仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。
仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。
お釈迦様の生きた時代とは、農耕が勃興し文明が開花しつつある時代です。
その時代に置いて生きる事すなわち耕す事とは、来年のために種を残すこと。
すなわち、自らが生きるために自然界と共生する事です。
無を離れ愛の感想を述べましょう。
地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。
たったこれだけ。
ところが現代でも異論が挟まります。
利己心のみで、ただむさぼりたいだけ、地を耕すのだ。
そのようにいかさまを働いたのがお釈迦様の生きた時代のバラモン(聖職者であり内情は単なる寄生虫)の教えであり、お釈迦様は無の観想のみでそれに対抗し「そんなもんありゃしねー」と、吹っ飛ばしたのです。
それが無の観想です。
あえて言いましょう。
「そんなのかんけーねー」と、裸をどりをするお笑い芸人の姿がお釈迦様です。
なのに、そんな「無」の観想を回避して仏弟子を気取る畜生が現代の信仰をいまだに支えています。
人間として仏弟子を全うするには「無」を理解する事が避けがたいのです。
哲学的に持論を表明しました。
答えをお聞かせください。