対価を求めず、相手を許容する心と私は思っています。キリスト教なら、それは人間だけでなく、神様も含めて。
しかし、私の言葉ではここまで。
純粋な愛には4つのものがある。第一は罪なくして私たちに何が起ころうとも人は神と一つであるからそのために神に感謝するのである。第2は私たちが身体や魂に持っている賜物を神の秩序に従い用いることである。第3は良き分別であらゆる罪を犯さないで清く生きることである。第4は私たちすべてが徳を身につけることである。(中略)神が、それを私に与え、喜んでそれをしたいとあなたが言うなら次のことを聞きなさい。徳の半分は神の賜物で半分は私たち自身のものである。神が私たちに知識をあたえてくださるなら、徳を用いなければならない。 マグデブルグのメヒティルト
キリスト教に偏見を感じる人なら
「愛は感ずるものであり、言葉ではない。愛は感ずるもので無言である。美は感ずるもので、言葉でない。美は感ずるもので、納得するものでない。美は感ずるもので、無言である。美は感であり、智ではない。」 熊田 千佳慕
愛を言葉にするなら奥深いし、こんな言葉に出来る人は、すごいですね。しかし、言葉ではなく行為を伴わなければ、無意味なものとなってしまうと私は思ってます。
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