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人間ではない存在としてのキリストは可能か?

福音書をどう読むかという問題の延長線にあると思います。 別に神でなくてもいいのですが、 かといって人間も難しい気がしてきました。 人間ではない存在としての キリストはどう表現できるでしょうか?

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回答No.7

こんばんはです。 ~~~~~~ ところで、擬人法を使わずに 神やキリストの表現は可能だと思いますか? ~~~~~~ う~ん、難しい問題ですね。 自然に神々が内在し、滲透している。そして、その存在を実感できる、という日本人的心性ならば、可能なのかもしれませんが、おそらく不可能でしょう。これでは普遍的な世界宗教にはなりえないのではないでしょうか。特に、復讐の神としての一面も合わせ持つヤーウェは、擬人的に表現せざるをえないと思います。 イエスは、人間です(あるいは、神と人間の両面性を持つ)ので、人間として描かれなければ、生きた言葉として心に響かないのではないでしょうか。人間として喘ぐ、苦しむ、悩む。イエスのこの姿がなければ、わたしは、新約聖書を読む気にまったくなりません。  「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしか) イエスのこの言葉のない聖書なぞ、僕にとっては、何の価値もない。  22:41そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 22:42「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。 22:43そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。 22:44イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。  (ルカによる福音書) これが読みたいんですよ。イエスをして「この杯をわたしから取りのぞいてください」と言わせる何か、この正体を知りたいんですよ。 なんか、収拾のつかない文章になってしまいましたが、わたしの考えは伝わったのかな。 ☆☆☆☆☆☆ ところで、仏陀の三十二相や八十種好を調べたんですか。 ゴータマ・ブッダは、「水掻き」あったでしょう。 河童なんですよ、ゴータマ・ブッダ。 河童、河童。 頭のテッペンの盛り上がりは、僕が考えるに、河童のお皿を髪の毛で隠していると思うのよ。 で、ブッダの体は刀で切りつけてもけっして傷つかないというのは、亀のように、河童の甲羅に手足をすべてひっこめているからだと思うのよ。 どう思う?

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 人間が表現されているのが特徴なんだから、 それを否定しても問題があったかも・・・。 キリストの比喩を探したほうが良かったかもしれません。 ゴータマが河童というのは、 まあ水掻きがありますからね。 インドに妖怪の河童がいるのかわかりませんが・・・。 河童が悟った。河童の集団。 水神が起源という説もあるんですね。

その他の回答 (19)

回答No.10

 ★(No.9お礼欄) ~~~~~  するとこの質問になるわけですか…。  神の子は人間か?  ~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。どうなんでしょうね。    たとえば  ○ イエスという人間は 神の子か? また神か?  ○ イエスは 実在したか?  といった問いがありうるでしょうが   ○ 《ことば》と呼ばれた神の子〔であり神である〕存在が 人間という存在であるか?  ですか? ううーん。これは そういう想定ですから。    ▼ ことばは肉となった。  という想定です。物語です。公理とも言いません。ただの勝手な想定です。  《神の霊が 肉である人間たちに宿った》(つまり 一切衆生 悉有仏性)という程度のことではなく 《神の子であり神である存在が そっくり人間となった》です。《人間であり神である》という想定です。(法身即応身といったかたちです。いえ 応身というよりは 人間ないし煩悩身でしょうか)。  梵我一如という程度ではなく ブラフマンそのものが――つまりその霊が――そっくりそのまま一人の人間となった。と言っています。  聞く人は聞け。見る人は見よ。です。

noname#195588
質問者

お礼

キリストについて 一から、哲学してみるというのも 必要な作業かもしれませんね。 すでに教義といういわば答えが あるんでしょうけど。 どうも答えに思想をあわせるという感じがして なんとも。

noname#195588
質問者

補足

回答ありがとうございます。

回答No.9

 No.8です。  ★(No.8お礼欄) ~~~~  神が人間になることがそもそも変だ  と考える人が当時にも多くいたのでしょうから。  マルコにはその必要が無かった。  ~~~~~~~~~~  ☆ たとえば 初めから 次のような句を拾えます。よ。  ▼(マルコ福音) ~~~~~  1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。      *  1:8 わたし(=洗礼者ヨハネ)は水でバプテスマを授けたが、このかた(=イエス・キリスト)は、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう      *  2:27 また〔イエスは〕彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。  2:28 それだから、人の子(=イエス)は、安息日にもまた主なのである」。      *  3:11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。  3:12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。  ・・・ ~~~~~~~~

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 するとこの質問になるわけですか…。 神の子は人間か?

回答No.8

 お早うございます。  ★ 新しいキリストの表現の可能性  ☆ 脇道から 聖母マリアをどう捉えるか? のもんだいです。そのあと もう少しキリスト論に触れます。  これは じつは 単純です。  イエス・キリストに 人間の貌と神の貌とがあるのですから 母マリアにも 人間ィエホシュアを産んだ・夫ヨセフの妻である人間マリアの顔とそして――物語に沿うかぎりで―― 神キリストの母親としての聖母マリアの顔とがあります。  夫ヨセフとの性交によって 人間ィエホシュアを産んだというほかに ――物語によれば――聖霊によってみごもったという側面もある。つまり処女懐胎という側面が 同時にある。  ふつう この《おとめがみごもった》の側面のみをはやしたてているようです。  聖書記者も 夫ヨセフとの交わりなしに懐胎したとじっさい書いていますから。  ★★ ~~~~  人間ではない存在としての  キリストはどう表現できるでしょうか?  ~~~~~~~  ☆ についての直接の答えではありませんが けっきょくイエスが神の子でありみづからも神であるキリストだということは 生前には誰一人として人間には知られていませんでした。弟子たちを初めとして 誰も――確かにイエスは ちらほらと自分は神の子であり父なる神と一体であるとまで語っていたようですが―― まったく分かっていませんでした。  カリオテの人ユダなら 政治的解放者としてのキリストだと思っていたかも知れず ほかの人びとにとっては 一般に預言者としてのモーセやエリヤの再来だという程度だったのだと思われます。つまり 人間であることにとどまります。  ですから イエスがキリストであると――土壇場で捕らえられたイエスを裏切ったペテロら弟子たちには――分かったのは 十字架のあとです。息を引き取ってからのあとです。  そのことを示す聖書の記事があると言って出されるのは 次のモーセの物語のくだりです。  ▼(出エジプト記  33章)) ~~~   20: また〔* 主はモーセに〕言われた。    「あなたはわたしの顔を見ることはできない。    人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《あなたはわたしのうしろを見る》つまり イエスの事件にあてはめるなら イエスが神であるというその貌は 《背面である》。神の背面しか 人間には見えない。つまり 磔のあとそして去って行ったあと やっと見ることが出来る。  という事件が 十字架以後に起こった。弟子たちに起こった。そしてそれは すでに初めから企画されていたとおりである。と。  果てさて  ★ 人間ではない存在としてのキリストはどう表現できるでしょうか?  ☆ どう表現できましょうか。  特異点でしょうか? じんるいの歴史上 おそらくただひとつ・ただひとりの特異点。  そこでは この経験世界の因果関係を超えており 善悪の彼岸として打ち建てられたすがたではないかと。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 マルコによる福音書には キリストの誕生がありませんよね。 マタイやルカには誕生の記述がある。 これはマタイやルカがイエスを人間にする 意図があったのではないでしょうか? 神が人間になることがそもそも変だ と考える人が当時にも多くいたのでしょうから。 マルコにはその必要が無かった。

回答No.6

 ★(No.5お礼欄) ~~~  一応、イエスではなく、  キリストを問題にしていますから。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ また分からなくなりましたが キリストについては ヨハネ福音の冒頭が説明しています。  つぎの《ことば》のことです。  ▼ (ヨハネ福音1:1-18) ~~~~  1:はじめにことばがあった。  ことばは神とともにあった。  ことばは神であった。  2:このことばは はじめに神とともにあった。  3:すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  4:ことばの内にいのちがあった。  いのちは人を照らす光であった。    ・・・ 14:ことばは肉(身と心 = ひと)となって、わたしたちの間に宿った。  ~~~~~~~~~~~~  次の問いはよく捉えられません。  ★ ~~~~  とにかく人間的なキリストという  制約からいったん、キリストを解放して  もっと自由な表現がされる必要があると思います。  ~~~~~~  ☆ 《肉となった》からには 《人間的なキリスト》であるとなるのですが?   でも 《人間の貌》と《神の貌》とふたつが同時に存在します。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど。 ことば、いのち、光 ですね。

回答No.5

 No.4です。  ★(No.4お礼欄) ~~~~  ようするに近代的な人間の批判です。  キリストをどう表現するかで、  人間とは何かも変わるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ぢゃあ No.4の回答でよいはずです。    その心は ナゾの何ものかについてのおそれ きよらかなおそれ これが肝心だという意味になります。  《人間イエスおよび同時に――ひとりの存在において同時に――キリストなる神である》です。  これが  ★ 近代的な人間の批判  ☆ です。単純に言って 理性や感性には限界があるという意味です。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とにかく人間的なキリストという 制約からいったん、キリストを解放して もっと自由な表現がされる必要があると思います。 新しいキリストの表現の可能性です。 一応、イエスではなく、 キリストを問題にしていますから。

回答No.4

 こんばんは。  ○ ヨセフとマリアの子であるナザレの人イエスは キリストとよばれる神の子でありみづからも神である。  これが 聖書のメッセージです。    ○ 人間であると同時に 神である。    です。  たとえば イエス・キリストは やがて十字架にはりつけになるという盃を飲まなければならないという最期のときが近づいたとき 人間の貌(かお)としては 大声で泣き盃を去らせてくれと言ったのですし(ただし あとでは みこころのままにしてくださいとも言って 身と心をゆだねました) 同時に 神の貌としては 自分からすすんでその盃を――ただし 自死をえらぶといったかたちにおいてではなく ユダヤ人の高等法院や人びとによって裁かれるといったかたちにおいてあくまで受け身において――飲むということでありました。  そうして これらはまるっきり物語です。おとぎ話です。虚構です。虚数をまじえた複素数として成り立った物語≒歴史です。  ただしまだ 質問者のバスの行き先が必ずしも見えません。どういう運転をしているのかも分かりづらいようです。様子を見て対処します。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ようするに近代的な人間の批判です。 キリストをどう表現するかで、 人間とは何かも変わるでしょう。

回答No.3

こんばんはです。 自由神学的な態度で聖書を読む。 奇蹟などはすべて嘘っぱちで、そこには何らかの寓意が込められているとする。 三位一体? → は~ん、何のことやら。 神さまが聖霊を与える → あなた、そんなことを真に受けているのですか。 イエスの復活 → そんなことがある筈がないでしょう。 イエスは神の子である → 「神の子」には色々な意味がありますよね。そのどれが該当するのか、わたしには分かりません。ひょっとしたら、(ダビデの血を引く)ただの人間の王さまくらいの意味なのかもしれませんね。 イエスの十字架 → イエスは、ユダヤの指導層にとって目障りな存在だったから、それで十字架に磔にされたんでしょう。イエスの十字架が贖罪のワケがないでしょう。人間はもともと善き者なんだから、なんでわざわざ贖罪をする必要があるんですか。 などなど、徹底した理性主義をとおして、聖書を読むなんてどうでしょう。 そして、「イエスが神の独り子であろうが、人間であろうが、そんなことは些細な問題です。新約に書かれているイエスの行動と教えの方がはるかに重要です」と開き直る。 ~~~~~~ 人間ではない存在としての キリストはどう表現できるでしょうか? ~~~~~~ イエスは、人間の姿として人々の前に出現した幻のような存在であるとする《仮現説》!! 神学的には、これが一番、合理的なように思います。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仮現説、キリストは幻ですね。 ところで、擬人法を使わずに 神やキリストの表現は可能だと思いますか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

”人間としてのイエスの探求は不可能ではないか? かといって、この時代、神とも簡単には言えない。 反理性的な奇跡物語の描写や反倫理的なもの。 矛盾だらけの記述、聖書の文献学の成果などなど。”       ↑ 高校時代の世界史ですが、キリストが何者かに ついては(1)神が人間の姿をとったものだ、という説と (2)最高の人間である、とする説がある、と習いましたが。 ”新しいキリスト像というのをそろそろ 見てみたいものだと思いました。”      ↑ 仏教でいうところの、悟った人、というのは どうでしょう。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 するとこの質問は高校の世界史とは 違う回答を求めることになります。 悟った人。 やはり人ですか。

noname#195588
質問者

補足

仏教の話題が出たので補足しますが 三十二相八十種好 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8%E5%85%AB%E5%8D%81%E7%A8%AE%E5%A5%BD たぶん現代の仏教ではゴータマについて、ブッダといえども人間であり、 このような姿をしていたとは考える人は少ないと思いますが、 こういった人間ではないものを評価してみようと思ったのです。

回答No.1

最初は人間だったのでしょうが、その後、共同幻想になった。 人間キリストに問題は無いが共同幻想のキリストは問題ですよね。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 一応、質問した理由としては、 近代ヨーロッパで形成された、 「人間」という概念をどうにかしたいという 意図がありまして、 人間としてのイエスの探求は不可能ではないか? かといって、この時代、神とも簡単には言えない。 反理性的な奇跡物語の描写や反倫理的なもの。 矛盾だらけの記述、聖書の文献学の成果などなど。 新しいキリスト像というのをそろそろ 見てみたいものだと思いました。

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