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精神的に疲れることをしていたら成長できる?

他人のことを思い遣る、嫌なことでも必要なら率先してやる、自己投資として勉強するなど、 確かに良い事だろうだけど、度が過ぎれば精神的に疲れます。 しかし、我慢し続けて疲れまくれば、いつかは人間的に成長できるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • chiha89
  • ベストアンサー率100% (3/3)
回答No.14

私なら…という視点からの回答になりますが。 やるかやらないか、迷う時ってありますよね。その時は、「5年後の自分がこの選択を振り返ったとき、どっちが”選んでよかった、だから今の自分がある”と思えるんだろう」と考えます。 または、やるかやらないか迷うということは、やりたいという気持ちが少しでもあることだ!ととらえ、じゃあやってみるか!と思い挑戦します。 そうすると、嫌々ではなく「挑戦するぞ!」という前向きな気持ちで取り組めます。成長することに貪欲な気持ちが保てるので、取り組み方も変わってくるはずです。 そして、もし「これはやらなくていいか」と思うものであれば取り組みません。我慢してまでやる必要はないのです。 我慢して何かに挑戦し続けることは、まったくもって無駄というわけではありません。処理能力や対応力がついていき、キャパシティーも拡大していきます。これはこれでとても大事なスキルですね。次へのステップアップへの重要な土台になることでしょう。 しかし、嫌々何かをやり続けたところで、その中で「人に尽くすことの喜び」に目覚める人はなかなかいないと思います。 挑戦し続けることは大事ですが、タイミングや気持ちを蔑ろにしてしまっては、疲労がたまっていく一方でしょう。自分のペースで取り組むことが一番です。誰しもその人にしかない経験を積み、その人にしかできない成長を積んでいくものではないでしょうか。焦ってあれもこれもと手を出したり、負荷の大きなことになりふり構わず挑戦するというのは否定はしませんがおすすめはしません。

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質問者

お礼

回答有り難うございます。 何かするかどうかの基準は後から振り返って納得できるかどうか、 少しでもやりたい気持ちがあるかどうかということですね。 確かに我慢するといってもやりたい気持ちがあるかどうかというのはおおきいと想います。 我慢して数週間だけ挑戦し続けてみましたが、成長してるにしても疲労で参ってしまいました。 自分を大切にしたうえでの挑戦がベストなのだと思います。

その他の回答 (13)

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.13

最終的には、中庸に行き着くのだと思います。 川の上流を転がる、角の尖った石みたいに、自分があちこちにぶつかることで、 丸い石になる=成長しようとしているのではないでしょうか。 肉体年齢は若くとも、最初から中庸でいける人も少ないけれどいます。 年をとるにつれて、さらにひねくれてトゲトゲしくなってしまった人もいます。 丸くなるために角を落とすならば成長になるけれど、 さらに角をするどくしてしまうようなら成長にならないです。 極端から極端へ走ってしまうのは、若いうちは大抵そうです。 それがいけないのじゃなく、それもいろいろやってみれば、 飽きや満足もするし、中庸的な心地の良さもわかってきます。 あくまで中庸に行き着くための過程です。 その行き先を決して見失わずに、あちこちぶつかってみるなら成長につながると思います。

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質問者

お礼

回答有り難うございます。 成長するための挑戦の中庸の見極めができるのが理想だと私も思います。 見極め力を習得までの過程を知りたいところです。

noname#191178
noname#191178
回答No.12

>他人のことを思い遣る、嫌なことでも必要なら率先してやる、自己投資として勉強する これをして精神的に疲れているうちは全然成長していません。 やって自分が得るものがあると気づくその瞬間から成長しているのですよ。 少し難しいですが、人間は自分のことを一生懸命やっているうちは半人前。 人と交わり、一見他者の為と思われることをやることから、 一人前への勉強が始まります。 結婚、子育て、会社関係、友達関係。諸々、人と人の交わりで成り立ってます。 他者のために動くこと、実は自分のために動いていることとなるのですよ。 自分一人でできることは小さい。 お互い助け合い、譲りあい、思い合い。 それがないと人間に生まれてきた意味がありません。 自分に返ってくるということです。 どう帰ってくるかわかりません。でも必ず帰ってくるんですよ。 人生の醍醐味、これから、たくさん味わって下さい。

  • exp10050
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.11

全くもって間違ってます。 程々、中道、真ん中、とにかくバランスが取れた状態が理想なのですが そのさじ加減を見つけるために場合によっては著しく偏りを持たせて方法を探るから 疲れるんです。 自分で体系化できるところまで昇華したら後は逆に楽しくなってくると思いますよ。 苦しいのはそこに至れなかったり、至るまでに被害妄想増大させて目的見失ったりするから。 そもそも我慢なんて続く訳が無い、自分が我慢してることを他の人が継続できてるのは 単にできてる人にとってそれが我慢じゃないというだけ。 まあ、できるわけないのですが、本当に寝食惜しんでるのにそれが快楽とか愉快とか とにかくポジティブな精神状態ではなくネガティブな状態だったらそれは成長じゃなくて 病気です。 長いこと病気の状態を成長とは言いませんよね、ましてや自らそうなろうとしているなら 成長するどころか退化しますよね。 それが終わった時に「やっべ間違えてた、むだくさい」なんて言いたくないものだから やれ成長しただなんだって言いたがる訳で何もないなら何もないんです。 一時的に耐えてるならまだ分かりますが、何年も我慢してるとかだと頭が悪くなっていってるだけじゃないですかね。 頭がいい、もしくは成長していって頭が以前よりよくなっていたら我慢してる状態なんて とっくに終わってるはず。 バカのままでいいとかバカになれっていう言葉ありますよね。 これはそういう頭の悪い思考で凝り固まってしまった人に対して一度リセットして まずその状態のやばさを把握しろってことじゃないでしょうか。 だから楽な方向に流れていくのと怠惰はまるで違うんですよ。 例えば格闘技やスポーツは我慢した方が勝つんですかね? 身体を楽に操っている人の方が勝てそうだし、見てる方も楽しいんじゃないのかな。 更に社会でお金を稼ぐ場合には、我慢だけしてるとお金が稼げないので やっぱだめなんじゃないですかね。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.10

>度が過ぎれば精神的に疲れます。 「過ぎたるは、及ばざるがごとし」って言葉がありますよ。なにごともやりすぎは意味がありません。薬は飲み過ぎれば毒になるし、毒もごく少量なら薬になります。 「適当」って言葉がありますが、「適していて、当たっている」という意味でもありますよ。 疲れれば成長するなら、うつ病の人はみんな成長するはずじゃない・笑?

  • nnnnnor1
  • ベストアンサー率48% (88/182)
回答No.9

我慢して続けて疲れるから成長するのではなく、 我慢して続けて経験となり、それが次のステップへつながるから成長するのではないでしょうか。 我慢して続けることはそれ自体疲れることかもしれませんが 疲れていて続ける気力がなく、ひとつの目標が達成した時点で終わり、ならそれは成長でしょうか。 我慢してひたすら努力を続けるだけでなく 上手く息抜きや自分を叱咤激励する方法も身につけることも成長へのステップなのかなと思います。 捉え方は色々とあると思いますのであくまで個人的な考えですが、 「成長」は嫌な物事でもそれを苦と思わなくなることかな、と思います。 例えば苦手な勉強って初めは解けないし、理解に時間もかかるし、我慢の連続ですが 続けてある程度のステップをクリアし、難しい問題が解けるようになったら楽しくなってきませんか? でも、例題→練習問題→発展問題→応用問題と目標へのステップがあるとして 練習問題を達成した段階で疲れて辞めてしまったら…成長かもしれませんが、 目標とする段階への成長は達成出来ていませんよね。 なので、何かを努力する過程で、自分でうまくバランスをとって続けられるようになることが 成長なのではないかな、と考えています。

回答No.8

荒療治的な手法として、必要以上の苦行を強いても、 心身ともに疲弊するだけでそこから何かを得るのは難しいのではないかと思います。 成長する時というのは、その多くが「気付き」によって為されるものだと思いますが、 その時その時の気付きというのは、 振り返ってみて、省みて、そこから失敗や成功体験を通じて得られるものではないでしょうか。 そうすると、振り返り、省みる心の余裕もなければ気付きにも至りにくくなるし、 心に余裕がなければ、例えきかっけを見出せても、心や感情の面で認めたくない時には、 そうしたものは受け入れ難いものだと思います。 あまりにも受け入れ難い現実であるとか、 あまりにも苦しい状況であるとか、 そうしたものは、何かしら心の余裕を持っていなければ、受け入れようとしたときに心が壊れてしまいます。 また、自分に無理を強いて行う奉仕は、相手に見返り的な物を求めてしまう欲求が出てしまいがちです。 感謝されなかったり、ねぎらいの言葉が無かったりしただけで「不満」が出ることがあります。 そしてそれはなぜか相手にも伝わります。 不満を持ってしまったら、その時点で奉仕ではないし、 不満があるのに続けても、気付きは得られないし、成長もありえないでしょう。 ですから、己に苦行を強いるのではなく、 大変だけど楽しんでやる事。そして小さいことでも達成を積み重ねていく事。 成功はしていても、必ず省みて、そこから得られる事はないか、次に行っても同じように出来るようにするにはどうすればいいかを考える事。 更に可能であれば「自分以外の人が行っても、同じように成功する為には、どうすればよいのか」を考える事。 大抵は、一度出来たのだから次もいけるだろうとして、なぜそうなったかについて考えません。 普通は失敗したときにそういう事を考えたりします。 出来れば失敗しなかった時にも、同じように考え、「他人がやっても出来る」という視点や、「指導する場合」を念頭に置いて考えてみるなどすれば、 見返りを求めず、しかし他人を寄りよく導く為の「考え方」などが身に付くのではないでしょうか。 人間力的なものって、そういう事の積み重ねだと思います。 積み重ねる為には続けていかなければなりません。 続ける為には、楽しくて面白くないと続かないと思います。 だから「それを楽しめる事」というのは、大切だったりします。 楽をしすぎてもいけないけれど、苦しすぎても続かないので、 長く続けて自分を磨いていけたら良いのではないかなと思います。

回答No.7

>>しかし、我慢し続けて疲れまくれば、いつかは人間的に成長できるのでしょうか? まあ、無理でしょう。 疲れている段階で、それ以上は身につきません。 残念。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2193/11072)
回答No.6

いつも、そんな感じで生活していれば、それが普通のことになります。 精神的に疲れることはなくなります。 人間的に成長できることよりも、周りの生活環境が良くなり、楽しいことが増えてきます。 他人を思いやる心は、周りにも伝染して、自分にも、自分の家族にも返ってきます。 毎日が幸せに生活できるようになると思います。

回答No.5

うーん。 「精神的に疲れる」ことを目標にしたら、 成長出来ない気がします。 それって自分に酔ってるだけでしょ? でも、その先にある「目標」を見つめ、 そのために「精神的に疲れる」なら、 成長すると思います。 日本人って、 「忙しい」や「疲れてる」を美徳にするところがあって、 平然と口走る人が多いんだけど、 でも的外れなことが結構多い。 知り合いで「忙しい」の口癖の人も、 見てるとすんごく要領悪い。 え、それ今やんなくていいでしょ?みたいな。 どうして疲れるのか、 それは今必要な疲れなのが、 ちゃんと分析して動いた方がいいと思う。

回答No.4

爆発する人もいるでしょう。フラストレーション溜まりますし。 世の中にはサボるのが上手な人もいるし。 無償の奉仕に疲れるならしない方がいいかと。 本来の自分の仕事が出来なくなるので。 成長は出来ますが、ひねくれた方向に行く可能性もあるので気をつけてください。

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