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ニッポンジンとは「メンテナンス」すべきもの!?
ひとりの外国に「つながり」をもつ日本人として,みずからの「ニッポンのアイデンティティ」に向き合うことは,非常に重要なことです。それは,ニッポンジンを「メンテナンス」する行為でもあります。わたし自身としては,「ニッポンのアイデンティティ」をもつことは誇りですから,つねに,みずからのアイデンティティに向き合うようにしています。 日本人にとって,「日本人に向き合う(つまり,みずからのニッポンのアイデンティティに向き合うこと)」とは,どのようなことでしょうか?
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私は排他主義者ではありません。ヨーロッパ政治を知っているものとして、極右と中道保守の違いは知ってますし。 むしろ現状を否定するのではなく、肯定的に伝統をみる必要があるのかなと思ってます。 神社の巫女さんの朱色やわびさび。視覚からですが、よい伝統です。美意識というのか。 日本人は昔、陽明学を教えると革命思想につながるから選んだ人にしか教えない過激に突っ走る面ももってます。 大陸で陸続きだと自分達のアイデンティティ、伝統を気になりますが、そういう意識がうすいというのも日本人かもしれません。 海に囲まれた日本の中で考えてもセンスがよくないのかもしれません。 民族という意識は古来からかもしれませんが、ネーションは近代のヨーロッパの世界にでていってからの概念ですので。
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すいません。その後新たな発見があって。 「スウェーデンから見た日本の素顔」 ラーシュ・バーリエ という本を見つけました。 良くついているとは思っていて、日本で言われている像というのは建前に思えます。 外国人から直球でいってみると実際、かなり当たっているともいえると思います。 一般的に言われている建前の美意識ももちろん大切です。 でもこの本に書かれている事実と向き合うということなんでしょうね。
お礼
「日本の美意識」は,あなたにどのような影響をもたらしていますか? 「日本の美意識」によって,あなた自身のアイデンティティが形成されているのですか? 「日本の美意識」は,あなたにとって,どのようなもの,どのような位置づけですか?
日本人のイメージしている日本って、陸続きでないため、IDって認識しにくいですよね。 ヨーロッパってどんな感じか以前このサイトで質問しました。 やはり意識や言葉、宗教などで陸続きで今は高速道路で移動できるのに国民性が存在してます。 それは新しいものの吸収と同時に自分たちの習慣の維持でもあるんだと思います。 日本は海を隔てているから国内で生活して外国のものがはいってくる。 ヨーロッパは高速道路鉄道などで移動したりするので、逆に伝統を意識するとかなのかもしれませんね。 言葉って一つ言語を習得するだけで時間がかかりますし、臨界期仮説というのがあって、ある年齢から不利になったりするとも言われます。 そうなると人って変えれない部分が発生しますよね。 また積み上げてきた価値観っていうのは目に見えるものだったら芸術品、見えないものだったら習慣、美徳ということになります。別に美徳を持っているのはにほんじんだけでなく、それぞれの国で美徳ってあると思います。 また正しい間違っているという合理性では価値観を作りにくい面があると思います。 室町時代は戦国、南北朝と戦争ばっかり、江戸時代は平和と同じ国でも反対の歴史を重ねたりもします。戦後は好況でバブル崩壊からは不況というように。 ある時代からさかのぼると日本も外国の文化みたいだといわれることがあります。 日本人の定義は難しいですが、やはり変えれない部分と積み上げてきた習慣、美徳とは何かを考えることかと思います。 更にアイデンティティの持ち方は参考にするのはヨーロッパは戦争の多い地域だったので、ASEANとか研究してもいいかもしれません。
お礼
「日本人の定義は難しいですが、やはり変えれない部分と積み上げてきた習慣、美徳とは何かを考えることかと思います。」 では,あなた自身にとって,日本人とは,どのような存在ですか? あるいは,日本人であることの「意義」とは,どのようなものですか? 台湾系日本人であり,「半分しか日本人じゃない」わたしが,日本人のことを真剣に向き合い,日本人であることを真摯に,厳粛に受けとめ,その一方で,いわゆる純日本人が,日本人であることに無頓着であり,さらには,排外主義に手を染めるという「体たらく」。これが,日本人の「ほんとうの姿」なのでしょうか?
補足
では,「ネーションとしての日本のアイデンティティ」は,日本にはありますか? わたし自身,これについては,いまだに「疑わしい」と思うときがあります。日本人には,「ネーションとしてのアイデンティティ」などなく,ただ単に,世間というものに従属している存在なのではないかと,思うときがあります。