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幼児の英語教育は本当にムダですか?
- 子供を小さいうちから英語を教えてもムダとよく聞きます。まずは母国語をと。
- 頭の良い人は大人になってからでも話せるようになるかもしれませんが、実際はそういう人少ないですよね。最近は英会話している人が大勢いますが、日常会話さえイマイチの人が多いと思います。私がその一人です(;;)
- つまり、だったらやはり、子供は小さい頃から英語に触れさせたほうが良いのではないかと思ってしまいます。
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質問者が選んだベストアンサー
いつも興味深い質問をしていただいているので楽しみにしています 私の意見としては、ムダではない、です ただ、結果して話せないとか、同年代の日本だけで生活した人よりも成績が悪かったりするのは、本人の努力や才能というよりは、環境に起因するところが大きいのではないかと思います いい例ではないかもしれませんが 私は小学生の頃ピアノを習って(習わされて)いました 男の子ですから、やはり外で泥まみれになって遊びたい 5年生だったか、結局やめてしまいました つまり、男でピアノを習うことのある意味恥ずかしさといいますか、男が習うものではないという意識と、別の欲求があって、ピアノを習う必要性を十分に理解できなかったんだと思います(もとからそんなにウマくなかったですしね笑) ただ、高校生になってバンドにあこがれて何かをしたい 手っ取り早いのがキーボードです やっぱり、他の高校生デビューのキーボに比べると覚えるのは早かったですよ 音譜の読み方もある程度わかったし、指も思った以上に動いてくれたし 子供の時にもっと練習してればよかった、ピアノを続ければよかった、と思いました (でもそれはあとからの理由づけで、たぶんピアノをやめたのはその時点必然的なことだったんだと思ってます) 英語のことに話しを戻すと、子供の時の能力はある程度頭にきちんと残っているのではないかと思います ただし、それを引き出せない、本人の意志というのと、環境によって 帰国子女と呼ばれる人の中にも、帰国だからこそ英語に対して嫌悪感を持っている人もいますし(イジメですね)、もとから勉強というのが嫌いな人(海外では当たり前のことが、日本に帰ると「勉強」しなくちゃいけない)、あとはある程度英語ができてしまったりするものだから怠ったり、成績上追い越されたりでやる気をなくしたり、という話しを聞きますし、研究でもそういう例が載っています でも発音やfluencyなどは、センスがいいといいますか、根本的に違う響きを持っていたりします 以前どなたかが、小学校での英語必修化について質問をされた際、私は条件つきで「是」にしました その理由は「英語に親しませる」というものでした そこで言いたかったのは、簡単な英語に少しでも触れさせることによって、日本語と全く同じ「言葉」なのだということを子供だからこそ知ってほしい、という期待があるからです どっかのキャッチフレーズみたいに「英語を話せればより多くの人と交流できる」という姿勢と、大学に入るための必須条件と考えるのでは、学び方にも差は生じるはずです まだ、話すべきことはあるのですが、今回は「子供」と「姿勢・態度」「必要性」をからめたつもりです トピックとしては、Critical Period Theoryとか、Universal Grammarとかいうのもあると思います ちなみに、日本語も英語も中途になるという事実がありますが、「環境が許せば」子供(私の考えでは大人も含め)はどちらも完全にネイティヴとしてマスターできる「能力」は持っていると思います 環境などの他の要因(個人要因が大きい?)が許さないだけです
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- cosycube1
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(承前) 乳幼児の発達過程はよく分からないことが多い。臨界期仮説など、仮説は多いが、進展を見ていない。たとえば、同じことを教えたとしても、環境はさまざまに違うことも影響する。これは児童期~青年期でもそうだ。習っても使わないものは忘れもする。 さらにたとえば、印欧語内と外の差、クレオール語、ピジン語、同じ言語を共有する複数語話者に見られるコードスイッチ等々、未解決研究は多い。 そんな状況で、大枠はこうと決めることはできない。どうして、そんなことも分からないのか不思議だ。研究者が自説の優位性を主張するなら別だけどね。あるいは相手を子どもとなめてかかって、「教えて『あげる』」という気持ちとかね。子どもに教えるのに、コンピュータをプログラムするような気分の人間を見ることがある。痛いしっぺ返しを食らうけどね。
お礼
コピペご苦労様です。
補足
削除された#14さんの回答についてのレスをこの場を借りて失礼します。 とうとう、回答が削除されてしまいましたね。やっぱり、あんたは本当の愚か者だわ。
- cosycube1
- ベストアンサー率0% (0/9)
【幼児期】 人間の発達過程の時期区分において、乳児期と児童期の間にあたる、生後1歳半ばから就学(6歳ないし7歳)までをいう。二足歩行と言語の習得、道具の社会的用途による使用、離乳の完了などは、乳児期の終りを意味し、幼児期の生活と活動の基盤となる。幼児期は乳児期にひきつづき発達的変化の顕著な時期であるので、一般に3歳を節目として前半と後半に分けることが多い。ただし身体の発達については、体重の増加率のほうが著しい第1充実期(5歳まで)と、身長の増加率が著しい第1伸長期(5歳以後)とに分けられる。 幼児期前半には歩行(1歳3ヵ月が標準)を中心に全身的運動機能が発達し、それによって生活空間が拡大し、運動的遊びが活発になる。戸外での遊びや散歩を好み、よじのぼる、くぐる、ぶらさがる、ゆすられるなどの機能をもつ遊具に興味をもつ。道具の使用は手のはたらきの発達と相関しており、多様な形態のおもちゃをもてあそぶことによって習熟すると同時に、食事の際の食器のあつかい(1歳半でスプーンをもち、3歳で握りばしではしをもつ)など、生活習慣のしつけのなかで訓練される。言語発達の面では、初期の〈かたこと〉が一語文として用いられて、要求の表現やおとなとの会話を成立させ、しだいに2語、3語の文としての表現が多くなり、コミュニケーションの手段としての役割を確立していく。このような諸能力の獲得によって、子どもの自我が拡大し、3歳前後にはそのあらわれとしての〈反抗〉(第1反抗期)がみられる。おとなの一方的指示に対する〈イヤ〉という拒否、〈ぼくが……〉〈わたしの……〉という自己主張、〈……がほしい〉といいだしたらきかない固執傾向などである。一方では臆病やひっこみ思案、神経質傾向や自傷的習癖などもあらわれやすい。しかし、反抗期は、意志の発達など自我形成をするための正常な過程である。 幼児期後半は身体の自由がいちだんと増し、リズムにのった運動や、ボール、三輪車、鉄棒など道具を用いた運動が巧みになる。手のはたらきにもいっそうの器用さが加わり、折紙、描画、さまざまな材料による造型など、想像力の発達と結びついて、表現活動を多方面に伸ばすことができる。言語を日常生活のなかで使う習慣が確立され(幼児語は5歳ぐらいまでには消える)、次には実際状況と分離した事がらの言語表現、すなわち想像や仮定の事態、予想、過去のできごとなどを語ることが課題となる。言語理解の面では、物語をきいて理解すること、すなわち絵本の読みきかせを楽しむようになる。周囲の物や事象に対する観察をことばによって整理し、知識の体系が徐々に形成されていく。衣食や排泄など身辺の処理も自力でできるようになり、おとなの指示もことばだけでかなり理解できるようになるので、生活面での自立性が大きくなり、手がかからなくなったという印象が強い。また、集団のルールの理解も可能になり、集団生活への意欲も高まる時期である。しかし、情緒の健全な発達や社会生活の訓練など人格形成の重要な時期だけに、生活管理の方向づけや安全の確保など、おとなの監護の目は必要である。 【児童期】 一般に小学校入学のころから青年期の開始までの時期をさす。しかし子どもの精神発達において7歳ごろまでを幼児期とみることがあり、また青年期の開始期(青年前期=思春期)が発達加速現象などによって早まる傾向もあるので、必ずしも日本の小学校の対象年齢(6~12歳)と一致するわけではない。 この時期は9、10歳ごろを境に大きく二つに分けて考えることができる。すなわち前半においては、具体物を目前にしながらの、あるいは具体的経験をもとにした推理や思考の能力が発達する。道徳的判断については、こうした能力が基礎になって成人の規則を絶対視し、その批判や賞賛によって他律的に判断する段階から自律的判断への移行が準備される。後半においては、なお具体物や具体的経験による支えを要することも少なくないが、相当程度に抽象的な思考を行うことができ、興味、関心も身のまわりの事象にとどまらず、過去や未来、外国のことなどに拡大されてくる。歴史物や冒険物などの中間文学を好む傾向が目だってくるのはそのためである。またこの時期はギャング・エージとも呼ばれる。基本的には地域で同性の閉鎖的子ども集団(ギャング・グループ)を形成し、ボスのもとで厳しい規律を作って集団的行動をする。親や教師から離れて自立的に行動するわけであり、このグループに属することによって将来の社会生活に必要な知識や技能、態度が形成されていく。同時に男女それぞれ別の集団を形成するところから、子どもはそれまでに徐々にとりこんできていた性役割を、この集団における仲間の評価を介して明確にわがものとするとみられている。近年、地域の解体、地域の教育力の低下に伴ってこの種の子ども集団が成立しにくくなっているが、地域子ども組織を自主的に発展させる努力もしだいに活発化しつつある。 小学校教育においてこのところ重視されるようになったのは中学年(三、四年生)の指導である。この時期は学力格差が著しくなり、登校拒否や非行の件数も増大するなど、いわゆる〈落ちこぼれ〉が目だつためである。発達心理学的にみると、9、10歳ごろは抽象的思考への移行がはじまるとともに、ある程度まで他者(仲間)を意識しつつ、それとの対比で自己を見つめはじめる時期である。しかし学校教育はその教育内容が急に抽象度の高いものとなり、しかも実体験をさせるゆとりもないままにそれを教えなければならないという状況にある。そのために多くの子どもが知識や技能の確実な習得を妨げられ、わからないままに授業を受けるという状態におかれやすくなっているのが、学力格差の増大の大きな原因である。また登校拒否は、その原因のなかには親からの心理的分離に困難があって、児童期後半のある程度自立した自分の世界への移行期にあたるこの時期に、それが顕在化するとみられるものも多いが、非行とともに、低学力を他者とのかかわりにおいてそれ以前よりも強く意識することによって生じるものも少なくないことに留意すべきである。 【青年期】 児童期と成人期の中間の時期をいう。思春期とほぼ同義だが、思春期というときは主として青年の身体的・性的成熟に焦点が合わされるのに対し、青年期というときは性的成熟以外の心理的・社会的成熟も念頭において、より全体的に、より広い観点でみている。青年期は身体的・性的成熟の起始とともにはじまり、心理的・社会的成熟の獲得で終わる。つまり二次性徴の出現などは、早い子どもでは小学校高学年からはじまるが、16、17歳くらいになると年間発育量は小さくなり、こんどは心理面の変化が生じはじめ、これが20歳代へとつづいていく。やがて心理面の動揺がおさまり、安定した新しい心理的平衡状態に入って、成人期へと移行する。 現代の青年期は一時代前のそれより長くなっているといわれる(青年期の延長)。たとえば女子の初経は昔より早くはじまる傾向にある。逆に青年期の終りの時点は先進国の高度工業社会では遅くなる。修業期間が長くなり、なかなか一人前になりにくいことと関係があろう。青年期が長くなるにつれ、これを青年前期と青年後期に二分する見方が一般に行われるようになった。発達心理学の観点から、青年期に達成すべきいくつかの発達課題が要請されるが、青年前期と青年後期とでは次のような配分になる。 青年前期 early adolescence の発達課題は主として仲間づくりと性的な身体の変化への対応の二つである。仲間づくりは最初同性同年輩のグループの一員となることからはじまり、ついでより少人数による、より親密な友人関係の形成へとむかう。性的な身体への対応は男女で少し異なる。青年後期 late adolescence になると異性への関心の増大とともに、同年輩の異性との交際という新しい仲間づくりがはじまるが、それと並んで、自分にふさわしい自分らしい生き方とは何か、という自問自答がはじまるのが大きな特徴である。これを〈自己アイデンティティの模索 identity‐seeking〉とよぶ。抽象的思考の発達につれて生じる発達課題である。今日のように青年期が長くなると、一般的にいってアイデンティティの獲得にいささか難渋する青年が多くなるといわれている。以上のように青年期の心理にとくに焦点を合わせる心理学を青年心理学 adolescent psychology とよぶ。青年心理学のはじまりは20世紀初頭であるといわれている。いうまでもなく、青年という中間期がこのころから無視しがたい重要なライフサイクルとなったことと呼応している。青年心理学の発展には精神病理学 psychopathology が大きな役割を演じた。なぜなら、青年期は特有の精神病や適応障害の生じやすい時期だからである。まず精神分裂病という代表的な内因性精神病の好発期が青年後期にある。もう一つの内因性精神病である躁鬱病も分裂病ほどではないがこの時期に初発することがまれでない。精神病ではないが、神経性無食欲症は女子の青年前期にもっとも多く発病し、またの名を〈思春期やせ症〉という。対人恐怖症という神経症も青年前期にはじまることが多い。日本では最近、以上のような昔から知られる青年病のほかに、登校拒否、家庭内暴力、リストカット型自殺企図、過食などの新種の社会行動上の障害が話題にされる。 (続く)
帰国子女がバイリンガルになっている事実から無駄じゃないと思います。 英語・会話の勉強は、3年やってもなかなか身に付きませんが、 数学を3年やったら相当、身に着くと思います。 なので、他のがおろそかになったとしても、 取り返すのはたやすいと思います。 大学生になってから英語を始めると、 そこから英語にかける時間の膨大さは、 もし途中棄権した場合、大きな無駄になると思います。 中途半端に身についても、使えるほどじゃなく、 英語の必要ない仕事についてしまいます。 バイリンガルで、バリバリ英語を使って仕事をしている人を(一方的に)知ってますが、 そう言う人って、やっぱりそう言う器になるし、そう言う道を開拓するんだなぁって思いました。 もし幼児期に習った英語を忘れても、 またやり直せば、早い段階で戻る気がします。 英語って記憶学習ですが、自転車乗りに似た要素もあると感じています。 結果を恐れず、我が子を以って、体験してみてはいかがですか? 我が子の運命を大きな責任の下で背負う事になりますが、 幼少期の記憶は、大人の記憶よりはるかに強固です。 もし、途中で一時保留になっても、潜在的に残っていると思います。 最低でも10歳を超えるまでは続ければ。 そのころまでに、いらない言語の神経の何かが消滅するらしいから。 ただのド素人の回答でした。m(_ _)m ところで、質問者様は、何年英語をべんきょうされていらっしゃるんですか? 私・中年も進歩を感じず、子供に戻りたい気持ちです。(;--)
補足
ありがとうございます。 >ところで、質問者様は、何年英語をべんきょうされていらっしゃるんですか? 実質10年くらいかな。でも、英語って机の上だけの勉強じゃ身につきませんからね。
- a_m_
- ベストアンサー率44% (24/54)
35年程前の幼稚園卒業少し前から小学1年生の終わり頃までの1年間、父の仕事で、英国に住んでいました。 その後、英会話を習い続けましたが、環境は、英国にいた時の様に、周りの全ての人が英語を話すということもないので、英語を学ぶ必要性があまりよく分からず、日本人の先生から文法を基本として英語を習いましたので、話し言葉は全くという程、忘れました。継続は力なりですが、努力が必要だと思います。(私は、継続はしましたが、努力が欠けていました・・・。) 私が中学生の頃、小学校の同級生だった男子生徒が、有名な私立の男子校に行きましたが、高校受験の都合で、中学1年生の終わり頃に、私が通っていた公立の中学校に転校して来ました。英語の時間に、その男子生徒の教科書の朗読を聞きましたが、発音がとてもきれいで、驚きました。その男子生徒が小学生の頃から英語を学んでいたという記憶がないので、中学からでも、遅くないと思います。ただ、公立の学校は成績が上の子よりも下の子の方に合わせる所もありますので、個人の努力が必要だと思います。(私は、公立の「成績が上の子よりも下の子の方に合わせる」という考え方は、社会に出た時の考え方にも影響を及ぼすと思いますので、私立には無い公立の良さだと思い、好きですし、日本語訛りの英語も、言いたい事を誤解されない程度であれば、日本人らしくて良いと思います。日本を全く良いと思わず、英語などを話して、外国人になりたいというのには、悲しさを感じます。) 幼い頃から、外国語(英語に限らず)に耳を慣らすというのは良いと思いますが、幼い頃から、その様にしなくても、外国語の成績の良い人はいますので、やはり、才能もあるとは思いますが、努力かな・・・と思います。
お礼
ありがとうございます。 >外国語の成績の良い人はいますので、やはり、才能もあるとは思いますが、努力かな・・・と思います。 日本での英語教育は文法と訳読がメインになると思いますが、実は国語力が問われているんです。なぜなら、英文法は日本語で説明されますが これは日本語の読解力が問われます。そして、訳読ですが、英和辞典で適切な訳語を選び、日本語の論理に合うように訳文を作るのは国語力に他なりません。これは意外と高度な国語力が要求されるんです。なぜなら、最初に頭にイメージの浮かんでないものから日本語の文章を作らなければならないからです。ですから、第2外国語は英語の得意な人が有利というのは英語の知識もありますが、それよりも この「外国語を理解する為の国語力」が長けているからなんです。そして、その国語力というのは 普段 私たちが使っている日本語とも 学校で習う国語とも方向性の違うものなんです。その点では、学校で習う国語の方が 作者の考えに同調するとか 模範的な感想をもつとか、純粋に「日本語力」とは言えない部分を含んでいます。ですから、むしろ英語の方が純粋に「日本語力」を計るバロメータになる部分もあるくらいです。でも、英語の苦手な人って、自分の「国語力」とか「日本語力」の弱さを棚上げして 自分は英語が苦手なんだと嘆いている人が多いわけなんでして...
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
幼児期の語学教育に関して、余り肯定的でない方からのご意見には「ありがとうございました」「ご苦労様でした」と素っ気ないコメントをお寄せであることから判断して、ご自身の子弟に早めの語学教育を受けさせたい!との御結論に対する応援を期待していることがわかります。 確かに日常会話をスムーズなものにできる程度ならばそれなりの意味はあるかとも考えられますが、今一度「語学教育」そのものに立ち返っては如何ですか?。 似ている事例として「書道」があります。国語科の授業で扱う書道の意味を考えるならば、筆順を正しく理解することも目的の一つです。実際の社会生活を考えるならば毛筆の出番はさして多くはありません。がしかし、感じを理解するには「漢字の要素」である「てん・止め・払い」を学ぶ事も大切です。水という漢字には、この全ての要素が含まれていて、尚且つ筆順を正確に追うと「筆の動き全体」が円の運動であることがわかります。円の運動であり筆順を正しく書くことでそのバランスを保つことが可能となります。 幼児にプリスクールとして英語を教えたいとのことですが、幼児期では専ら「単語の習得」に目標が置かれ、日本語には見られない「時制」や「構文」の理解はありません。英会話スクールとはいってもそこに在籍している教員が本質的に「言語としての英語」を理解しているかどうかもあやしいケースが多々見られることも現実です。 日本人だから日本語を理解し適切に使うことができているかと問われればかなりあやしい様に英語ならば更に「いい加減な」講師と出会うことで、英語の習得はおろかただ金銭を必要以上に求められて損をするケースも問題となっています。 語学を学ぶならば「そのロジック」を理解するだけの能力が備わってからでも遅くはないと考えるのが、大学教育に携わる者の端くれとしての僕の見解です。因みに僕はM.ヴェーバーの原書を読む必要性に駆られてドイツ語を勉強することとなりました。受験当時のスケベ心でヴェートーベンの9番を原語で歌いたいとの淡い希望は見るも無惨に打ち砕かれる結果となりました。 何も、百人の人間が百人とも英語を必要とするわけではありません。必要に駆られて勉強するのが本音です。
お礼
ありがとうございます。 >語学を学ぶならば「そのロジック」を理解するだけの能力が備わってからでも遅くはないと考えるのが、大学教育に携わる者の端くれとしての僕の見解です 流石、学者さんの仰ることは違いますね。でも、英語ってラテン語やギリシャ語と違って アカデミックなものでもないし 英語圏の人なら幼児でも日常的に使っている空気みたいなものだと思うんです。もっとも、「そのロジック」を理解するだけの能力が備わっていないうちから ラテン語やギリシャ語を学ぶのは無駄というか無謀としか言いようがありませんが。
- appleapple
- ベストアンサー率24% (180/730)
残念ながら無駄です。 生まれた時から5年、アメリカで育ち、頭がよく英才教育を受けても、 ほとんど忘れてしまいます。 まあ並の日本人よりはリスニングはできますが、書く、話すはたいした事ありません。 もし、お金と時間に余裕があるなら、「ダメもと」でやってみてもいいのではありませんか?
お礼
ご苦労様でした。
- KappNets
- ベストアンサー率27% (1557/5688)
子供を小さいうちから英語を教えてもムダなどということはありません。 ただ現在の日本のカリキュラムは「英語を教える」というよりは「英語に興味を覚えて貰う」という内容です。中国や韓国の一部の学校では小学生は教室で英語の討論をするそうですが、そういうレベルではありません。 でも、興味を覚えるってとても大事なことなのです。私は小学生時代に家にあったドイツ語の参考書を開いてデルデスデムデンと勉強?しました。何となくドイツ語好きになりました。高校で第2外語で1年間ドイツ語を学び、大学ではドイツ語中級クラスに入りました (中級とは英語ではなくドイツ語を第1外語として学んできた学生のためのクラスです)。授業以外で対訳双書で小説を何冊か読みました。小学校時代に興味を覚えたことが私にそこまでさせたということです。 プリスクール2年で日常会話を習得し、その後、英会話スクールで持続、は結構ですが、それは親の都合というものです。肝心のお子さんが「興味」を持たなければお金をどぶに捨てることにもなります (いわゆるスクールって授業料が高いですから)。英語が好きになることが何より大切です。
お礼
ありがとうございます。 >私は小学生時代に家にあったドイツ語の参考書を開いてデルデスデムデンと勉強? KappNetsさんは頭がいいんですね。私は中学生時代にロシア語の参考書で挫折しましたよ。
>幼児の英語教育はするべき!ムダではない!という方、いらっしゃいませんか? 私はそう思います。 語学学習は早いに越したことはないと。 ただ、一般的には継続できる環境にない人だと、 習ったこと自体を覚えていないので、 無駄に終わるケースが大多数だということでしょう。 知人に、家族ぐるみで海外赴任という人がいて、 子供が小学校に上がるのを機に帰国した人がいるのですが、 あちらでは友達とは英語でぺらぺらやるものの、 両親が日本人なんで、日本に帰ってきてものの 1年もしないうちに忘れてしまったなんて例もあります。 >なんてのは、やはり都合よすぎる話でしょうか? 普通は費用対効果が悪すぎるので、 やはり都合がよすぎるとしかいいようがありません。 (会社が外資系などで英語必須など)英語を話す必然性があれば、 それもよいでしょうし、教室になど通わなくても 語学力が錆つくこともないんでしょうけど、 やはり自然な会話にはならないような気もします。
お礼
回答ありがとうございます。
ご期待に添えない回答で申し訳ないのですが…。 >理想としては、プリスクール2年で日常会話を習得し プリスクールって、どのくらいの年齢のことか考えてみてください。小学校を卒業する時点でも、決して母国語の日常会話を習得しているとは言えません。まして外国語を、小学校に入る前に日常会話を習得するというのは、理論上はあり得ない話ではないでしょうか。そのくらいの年齢で話せる内容は、母国語でも外国語でもたいしたレベルではありません。 以前知り合ったマレーシア人の話です。 その人は中国系のマレーシア人で、家族やコミュニティーの人とは中国語、学校では英語とマレー語を話す必要があったそうです。 私が三カ国語も話せるなんてスゴイねって言うと、どれも中途半端なので、日本人のようにずっと一つの母国語だけでいい国の方が羨ましいと言われました。中国語は読み書きがほとんどできず、英語とマレー語は話すのに苦労があったようです。 結局、人間は無い物ねだりをするものなんでしょうかね。 他にも、友人でドイツに長期駐在していた人がいます。本人はドイツ語と英語を、大人になってからマスターしたようです。駐在当時、子供が小学生でしたが、自分の子供はあくまで日本人で、日本社会で生きていくはずだからと、日本人学校に通わせていました。もし、本人が外国語の必要性を感じたら、その時自分の意志でやればいいという考えだったようです。
お礼
ありがとうございます。 >ご期待に添えない回答で申し訳ないのですが…。 いえいえ、貴重なご意見です。 >小学校を卒業する時点でも、決して母国語の日常会話を習得しているとは言えません。 「日常会話」のレベル設定が私と違うようですね。確かにバイリンガル、トライリンガるには日常会話止まりが多いとは思いますが。 >中国語は読み書きがほとんどできず、英語とマレー語は話すのに苦労があったようです。 恵まれた環境にありながら、努力が足りなかったんじゃないでしょうかね。 >もし、本人が外国語の必要性を感じたら、その時自分の意志でやればいいという考えだったようです。 外国語は小さい時から学ばないと感覚をつかむのが難しくなるようです。 例えば「どこに行くの?」は“Where are you going?”であって “Where do you go?” ではありませんよね。そして「分った?」は“Have you understood? ”であって、“Did you understand”ではありません。 そういうのって、理屈よりも感覚なんですが、ここで どうしてとか詮索すると前に進まなくなるんですよね。
- poomen
- ベストアンサー率34% (784/2278)
幼児をターゲットにした英会話教材を売りつける方々は、無駄どころか「絶対に必要」とおっしゃるでしょう。 彼らの一番のカモは、「英語ができないから自分はこの程度の存在なんだ、英語さえできればもっといい生活ができたはずだ。だから子供には日本語を身につける前から英語教育が必要だ」と考えている英語コンプレックスな親です。
お礼
ありがとうございます。 そういう教材は一方通行なので効果はそんなに期待できませんね。
- 1
- 2
お礼
ありがとうございます。 >いつも興味深い質問をしていただいているので楽しみにしています つまらない質問なのに、こう言ってもらえるとは光栄です。 >私は小学生の頃ピアノを習って(習わされて)いました ピアノはいくら大人になってから努力しても、子供のうちからやっていた人にはかないませんからね。 英語でもLとRの区別なんか純粋で耳で聴き分けられなくとも コンテクストから推測する力がついてきますよね。「プレイ・ザ・ピアノ」と言ったら プレイはprayではなくplayだと容易に識別できるんです。過去の質問で「コンテクストに頼らず、純粋にLとRを聞き分けるにはどうしたらいいか?」という質問でも「コンテクストで区別できればいいでしょう。」みたいな回答が目立ちました。でも、固有名詞なんかそういうわけにはいきませんよね。例えば RindaさんとLindaさんがいて ここで間違うと人を取り違えますからね。