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なぜ初期のイスラム教は武力で勢力を広げたのですか?
私はイスラム教についてそれほど詳しいわけではないのですが… イスラム教はムハンマド在命時から武力によって勢力を広げていますよね。 それはなぜなのでしょうか? 単純にアッラーへの信仰を広げたかったのでしょうか?それとも何か他の事情があったのでしょうか? イスラムはサーサーン朝も滅ぼしていますし、やたら勢力拡大に貪欲さを感じます。 戦争をすれば自分たちの側にも被害があったでしょうし。 ムハンマドの胸中にあったのはなんだったのでしょうか。
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返礼頂き有り難うございます。 確かにムハンマドは商人の出でありながらも商業の論理自体を否定しませんでしたが、彼が行いたかったのは他の方の詳しい回答にも指摘されてある通り、商業によってもたらされる富の再配分の仕組みを設けることにあったと思います。 西洋資本主義が最終的に特権階級を打破することによって富の円滑な循環の流れを作り出し発展したのと同じ様に、ムハンマドも持てる者から持たざる者への富の循環経路を教義によって打ち立てることこそが人間社会の恒常的発展を促す最良の道のはずだと考えたのではないでしょうか。 勿論商業の論理自体を否定する事で教義を構築する道も有ったかもしれませんが、それは既に先行のキリスト教が試みていた事でもありましたし、その失敗(非現実的な禁欲や論理的な思考停止を強要する一部硬直的な教義による弊害、古代ギリシャローマ文化の放棄による衰退)から学べば、同じ轍は踏むわけにはいかないと言う視点を持つことは容易かったでしょう。 またムハンマド自身も幼い頃に両親を亡くして大変苦労していますから、貧しい者の立場に立った商業論理と云う教義にも繋がりやすかったと思います。 勢力拡大の必要性については、一つにはイスラムが一神教であるが為に究極的には必然となる問題です。 日本人は八百万の神様ですから、神様がたくさん共存していても何も問題はないと捉えますが、一神教にとっては世界を支配する神はただ一つのみですから、今はそれを信じない人間がまだ数多く地上にいるとしても、最終的には全ての人間が自分達と同じ神を信仰する世の中にならなければならない、またはなるはずなのだと云う考え方でいます。 なので、最後には地上の全人類が唯一の神の元に集わなければならないとする一神教の教えでは、専守防衛で向こうから自発的に来た者にだけ教えを説けば良いではないかと言う発想には中々なり難いと言うことはあると思います。 キリスト教の伝道活動もユダヤの選民思想も、ベクトルはそれぞれ全く逆ですがやはりこれと同じ要素を抱えていて、自分達の神こそが唯一絶対だと言う宗教観から、キリストは外向きに、ユダヤは内向きに、それぞれ柔軟性を欠いた硬直性を有していると思います。 ですがイスラムの場合は宗教的にはキリストやユダヤよりもむしろ寛容で、非イスラムを力ずくでもイスラム教徒にしたり、神に選ばれる為には膨大な数の細かな決まりごとを絶対遵守しなければならないなどと思い詰めるような所はそれほど有りません。 ですから、イスラムの勢力拡大は宗教的にと云うよりもむしろ中東の地における西洋資本主義革命にあたる出来事だったととらえる方が解りやすいかも知れませんね。 西洋資本主義は国家の枠組みの中で既得階級を倒そうと云う所が出発点でしたが、イスラムの場合は当時のアラビア半島に明確な枠組みを持った国家機構が存在しなかった為、解釈の上では全世界にたいして革命を宣言したような形になったと思います。 資本主義を核とする相互扶助社会の樹立ですね。それの実現を神が望んでいるのだと言う。 そしてその理想の社会の実現の為に、敵となるもの(ムスリムを除く全ての既得階級)たちに戦って勝つ(=聖戦、ジハード)事が必要なのだと云う考え方による宗教的な自己正当化と、食い扶持維持などの現実的な必要性が結び付けば、初期のイスラムの貪欲な勢力拡大を説明するには充分ではないでしょうか。
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- DieMeute
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物欲を満たすためです。 イスラムの戦争目的は布教の他に物欲を満たすという目的がありました。 それまでアラブの部族では戦争をして勝った時、相手から戦利品を得る時は、部族長が戦利品の25%をとり、残りを戦士達で分けていました。 しかし、マホメットは戦利品の20%しかとらず、残りを戦士達に分け与えました。 この新しい配分方式は貧しい戦士や新参の戦士に有利です。当然、戦士達の物欲は刺激されます。 しかも、マホメットの創始したイスラム教での戦いは聖戦とされた上に、戦死しても楽園に行けると約束されました。 当然、戦士達のマホメットへの支持、崇拝は高くなりますし、信仰はイスラム教徒の戦意と団結を高める作用をもたらします。 逆に言えばマホメットは戦士達の取り分を多くする事で自分への支持やイスラム教に人々を惹き付けたとも言えます。 また、軍事制度が整備されてくると初期にマホメットに従った戦士達は高級軍人として給与が支払われましたが、後年従った一般の兵士達は無給でした。この無給の兵士達の戦利品への欲求は強いものがありました。 だからイスラム教徒の軍は戦意が高く、また戦争という略奪を繰り広げました。 イスラム教徒軍がサーサン朝の領土に侵出し始めた時、ヒーラ市はイスラム教徒軍に年6万ディルハムの税を支払う事で、市民の生命とキリスト教の信仰の維持を認めてもらいました。 もし、イスラム教徒軍の目的が布教だけなら、このようなやり方はしなかったでしょう。このヒーラ市へのやり方ではイスラム教徒は増えないのですから、完全に財産目当てです。 専門家の中には初期のイスラム教徒軍について「信仰と物欲の見事な結合」と言う人もいます。 神への敬虔な信仰が無かったとは言いませんし、あったと私は思っていますが、それでもイスラム教徒の戦争目的が最初から信仰以外の物欲という要因を強く包蔵していた事は明らかです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても納得がいきます。
- mekuriya
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>イスラム教徒は同胞を犠牲にしてまでサーサーン朝下の民衆を解放しようとしたのですか? イスラム教徒にとって「同胞」とは同じイスラム教徒だけです。当時、「民衆」だの「解放」といった概念はありません。共産革命に例えたのは、あまりにも現代感覚に毒された質問者さんの理解を助ける便宜だけのことです。とにかく何でも現代感覚をあてはめようとする態度では絶対に歴史を理解することはできません。 民族意識も階級意識も現代感覚のものであって、当時イスラム教徒にそんな概念があったわけではないということです。イスラム教徒はその教義によって極めて社会的な宗教です。というのは仏教も神道もあくまで個人的な宗教で、隣人がキリスト教だろうとユダヤ教だろうとイスラム教であろうと全然気にならないのに対して、イスラム教徒は隣人が同じイスラム教徒なのか異教徒なのかは重大な問題だということなのです。日本人は何でも自分の考え方を当てはめようとするから、宗教を理解することはできません。イスラム教に限らず、キリスト教もユダヤ教もヒンズー教も社会的な宗教です。差別とか選民意識というのではなくて、同じイスラム教徒なのか、それとも異教徒なのかという区別がすべてに優先するということなのです。だからイスラム教徒もキリスト教徒もユダヤ教徒もヒンズー教徒も仲間はずれにされたくなくて自分が同じ宗教を信じる仲間だよと周囲にアピールしようとするのです。歴史的に見ると、キリスト教は西ローマ帝国が蛮族に滅ぼされて、蛮族を文明化する為が教会の最大の課題でありました。そして教会の権威が王権の正当性を保証するという体制が成立してキリスト教が生き残ることができたのです。キリスト教はさらに同じキリスト教徒を奴隷にしてはいけないが、異教徒は奴隷にしても良いという教義によって蛮族の蛮行を理論的に正当化する役割を持ちました。だからキリスト教の教義によれば奴隷貿易は正しいことだった訳です。ユダヤ教はその選民思想によって、異教徒による迫害から耐えぬくことができました。ユダヤ教の特徴は世俗権力と全く無縁だったことです。ヒンズー教の特徴は、カースト制度を宗教的に正当化することで支配階級にとって極めて好都合だったということです。逆に言えば仏教はカースト制度を正当化する教義が全くない。だからインドでは仏教は廃れてしまった。 じゃイスラム教の特徴は何かというと、富めるものも貧しいものも同じイスラム教徒同士助け合う社会を目指すことなのです。それは前回の回答でも示した通りです。そしてイスラム教徒にとっては、同じイスラム教徒か異教徒なのかという区別は重大な違いなのです。イスラム教はその教義によって共産主義のような階級意識、封建的な身分制度、資本主義、自由主義、民主主義を否定し、超越し、克服することができます。 イスラム教には資本家と労働者、貴族と平民、支配者と被支配者といった区別が存在しないということです。彼らにとっては同じイスラム教徒なのか、それとも異教徒なのかという区別がすべてなのです。 現代の民主主義は、身分制度や封建制度や階級闘争を克服する為に生まれたました。西欧文明は、長い歴史でようやく身分制度や封建制度や階級闘争を克服する知恵を手にいれた。 ところがイスラム教は発足当初から身分制度も封建制度も階級闘争も克服していたわけです。だからイスラム教徒は民主主義を求めなかったわけです。イスラム社会は、その教義によって公平な富の分配が実現されるから、民主主義に頼る部分がない。だからイスラム社会では民主主義が育たないのです。 ところが近代、中東で油田が発見されたことで「公平な富の分配」が怪しくなってきます。石油利権を握る階級とそうでない階級の違いで天文学的な貧富の格差が生じてしまった。ここにきてさすがにイスラム教の効力も失われてきた。そういう超格差社会に対するアンチテーゼがイスラム原理主義であり、中東動乱なわけです。 古代においてイスラム教徒が武力に頼ってでも勢力を拡大しようとしたのは、イスラム教徒が生き残る為だっただけです。イスラム教徒はその教義によって必然的に既存の特権階級を否定することになってしまう。イスラム教に忠実にあろうとするとどうしても古代王権を否定してしまうことになる。倒すか倒されるか二者択一ってことです。社会的な宗教は、既存社会の利害とどうしても対立してしまうわけです。 話が余談に膨らみすぎたかも知れないが、質問者さんにイスラム教を理解してもらいたいからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 今度のご説明でだいぶ理解が深まったような気がします。 >というのは仏教も神道もあくまで個人的な宗教で、隣人がキリスト教だろうとユダヤ教だろうとイスラム教であろうと全然気にならないのに対して、イスラム教徒は隣人が同じイスラム教徒なのか異教徒なのかは重大な問題だということなのです。 つまり、イスラム教が拡大に熱心だったのは、「隣人もイスラム教徒でなければならない」という思いが根本原因であり、そこは日本人の宗教に対する感覚とまったく異なっているということですね。
- hekiyu
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どんな宗教でもそうですが、新興宗教というのは迫害 されます。 イスラムもその例に漏れず、迫害されました。 迫害に対抗するためには武力です。 武力を使って対抗している内に、力を持ちます。 そうすると、今度は、金儲け、領土欲、権力欲など に駆られた指導者が、宗教を利用して武力で勢力を 拡大していきます。 特に一神教というのは、勢力拡大の大義名分として 使うには便利なのです。 それはキリスト教も同じでした。 ”戦争をすれば自分たちの側にも被害があったでしょうし” ↑ 被害を受けるのは下々の連中だけです。 戦争を起こす指導者には、負けた時以外には 利益しかありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >そうすると、今度は、金儲け、領土欲、権力欲など >に駆られた指導者が、宗教を利用して武力で勢力を >拡大していきます。 イスラム教は聖と俗が一体化しているのが特徴だそうなので、後世勢力拡大したのは、キリスト教国同士が小競り合いしたのと同じようなものと理解できるのですが、ムハンマド在命時から戦っているので…。つまり、ムハンマドが金儲け、領土欲、権力欲にかられていたということになりますよね。
ムハンマドの胸中にあったのは、ササン朝とビザンツ帝国の度重なる抗争の影響に因って南方への迂回を余儀なくされたシルクロード貿易による莫大なる富が、計らずもメッカの町に流れ込んできたことにより歪められてしまった社会秩序の再興だと思います。 商売では、上手いことやって大儲けする者もおれば、そうは行かず落ちぶれるものも出てきます。 砂漠のオアシス都市として堅実に営んでいた頃は起きなかった矛盾に翻弄され始めたメッカの町の在り方に、こんなことで果たして良いものかと言う想いを強く抱いたのでしょう。 ムハンマドの幼少期のあだ名は『アミーン』と言い、これはアラビア語で『誠実なる者』と云う意味です。 ムハンマドが25歳の時に出会った15歳歳上の最初の奥さんも、やり手の商売人だったらしいですが何よりもムハンマドのその誠実な人間性に惹かれたと言います。 ムハンマドの伝道活動自体は彼が齢40過ぎの頃に最初の啓示を得てから親戚等を中心に始まりますが信者の集まりは全く芳しくなく、中核の信者は熱心に彼に従いますがメッカの町では専ら迫害に逢い、その勢力はその後10年余りで数百人程度にしか拡大しませんでした。そしてその間ムハンマドは教えによる伝道活動にひたすら徹し、武力による勢力拡大は一度も為されていません。 やがて自分を擁護してくれていた部族長を亡くし立場的に窮地に立たされたムハンマドはついにその命を反対勢力に狙われメッカの北方の町ヤスリブに逃れます。 そしてそこからがムハンマドの武力による闘争の始まりとなるわけです。 ですから、そもそものイスラムの教えのなかでは武力による闘争はそれ以外のあらゆる努力を行った後での最終手段な訳であって、最初に武力制圧ありきではありません。 お釈迦様の元々の教え(出家主義による悟り)が、大乗仏教の誕生によって全く違うものに変わってしまった仏教と似たような状況です。 つまりイスラムにおける所謂ジハード(聖戦)とは武力を用いないあらゆる手段を講じる宗教的努力も含まれ、それでも駄目なとき初めてアラーから実力行使の許可が出るものだと言うことです。 ムハンマド亡き後の武力による勢力拡大についてはキリスト教の時との比較でしょうか。 キリスト教はローマの衰退期に帝国の将来に不安を感じた人々の心を上手くとらえる形で進んでいきました。 当時のローマはそれ自体広域な統一国家でしたので、武力による他文化圏の制圧といった強引なプロセスを必要としませんでした。 イスラムの黎明期には西のビザンツ帝国、東のササン朝がともに衰退してきており、ローマの統一を失った北アフリカにもこれといった強力国家はありませんでした。 新興とは言えかつてない教義で団結したイスラム教徒たちが自分達の世界秩序を構築するための挑戦を開始するには、まさにうってつけの時期だったのでしょう。 もちろん、後継者たちがジハード(聖戦)をただ単に武力による制圧の事だと解釈したのはムハンマドが元々意図したこととはかけ離れていたと思います。 始祖の教義が後継に上手く伝わらないのは、何れの宗教にも良く見られる問題かと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >ムハンマドの胸中にあったのは、ササン朝とビザンツ帝国の度重なる抗争の影響に因って南方への迂回を余儀なくされたシルクロード貿易による莫大なる富が、計らずもメッカの町に流れ込んできたことにより歪められてしまった社会秩序の再興だと思います。 とても納得がいきます。 ただそうなると、ムハンマド自身も商人の出身で、商人の論理を否定しなかったのに、商業による弊害に悩んだということになりますね。 >ですから、そもそものイスラムの教えのなかでは武力による闘争はそれ以外のあらゆる努力を行った後での最終手段な訳であって、最初に武力制圧ありきではありません。 私などは、専守防衛でなにも武力行使してまで教えを広めなくてもいいじゃないかと思うのですが、そこらへんは感覚が違うということですね。 当時のアラビアが攻めなければ滅ぼされるという状況だったというなら理解できるのですけど(日露戦争前の日本のように)。
- mekuriya
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サーサーン朝に限ったことではないが、古代の王朝がどんなものかという認識が足りないから、そのような疑問が生まれるのだと思う。サーサーン朝は、王族と貴族とゾロアスター教の聖職者だけが栄華を極めていて、それ以外は只搾取されるだけの惨めな存在なのだ。現代感覚で国民国家と思ったら大間違い。 そこに生まれたのがイスラム教。イスラム教は、富める者も貧しい者も信者同士助けあって生きていきなさいという教えです。 つまりイスラム教の勢力拡大は、無産階級による共産革命みたいなものなのです。負けたところで失うものは何もない。自分たちが救われるには、信者同士助けあって生きていくしかない。だから武力で勢力を広げようとした訳です。武力しか超格差社会を変革する手段がない。既得権益を独占する特権階級を打倒しない限り、永遠に搾取されるだけなのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく知らないので純粋に質問なのですが、 サーサーン朝とそれを滅ぼしたイスラム教徒は別の民族ではないのですか? イスラム教徒は同胞を犠牲にしてまでサーサーン朝下の民衆を解放しようとしたのですか?
- e_16
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キリスト教も同じですが、異教徒は人間以下のゴミと同じです、虫と一緒だから殺してしまえ そうすれば神に近づく事ができる、という理由です。 だからキリスト教は異教徒を魔女狩りと称して何百万人と殺しましたし。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そう単純とは思えません。
- ariakun
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キリスト教の「十字軍」と同じなのではないですかね・・・ ようするに、「自分達の宗教が唯一絶対である」という考え方ですね。 だからこそ「他宗教」を弾圧し、結果「勢力拡大」にもなるという・・・ 今の「イスラム教」も一部は同じ様な事を繰り返していますね、「~派」の対立という。 同じ宗教でも「考え方」だけで「派」に別れ、殺し合いをするのですから「他宗教」では尚更だったと思いますね。 真実は「本人」にしかわかりませんが・・・
お礼
ご回答ありがとうございます。 十字軍は失われた聖地を取り戻して巡礼できるようにしようというのが当初の動機だったと思いますが、イスラム教の場合は、取り戻すのでなく他教徒を改宗させようというのですよね。わが身を犠牲にしてまで、一般信者がそれに従うものでしょうか。そしてその割には経典の民には寛容だったようですよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「一神教は非寛容性がある」ということですね。 私は今まで「一神教は非寛容だがその点○○は…」のような言説に対し、そんな単純なものじゃないだろうと思っていましたが、私が一神教信者の心理を理解していなかったということですね。 いや本当に、違う文化(というか違うものの考え方をする人間)を理解することは難しいものです。