追伸:
>天界に転生したとされる麻耶夫人に説法をしたといわれていますが
そのへんはどうなんでしょうね。
○釈尊は「天上天下唯我独尊」と言われたとおり、地上でも天界でも最高の仏陀、至高の存在なのですね。
至高の存在の知恵は、菩薩や如来も学びたいのですね。至高の存在の前にはすべてが聴聞ですね。
釈尊が天界に赴き、麻耶夫人に説法したことは本当のことですよ。
>木蓮尊者の施餓鬼供養の話もありますが
実際のところは分からない
○これも本当にあったことですよ。木蓮の修行が進み、神通力を持った頃、なくなった母親の近況が知りたくて霊界を覗いてみたのですね。残念ながら、母親は生前の業で地獄で苦しんでいたのですね。まあ、女性が陥りやすい悪業と言えば、嫉妬でしょうかね。
そこで、木蓮は釈尊に「どのようにしたら母を成仏できるか」についてお伺いを立てるのですね。
釈尊は、悟りの光を手向けることにより、反省を促すことで成仏出来るといったのですね。
これが、回向の意味ですね。
これには説明が必要ですね。地獄にいるほとんどの人は自分を責めているのです。自分を責めるあまり思考停止状態なのです。そこに、悟りの光、つまり仏の光を手向けると我に戻るということなのです。我に戻って素直になった時に、こういうところが悪かったのですよ、そのあたりをしっかり反省しなさいと教えるのですね。全ての結果は自己責任ですから、自分で反省しない限り成仏できないのですね。
この話の中に何故、釈尊がバラモンの供養では救われないと教えたかの真の意味があるのですね。
現代の葬式仏教が釈迦仏教でないことがわかるでしょうかね。死者に説法をして間違いがあれば反省を促すことが本当の意味の供養なのですね。天界に生まれるような人に供養はいらないのですね。
供養を必要とする坊さんや、人が死者を供養すれば、いつまでたっても成仏できないのですね。
>分かっているのは 死者への供養の心が生きている者に振り向けられるという事実です。
回向とは 残された者のためにあってこそ回向なのかもしれません
○残されたものの悲しみは釈尊も分かっていたのですね。でも「諸行無常」は生きとし生けるもの全てに平等に訪れるのですね。自分だけではないのですね。子を失くした母が、なんとか生き返らせて欲しいと釈尊に頼んだとき、釈尊は死人の出ていない家から辛ダネをもらってくれば生き返らせましょうといい、母親が探しても徒労に終わったという逸話があるとおりですね。
釈迦仏教は不死の霊界があるから完結する教えですね。
釈迦仏教の真理は不滅の真理ですから、学んで欲しいですね。
お礼
幾度もありがとうございます。 前述の如く 六道の住人に対する説法や供養というものですが それは同時に救済であった いや 救済がそのまま説法であったかもしれないと思うのです。 ちょっと回り道ですが 施餓鬼会のように回向という間接的救済の場合には 仏の徳に託すわけですが これは 仏様にお願いします という頼みっ放しの他力でもあります 僧や仏への供養の徳を死者に振り向けるという筋書きなのですが (僧や仏への)信心のない形だけの供養が伝わるものなのかは疑問です 私は以前に 浄土宗の菩提寺の施餓鬼会に行きましたが その時に驚いたのは 沢山の僧侶が仏様に向かって言う言葉は 南無阿弥陀仏をはじめとする経文や讃嘆の言葉ですが 仏様に背を向けて参列者に向かって言う言葉は すべて真言であったことです。 浄土宗は念仏だけの教えだと思っていたので 以外なことに驚いてしまいました これは仏から人への言葉、説法というものが真言であることを意味しているのでしょうが どうも それだけではなさそうです 真言という如来語が参列者に振り向けられるということは 生きている私達の内の餓鬼への説法でもあったようです 施餓鬼会の本質は 仏の徳が死者に限らない救済であるようにも思います。 だが 残念ながら その時の私には伝わりませんでした ありがたく真言をいただくことができませんでした それは信心の欠落によるものだったと思っています。 供養法としては明確でありながらも 信心の有無によって救済面の効果がまったく変わってしまうのでしょう。 直ちに天に昇るか、馬の耳に念仏(真言)かは信心によるのでしょう。 供養と救済の同一性 またそれらと信心との関係に疑問をもった体験でした。 >釈尊が天界に赴き、麻耶夫人に説法したことは本当のことですよ。 さて どうでしょう 釈尊の説法が天にも届くものであった かもしれません 天界を知るほどの境地の高い弟子達のみぞ知る ことだったような気がします 弟子達はその説法を共に聞いていたのかもしれません 下すな言い方をすれば やっと親孝行に行ったか 立派になってよかった というところです 親孝行の言葉はどんなだったでしょうか 生んでくれてありがとう だったかもしれない お大師さんが御母堂を迎えに行ったときも そんなだったかな・・・ などと思ってしまいます。 母との再会の涙 聖者には相応しくない そんなことはないと思います。