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自己採点
哲学の分野かわかりませんが質問します。 自分は高校生でセンター試験の模試というものを受けます。 この模試では、試験後に自己採点をします。 選んだ番号が自己採点時にわかるように、試験中問題冊子にも鉛筆で印を付けておきます。 試験終了後、問題冊子を閉じた後、閉じられた答えの冊子をもらいます。 試験終了後は、問題冊子、答えの冊子はいずれも自己採点するときまで開きません。 ここで質問です。 以下のそれぞれの違いで自己採点の結果(点数)が異なる(変化する)か一定(変化しない)か教えてください。 ・自己採点する時間(問題冊子を開く時間) ・自己採点する時間(答えの冊子を開く時間) ・自己採点時の冊子を開く順番(問題冊子が先か、答えの冊子が先か) 自分は、記憶が点数に影響を与えるのではないかと思ってしまい、いくら考えてもわかりません。 このようなことを考える際の注意や、この質問に関する考えでも結構です。
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- ghostbuster
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> 以下のそれぞれの違いで自己採点の結果(点数)が異なる(変化する)か一定(変化しない)か教えてください。 ご質問を、「現在の行為が過去の行為の結果に影響を及ぼしうるか」という問題として書き換えると、ダメットが考察したことと同じ問いになってきます。(『真理という謎』勁草書房) ダメットはこんな問いを立てます。 ある人が、封筒を開ける前に「チェッ」と舌打ちをしたときに、封筒の中にこれまで請求書が入っていたためしがないことに気がつきました。以来、その人は、差出人が請求書を送ってくるのを妨げるために、いつも「チェッ」と舌打ちをしている。 この人物に、その行為は「意味がない(=不合理である)」と説得することはできるでしょうか。 もっともありそうな反論は 「差出人が、この封筒に請求書を (1)入れた (2)入れなかった のどちらかであり、(1)か(2)のどちらかであることはすでに決まっている。 (1)であるならば、舌打ちは請求書を入れないために何の有効性も持たないだろう。 (2)ならば、舌打ちをしようがしまいが、請求書は入っていない。 つまり(1)の場合は無効だし、(2)の場合は無用である」 ということでしょう。 この反論は、一見、説得力がありそうですが、舌打ちをする人を説得できるでしょうか。 ではこういう場合を考えてみてください。 交通事故に遭わないように最大限の予防手段を採ろうとする人がいるとします。そうした人に対して、ある運命論者が 「君は交通事故に (1)遭う (2)遭わない のどちらかである。 もし君が(1)の運命をたどることになるのなら、予防措置を採ったところで何の有効性も持たないだろう。 (2)ならば、予防措置を採ろうが採るまいが事故には遭わない。 つまり、(1)の場合は無効だし、(2)の場合は無用である」 と言ったとします。 わたしたちはこの運命論者の言い分を、どこかおかしいと思います。 ところが先に挙げた舌打ちをする人に対する反論と、交通事故の予防手段を採ろうとする人に対する反論は、同じ論理構造を持っているのです。 おそらく交通事故に遭うまいとする人は、運命論者にこのように反論するでしょう。 「(1)予防手段を採るなら、交通事故に遭わない (2)予防手段を採らなければ、交通事故に遭ってしまう がともに真であるとき、その予防手段は有効である。たとえ (3)もし予防手段を採らなくても、交通事故に遭わないだろう が真であっても、この三つは両立可能である。 そのために、(3)を主張することで、予防手段を採ろうとすることをやめさせることはできない」 同様に、舌打ちをする人も 「(1)舌打ちをするなら、請求書は入っていない (2)舌打ちをしなかったら、請求書が入っている ということがともに真であることを、自分は経験的に知っている。たとえ (3)もし舌打ちをしなくても、請求書が入っていない ということが真であったとしても、この三つは両立可能である。 そのために(3)を主張することで、舌打ちをやめさせることはできない」と主張します。 かくしてわたしたちは舌打ちをするのをやめさせることはできなくなります。 当然ここである疑問が起こってきます。 請求書を入れたかどうかは、過去の出来事であって、既定的なものである。 だが、交通事故に遭うかどうかは未来の出来事で、未定のものである。 それを並べることはできないのではないか。 けれども、時系列で見るならば既定であっても、舌打ちをする人にとっては請求書を入れたかどうかは未定のことです。差出人が請求書を入れてしまったことを知った人は、それを防止しようとすることはできません。逆に、未来のことであっても、交通事故にかならず遭うことが確証されるならば、予防措置は採りようがないでしょう。つまり、時間的に「過去」に起こったことであっても、未定的な出来事というのは存在するし、時間的に「未来」に属することでも、既定的な出来事(たとえば10:31につぎの快速電車が到着する、というように)は存在します。 このように未定的な出来事に対しては 「送り主が請求書を入れなかった」→「請求書が入っていなかった」という因果関係を 「舌打ちして開封した」→「請求書が入っていなかった」とずらすことが可能です。 このようにダメットは、ここから「原因が結果に先立つという命題は、必然的に真であるわけではない」という結論を導き出すのですが、ポイントは「必然的に真であるわけではない」という点であって、「舌打ちをすることが原因で送り主の行為に作用して請求書を入れさせなかった」ということではありません。つまり、ここで言えるのは、わたしたちが舌打ちをする人に向かって、それはまちがっていますよ、と言うことはできない、というところまでです。 じじつ、舌打ちをする人と同様のことを、わたしたちは日常的にしています。 たとえば大地震が起こって、家族の安否がわからないとき。どうか家族が無事でありますように、と祈る人に対して 「あなたの家族は地震で (1)亡くなった (2)亡くなっていない のどちらかであり、(1)か(2)のどちらかであることはすでに決まっているから、祈ることは無意味だ」 と言う人がいたら、その指摘をする人の人間性が疑われるばかりではなく、まったくの誤りであると言えるでしょう。 同様に、すでに終わってしまった試験に対して、「合格していますように」と祈るとき、山での遭難を知らされた母親が「息子が無事でありますように」と祈るとき、人は、そうせずにはいられない感情に衝き動かされて行為しています。つまり、過去に起こったことであっても、「送り手が請求書を封入しない」「試験に合格している」「遭難したが命に別状はない」…ということを、可能性として、みずからに対して想定している、といえるでしょう。 このように考えていくと、質問者氏が思考実験としてではなく「何らかの方法を採れば自己採点の結果が変わりうる」と考えているとすれば、それは「良い点数だったらいいなあ」という願望が別の形態を取って現れているということであり、それに対する回答は「わたしも合格を祈っていますよ」というのが適切ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
期待値のことでしょか?自己採点の点数は同じでしょうし。 ギャンブルチックな考えだと、 終わったあとなら、自分のしたことの結果の採点が先ですね。 予想としてはこうなっている。はずだが、実際はどうなの?と。 答えを見た、知った時に、したことと予想したことの二重採点をそこでします。 これは上記とは別としますが(ギャンブルうんぬんとは別)、 将棋などの感想戦的には、遅くチェックすること(手順)であればあるほど、 相対的に過去の自分の評価が下がるほうが多いでしょうね。後悔ということでしょう。 だから、基本決め手は最後にチェックする。ええと、これはあくまでも自分の経験上です。 変化するでいいのでは?変わりないは無いでしょう。 ちなみに、 ・自採点する時間(問題冊子を開く時間) ・自己採点する時間(答えの冊子を開く時間) ・自己採点時の冊子を開く順番(問題冊子が先か、答えの冊子が先か) これらは変わるでしょうけれど、 自己採点の結果が異なるか一定か、とは別の問題でしょう。 点数自体は同じ、相対的に評価が変わるだけ。 <なんかそんな気がする>おそらくこれが質問者様のモヤモヤなのではないでしょうか? 期待値を変えたいのでしたら、評価が気になるのなら、 ランキング1位(予想)は最後に発表しましょ。 場合によってはそれまで発表した中に1位があるのです。
- JqqF
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常に、です。あなたを含め人は人為の塊なので、どの地点にも留まれません。流動する事象の中に時々として存在する一面が過去に残ります。この場合は採点の結果がそうです。その結果を事前に知ることは出来ません。流動する人為を止める方法が無いからです。私はそう考えました。
- JqqF
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出題の検証が不十分なので、問に間違いがあるとする可能性を考慮します。 あなたは「採点ミスはしない」とする定義を採点ミスは人為以外で起こらないからと根拠づけていますが、この両立は不可能です。 採点ミスはそもそも人為以外で生じる可能性がありませんし、人為で生じるなら「採点ミスはしない」という定義が成り立ちません。 であれぱ、あなたの悩みの根幹0軸も存在しません。 私の考えは。人為は一定であることを約束しないから、いかなる選択を以てしても、一定であることを望めないし、変化すら、求める根拠に足りないと汲むしかない。ということです。 あなたの定義に対する了解が不能と判断されました。それが私の考える問の間違いです。 如何に?
補足
>私の考えは。人為は一定であることを約束しないから、いかなる選択を以てしても、一定であることを望めないし、変化すら、求める根拠に足りないと汲むしかない。ということです。 これには同意しています。これをどの場面で適用されていますか?
- ukiyotonbo
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変化するのは あなた自身の 採点結果のイメージ。問題冊子を開く方が先です。 それぞれの問題への解答の正解確率があなたにイメージされていてそれが確定されてゆくということ。 したがって、問題冊子を先に開いてから、総合点を加算していく方がいい。答えの冊子から開くと減算なので気が滅入る。
お礼
お礼を忘れていました。
補足
ありがとうございます。 私もその考えに同意します。経験上そのほうが点数高くなる気がしますしね。 正解確率は記憶であり、それが点数に影響する気がしてならないのです。 しかし確かめられないのです。。。
- JqqF
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採点ミスはしない、は人為というよりは願望に近いですが、これを定義と位置づけて考えた場合。もうひとつの人為「記憶力」を野放しにするのは横暴な話しです。この定義についてはどのようにお考えですか?
補足
採点ミスが人為以外では起こらない事を同意していただけるのであれば、定義するまでもなく採点ミスは起こりえません。なぜなら点数が決定されるのは二つの冊子が同時に開いた状態になる瞬間であり、点数が出されるまでの時間は0であるからです。 「記憶力」が試験終了後から自己採点までの間のもののことであれば、確かに横暴なことだと思いますが、質問本文に書いたとおり、決して野放しにしておらず、まさにこの質問をした動機になる部分です。この部分が問題の間違っているところ、ということでしょうか。
- JqqF
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採点ミスがないという考えは結果ですので、方法に担保させるのは不可能です。影響についてのみ考えるべきです。 あなたの質問にありのままお答えすると、採点に必要な人為(記憶力注意力)は一定しないのでどんな選択をしようと、変化しないことを保証出来ません。 問が間違っているから答えが出ないのです。
補足
「採点ミスはしない」 のつもりで表現を誤りました。 そうであれば結果にはならずに影響?になりますか? そもそもこの質問は自分の見ているものが絶対であるつもりで書きました。両方の冊子(どちらも1ページほど)が開かれ、視野にその2つが収まる状態を保ち、冊子に記入されている物が静止し続けていることを確認しながら自己採点していることになるので、点数が決まるのは先ほど2つの冊子が視野に入った瞬間になりませんか?そうすると注意力は影響を与えないので無視できませんか? ちなみに質問で自分が書いた「記憶」とは、試験終了後から自己採点するまでの自分の答案に関する記憶のことです。 表現不足で申し訳ありませんでした。 しかし、この場合採点に必要な人為というものは無くなると思うのですが。
- JqqF
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採点に影響が出るのは、あなたが提示する方法の選別よりも、あなたの注意力が損なわれた時だと思います。 同時にみればよろしい。可能な方法のひとつです。
補足
ありがとうございます。 もっともな事です。 注意力が損なわれるというのは、採点ミスのことですか? 採点ミスはない、として考えた場合どうなるでしょうか。 また、同時に見ても、その同時に見る時間の問題が残ってしまいます。
お礼
お礼も言わせてもらいます。
補足
わかりました。 回答ありがとうございました。 大変参考になります。