸いです,と申し上げておきます。

noname#209756
noname#209756
回答No.2

トクヴィルってかたご存知ですか。 政治学で特にアメリカの建国あたりでいいのは 自由主義が民主主義を上回っているのが良いことだといってます。 自由・平等なのですが、民主主義は「多数者の専制」という言葉が存在するくらい少数者が意見通らないことになってしまうのです。 20年前の日本が世界で経済が最強みたいになったときは空気を壊さないという意味で説得力があったのでしょうけど、現在の凋落傾向の日本が同じ雰囲気の継続はどうなのかと思います。 Yahooのアジア各国のポータルサイトでは韓国ブームについてKOREAN WAVEという題目ででてます。日本は領土問題の関係からかなりすたれましたが、これだけ見ると民族主義的な空気は国内固有とも解釈できます。つまりガラパゴス化していて、シンガポール・マレーシアのほうが多民族をどう融和するかについて成熟しているともいえると言えます。 カナダなども多文化主義を唱えてます。どう少数民族などに配慮しているかヒントがあると思います。 確かに海を隔てて、ほぼ一民族で生活してきたのはわかります。 現在大事なのは日本に引きこもりでなく、東アジアローカルとしてそれらの国の意識をもっとくわしくなるということが真に必要に思えます。 そうすることで寛容さも増え、アジアのいろんな経験も勉強し、新しいいい日本の習慣もできあがるものだと思ってます。 つまり、アイゼンクのいう、心が硬化するのでなく、もっと柔軟であるべきなんだろうと思います。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.1

生まれてから一度も,<マイノリティの利権>による恩恵を受けたことがありません、 とのことですが、まさにこれこそが<マイノリティの利権>の最大の問題点であるのです。 <マイノリティの利権>の正体とは何か。 まず、これを「他の者が持ち得ないアイデンティティ」であって、マジョリティは 単に羨望しているのだ、というのは、他者のアイデンティティをあまりに軽んじているのでは ないでしょうか。「いわゆる純日本人」は理解が足りないのだ、と他者を低く見るところに 相互の理解などはそもそも生じないのです。 一例として、自分の生まれを誇るのではなく、自分の成してきたことを誇り、 自らのアイデンティティとする人達にとって、 生まれによるアイデンティティを誇る人間はまったく価値が無いと見えるでしょう。 それは羨望とは真逆の理由で、その人間が「生まれた時点で立ち止まっている」からなのです。 そういった集団において、それでも他者が羨望によってマイノリティを攻撃しているのだ、 かれらは、あの手の届かないぶどうが酸っぱいと言いたいだけなのだ、と してしまうと、マイノリティはこれからもマイノリティであり続けるし、 何より精神的にもマイノリティそのものになってしまう。 なぜならそこには同意者がいないのです。そもそもが数的にマイノリティなのですから。 結局のところ、こういった試行はマイノリティの集団としての立場について 問題を何一つ解決しないどころか、さらに悪化させることでしょう。 マイノリティ・マジョリティを個人のアイデンティティの問題としては本質的な解決に至らない。 これこそが重要な点であると私は考えるのです。 では、再び。<マイノリティの利権>の正体とは何か。 確かにマジョリティの利権と、マイノリティの利権。どちらも世に存在するでしょう。 ですが、そこには決定的な違いがあります。 マジョリティの利権とはすなわち制定権力。その同意者の多さを力とし、 より多い人間に幸福をもたらすという理由でルールの制定ができる点にあります。 一方で、マイノリティの利権とは? それは社会の相互監視機能によって、強者を作らないという社会契約です。 より簡単に言うと、マジョリティの定めたルールによって切り捨てられる 部分を救い上げるという点にあります。 つまりは、社会の制定したルールによって失われた部分を補填する、 「マイノリティの保護」を根拠に置いているのです。 とはいえ、マジョリティもマイノリティも、さらに分類すればただの個人に行き着く。 質問者さんのように<マイノリティの利権>(保護政策)を受けたことが無い、 と感じる人間もいれば、やはりマジョリティの側にも<マジョリティの利権>(制定権力) を得たことが無い、と感じる人間が大多数でしょう。 マジョリティのメリットを得るためには、他者に同調する必要があるし、 マイノリティのメリットを得るためには、その仮面をかぶり続ける必要がある。 どちらも、個人の枠においては、自らを根拠とするアイデンティティを破壊する 行為となってしまうのです。 そしてこれらは、マジョリティ・マイノリティの利権という社会制度の 結果として不可避的に存在します。 天秤の傾きと同様、一度利権を与えればそちらに大きく傾く。多くの場合、自然と マジョリティの方へと天秤は傾きますが、保護の結果としてマイノリティの 方が強くなりすぎることがあるのも事実です。 なぜなら、マイノリティの利権(保護)は通常と異なる根拠で制定されているため、 法の施行上の特例となってしまう。多くの場合、人を救い上げる社会という器に 穴を穿つことになりかねないのです。 そもそもとして、マイノリティの保護すら、社会制度の一環といえるでしょう。 社会制度である以上、基準から外れたマイノリティは「マイノリティの利権」を受けられない。 (もちろん、マジョリティの利権を受けられないマジョリティも同様に存在します。) いつまでも一様な「保護」を継続すれば、「恩恵を受ける一部のマイノリティ」が強くなり、 マイノリティの中にマイノリティが発生してしまうのです。 この結果として存在するアイデンティティを論拠とすることは、旧来の力のバランスを より悪い方向に傾けることでしょう。 つまり、本質的に保護すべきマイノリティとは マイノリティの利権を受けられないマイノリティと、 マジョリティの利権を受けられないマジョリティなのです。 もし不平等が明白となっているのであれば、 これを、意思を持ってとめなければならないのです。 ですから、この問題の解消に必要なことは、 原因である社会のスタビライザーを現状に合わせて再調整し、 機能させることにこそあるのです。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

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