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フッサールのエポケー。簡単に言うと、
小難しいこといろいろ書いてありますが、 簡単に言うと 「真か否か納得しているしていないは後にして、その事実を受け止めよ」 ということでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 事実認識――これにも主観の認識手法が入りますが――とそのモノゴトについての判断とは 別です。 認識したものについてさらに真偽・是非・当否・可否などを判断します。 事実認識の段階で エポケーせよということは いろんな角度から・考えられうるあらゆる視点から 見てみよということです。 その見る前に みづからの心ないし精神ないし知解力や判断力などを白紙の状態にしてみるとよい。ということをもともなっています。判断の中断としてです。
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- manuke22
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残念ながら簡単に言うどころかまったく別のことを言ってます。 エポケーは判断停止と訳すのが通例ですが、ここで言う判断停止とは普段の私が意識することなく準拠している判断仕方を、反省することです。ちなみにここで言う反省は倫理的な意味合いでの反省とは違います。省察に近い意味合いです。 たとえば私はしばしば「月は球体である」と判断します。私は月を見ている。そのとき私は、あの黄色くて、ときどき真ん丸で、ときどき半円で、ときどきバナナみたいな形に見えるあれを意識しています。月と呼ばれているアレを。しかし実際に私が見ている月は球体でしょうか。よくよく見ると私には球ではなく円に見えます。岩の周りを歩いて様々な角度から岩を見るようには、月の裏側や側面を私は見ることはできない。それでも私は月「について」球体だと判断している。月を球体「として」見ている。 その意味では、判断するという意識作用には予断が伴っていると言えます。しかし判断停止は予断や先入観をすべて捨て去るようなものではありません。判断することにはこのような予断が伴うことを認め、その予断に依拠した自分の判断を反省する、そのための準備段階のようなものです。 つぎに予断について説明を試みます。平成たぬき合戦ぽんぽこという映画がありまして。そのなかで、手で顔を覆ってうずくまりながら泣いている女に警察官が声をかける場面があります。警察官が見ているまえで女が手をのけるとそこに「あるはずの」顔はありませんでした。のっぺらぼうだったんです。警察官はこのとき、「すべての人間には顔がある」とはっきりと考えていたわけではありません。しかしこのような判断を予めもっていたからこそ、この女に顔がなかったことに驚かされるわけでしょう。予断について少しイメージは掴めたでしょうか。 警察官にとって女に顔がなかったのは「予期せぬ出来事」だったわけで、つまり予期していた出来事とは、女に顔があること(「美人かな、ブサイクかな」とか)だったわけです。判断停止とは、この警察官のようにのっぺらぼうと遭遇することなしに、意識するということや意識作用について、判断の成り立ちについて反省しようとする態度によって可能になります。これとは逆に、そうした反省を行うことのない態度を、日常生活における私のような態度を、自然的態度と言います。 予断や判断の真偽を問うのではなく、そうした予断や判断がいかにして成り立っているのか。エポケーはこれを考究するさいに不可欠です。 デカルトと絡めて言えば、思考することは意識作用(コギタチオネス)の一種です。また、思考するときはつねになにかに「ついて」思考していますよね。私がなにかを考えているとき、私に考えられているなにか(コギタートゥム)が不可欠。このように、意識することはつねになにかについて意識することなら、なにかについて意識することは、そのなにかと関係していることだと言えます。となるとエポケーは、そのなにかに対する関係を変えることを可能にする方法の一つだという風にも言えるでしょうね。
お礼
ありがとうございます。 たとえが分かりやすかったです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
我々は何かを考える時、実は無数の先入観を潜在 させています。 思考停止する事により、そうした予断を排した所から 再出発しよう、という方法論です。 「事実を受け止める」のではななく、それを『事実』だ などと思わない事です。
お礼
ありがとうございます。
- sporespore
- ベストアンサー率30% (430/1408)
現実に対するあらゆる判断を留保することを意味するので、「その事実を受け止める」ことではありません。
お礼
ありがとうございました。
補足
何も考えないということですか?
お礼
ありがとうございます。 端的でとても分かりやすかったです。