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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:信じているとは 心が閉じられていないことである。)

信じる心の閉じられていないこととは?

このQ&Aのポイント
  • 信じているとは心が閉じられていないことであり、《信じる》は心に《非思考の庭》が成ることだと理解されています。しかし、具体的にどういうことなのでしょうか?
  • 非思考であるがゆえにハカラヒ(思考や考え)はないが、心の志向性のようなものがあると考えられます。ハカラヒはないが、どこからかやって来るヒラメキのようなものが存在し、内外に関係なく直感や直観が働くのです。
  • 信じるということは《心が閉じられていないこと》であると言えます。それは《信じる》の対象がひとつであり、全体としてのひとつ、つまり《かみ》であることが想定されます。人間にとっては、《信じている》とは無差別に神を信じることであり、無い神も含まれることです。このような信じる心の自由が信教・良心の自由の中身であると言えます。

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noname#189751
noname#189751
回答No.7

こんばんわ。 >信じているとは 心が閉じられていないことである。 すこし重い言葉ですね 開いている と言えば楽なのに・・ 開いている と言えば自然です 閉じられていない と言うと 心が何らかの働きかけを受けている それは意識する、しないに関わらず といった感じにも取れます。 閉じようとしても閉じられない何か それは信心における他力ではないでしょうか 信心における根底というか、礎というか そうしたものが崩れ去らない限り、無くならないのだと思います。 闇に差す 細い光が自分を照らしているという自覚が信心だとすれば 信じて いる とは、光が見えなくても受け止めて いる ということでしょう。 信じる と 信じている とでは深さの違いがあると思います。 その違いは、他力の感得が意識下に及ぶものになってゆく違いのように思います。 心が閉じられていない とは すでに深い意識の下に、見えざる光が入ったことを表しているような気がします。 光が内側から差すようになったのだと思います。 だから 閉じようがない。 そんなふうに思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  開いている と言えば自然です  閉じられていない と言うと  心が何らかの働きかけを受けている  それは意識する、しないに関わらず といった感じにも取れます。  ~~~~~~~  ☆ へっへっへ。それをねらっています。  だって《開いている》と言っても 何らあきらかにならないのではないですか?  窓が開いていると言っても 心の窓ですから けっきょく――そのレトリックとしての効果はあるかも知れませんが――じっさいには意味がないです。窓を開いても 外が見えるというわけではありません。内なる心もしくは思いが よく伝えられるとも限らない。  思想がどう相手に伝わるかは 決まっていないはずです。《開いていない》心の状態であっても 心つもりが相手に伝わることもあり得るように思います。  ところが このような何らかの具体的なものごとをめぐって経験行為として思ったり考えたり行動したりするのではなく もっぱら内面において何かを信じるというときには 《閉じている》のではダメなのだと見ます。自分の信じる神に向けてはよいかも知れませんが ほかの神に向けては 閉じていてはダメだと言わざるを得ないでしょう。     だってそのような異神に対して排斥するないし排斥しなくとも受けつけないというようでは 一般に意志疎通はかなわない。相手の神を端から受けつけないようでは 人間としての交通がきちんとは行かない。  と思います。  ★ ~~~~  閉じようとしても閉じられない何か  それは信心における他力ではないでしょうか  ~~~~  ☆ ええ。つまり その《他力》なるナゾの何ものかをまづ受け容れることが先立つと思うのです。その受け容れが 信じることだと思うのです。  他力なる神を受け容れること これは 人間の側からする意志行為であるのですが じつはその意志行為をも他力ならばあたえるものだ(他力によってあたえられるものだ)とは考えます。つまり 絶対他力です。  これが 《信じる》の発進のあと  ★ ~~~~~  信心における根底というか、礎というか  そうしたものが崩れ去らない限り、無くならないのだと思います。  ~~~~~~~  ☆ と見ているわけです。つまり いづれのときであれ ワタシには《信じる》という瞬間がいちどおとづれる。ということではないでしょうか? むろん主観内面における事件としてです。  ★ 闇に差す 細い光が自分を照らしているという自覚が信心だとすれば  ☆ これは 敢えて反論してみましょう。  つまり そのようにわが心の大いなる闇を照らした一条のひかり これのおとづれを いちどは受け容れる――受け容れたという領収証を切る――という事件が 信じるを発進させるのだと思います。  《自覚》とまですでに言っておられますが 《受け容れた》そのあと自覚なり確信なりがさらに生まれます。ということではないでしょうか?  そのあとは 述べておられるとおりだと受け取りました。  ★ 信じる と 信じている とでは深さの違いがあると思います。  ☆ これは 出発点において《発進》する瞬間とその後の――長き人生にわたる――保持・継続としての動態とを言っているのだと見ます。継続は チカラです。  ★ ~~~~  その違いは、他力の感得が意識下に及ぶものになってゆく違いのように思います。  心が閉じられていない とは すでに深い意識の下に、見えざる光が入ったことを表しているような気がします。  光が内側から差すようになったのだと思います。  だから 閉じようがない。  そんなふうに思います。  ~~~~~~~  

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  • kurinal
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回答No.4

bragelonneさん、こんばんは。 >「これが 信教・良心の自由の中身である」 そうでしたか。 そうであれば、なるほど、裁判所と致しましては(笑)そこ(信仰の内容、内心)まで立ち入る問題ではありません。 ただ、裁判所と致しましては、「信教の自由だ」という表現には、別の意味・次元で注意が必要かと思われるところです。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ただ、裁判所と致しましては、「信教の自由だ」という表現には、別の意味・次元で注意が必要かと思われるところです。  ☆ どうしてですか?  《別の意味・次元での注意》とは どういうことが考えられますか?

noname#215306
noname#215306
回答No.3

お礼ありがとうございます(なぜか補足のボタンが機能しない) 成る程、、非思考の庭が、意味・印象・概念の感受の瞬間後 のやり取りではなく、感受の瞬間その物、または感受の性質としての 可能性の内包(永遠の過去からの可能性としての内包など) だとすると、そう定義出来ない事もないかな、とは思いますが ただ?内包だとすると、そこには変化・経緯も内包されている 事は、自然だろうと感じるので、やはり信じるが内包という 定義は、無理があるかな?と感じます ややこしいので区別しなければならないと思いますが、根本的 霊的真理・真実の観点からすると、可能性という多様性と、 唯一という計画(宿命)の両極というのは、実は同体状態・一体化 なのだそうで(これは私自身の観察からも) その観点からも、信じるの内包の定義というのは、やはり 飽くまでも経緯という事になるでしょうし、、 これは、根本的真理・真実というのは、両極が一体化してる のであって、一方を切り離して永続的に定義出来る物とは いえないだろうと・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回のご議論はかんたんです。  ★ ~~~~  非思考の庭が、意味・印象・概念の感受の瞬間後  のやり取りではなく、感受の瞬間その物  ~~~~~~   ☆ であると同時に 信仰はその誕生の瞬間のあとも――すでに人が生きている・生活しているということは 存在が動態であるからには―― 非思考の庭としてありつづける。ということになります。  言いかえると 人間の存在は     ・非思考の庭    ・思考の緑野    ・感性の原野     などなど  の重層的に構造的に成り立ったものだと見るからです。非思考の庭と思考の田園かつ都会とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。  ですから  ★ 根本的霊的真理・真実の観点  ☆ というのは それとして独自の観点を成すとは見ません。《神から見ると》ということでしょうが これは けっきょくその人間の主観内容のことにほかなりません。《神の視点》を持ち出すのは 無理です。出来るように見えますが 実際には無理です。ただただ《人間の――神をめぐる――想像力とその産物》でしかないと見て 言わばあきらめるかまたは禁欲しなければならない。こう考えます。  ★ ~~~~  可能性という多様性と、  唯一という計画(宿命)の両極というのは、実は同体状態・一体化  なのだそうで(これは私自身の観察からも)  ~~~~~~  ☆ これはですね。《可能性という多様性》が 《思考の緑野および感性の原野その他その他》つまりこの経験世界そのもののことです。  《神の視点ないし神の計画》 これは想定することが出来るでしょうが 経験世界のどんな事項とも《対極》を成すことはありません。この経験世界を超えているからには 相い対立するような他方の一極を成すとみるのは 言わば神に失礼になるでしょう。《無根拠》なのですから ふたつの極のひとつとして位置づけるのは 無理です。  ただし 一人のひとの非思考の庭は ものごとの判断においてヒラメキに恃んで《信仰に照らし合わせるなら》といった視点を提供することがあるとすれば この場合の視点が いくらかは 《多様性としての経験領域》と互いに対立しあう極を形成するかも知れません。  でも《極》というのは 必ずしも現実的ではないかも知れません。なぜなら 信仰は むしろそれ自体のままとしてではなく ヒラメキをつうじてけっきょく《経験思考》のためにこそはたらくような・自然本性としてそなわった要因だと考えられるからです。  言ってみれば 神は むろん経験領域とは絶対的にへだたっていながら しかもむしろ経験世界のためにこそ 人間にヒラメキ(インスピレーション)をあたえる。ということかも分からないからです。  そういう意味では  ★ 一方を切り離して  ☆ いるわけでもないのです。信仰もけっきょく経験世界における多様性をもった  ★ 経緯  ☆ に注目をしている。わけです。そして決して独自の行動をするわけではなく きわめて控えめな要因(契機)です。  単独の行動をするような信仰は 信仰でもなく神でも何でもないはずです。ただの思い込みであり 名誉欲と支配欲と金銭欲という神を寄り頼むという経験行為のひとつです。組織宗教は 個人の信仰とは基本的にまったく別です。信仰の抜け殻としてのオシエを――経験思考の成果であるオシエを――神としてあがめています。  ★ 内包  ☆ という用語をうまく受け留められなかったキライがあるかも知れません。

noname#215306
noname#215306
回答No.2

> 《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと 理解していますが これは どういうことか? 非思考の庭というのが、意味・印象・概念という本質的な、 霊的やり取り(会話)、、または思考・感情の発生点などの 意味でしたら、その定義は一応、正しいといえるとは思います ただし、そこにも陥りがあり罠もあり、信じていいとはいえない、 と私は経験からも感じます 私は神仏様方から 「(たとえ神仏達の言葉であっても)信じず疑わず、確信・断定 してはならない」 と伺い、それをつくづく思い知らされて来ました またそのように伺い経験して来た事は、非常に幸運だった、とも 感じています 信じるという情動?は、言葉の表現として必要、または強く引き 寄せられてしまう多様な状況は別として(言語・文章の欠点とも)、、 逆に欠かせない、その部分での注意などは別にして、、 信じるという情動は全く不要だと感じるのです (むしろ悪弊かと) それで困る事が、私自身、今まで全くなかった事も、多分それで 間違いないようだ、という私の理解の本になっているのですが、、 ただしどこまでも信じず疑わずは重要だとは思うので、これも 確信・断定すべきではないだろうとは一応、思ってはいます ただ?多くの人々は、(特に安易な)確信・断定を自他に求める 欲求?のような物を持つようですが、、霊的真理というのは、 厄介な自由性の中にあるので、、これも多くの人達には、理解 されないのですが、曖昧・矛盾が自然に成立している部分があり、 現世的な論理・矛盾の指摘・精査・検証などは、通用しない所 にあるんです このような事(霊的真理(霊的真理以外の物はないという意味で)) を理解するには、霊的能力が必要で尚且つ、罠・テスト・踏み絵を クリアし続ける必要があり、能力者の人達の多くが、初歩の段階で 躓いてしまうのを今まで見て来た事から、、 そしてそのような事に付いての伺いからも、、霊的能力があり尚且つ、 意識体に素養が与えられていないと理解・認識する事が困難なのだなと (ただし、霊的働き掛けで、種のように与える事は可能なようです) > たとえば端的に言って自分の神とは名前の違う神を排斥する ということですよね? いいえ、まず、神・神々がどのような存在であるのか、という事を 確認する意思が必要であり、、多くの能力者の方々が、霊的現象・ 奇跡などで確認・探求を放棄(信じる行為)しがちであるという 事から、私は信じるという行為その物が問題・不要なのだと感じています 神・神々を排斥するのではなく、、神・神々が創造された多様な過程と、 彼らが一時的半実体であるという事などの繰り返しの経験、、 それでもここでも、確信・断定してはいけませんが、 それはそれでも、神・神々の実体を確認・認識する経緯・段階 であって、そこには排斥という行為は不要だと感じます 問題のある様々(神・神々にまつわる)に対して、関わる必要が なければ関わらない、という行為・結果が、一般・多様な排斥の 面と同一になる部分、そのようにしか見えない部分は、あるとは 思いますが、行為は同じでも、意味は別といえるだろうと、、 如何でしょ?

bragelonne
質問者

お礼

 みよんよんさん あたらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづ  ★ ~~~~  私は神仏様方から  「(たとえ神仏達の言葉であっても)信じず疑わず、確信・断定  してはならない」  と伺い、それをつくづく思い知らされて来ました  ~~~~~~  ☆ この《神仏様方》というのは 人間がそうなったとされるその人びとのことでしょうか?  どうも 《伺い》ということですから そのようです。  その人びとの考えを摂り入れてご見解があるということですね。  読んで行くと どうも《信じる》ということの定義が 違っているように思われます。  でも最初に《非思考の庭》が 人の心に成って動態するという定義は一応みとめてくださったのですから そのあとの  ★ ただし、そこにも陥りがあり罠もあり  ☆ というときの《落とし穴》について注意をうながしておられましょうか?  曰く:  ★ 信じるという情動は全く不要だと感じるのです(むしろ悪弊かと)  ☆ たぶんまづ ここですよね。  《情動》がそのとき伴なわれているかどうか? これは何とも言えませんが ただし《信じる》という行為には その感情やあるいは理性さえもが 主役ではありません。強いて言えば 意志がわづかにかかわっています。  つまり 《信じる》とは 神なら神 しかもヤハヱーならヤハヱーあるいはブラフマンならブラフマン そしてさらには《無い神》なら《神はない》という或る種の仕方における神 これらの名前を心に受け容れることです。ただそれだけのことです。    もう少し説明がつづきますが。まづ 或る日或る時ワタシ(一般的に或る人)の心の窓を何ものかがノックする。これを――神の一定の名前とともに―― 受け容れる。言わばそのとき――思考もハカラヒもなく(ただし 感情や理性が脇役としてともなわれているかも知れませんが)―― ただただ心に受け容れるということです。  そしてそれは 意志によってだと言いましたが それは言わば領収証をみづから切るということ。何を領収したかと言えば 何ら分からないナゾの何ものかをです。これが 《情動や理屈》を抜きにして――つまり《非思考》として――成る《信じる》という行為の中身です。  言わば無根拠において成ります。  そう言うと ぢゃあ《情動》よりもさらに やっかいなことではないかとも問い返されかねませんが そこが《信じる》の真骨頂であるとも考えます。《非思考》で《無根拠》なのです。  なぜなら そうでなければ それは 思考であり感情のおもむくところでありあるいは理屈(理論)によって 《信じる》ことになってしまう。それは けっきょく《信じる》ではなくふつうに《考える ないし 感じる》という行為なのであり そういう問題だとなります。  つまりたとえ《神》を持ち出していたとしても その場合には 《信じる》とは何の関係もありません。  《信じる》は 神を思うあるいは感じるあるいは考えるといった行為ではないところの特殊な――しかも意志がかかわるからには――経験行為である。と考えられます。  意志が受け容れる経験行為でありつつ しかもその受け容れる対象は――非思考で無根拠であるゆえに――《非対象》だとなります。これを 一般に《神》と言っている。しかも 人びとによって民族の違いによって異なる名前がつけられています。キリストとかアッラーフとか。  これが 《信じる》だと考えています。       *  この定義にもとづき ご見解との相違について見てまいります。  ★ ただしどこまでも信じず疑わずは重要だとは思うので  ☆ 《うたがう・疑わない》 これは――非思考で非対象で無根拠ゆえに――《信じる》には関係しません。ということだと考えます。  ですから  ★ 確信・断定すべきではないだろうとは一応、思ってはいます  ☆ という《確信・断定する》こととは別なのだと考えます。《確信》は 《信》が入っていますが それはおそらく感性によるにしろ理性によるにしろ 何らかの知覚があってその認識があってさらに一定の推論をほどこした上での判断行為なのでしょうから これまた《信じる》という行為とは別だとなります。  ですから たしかに  ★ このような事(霊的真理(霊的真理以外の物はないという意味で))  ☆ というのは そのようにおっしゃるとおりなのですが つまり《非対象・無根拠》というのが この《真理ないし霊ないし霊的真理》のことだとわたしも受け取っていますが ただしこれは  ★ このような事(霊的真理(霊的真理以外の物はないという意味で))を理解するには  ☆ とはならない。と見ているわけです。    《神》を人間がその能力と努力によってあるいはその境地において《理解する》とは 豪も思わない。となります。ただただ――いくら不合理であったとしても――そのいづれかの名を持ったその神の名を心に受け容れる。だけなのです。  《理解》は この非思考の庭なる動態の過程をあゆむとき実際に経験事象を自分もおこないほかの人びともおこなっているその社会的な歴史におけるものごと これらについておこなうことです。  そのとき多少は おのれの信仰――つまり言いかえると 信じるから来るヒラメキにおけるわが心の奥の奥なるところの直感や思い――に照らして それはちょっと違うぢゃないかとか ううーんそれは どうもおかしいなぁとかそういう思考をもおこなうわけです。  ★ 霊的能力が必要で尚且つ、罠・テスト・踏み絵をクリアし続ける必要があり、  ☆ おそらくこのような紆余曲折をともなう過程は 信仰なる動態としてというよりも やはり上に述べたもろもろの社会経験をめぐる事柄についてだと考えられます。    そして確かに判断行為にあっては《おのれの信じるところに照らして》という要素がありますから その意味で《霊的能力》というふうに規定しても間違っていないと思いますが それでもその判断の成否・当否は けっきょく社会経験をめぐる具体的な問題についておこなうのだとやはり成ります。  言いかえると そのように《落とし穴に注意しつつ踏み絵をつきつけられてもその壁を突き抜ける》という行為は 《信じる》にあっては――非思考の庭がすでに成っているからには―― もうすでに乗り越えて来ている。ということではないでしょうか?  どのように乗り越えたのか? 無根拠においてです。非思考としてです。神は それほどのチカラがあると言ってもよいでしょう。  ですから  ★ 能力者の人達の多くが、初歩の段階で / 躓いてしまうのを今まで見て来た事から、、  ☆ そもそも《無根拠》なるチカラは 《能力者》なる人間のチカラに後行するということはあり得ません。つまり人間がおのれの能力を 神のチカラに対して先行させるなら その能力行為が成就する気遣いはない。そもそもの初めから ない。ということかと思います。  おそらくこの《無根拠における非思考としてのわが心の動態》 これが 次の文章の中身に呼応しているのではないかと考えます。  ★ ~~~~~  多くの能力者の方々が、霊的現象・  奇跡などで確認・探求を放棄(信じる行為)しがちであるという  事から、私は信じるという行為その物が問題・不要なのだと感じています  ~~~~~~  要らない《信じるという行為》とは 人間の能力を駆使したハカラヒによってわざわざ信じようとするそのことであろうと考えます。    ★ ~~~~  神・神々が創造された多様な過程と、  彼らが一時的半実体であるという事などの繰り返しの経験、、  ~~~~~~  ☆ これもおそらく人間の想像における神のことを言うのではないでしょうか? 観念における・観念としての神であろうと思われます。ハカラヒによっていますから アウトです。  こう見て来ますと 違いは次の一点であるようです。  《信じる》ことに何も要らない。ハカラヒから自由であること この基礎において《信じる》は成る。    ただし わたしの場合は 神の名を心に受け容れること この意志による具体的な行為は 信仰の発車ないし芽生えとして なくてはならないということ。神の名の――無根拠における――受容 これがなくては話は始まらない。この一点です。  (すでに受け容れていた場合には 確認が成されましょう。というような信仰の誕生の瞬間がある。こういう意味です)。  

noname#215306
noname#215306
回答No.1

> 信じているとは 心が閉じられていないことである。 私は逆だと感じます、、それに、信じる事の大切さ、とか 尊さ?という流布などは、私は悪弊・因習だと感じます 神を語るのなら、素養が与えられ、狡猾な罠・テスト・踏み絵 などをクリアし続けて来た経験が必要だろうと感じます 勿論それ以外の段階で、神を語る事は自由であり、罠の中で、 多様に信じ込まされてもいるので、、ただし許容とはいえないだろうと

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  よく分かりません。  ★ ~~~~~~    > 信じているとは 心が閉じられていないことである。  私は逆だと感じます、、  ~~~~~~~~~  ☆ そのほかに何も説明が見当たらないと思うのですが?  たとえばもし《心が閉じられていない》ではなく《心が閉じられている》のなら それは たとえば端的に言って自分の神とは名前の違う神を排斥するということですよね?    これが  ★ 〔組織宗教とその言わばひとつの文明化のもとに 隠然とにしろ公然とにしろ張り巡らされた〕罠の中で、多様に信じ込まされてもいる  ☆ という《思い込み》のことでしょう。  おのれの信じる神が――あるいは《無い神》が――わざわざただしいとうったえなければならないようでは それはまやかしなのでしょう。そうではないでしょうか?  ★ ~~~~~  神を語るのなら、素養が与えられ、狡猾な罠・テスト・踏み絵  などをクリアし続けて来た経験が必要だろうと感じます  ~~~~~~~  ☆ このご見解こそが 《〔組織宗教とその言わばひとつの文明化のもとに 隠然とにしろ公然とにしろ張り巡らされた〕罠の中で、多様に信じ込まされてもい》たことの後遺症としてまだ残っている思考形式のひとつなのでしょう。  《信じる》は いちいち《クリアする》ことを経ずとも 初めから飛び越えています。またその地点へ ただちに――ヒラメキにおいて――送り渡されましょう。  どうでしょう?  ★ ~~~~  信じる事の大切さ、とか  尊さ?という流布などは、私は悪弊・因習だと感じます  ~~~~~~  ☆ この判断は 同じような趣旨であるとも見られるのですが。でも あいまいですよね。わたしもあいまいなままにしますが。