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マイノリティが日本社会に受けいれられるためには?
現在の日本社会における活発な社会的排除の傾向と,行動する保守によるヘイトスピーチの問題は,マイノリティの立場であるわたし自身にとっては大きな問題であると受けとめています。 どのようなことをすれば,マイノリティが日本社会に受けいれられるのでしょうか? 非常に漠然とした内容の質問なので,必要があれば,わたし自身のこれまでの経験を参考にしてもかまいません。 1.日本理解 日本語の習得,日本史の学習,日本文化に慣れ親しむ,日本文化の実践,日本の習慣や風習を理解する,地域の行事への積極的な参加,日本教育を受けること 日本社会におけるマイノリティの包摂の問題においては,マイノリティ側が日本社会に適応しないことがたびたび指摘されています。わたし自身は日本教育を受けたことから,日本語を使い,日本史を学び,また,海外の日系人事情を学習しました。 2.特別な能力 楽器の演奏,球技系スポーツの実践(とくに野球,サッカー,テニス,バスケットボール,など),格闘技系のスポーツの実践(柔道,剣道,空手,レスリング,など,),ダンス系(バレエ,日本舞踊,その他のジャンル,など),伝統芸能系(詩吟,落語,講談,など),語学系(複数の言語を使用すること) マイノリティが日本社会のなかで受けいれられるためには,特別な能力が要求されることがあります。このことは,特別な能力をもっていることから,マジョリティから差別や偏見を受けないことと理解されることがあります。わたし自身は,クラシック音楽を勉強したこともあり,現在では練習などをする時間が限られてしまいましたので,レパートリーを広げることはせずに,すでに演奏したことのあるベートーベンやモーツァルトのソナタ,他の作品の練習に力を入れるようにしています。 特別な能力があることで,マジョリティがマイノリティを「認める」ケースがあります。また,マイノリティにとっては,特別な能力を得ることで,社会的な包摂につながると認識している人々は少なくないでしょう。
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- tsuyoshi2004
- ベストアンサー率25% (665/2600)
そもそも社会に受け入れられるってどのようなことを言うのでしょうか? 人種的なマイノリティのことを質問されているのであれば、 日本生まれの生粋の日本人であっても、友達や知人も少なく恵まれていない人は多数いますし、外国籍の外国人でも友達がや知人の多くに恵まれている人もいます。 それは別にマジョリティでもマイノリティにも関係なく個々の資質の問題でしょう。 私も若い頃に海外で生活しましたが、やっぱり日本人でも受け入れてくれる人たちもいますが、日本人というだけで毛嫌いされることもありました。 それで毛嫌いされている人たちのコミュニティに無理に参加する必要は感じませんでしたし、素直に受け入れてくれるコミュニティに参加してました。 そうこうしていると毛嫌いしているコミュニティでも、「日本人は嫌いだけど、お前はいい」という状況で日本人嫌いのコミュニティにも参加できました。 また、基本的に能力の優劣のはっきりするコミュニティにおいては、やはりその能力の優秀であることはコミュニティに受け入れられる強い要因でしょう。 判りやすくいえば、チームスポーツにおいてその人がチームにいれば試合に勝てるとすれば、チームメイトはその人を受け入れるでしょう。 最終的には、他人との付き合いって広い意味で「自分にとっても損得」で受け入れるか否かを判断しているのは仕方ないでしょう。これは相手がマジョリティでもマイノリティでも同じだと思います。 ただし、自分と同質の相手であるほうが苦労が少ないので受け入れやすいのも事実でしょう。
- saki_nagatsuka
- ベストアンサー率8% (19/226)
国がどうとかではなくて、対人間での付き合いで溶け込めるかどうかは やはり人間の資質の問題ですから。
- Guan-Yu
- ベストアンサー率13% (60/436)
No.3ですが続きを書きます。 外国人が日本に受け入れられる為の、良いお手本になるのが『王貞治氏』です。 これを続けるのは非常に難しい事ですが、継続すれば確実に日本社会に受け入れられると思います。 それには特殊な才能、特別な能力は必要としません。 自分が住んでいる地域で、ただボランティアをし、地域やそこに住む人の利益の為に貢献するだけです。 王貞治氏は有名人ですから、障害者施設などを定期的に訪問したり、子供の為の野球教室を開催したりして全国的な社会貢献活動を続けて来ました。 多くの人は、その様な活動をしている人を見ると偽善ではないのか?、などと穿った見方をしたりもしますが、長年、コツコツと社会貢献活動をする人に対しては、穿った見方はせず、逆に尊敬の念を持って見ます。 王貞治氏のような長年の社会貢献活動の実績がある人を偽善者扱いする人は、周りの人間から批判され下劣な人間として扱われるようになります。 つまり、自分以外の人達の為に労を惜しまず、汗を流し、信頼を勝ち取るしかないという事です。 そうしなければ、日本の村社会に受け入れられる事はありません。
補足
あなたは,著名な方を例にしていますが,たとえば,それが,どの出自,どの民族的なバックグラウンドをもつ人々にたいしても,それがアプライ,つまり,該当しますか? 〇〇につながりをもつ人々なので,いくらボランティア活動をやったからといって,信用できない! これが,日本人の心の内ではないでしょうか? 特定の出自をもつ人間にたいしては,やたらフレンドリーになり,特定の出自をもつ人間にたいしては,反感をあらわにする。 あなた自身は,いわゆる理解の幅の広い人物なのかもしれませんが,日本社会は,じつは,生きにくい場になりつつあると,そのように思うことがあります。
- Guan-Yu
- ベストアンサー率13% (60/436)
あなたは日本を理解していません。 日本は村社会です。日本の地域も会社も一つの村です。 この傾向は、田舎に行けば行くほど強くなります。 自分と同じ地域の人は自分の家族の様に扱い、これまた自分と同じ会社の人は自分の家族の様に扱います。 日本人は自分の村によそ者が入ってきたら、その人を排除しようとしたり、距離を置いて付き合います。 私が以前、働いていた会社に隣の県出身の人がいました。(日本人) その人は、私の県に20年住んでいるにもかかわらず、今だによそ者扱いされるとぼやいていました。 三代続かないと、江戸っ子ではないなどと言いますが、あなたの子供か孫は日本に受け入れられると思います。
補足
「三代続かないと、江戸っ子ではない」,とのことですが,たとえば,いわゆる同和地区で生まれ育った人々や,同和地域につながりをもつ人々にたいしても,同じことがいえますか? 差別を受ける人々は,未来永劫,差別を受ける人々。 これが,日本人にとっての「心の内」なのでしょう。「三代経てば江戸っ子」などの,「美しい言葉」をわたしは使うつもりはありません。 閉鎖的,排他的な部分については,「徹底的に批判」します。そのほうが,日本のためであると思います。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”どのようなことをすれば,マイノリティが日本社会に受けいれられるのでしょうか?” ↑ 私は中国人(大陸)の知人が多く、彼らと 煩雑につきあっております。 マイノリテーが日本社会に受け入れられることは それほど難しく考える必要はないと思います。 1,日本人からみて、不愉快なことをしないこと。 2,尊敬されること。尊敬とまでは行かなくても、 一目置かれる存在であること。 これだけ守っていれば、日本人は受け入れます。 まして外国人には親切ですよ。日本人は。 ”日本理解” ↑ これは、必ずしも必要とされないと思います。 日本人の眉をひそめさせることをしなければ よいだけです。 それにはある程度、日本を理解する必要は あるでしょうが、それだけです。 ”特別な能力” ↑ これは、私のいう尊敬に繋がると思います。 特別な能力でも、ピッキングのような能力では 逆効果です。 敬意を持たれるような、特別な能力という意味に なると思われます。
お礼
コメントありがとうございます。
- t78abyrf9c
- ベストアンサー率47% (3029/6402)
>どのようなことをすれば,マイノリティが日本社会に受けいれられるのでしょうか? 「世間」に従属すれば良いのです。 変(中途半端)な「人間性」は捨てて、「世間」の中でロボットの如く皆の言動に従うのです。 それが出来ないからマイノリティであり、ご自身の現状を保ったままで世間に受け入れられる方法を探っての質問かも知れませんが、はっきり言って「愚問」です。 「世間」は、個人の事情など知った事ではありません。 「皆が一緒」 これが世間における最も重要な掟であり、それに従えない者は、徹底的に断罪されます。 従えない者は、一生世間から距離を置き生きるか、世間が平伏す位の特別な才能を持つ以外に打開策がありません。 「世間」は、「先天性」を重要視します。 「世間」に順応する先天性を持てずに生まれてしまった者は、それ以外の先天的で特別な才能が無い限り、一生苦しんで生きる事になるのです。 日本人が、長年自らの手と力で変える事が出来ない「世間」を、明治期以降は欧州の「社会」を入れる事で変えようとしてきました。 欧米では、12世紀以降からキリスト教が根付いおり、その影響で「強い個人」形成され、それを基盤として出来上がった「社会」も根付き、その延長上でマイノリティとマジョリティのバランスが取れてる側面が大きいです。 しかし、キリスト教が根付かず、大半が「弱い個人」として生きる格好になる日本では、いくら(「強い個人」の存在を前提とした)「社会」を入れたところで上滑りとなり、無理に「社会」を入れ込む反動から、元々「世間」に温存されている悪い面が増長するという悪循環が顕著になってます。 これを少しでも是正するには、日本人自身が「世間」と「社会」の違いを冷静に分析し、その狭間で「(弱い)個人」を活かすにはどうすれば良いかを考えていく以外に道がないでしょう。 が、(皮肉にも、ある意味学校教育が成功したとも言えますが)「世間」と「社会」が同質であるという観念が日本では浸透し切ってますので、そこを変えるには並大抵の方法では無理だと言えるでしょう。 そもそも論ですが、日本に「社会」が根付き切っていれば、「社会人」なんて言葉は必要ないのです。 なのに、「世間」では当たり前の様に「社会人」が使われており、日本人にける「社会(観)」の狭さを露呈する格好になっていると感じます。 改めて申しますが、日本の中でマイノリティを自覚する方ほど、「社会」ではなく、「世間」に目を向けて考えて欲しいと切に願います。 「世間 社会 違い」検索結果 http://goo.gl/tMnfs
お礼
あなたが指摘されたように,「世間」を超越した,「新たなるアイデンティティ」の構築が必要であることは,誰もが理解できることでしょう。わたし自身,日本のアイデンティティを分かちあっている立場から,日本人にはそれをやってのける能力,実力,創造力があると,いまでも,そのように認識しています。そうしたい,という強い思いもあります。 しかしながら,あなたのコメントも含め,さらには,排外主義的な純日本人のプリゼンスを知ったことで,わたし自身,非常にペシミスティックな気持ち,考え方をもつようにもなりました。 あえて,「世間」に目をむけない。わたしなりの,「わたしのやり方」を模索する,追及する。同じような言葉のつかいまわしですが,いわゆる「新・日本人像」の構築に,積極的に向きあうべきだと,わたしは思います。 「世間」に流されること,「世間」に従属,隷属されることを「是」としている状態が,日本人の多くにとっては,納得のいくものではないのですから,「思いきったアクション」にでても,それは理解の出来るものでしょう。 また,「皆が一緒」である必要など,まったくありません。わたし自身は,親が外国出身ということもあり,日本文化と外国文化が共存する空間で生活をしていたとから,「皆が一緒」という空間は,非常に異常な空間であり,いわゆる「リスキー・シフト」にもなりかねないと,そのように受けとめています。
お礼
コメントありがとうございます。 「能力の優劣のはっきりするコミュニティ」 このような場においては,当人の能力が優先され,人種や門地などで,人間がジャッジされることは,基本的にはありません。 しかしながら,こういった場は,とても限られているのではないでしょうか? そういった場で活躍できること自体が,多くの人々にとっては,まれなことであると思います。