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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:信じているとは 心が閉じられていないことである。)

信じる心の閉じられていないこととは?

このQ&Aのポイント
  • 信じているとは心が閉じられていないことであり、《信じる》は心に《非思考の庭》が成ることだと理解されています。しかし、具体的にどういうことなのでしょうか?
  • 非思考であるがゆえにハカラヒ(思考や考え)はないが、心の志向性のようなものがあると考えられます。ハカラヒはないが、どこからかやって来るヒラメキのようなものが存在し、内外に関係なく直感や直観が働くのです。
  • 信じるということは《心が閉じられていないこと》であると言えます。それは《信じる》の対象がひとつであり、全体としてのひとつ、つまり《かみ》であることが想定されます。人間にとっては、《信じている》とは無差別に神を信じることであり、無い神も含まれることです。このような信じる心の自由が信教・良心の自由の中身であると言えます。

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noname#189751
noname#189751
回答No.7

こんばんわ。 >信じているとは 心が閉じられていないことである。 すこし重い言葉ですね 開いている と言えば楽なのに・・ 開いている と言えば自然です 閉じられていない と言うと 心が何らかの働きかけを受けている それは意識する、しないに関わらず といった感じにも取れます。 閉じようとしても閉じられない何か それは信心における他力ではないでしょうか 信心における根底というか、礎というか そうしたものが崩れ去らない限り、無くならないのだと思います。 闇に差す 細い光が自分を照らしているという自覚が信心だとすれば 信じて いる とは、光が見えなくても受け止めて いる ということでしょう。 信じる と 信じている とでは深さの違いがあると思います。 その違いは、他力の感得が意識下に及ぶものになってゆく違いのように思います。 心が閉じられていない とは すでに深い意識の下に、見えざる光が入ったことを表しているような気がします。 光が内側から差すようになったのだと思います。 だから 閉じようがない。 そんなふうに思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  開いている と言えば自然です  閉じられていない と言うと  心が何らかの働きかけを受けている  それは意識する、しないに関わらず といった感じにも取れます。  ~~~~~~~  ☆ へっへっへ。それをねらっています。  だって《開いている》と言っても 何らあきらかにならないのではないですか?  窓が開いていると言っても 心の窓ですから けっきょく――そのレトリックとしての効果はあるかも知れませんが――じっさいには意味がないです。窓を開いても 外が見えるというわけではありません。内なる心もしくは思いが よく伝えられるとも限らない。  思想がどう相手に伝わるかは 決まっていないはずです。《開いていない》心の状態であっても 心つもりが相手に伝わることもあり得るように思います。  ところが このような何らかの具体的なものごとをめぐって経験行為として思ったり考えたり行動したりするのではなく もっぱら内面において何かを信じるというときには 《閉じている》のではダメなのだと見ます。自分の信じる神に向けてはよいかも知れませんが ほかの神に向けては 閉じていてはダメだと言わざるを得ないでしょう。     だってそのような異神に対して排斥するないし排斥しなくとも受けつけないというようでは 一般に意志疎通はかなわない。相手の神を端から受けつけないようでは 人間としての交通がきちんとは行かない。  と思います。  ★ ~~~~  閉じようとしても閉じられない何か  それは信心における他力ではないでしょうか  ~~~~  ☆ ええ。つまり その《他力》なるナゾの何ものかをまづ受け容れることが先立つと思うのです。その受け容れが 信じることだと思うのです。  他力なる神を受け容れること これは 人間の側からする意志行為であるのですが じつはその意志行為をも他力ならばあたえるものだ(他力によってあたえられるものだ)とは考えます。つまり 絶対他力です。  これが 《信じる》の発進のあと  ★ ~~~~~  信心における根底というか、礎というか  そうしたものが崩れ去らない限り、無くならないのだと思います。  ~~~~~~~  ☆ と見ているわけです。つまり いづれのときであれ ワタシには《信じる》という瞬間がいちどおとづれる。ということではないでしょうか? むろん主観内面における事件としてです。  ★ 闇に差す 細い光が自分を照らしているという自覚が信心だとすれば  ☆ これは 敢えて反論してみましょう。  つまり そのようにわが心の大いなる闇を照らした一条のひかり これのおとづれを いちどは受け容れる――受け容れたという領収証を切る――という事件が 信じるを発進させるのだと思います。  《自覚》とまですでに言っておられますが 《受け容れた》そのあと自覚なり確信なりがさらに生まれます。ということではないでしょうか?  そのあとは 述べておられるとおりだと受け取りました。  ★ 信じる と 信じている とでは深さの違いがあると思います。  ☆ これは 出発点において《発進》する瞬間とその後の――長き人生にわたる――保持・継続としての動態とを言っているのだと見ます。継続は チカラです。  ★ ~~~~  その違いは、他力の感得が意識下に及ぶものになってゆく違いのように思います。  心が閉じられていない とは すでに深い意識の下に、見えざる光が入ったことを表しているような気がします。  光が内側から差すようになったのだと思います。  だから 閉じようがない。  そんなふうに思います。  ~~~~~~~  

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noname#194996
noname#194996
回答No.15

ブラジュロンヌ様、いつもながらご丁寧なお礼と補足Wをいただきました。 いろいろ参照させていただいた部分の間違いや、解釈の誤りなどをご指摘いただきました。 まことに失礼いたしました。 納豆の効用は私も存じております。改めて頓欲に食したく思いました。 >人間の存在は  >   ・非思考の庭    ・思考の緑野    ・感性の原野     などなど > の重層的に構造的に成り立ったものだと見るからです。《非思考の庭》と《思考の〔緑野⇒〕田園かつ都  会》とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。 そういうことですね。一番あやまっていたのは「非思考の庭」そのものの内容に関する部分で、なるほど思考そのものを拒まれている完璧な美である庭がメンテなどを要求することはないわけですね。 マタイ書の部分かと思いますが「先に来たものが後になり、後から来たものが先になる」つまり、庭そのものを自分の心にすえつけること、それ自体が重要なのであり、あともさきもない、皆それぞれ平等に恩恵を受ける権利があるのだということでしょうか。そうなれば、心が閉じられていないということは、もっぱら自身の問題ではなく、こんな素晴らしいものを得たのだから、出来れば他者にそれを見せたい、分け与えたいという気分のあらわれなのでしょうか。私はそのように思いました。 それにしても不信心者の悲しさ、先に戻りますが >。《非思考の庭》と《思考の〔緑野⇒〕田園かつ都  会》とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。 こういったことが、果たして可能なのだろうか?その素晴らしい完璧な庭が周囲の自前の田園、沃野に非思考的な影響を与えることはないのだろうか?そんな危惧を覚えたのですが、どんなものでしょうか。もちろんそれは「非思考の庭」からのかぐわしい花の香りやDNAだけに、よき影響ばかりのはずですが、そうでなければ、庭そのものを隔離して閉じ込めておく必要があるのではないか? わけが分からなくなってきました。 申し訳ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 こまあす88さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづ  ★ ~~~~~  マタイ書の部分かと思いますが「先に来たものが後になり、後から来たものが先になる」つまり、庭そのものを自分の心にすえつけること、それ自体が重要なのであり、あともさきもない、皆それぞれ平等に恩恵を受ける権利があるのだということでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ この部分は わたしが時間の過程として言ってしまったところを 空間として・つまりは《永遠の現在》として 上手にまとめてもらいました(もらえました ありがたいことに)。  ★ ~~~~    >《非思考の庭》と《思考の〔緑野⇒〕田園かつ都  会》とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。    こういったことが、果たして可能なのだろうか? その素晴らしい完璧な庭が周囲の自前の田園、沃野に非思考的な影響を与えることはないのだろうか?   そんな危惧を覚えたのですが、どんなものでしょうか。  もちろんそれは「非思考の庭」からのかぐわしい花の香りやDNAだけに、よき影響ばかりのはずですが、そうでなければ、庭そのものを隔離して閉じ込めておく必要があるのではないか?  ~~~~~~  ☆ これは実際問題としてそういったちょっとした芳しくない影響も受けるかと思います。  言いかえると 自分の――すでにあたえられた《非思考の庭》の香りの広がりとしての――ハタラキに応じて 周りの人びとから いろんな意味で挑戦を受けることがある。これだと思います。  これは ひとことで結論づけるなら そのときの自分のチカラに応じてそういう挑戦を受ける。ということだと見ます。確かに 人それぞれでしょうが たぶん《〈非思考の庭〉と〈思考の泉の湧く草原〉》との関係具合いを自分の意志や願いを超えて 練りに練ったかたちに仕上げて行くということが起こるようです。  もっとその関係具合いを 自分でも練り上げて行きなさいと促されるような試練に出遭うこともあるようです。  そのとき言われることは そのときの持ち前のチカラ以上にこころみられることはない。だと思います。  人によっては 世界中の見世物にされるほど 社会の屑呼ばわりを受けるかも知れません。  こうなると確かに  ★ 庭そのものを隔離して閉じ込めておく必要があるのではないか?  ☆ と問い返さざるを得ないようなのですが どうですかねぇ。たぶん 乗りかかった船から降りることは出来ない相談なのでしょうね。降りたいと思う人には 窓をノックする風は吹かないでしょうね 初めから。  考えてみれば おそろしい《信じる》のお話ですね。

回答No.14

こんにちはです。 熱力学等で、開放系といったら、物質やエネルギーなどの出入りがある系ですね。で、閉じた系といったら、物質やエネルギーなどのやりとりがないシステム。そして、開放系では、エントロピーは必ずしも増えなくても、ルール違反にはなりません。エントロピーを外に放出できるので。生物の体なんぞは、この開放系の代表例です。だから、体の恒常性が維持できる!! で、昨晩(といっても未明ですが)、寝る前にちょっと思いついたのですが、 ネット世界というのは、実は、閉鎖系・閉じた系ではなかろうか。 真偽の怪しい情報や流言飛語がその中を日夜飛び交う。たしかに情報量・つまりエントロピーは増えているけれど、使えない・質の悪い情報(熱力学的にいえば、排熱みたいなもの。利用価値のない熱のゴミ!!)が増えている。。。。。。 な~んてね、猫の世迷い言です(わらい)。 ☆☆☆☆☆☆ また、悪いくせがでて、無駄話をしてしまった(ポリポリ)。 では、本題。 ~~~~~~  ★ ~~~~~  つまり、意識にはつねに対象がある。  対象を有さない意識はない!!  そのことを《志向性》とよんでいらっしゃるのですか?  ~~~~~~~  ☆ ええ。そしてしかも似ているが まるきり違うということを言おうとしています。これも同じく《非思考》ゆえです。 ~~~~~~ bragelonneさんの立場は《非思考》ですから、 対象の志向性は、有意志的なもの、有意識的なものではなく、その時に結ばれる認識・知覚とでもいいましょうか、《対象》的なものとの結びつきは、無意識的といいますか、天啓的といいますか、こちらの意志とは無関係に、なんの脈絡もなく、あるとき、突然、あらわれるわけですよね。   ─────────    《エポケー》とかでないことは、付き合いが長いですから、百も承知しております、はい。    《志向性》なる言葉がでたので、ちょっと《エポケー》に触れてみました。    ではありますが、他者がその光景を目にしたら、たぶん《エポケー》しているみたいに見えるんでしょう、きっと。   ───────── そして、その対象は、《神の光》、あるいは阿弥陀さんの《光明》みたいなもので、漠として確かな形相を有しませんよね。 これを表象と呼べるのかどうかは分かりませんが、受け手には意味を有さない(というか理解不能な)で無内容な表象。そして、これは、たぶん、《非思考》の領域を越えて、《非経験》の領域においてのみ成立するものですよね。 何かを感じた、でも、何を感じたかどうか、自分でははっきりとは分からない。ただ、何かを感じた気がする。たぶん、この時、至福感みたいなものに満たされる。その印象というか、感情(?)の名残りみたいなものが残り、それからその経験ならざる経験の存在を推測・推論とかするんですかねぇ~? 後追いでしか、その経験者にとっても、その経験の存在は、あるいはその経験したかどうかは、分からないんですかね~? わたくし、こうした体験をしたことがないので、よく分からないのですが。。。。。。 で、ここで問題が発生します。 その《神の光》みたいなものに、真偽はあるのですか? 真偽ということばにはかなり語弊がありますけれども、その感じた《神の光》や阿弥陀さんの《光明》みたいなものが、とんだ食わせ者だったらどうなるのでしょう。 何か、《食わせ者》か否か、マヤカシか否かの判定法があるとお考えですか? 帰結主義や道徳の結果論的なものではなくてです。 アプリオリに、先験的に、そのことを判定する能力が人間に備わっているとお考えですか? それを判断する、あるいは直覚する能力は、《内なる神》や《仏》、《アートマン》の働きに根拠をおくのですか? それとも、《(純粋)理性》や《悟性》といわれるものに、根拠をおくのですか? あるいは、その両方?

bragelonne
質問者

お礼

 夜が明けて こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  ネット世界というのは、実は、閉鎖系・閉じた系ではなかろうか。  真偽の怪しい情報や流言飛語がその中を日夜飛び交う。たしかに情報量・つまりエントロピーは増えているけれど、使えない・質の悪い情報(熱力学的にいえば、排熱みたいなもの。利用価値のない熱のゴミ!!)が増えている。。。。。。  ~~~~~~~   ☆ そうですね。わたしの感覚で述べるとすれば 何が何でも応答がない場合が いちばんダメだと思います。  それにつきましては  【Q:どんな人が嫌いですか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7954256.html  の回答No.12に書きました。  ところで ねむりねこさんは その《散逸構造》の理論が 社会科学にも応用されているってご存じでしたか? わたしはそう聞いても調べてもいませんので 知らないのですが アメリカの大学の物理学教授だった人(日本人)が この質疑応答の場で(哲学カテで)頻りに説いていました。       *    ★ ~~~~  《エポケー》とかでないことは、付き合いが長いですから、百も承知しております、はい。  《志向性》なる言葉がでたので、ちょっと《エポケー》に触れてみました。  ではありますが、他者がその光景を目にしたら、たぶん《エポケー》しているみたいに見えるんでしょう、きっと。  ~~~~~~  ☆ ええ。ほんとうはそういう作業を提唱者本人がやっておくことなのですが。それで初めて哲学と言えるはずなのですが。(つまり じつは そういう地道な作業を――多少は読んだという経験で埋め合わせてはいますが―― 専門的な先生がたにお任せするというきわめて横着なヤカラであります わたしは)。       *  ★ ~~~~~  何かを感じた、でも、何を感じたかどうか、自分でははっきりとは分からない。ただ、何かを感じた気がする。たぶん、この時、至福感みたいなものに満たされる。その印象というか、感情(?)の名残りみたいなものが残り、それからその経験ならざる経験の存在を推測・推論とかするんですかねぇ~?  ~~~~~~~  ☆ おそれ入ります。《共同主観化》がすすむということは なによりもうれいしいことですよね。  聖書には 《異言(シャリバリ)》という用語があります。まかり間違えば キ印になりかねない状態なのかも知れませんが そういう《経験ならざる経験》としてのイメージ経験はあるのかと思います。  そのあと一般にも分かる言葉で表現してこそ活きるというわけのものでもありますが。  ★ ~~~~~  後追いでしか、その経験者にとっても、その経験の存在は、あるいはその経験したかどうかは、分からないんですかね~?  わたくし、こうした体験をしたことがないので、よく分からないのですが。。。。。。  ~~~~~~~  ☆ 直前のご回答へのお応えで 《あとの者が先になり 先の者があとになる》とお返ししました。  でも 自然科学者にあっては あんがいヒラメキは したしく感じるところもあるのではないでしょうか? 確かにそれらは 経験思考にかかわるものであるかも知れないのですが。  ★ ~~~~~  で、ここで問題が発生します。  その《神の光》みたいなものに、真偽はあるのですか?  ~~~~~~   ☆ これは――これも 直前のこまあすさんのご見解にかかわっていると思いますが―― そういうイブカリはごもっともだとも思います。  ただし なにしろ非思考であるからには 問題はけっきょく――上にヒラメキやイメージや異言のことで触れましたが―― そのあと経験合理性で理解しうる内容に《翻訳》するということ。これが 大事であり これが出来れば 《真偽》の問題も消えて行くものと思います。極端なことを言えばその光が《偽》であっても よい経験思想をもたらすなら それは よいヒラメキであるとなりましょう。  ★ 何か、《食わせ者》か否か、マヤカシか否かの判定法があるとお考えですか?  ☆ つまり 《翻訳》のあとの結果内容が 判定法になるかと思います。(この翻訳ないし解釈を パウロは《異言》に対して《預言》と言っていると思います)。  ★ 帰結主義や道徳の結果論的なものではなくてです。  ☆ あっちゃああ。あらためてあとで考えます。    これから 野暮用で出かけます。あしからず。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづきます。  ★ ~~~~  で、ここで問題が発生します。  その《神の光》みたいなものに、真偽はあるのですか?  ・・・  帰結主義や道徳の結果論的なものではなくてです。  アプリオリに、先験的に、そのことを判定する能力が人間に備わっているとお考えですか?  それを判断する、あるいは直覚する能力は、《内なる神》や《仏》、《アートマン》の働きに根拠をおくのですか?  それとも、《(純粋)理性》や《悟性》といわれるものに、根拠をおくのですか?  あるいは、その両方?  ~~~~~~  ☆ 《帰結主義》としてお答えしていましたが あらためて考えます。  《根拠》を置くとすれば それは――口酸っぱくなっても言いますが――《無根拠》に置きます。そしてそのあと何らかの経験的なものごとが余韻や残像のごとく感じられているとするなら そのチカラを  ★ 《内なる神》や《仏》、《アートマン》の働き  ☆ というふうに言ってみるということだと思います。(それらのオシエとしてのオシエは それなりに 独自にあると言わねばならないでしょうが)。つまり一般に《ナゾ》だとすれば 雲をつかむような言葉として《霊》でしょうね。《風》ですね。  でもこのようにブッダターやプネウマやアニマを持ち出したとしても まだ説明にはなっていません。《わが心の窓をノックするその風》が これだというものであるかどうか その判定は まだはっきりしません。  では その物差しは何であるか?  自分の体験とそれを一般化したようなかたちで思うことはですが――ということは 判定法は人それぞれであるかも知れませんが―― たぶんその風が これでよいと思える場合というのは(つまり その真偽の判定法としては) 《ワタシが世界と和解することが その風を受け容れることにおいて 出来るかどうか》でしょうか? これで右と左に仕分けされるのだと言うべきでしょうか?  ワタシが自分自身と溶け合うようにして《わたしがわたしである》和解が成るということ。ここに分岐点があるように思います。  我れがやわらがしめられるなら 世間ともあるいはそうとすればそれまでの敵と思っていた人びととも和解することができる。基本的な人間関係として 障害がなく はるか地平線の向こうまで見えているというような晴れ晴れしい心になれる。それなら そのおとづれた風は 本物なのだと判定できると思います。    もしそれでも《食わせ物やマヤカシ》だったら? そのときにも《われあざむかれるなら われあり》とわるびれず宣言するという奥の手が使えますから。  知性や理性は 和解ということを認識し判断するでしょうが その和解を――その知的ないとなみのみによって――もたらしたとは言えないと思います。ゆえに基本的には 無根拠なのだと見ます。

noname#194996
noname#194996
回答No.13

ブラジュロンヌ様こんにちは いつもお元気でこんすたんとに渾身のご活躍、素晴らしいです。 何を食しておればこんな馬力が発生するのだろうかと不思議にも思います。 さて今回のご提案、いつもながら晦渋ではありますが、 私にも分かりそうなところからささやかな感想をひとこと。 >《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと なるほど、そしてそれは心全体にひろがるお花畑のようなものではなく 広大な心のなかでの様々な原生林、荒野、耕作地などの中につぼにわのように培われた奇跡的な箱庭のようなものと考えていいのでしょうか。そこにくればほっとこころがなごむ、そこに何もかも投げ出しても悔いはないという完璧な美の庭園とでもいったようなもの。そういったものであれば誰もがいつかは手に入れたいと欲しがるほどのものなmんでしょうね。そんなものをゲットされたブラジュロンヌ様はまこととにうらやましいと私も心底思います。 で、そのあとがなかなかむづかしい。 >非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。 いつもながら勝手な単純化解釈で試験を述べさせていただくならば、この庭の生成から見ていく必要がありそうです。 一般にひとが神の援護を受ける時、それは心に開いた埋められない深い穴を(便宜的にせよ)閉じるために用いられる場合が多いと考えられます。暗く底知れないどうしようもない穴が、神に啓示された美しい庭のスペースですっぽりと覆い隠され満たされた時、ひとははじめて満足と幸福を覚えるのでしょう。それが永久の普請だったのかどうか、ときとしてわずかな疑いが兆して、そういった完全とはいえないわずかな不満が残った場合、その庭はそのひとにとって時には地割れしてゆらいだり、季節によって花が咲かなくなったりを繰り返すのかもしれません。ですから時にはてずからのメンテナンスも必要でしょう。 不明ながらそんなことを仰っておられるのかなーとか思ったりしています。 非思考の庭というもの、ユニット交換とはいえなくもも少しは修理を考える余地があるのでしょうか。神の啓示は完璧とはいえ、われわれに十全フィットするとはいえないと思いますし。 凡人のスノビズムを哂ってやってください。

bragelonne
質問者

お礼

 持ち上げすぎですよ。  こんばんは こまあすさん。ご回答をありがとうございます。  ★ 広大な心のなかでの様々な原生林、荒野、耕作地などの中につぼにわのように培われた奇跡的な箱庭のようなものと考えていいのでしょうか。  ☆ ええ。そうだと思います。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~  人間の存在は     ・非思考の庭    ・思考の緑野    ・感性の原野     などなど  の重層的に構造的に成り立ったものだと見るからです。《非思考の庭》と《思考の〔緑野⇒〕田園かつ都会》とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし《奇蹟的》と見る必要もあまりないとは思います。    なぜなら 《あとの者が先になり 先の者があとになる》からです。  さて 《信じる》が成るとき・つまりは《非思考の庭》が成るとき それは どういう状態であるのか? そしてその状態に応じて その後のあり方はどうであるか?  ★ ~~~~  一般にひとが神の援護を受ける時、それは心に開いた埋められない深い穴を(便宜的にせよ)閉じるために用いられる場合が多いと考えられます。暗く底知れないどうしようもない穴が、神に啓示された美しい庭のスペースですっぽりと覆い隠され満たされた時、ひとははじめて満足と幸福を覚えるのでしょう。  ~~~~~~   ☆ とおっしゃるとおり ワタシ(任意に或る人)は家族や世間との和解を持ちワタシ自身との和解をも成り立たせて行くものと思われます。  ★ ~~~~  それが永久の普請だったのかどうか、ときとしてわずかな疑いが兆して、そういった完全とはいえないわずかな不満が残った場合、その庭はそのひとにとって時には地割れしてゆらいだり、季節によって花が咲かなくなったりを繰り返すのかもしれません。ですから時にはてずからのメンテナンスも必要でしょう。  不明ながらそんなことを仰っておられるのかなーとか思ったりしています。  ~~~~~~  ☆ 問題は 《和解》が成ったのなら もうしめたものです。それがゆらぐことはないと考えます。  別の言い方をすれば 《まだ世界との和解が得られていない人》は 周りにもいるはずですが その人びととの関係において 《自分の中に成った和解――ないし非思考の庭――》はけっきょく 武者震いをしそれ相応に張り切るのだと見ます。そういうユラギがあります。  もっとも《非思考》と言うからには 《何もしないたたかい》だとも見ます。  つまりは 相手との関係において すでに成った庭があたかもゆらぐかに見える。なぜなら 《あとの者が先に成り 先の者があとに成る》のが だいたいの方程式であるからです。  つまり わが《庭》は 神からのめぐみとして完全に成っていれば成っているほど むしろ社会の中にあって――つまり一般にシガラミを避けずその中に生きて行こうとする限り―― 《ゆらぎ》を感じるものだと思います。  ですから 武者震いをして張り切るのではないでしょうか。むろん ゆっくりあゆんで行けばよいのだと思います。    ★ ~~~~  非思考の庭というもの、ユニット交換とはいえなくもも少しは修理を考える余地があるのでしょうか。神の啓示は完璧とはいえ、われわれに十全フィットするとはいえないと思いますし。  ~~~~~~  ☆ 《十全フィットする》はずがないのです。ウソつきのワタシであるからには。  よって《ハカラヒ無きを 自然と言ふ》のだそうです。  ハカラヒあれば 庭が成る前に《ゆらぎ》を経験するでしょうね。  成るのが遅れるほど――あとの者として―― 大きな庭に成るのかも知れません。まぁ それはわたしが知っているとは言えないことですが。  ★ スノビズム  ☆ は 確かに庭が成る前における《夾雑物》でしょうね。非思考と言うからには。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 何を食しておればこんな馬力が発生するのだろうかと不思議にも思います。  ☆ 《馬力》だけに限れば たぶん納豆です。朝夕 二パックづつ食べます。血の流れをよくするものと思います。

回答No.12

ご無沙汰しております。ネットや携帯の使えないところにしばらくいたもので、ポリポリ。 そして、また、しばらくそのような環境に。。。。。。 遅れましたが、 こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ ところでところで、頭がとことん理系にできております眠り猫は、 《閉じる》ということばを耳にしますと、 「システム(体系・系etc)として閉じていることなのか?」、 「公理や仮説、形式として、完結していることか?」 「《閉じる》とはなんぞ!!」とついつい重箱の隅をつつきたくなってしまいます。 で、 物理学で閉じた系の代表的なお話は、熱力学の基本法則の「エントロピー増大則」ですよね~。 閉じた系では、必ずエントロピーは増大する。 で、エントロピーとは何だといえば、突き詰めていけば、《情報の量》。そして、熱力学や統計力学が教えるところでは、「孤立した系では、かならず《情報量は増える》」ということです。。 なので、心は閉じていても、つまり没交渉的で、それとして自己完結していても、エントロピーがひとりでに増加するように、心は自然と情報量や知識量を増やし、自己発展するのではなかろうか。 この唯心的モデルでも、現象の複雑さや現象世界の多様性は説明が可能。 そして、調和、コスモスetcは、(物理的な)《平衡》。 さらに、人は、そこに神を見出すの…… そして、いわゆる神(他の人でもOK)の干渉や神との交渉などは、非本来的な《ノイズ》ではなかろうか、 などと、チャチャをいれたくなってしまいます。 《閉じた唯心的システムでの神さま理論》!!! もしくは、 《閉じた唯心的システムでの理神論モデル》!!!(笑い)。 いやいや、本気でこんなことを考えているわけではないですよ。 ちょっとした、笑い話、与太話!!! ~~~~~~  けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。 ~~~~~~ と少し《モナド》っぽい話もでていたので。 モナド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89 ☆☆☆☆☆☆ と、与太話はこれくらいにして、本題です。 ~~~~~~  非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。 ~~~~~~ 《志向性》とは、フッサールが主張するような、 「意識とは、つねに、何らかの対象を有する意識である」 という奴ですか。 つまり、意識にはつねに対象がある。 対象を有さない意識はない!! そのことを《志向性》とよんでいらっしゃるのですか? と同時に、ならば、 ~~~~~~  どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。 ~~~~~~ という経験(?)は、現象学でいうところの《エポケ─》??? もしくは、それに近い体験??? (エポケ─は、意識的なものだとは思いますが……) ならば、《現象学的還元》によって、あるいは、直感や直覚などによって 宇宙の真実在である神は把捉できる??? その全体像は不可能でも、尻尾くらいは捕まえられる??? (観念としての神ではなくて、あるいは、対象化された神でもなしに……) となりはしませんか。 ~~~~~~  人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。 ~~~~~~ の「対象は よって 非対象」に矛盾しませんか。 神に対する志向性は、神・ほとけのハカライ、恩寵とかにしないと、まずいのではないですか。 あるいは、 観念としての神ではない、真実在としての神を追い求める心的な能力、機能、心的作用が、人間ひとりひとりに生得的に備わっているとしないと、ダメなのではないですか。 何か、デカルトやカントなどの合理論っぽい疑問ですけれども。 大陸合理論なら、ここで主要な役割を果たすのは、《理性》ということになるんでしょうけれども(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 年の暮れからかれこれ二か月ですか。まづは 互いに元気でよかったとともに しばらくです。そして ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  《閉じる》ということばを耳にしますと、  「システム(体系・系etc)として閉じていることなのか?」、  「公理や仮説、形式として、完結していることか?」  「《閉じる》とはなんぞ!!」とついつい重箱の隅をつつきたくなってしまいます。  ~~~~~~  ☆ こちとらは そんなことはつゆぞ思いませんものね。  あっ。そう言えば 二年ほど昔 《散逸構造》がどうのこうのというおっさんがおりました。そのとき《開放系》たら何たら言っていたようないなかったような。たしか《熱力学》関係ですよね?    閉じていた場合には 話が別なんでしょうか?  ★ なので、心は閉じていても、つまり没交渉的で、それとして自己完結していても、エントロピーがひとりでに増加するように、心は自然と情報量や知識量を増やし、自己発展するのではなかろうか。  ☆ というように心に対しては 応用するわけですね。  そうなると いわゆる鎖国状態とは何ぞや? と勝手に思ってしまいますが それはそれとしまして。  そりゃあ 交通がないとなると だめでしょうね。ぢゃあ 隠遁生活だとかひとりによる修行はどうなのかと またまた 問いが出て来るかも知れませんが まぁ 自己流だけでは相互啓発としての発展は見込めないでしょうね。一般に。  ★ 少し《モナド》っぽい話もでていたので。   ☆ につきましては  ▲(ヰキぺ:モナド) ~~~~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89  しかしモナドは部分を持たない厳密に単純な実体であるから、複合的なもの同士が関係するような意味で「関係」することはできず、厳密に相互に独立している(モナドには窓がない)。  ~~~~~~~~~~  ☆ というように《窓がない》という規定に合わなさを感じます。  心について《窓》があるとかいう表現じたいはあり得ましょうが いま《信じる》という行為の説明については――やはり非思考が基本であるとするからには―― 《窓が有る・無い》という議論から自由である。またそうでなければならない。こう考えています。  ★ ~~~~~  つまり、意識にはつねに対象がある。  対象を有さない意識はない!!  そのことを《志向性》とよんでいらっしゃるのですか?  ~~~~~~~  ☆ ええ。そしてしかも似ているが まるきり違うということを言おうとしています。これも同じく《非思考》ゆえです。    ★ ~~~~~  ならば、   ☆ ~~~~~~~    どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。  ~~~~~~~~~~~~~  という経験(?)は、現象学でいうところの《エポケ─》???  もしくは、それに近い体験???  (エポケ─は、意識的なものだとは思いますが……)  ~~~~~~~  ☆ 微妙なところですので きちんと説明します。  1. 《信じる》は 《或る日或る時わが心の窓(?)をノックするナゾの何ものかがおとづれた。まったくそれが何であるかは分からない。ただ その名前が思い浮かぶ。ブラフマンだという。そのとき ワタシ(任意の或る人)はこのブラフマンという名をわが心に受け容れた。受け取りましたという領収証をも発行した。》と説明しますが このとき:  2. このとき《名を受け容れる》というのは 人間の経験事象としてのひとつの意志行為です。受け容れたというその《名》 これも 言葉であって 経験事物です。ただししかも その名が仮りのシルシとして指し示すものは ナゾである。むしろ《経験思考》を超えている。  3. ゆえに この受容したという意志行為は その中身としては《非思考》である。ゆえに受け容れた結果わが心に何らかのかたちのような(構えのような)ものが出来ているとするなら それは《非思考の庭》である。と捉える。なぜなら 思考にかんしては 思考の緑野――やがて田園あるいは都市――があり 感性については 感性の原野がある。これらとは別に 《非思考の庭》がわが心に成ったと見る。  4. このときブラフマンという神の名は それまでに耳にしていた言葉であるはずだが それが脳裏ないし心に浮かぶのは   ☆☆ どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが   ☆ しかも 受け容れるというのは意志行為という経験事象であり そのシルシとしての名も経験事物であるゆえ 《仮りの対象》が持たれている。ゆえに  ☆☆ こころの志向性のようなものだ。  ☆ となると思います。  5. ★ エポケー  ☆ ではありません。そういうエポケーという判断中止行為の結果えられる直観は 信じるのヒラメキにこれまた似ていると思われますが 意志行為としての内容は違っています。ヒラメキを意志行為で――あるいはエポケーなるわざで――作り出すのではないからです。  6. ですから  ★ ~~~~  ならば、《現象学的還元》によって、あるいは、直感や直覚などによって  宇宙の真実在である神は把捉できる???  ~~~~~~   ☆ というご議論は 筋が違うはずです。  7. ただし上の(5)で触れたように ヒラメキないし《直感や直観ないし直覚》は内容として 純粋意識や本質直観に似ていましょうね。ゆえに  ★ ~~~~  その全体像は不可能でも、尻尾くらいは捕まえられる???  (観念としての神ではなくて、あるいは、対象化された神でもなしに……)  となりはしませんか。  ~~~~~~  ☆ と問われることについては 理解出来ます。  そしてそれは いづれにしても あくまで一人のひとの《主観》の内面において推移する出来事であると言わねばならないと思います。主観の外には 共同主観と成っては 出かけることが出来ないのだと捉えます。そのインスピレーションの中身のことです。  8. ★ ~~~~   ☆ ~~~~~~~~   人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。 ~~~~~~~~~~~    の「対象は よって 非対象」に矛盾しませんか。  ~~~~~~~~~  ☆ ですから その非対象ないし対象には 階層の区別があると考えます。(3)に挙げた《非思考の庭 / 思考の緑野 / 感性の原野》も階層別の《対象》の分類に当たると思いますが 具体的にはすでに取り上げたことがあると思いますが 次です。   ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~  (――または ロゴスの階層――)   (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】______   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~  9. ★ 神に対する志向性は、神・ほとけのハカライ、恩寵とかにしないと、まずいのではないですか。  ☆ おっしゃるとおりです。これは あばうと72さんとのやり取りにあります。  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~   ◆ ~~~~~~~~~~   閉じようとしても閉じられない何か   それは信心における他力ではないでしょうか   ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ええ。つまり その《他力》なるナゾの何ものかをまづ受け容れることが先立つと思うのです。その受け容れが 信じることだと思うのです。   他力なる神を受け容れること これは 人間の側からする意志行為であるのですが じつはその意志行為をも他力ならばあたえるものだ(他力によってあたえられるものだ)とは考えます。つまり 絶対他力です。  ~~~~~~~~~~~  10. ★ 観念としての神ではない、真実在としての神を追い求める心的な能力、機能、心的作用が、人間ひとりひとりに生得的に備わっているとしないと、ダメなのではないですか。  ☆ これはここでは ただただ《神》ないしその《名》だけで説明しようとしたと取ってくださいませんか? (そうつまり アートマンなんですけれど)。

bragelonne
質問者

補足

 ★ ~~~~  何か、デカルトやカントなどの合理論っぽい疑問ですけれども。  大陸合理論なら、ここで主要な役割を果たすのは、《理性》ということになるんでしょうけれども(笑い)。  ~~~~~~~  ☆ このご指摘にきちんと答える素養がなく 欠礼しました。ご寛恕を。  ただし何度も言うようですが 《非思考》なら 《理性》もお呼びでないとは考えます。

noname#215306
noname#215306
回答No.11

度々のお礼ありがとうござます 私の思考内・主観や観念などではない様々外部の物理現象を、 主観という観点に定義してしまうのは、bragelonneさんのごり押しですね 例えば、経験した物理現象の1つというのは、、 ある時、私は一週間、家族と県外の親戚の家に遊びに行ったのですが、 一週間後、家に戻り、普段通り徒歩で外出すると、それまで割りと 毎日、通る道の途中にある更地(約一ヶ月前に家を壊した後)に、 家が建っていた事がありました しかもその家、新築直後という感じではなく、新築から 大体、半年位は経過してるという感じで、生垣の木も、 庭の植物も、すっかり馴染んでいて、植えたばかりという 状態ではなかったんです (その一週間の間、雨は降ってません) 生垣・植え込みの馴染み具合は別としても、一週間で普通の家は 建つでしょうか?(当時あったboxタイプの短期工法の家では 勿論ありませんでした) このような動かし難い不思議な物理現象を私の主観内の出来事と 言えるでしょうか? 私は当時、住宅に興味があったので、住宅・建築の本を よく見てましたが、条件を満たす建築法や移動方法(割りと狭い道路) もありませんでした というか?家の様子からすると、ほんの数日で建ったといえるかも しれません(これはboxタイプでも無理です) 私と家族の一週間と、その間、離れていた地元のある1つの 家とそこに住む人々との時間経過のずれと、ま?そもそも その地域全体の時間経過その物との3つの間に、なんの無理? (破綻)も起きていなかったのは何故でしょう? なぜ私にこんな現象が起きたのでしょう? 勿論、それ以前から、そしてそれ以後も、週に3~4回はそこを 通っていたので、、つまり自覚のない幻覚が起きていたとはいえない でしょうし、それに幻覚で家は立ちませんし、物理現象としての 時間経過のずれも起こり得ませんよね ・・・それから、違うといっても、それでも信仰の内がどうとか 仰っていましたが、、現象自体がそもそも、信仰という定義とは 全く無関係です、、同じ現象が無神論者には起きない、という根拠は 見当たりません・・・ もしも帰宅後、私がその家の前を通らないままだったとしても、 それでも家が建っていた事には変わりはありません つまり、それは”それでも私の主観内での出来事”というbragelonneさんの 無茶な確信・断定が誤りである事になります、、如何でしょ? それから、このような現象が、個人に対して起こせる存在は、 どのような存在といえるでしょう? 存在なしに、個人に対して現象が起きるでしょうか? 私の時間である一週間の間に・・・ また、、bragelonneさんは、探求・経験・確認のない段階で、神・神々が、 現世とは、かけ離れた、窺い知る事の出来ない存在、と断定されましたが、 現象を起こし、それに付いて私が伺った存在は、かけ離れ、窺い知る事 の出来ない存在といえるでしょうか? その存在とのやり取りで、他にも物理現象は起きています 私は、信仰者ではなく探求者であり、、一時的半実体の存在に 対しての妄信者でも帰依者でもありません までも、反芻・確認・整理にはなりましたが、、 結構、以前から考え始めている、人という存在の、品種改良がやはり 必要かな?と改めて感じる機会になりました

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  私の思考内・主観や観念などではない様々外部の物理現象を、  主観という観点に定義してしまうのは、bragelonneさんのごり押しですね  ~~~~~~  ☆ この場合の《物理現象》というのは 一般のそれではなく あくまで一般の物理現象に《神》が絡むと或る主観が捉えた場合のものです。  自然科学が認識する《多様性として起こる物理現象》ではあるのですが それに対する《対極》に神を置いている場合です。  したがって ふつうの物理現象を捉えるときにその事実認識だけではなく 主観がおのが信じる神の視点をも――その信仰から得られるヒラメキのごとき――見解において絡ませるということ。です。  このような信仰の視点をも交えた物理現象〔の認識〕は すべて主観の中におさまるべき性質の見解である。こういう意味です。  ですから 早い話としては 《何らかの自然現象なり社会的な事件なりの物理現象の中にわれは神〔のチカラのはたらくの〕を見た》という見解は あくまで主観の内にとどまる。と述べたまでです。     *  その新築の家の人にたずねてみればいいぢゃないですか。  ★ 現象自体がそもそも、信仰という定義とは / 全く無関係です、、  ☆ もちろん そうです。神の名を受け容れること・そしてその後の動態 これが 信仰ですから。  経験現象について 信仰の領域の事柄を交えて解釈し認識するというのが いまの場合です。  《神を見た》なる――しかも或る物理現象をめぐる――見解は その人の主観を出ることはありません。  (もちろん 今回の場合のように ほかの人に話してもかまいませんが その認識内容が ほかの人の主観の内に入るということはあり得ません。仮りにこの非思考の庭に起きた直観のごときあるいはイメージのような観念が 普遍的なコトだったとしましょう。けれどもその場合にも その普遍性は 人それぞれの主観の内にとどまり しかも非思考の庭におさまっているという性質のものです。それ以外にはありえません。あり得たなら 神が往来を人間の目に見える姿で歩いているということになります)。  ★ 同じ現象が無神論者には起きない、という根拠は / 見当たりません・・・  ☆ そうではなく・つまり《無神論者》も 無い神を受け容れた信仰者ですが いまはそうではなく信仰などないという人と取って議論をすすめますが それでもそうではなく  《神にかかわるような解釈をゆるす現象》が 起きる・起きないの問題ではないということです。  《起きた》という見解も《起きない》というそれも すべて――神関連の内容については――すべてそれぞれの主観の内におさまり留まるということ。  仮りに主観の外に出たとしたら それは《神》という言葉がほかの人と共有されただけだということ。これです。証明のしようがないからです。  神は《分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》です。  ★ 家が建っていた事には変わりはありません  ☆ もちろんです。そのこと(家が建ったというだけのこと)については議論していません。一般に 誰も否定しないでしょう。  ★ ~~~~  bragelonneさんは、探求・経験・確認のない段階で、神・神々が、  現世とは、かけ離れた、窺い知る事の出来ない存在、と断定されましたが  ~~~~~~  ☆ ここも微妙なところです。わたしが言ったのは 《うかがい知ることが出来るとも出来ないとも人間は知り得ない》というのが 精確な内容です。早い話は ですから《わたしは神を見た》と言う人が現われてもおかしくないわけです。人間にも神を知ることが出来るかも知れないわけです。しかも出来たと言いたい場合も出来ないと断言したい場合も どちらも人間は最終的なかたちで決めることは出来ない。こう言っています。  なぜなら 神だからです。そういう想定として定義しているからです。  ちなみに では八百万の神々とはどういうことか? という問いについては それは《全体としてのひとつである神》の分身であるという説明をいちおうしています。分かりやすい簡便法ではあります。  つまり 経験事象として神々のひとつだと――雷は 放電現象ながら 神鳴りだと――いうように捉える場合です。これは 仮りに分身としての見方をしてみるということです。これなら 仮象としてですが 誰もが共有しうる見解になるでしょう。  ★ 現象を起こし、それに付いて私が伺った存在は、かけ離れ、窺い知る事 / の出来ない存在といえるでしょうか?  ☆ ですから この家が建つ事例はちょっとわたしも引きますが 一般的には 神の分身である神々のひとつが現われたというような見方なら 仮象として いくらかは受け留めてもらえるかも知れません。ただしじっさいそういう現象は そこから自然科学が探究していくことでしょう。  ★ 一時的半実体の存在  ☆ が明らかにされて行きましょう。  ★ 人という存在の、品種改良  ☆ は そのあとです。自然科学からの答えが出たあとです。

回答No.10

 もう気が付いてはいると思いますが、  ベストワンなのにベストアンサーでないのは・・・・・  それは、時間のいたずら!

bragelonne
質問者

お礼

 ざんねん。  了解しました。

回答No.9

 ごめんなさい。  閉じられていない、と言っていましたね。  早とちりです。  急いていました。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。けれど そのままで通じました。  おもしろそうだと思いました。  相手を とことん――生涯を終えるまで――となりびととしてつき合うのだという心つもりが 必要でしょうね。《つながりがある》ということとして《信じる》を説明する場合には。

回答No.8

 それは繋がっているから。  閉じられていても繋がっているから。  この繋がりを切ることは出来ないのです。  へその緒、は切ることができますが。  ブラジュロンヌさん、回答ありがとうございました。  とても解りやすかった。  私にとってベストワンです。  これで哲学と思索との境が見えたように思います。  ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~   それは繋がっているから。  閉じられていても繋がっているから。  ~~~~~~   ☆ おもしろそうですね。つまり 《閉じられていない》という表現に代えて こう表現してみる。  心が《開いていなくとも》 自分とは異なる神をいだく相手に向き合っているとき だいじょうぶである。つまり 《閉じられていても――人間存在としては 霊においてでしょうか――つながっている》のだからと。  おもしろそうですね。  なるほど。わが心の伸びだとか明けだとかとして見るのではなく むしろ相手との関係性において世界を捉える。でしょうか? 関係性についての確信が むしろ《信じる》という行為でありその状態なのだと。  ★ ~~~~  この繋がりを切ることは出来ないのです。  へその緒、は切ることができますが。  ~~~~~~~  ☆ 一本まいったか。・・・  ベストワンなのに ベストアンサーではない。これいかに。いいけどさ。

noname#183245
noname#183245
回答No.6

そりゃあそうでしょう。 心が閉じているということは、他人の考えを拒絶していることなんだから。 信じる=非思考の庭 また、ずいぶん難しい言い回しだこと。 これは信じる=悪いという考え方ですね。 自分で物事を考えない。 だから、他人の言ったことを信じる。 そっちのほうがラクだから。 例なら、日本ではいくらでもあります。 言われたことを信じて、それだけしかやらない社会人、学生。 マスコミの過激な誇張、それに踊らされる人。

bragelonne
質問者

お礼

 ふぃーにくすいーう゛るさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  そりゃあそうでしょう。  心が閉じているということは、他人の考えを拒絶していることなんだから。  ~~~~~~   ☆ そうなんですけれど 俗説としては・そしてひとつの宗派においては通念としてけっきょく 《自分たちの信じる神以外に対しては 宗教なら 排他的になるのが当然だ》というふうな見解も聞かれるようなのです。  はっきりさせたかったのです。  ★ ~~~~  信じる=非思考の庭  また、ずいぶん難しい言い回しだこと。  ~~~~~~  ☆ ですか。でも 今のところ これがいちばよいと思っています。適切であるとも。  ただし 次のご見解には反対してみます。  ★ ~~~~~  これは信じる=悪いという考え方ですね。  自分で物事を考えない。  だから、他人の言ったことを信じる。  そっちのほうがラクだから。  ~~~~~~~~  ☆ すなわち 次の図式を見てみてください。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~  人間の存在は     ・非思考の庭    ・思考の緑野    ・感性の原野     などなど  の重層的に構造的に成り立ったものだと見るからです。非思考の庭と思考の田園かつ都会とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《非思考の庭》において《思考に非ず》ゆえ何も考えない。ゆえに思考停止みたいになっている――ということではないのです。  《思考の緑野》においては むろん・とうぜん考えることを成します。まったくふつうにです。  そして《信じる》は信じるとして非思考の庭がになっています。  けっして《信じる》からラクをしているということではありません。  ★ ~~~~  例なら、日本ではいくらでもあります。  言われたことを信じて、それだけしかやらない社会人、学生。  マスコミの過激な誇張、それに踊らされる人。  ~~~~~~  ☆ そういう事例じたいについては 見方を同じくする部分が大きいわけです。  そして ただしですね ただし《信じる》ならすなわち《思考停止》であるという――失礼ながら――短絡の場合には 《おれは考えることをおこなっている。ゆえに 信じるは関係ないんだ。信仰を持つヤツは弱い人間だ》というような片寄った意見がはびこっている。のではないでしょうか?  これについても この質問でただしたい。そういう問いです。どうでしょう?

noname#215306
noname#215306
回答No.5

度々のお礼ありがとうござます > ☆ というのは それとして独自の観点を成すとは見ません。 この観点というのは私の思考内の探求のみの事ではなく、 現世に於いての現象、それに対しての観察(という経験) なので、これを否定する事は誤りである と一応、感じます、、否定の仕様がない・今の所、見当たらない、 といった感じです 私は何度とない現象の経験と、思考と伺いなどから、 これはどうやら(今の所)間違いないようだ、という、 常に今後、新たな認識・発見・変化もあるかもしれない、 というスタンスの上での、それは総合的な観点なんです そこで感じるのですが?、bragelonneさんは、思考による 構築を確信・断定する事に拘り、厄介な真理の探求という 目的(の行動)の上に立っていないのではないでしょうか? > 《神から見ると》ということでしょうが これは  けっきょくその人間の主観内容のことにほかなりません。 《神の視点》を持ち出すのは 無理です。 これも上記に同じですが、まず神という存在の実体の 理解が欠けています 神・神々(神仏様方)というのは、4・5次元の一時的 半実体の存在のようで(中には、自分を神・高次元の存在 と思い込んでいる霊人の人達もいるようですが)、 これを自分なりに慎重に確認していない段階で、神・神々 を語り、言及・確信・断定する事にも無理があるだろうと > 相い対立するような他方の一極を成すとみるのは言わば 神に失礼になるでしょう。《無根拠》なのですから ふたつの極のひとつとして位置づけるのは 無理です。 これも理解と探求が不十分だと感じます 悪神・眷属でもなければ、(多様なので、この表現は厄介 であり、なので限定的になるのですが)多くの場合、本質的 には、神・神々には怒りというものはなく、失礼という物・ 行為もあり得ないんです その理由というのは、発生・表現の全てが、天界という 充満の大本の存在の、御体と想念による物であり、、 一応、真のの神・神々といえる存在は、それを知っているので、 神・神々に対し、失礼と思われる人の行動・思考・感情なども、 天界という大本の存在の表現であるからには、そこに怒る、 それに対する対象者の行動・思考・感情などが、失礼である、 という認識はナンセンスになるという事のようなんです ・・・これも以前、私自身が何度も伺いましたし、私は 綺麗事・潔癖・過剰な誠実性の人間ではないので、報いの現象も 含めた観察に於いて、魔・負に関わる事象への働き掛けの 試行も含める中で、色々と経験して来ました 因みにこれは、暗示などによる、精神・体調の現象ではなく、 現世に於いての物理現象です・・・ それよりも失礼とは逆に、当然ですが、真の神・神々は 寛容なんです なので、失礼という物・状態が、本質的にはあり得ない という、、私はそれ以外の現象の経験がありません > この場合の視点が いくらかは 《多様性としての経験 領域》と互いに対立しあう極を形成するかも知れません。 これも簡単にいうと、物理現象として観察出来るんです、、 現象に波があるので、色々と注意は必要なのですが、、 結果、どちらかの極を消す、という霊的働き掛けを行う事で、 それは観察出来ます(ただこれは?直接・間接的現象の、延長先の 真理、とはいえるかもしれませんが?) 優れた真の秘教家なら、その現象はダイナミックな物になるようです とここで、、どこにでも注意が必要な、厄介な自由性の 介入?を見極めなければなりませんが、、特にその部分に 対し、注意を払っている場合、目の当たりにした現象は、 証しといって間違いないといえるだろうと > 単独の行動をするような信仰は これも誤解だと感じます 他に表現が見付からない場合か、忘れている場合、注意が 欠落した場合などは、自分が信仰者だと、私が表現して しまう場合もあるかもしれませんが、確信・断定せず、 信じず疑わず、のスタンスにある探求者は、(特に一般的な) 信仰者とはいえないだろう、と感じます 時に、表現としての言葉は同じでも、意味が違うだろうと、、 如何でしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 さらにご見解を明らかにされています。まづはご回答をありがとうございます。  神は――真理としても霊としても絶対としても 人間やその経験世界とはへだたっているからには―― 人間には分からないと見ます。《無根拠》です。つまり 《人間にとって分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》です。そういう想定です。何故かと言えば 《かみ》という言葉はどの言語にもあって用いられているからには そういう説明をしてみる。ということです。  すなわち  ★ ~~~~~  そこで感じるのですが?、bragelonneさんは、思考による  構築を確信・断定する事に拘り、厄介な真理の探求という  目的(の行動)の上に立っていないのではないでしょうか?  ~~~~~~~~  ☆ 積極的に そのようにおっしゃる通りなのです。積極的に《探究も理解もしていない》ということです。つまり《わが心に受け容れるのではあるけれど 非思考の庭》なのです。《思考にあらず》なのですから 理解しようとはしていません。  ★ まず神という存在の実体の理解が欠けています  ☆ そのとおりです。名前だけでよいという見方です。《理解》は成し得ないと見ているという意味です。  《実体》と言おうと《瞑想・観想なる体験》と言おうと それらはすべて 人間の想像力や思考力ないし知覚力などの総合された経験事象としての認識内容であるしかありません。つまり 《名前》と同じことです。  強いて言えば 《非思考ないし非経験》と規定する実体だという意味です。  ですから  ★ 神・神々を語り、言及・確信・断定する事  ☆ ではなく――《言及》にはなるかも知れませんが―― 《非思考の庭に受けいれる〈非経験の場(ないしチカラ)》として人間が想定する何ものかが カミです。この定義が おそらくどんな名の神をいだく信仰であっても 受け容れることのできる普遍的なものだと考えています。つまり《かみ》という名前だけでじゅうぶんだという意味です。(むろん 一人ひとりの主観内面においては それぞれのゆたかな《信じるという非思考の庭なる動態》が繰り広げられている。こうです)。  ★ ~~~~  本質的  には、神・神々には怒りというものはなく、失礼という物・  行為もあり得ないんです  ~~~~~~  ☆ 《神に対して失礼》というのは 表現だけの問題です。つまりそれは 《おのれの主観ないし心の内実とは別の中身を持つことになるであろう》という意味です。理論として表現できたとしても その中身がわが心に思うところと じつはどこかで異なって来ている。そういう意味です。    ★ 天界という充満の大本の存在  ☆ これがそうであろうとしても それ(神)はワタシの心の中におさめられている。そういうところから出発している。つまり  ★ ~~~~  一応、真のの神・神々といえる存在は、それを知っているので、  神・神々に対し、失礼と思われる人の行動・思考・感情なども、  天界という大本の存在の表現であるからには  ~~~~~~  ☆ というとおりに すべてはわが主観の中におさめられた神であるということになります。つまり 《天界においていかなる姿をしていかなる内容であるか》にかかわらず すべては――表現されたものは―― 一人のひとの心の中のものごとだとなります。  おのれの見方としては いやそれはワタシの外のまたはワタシを超えたところの領域である天界にましますと思っていたとしても それは 普遍性を持ち得ません。なぜなら もし仮りに普遍性を持っていたとするなら それは《ワタシとは別のところに存在する》とは言わないで その神について人びとに説明し得て納得が得られたとき ということになりましょう。  つまり 天界なら天界に存在するということが ぎゃくに普遍性を持つと人びとによって見られたとするなら それはただただ《天界にある存在》だという表現が共有されただけだということです。証明が出来ないからです。  ですから 神がこの経験世界にかかわっているとするのならば それはあくまで人間つまりその心とそこからの表現を介してなのだとなります。人間の心とそこからの自己表現とは あくまで経験行為であり経験事象だという意味です。  この経験事象そのものが 神だという見方をすれば それは《神に対して失礼になる》でしょう。わが心ではワタシはそうは思っていないのですから。  ★ それよりも失礼とは逆に、当然ですが、真の神・神々は 寛容なんです  ☆ 神は 神に対して失礼になること・すなわちワタシの心にもないことを言うこと これをおこなったとしても 何も仕返しをすることはないでしょう。つまり 寛容です。というのは すべて――非思考の庭という信仰をつうじて―― その《わたし》という人とその主観においてかかわっていこそすれ 何かを要求したりねだられたりする関係ではないからです。  さらに強いて言うとすれば:もし仮りに神が人間の願いを聞いて叶えてくれるのだとしたときには 人間が祈ったり願ったりするその前にすでに神はその願いのことを知っているとこそ言うべきでしょう。から。    ★ これも簡単にいうと、物理現象として観察出来るんです、、  ☆ 説明もされていますが わたしの見るところ この《物理現象》というのはけっきょく もし《霊的働きかけ》がおこなわれたとしても・あるいは《神》の名前が含まれていたとしても すべては 人間と人間とのあいだ・またはわが心の内に起こることであって それとして《観察内容》は主観におさまっている。こう見ます。  早く言えば 《神を見た》という発言に対しては その自分の主観として心の内におさまっている問題とほかの人びととの間にそのことを共通の認識として持つという問題とは 別だと見ているという意味です。後者は 無理だという意味です。  次の現象も その本人の主観の内におさめられているという問題だと見ます。  ★ 優れた真の秘教家なら、その現象はダイナミックな物になるようです  次の《証明》も 同じく本人の主観のもんだいであると見ます。  ★ ~~~~~   とここで、、どこにでも注意が必要な、厄介な自由性の  介入?を見極めなければなりませんが、、特にその部分に  対し、注意を払っている場合、目の当たりにした現象は、  証しといって間違いないといえるだろうと  ~~~~~~~  (あ)☆☆(No.3お礼欄) ~~~~  単独の行動をするような信仰は 信仰でもなく神でも何でもないはずです。ただの思い込みであり 名誉欲と支配欲と金銭欲という神を寄り頼むという経験行為のひとつです。組織宗教は 個人の信仰とは基本的にまったく別です。信仰の抜け殻としてのオシエを――経験思考の成果であるオシエを――神としてあがめています。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この文章について次のように批評を承けたということは ちょっと納得が行きません。そしてどこがどう食い違っているのか? これも分かりかねています。  (い)★ ~~~~  これも誤解だと感じます  他に表現が見付からない場合か、忘れている場合、注意が  欠落した場合などは、自分が信仰者だと、私が表現して  しまう場合もあるかもしれませんが、確信・断定せず、  信じず疑わず、のスタンスにある探求者は、(特に一般的な)  信仰者とはいえないだろう、と感じます  時に、表現としての言葉は同じでも、意味が違うだろうと、、  如何でしょう?  ~~~~~~~  ☆ 上の(あ)の文章は ごく一般的なことを言ったまでだと思います。    組織宗教は 神を受け容れ信じているのではなく 信じた結果 観想をとおして得た命題――たとえば 人は人をころさない――をオシエとして――つまり なんぢ ころすなかれなる倫理規範として――持ち 個人の主観における神をではなく 神にかんするオシエを大事にする。というようなことを言ったまでです。  (い)のご批評は 飲み込めません。《非思考の庭》は 疑う・疑わないとは関係ないとすでにお伝えしましたし。また《探究者》であるというよりも 信仰が始まったのならすでにひととおりは《探究》し終えていることを意味します。あとは むしろこの経験世界ないし生活世界のものごとにかかり合って行きます。  そういう意味で どういう食い違いによっているのか 分かりかねています。  こんなところでしょうか。