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これは私の一冊の本です。

よく、中学生が英語で習いたてによく間違うものに “This is a my book.” というような言い方があります。それで、どうしていけないのか という質問でも殆どの先生は「冠詞と所有格は一緒に使えない。」とか、そういう場合は 「“This is a book of mine.”と言わなければならない。」 と説明するかと思います。 でも、どうしていけないのか、もっと論理的に説明できる方はおりますか?

みんなの回答

noname#175206
noname#175206
回答No.8

言語学の術語。単語が結びついて文を構成する場合の文法上のきまり、しくみ。また、それについての研究、すなわち文の文法的構造の研究。あるいはさらに広く、文のもつ文法的諸性質に関する研究といってもよい。〈研究〉の意の場合には、訳して構文論、統語論、統辞論ともいう。形態論とともに文法の一部門をなす。  シンタクス上、まず留意されるのは語順すなわち[1]〈単語間の前後関係〉である。だが、実は、単語はただ1列に並んで文をなすわけではなく、ある連続した二つ(またはいくつか)の単語がまず密接に結びつき(これを句という)、その全体がまた別の単語や句と結びついてさらに句を作る、というような関係が重なって一文をなしていると見られる。例えば、The boys have nice cars. という文は、 (1) [[The boys] [have [nice cars]]] のような構造をなしている。それぞれの[ ]が句である(全体は文と呼ぶ)。単語にカテゴリー(品詞)があるのと同様、句にもカテゴリーがあり、上文のthe boys や nice cars は名詞句、have nicecars は動詞句である。(1)に各単語や各句のカテゴリー名を書き添えたのに相当するものは、 (2)図のようにあらわすことができる。(1)(2)は(カテゴリー名の有無を別にすれば)本質的には同じものであり、〈句構造 phrase structure〉と呼ばれる。特に(2)のように示した句構造はしばしば〈樹(き)tree〉と呼ばれる(樹の上下を逆にしたような形なので。なお句構造という語も、狭義には(2)のようにカテゴリー名付きのもののみに使う。また、句構造に主語・目的語等という種の情報を添える向きもある)。このように、シンタクスでは[2]〈単語や句の間の階層関係(切れ続き、係り受けの関係)〉にも注目する必要があり、句構造は[1][2]を併せあらわすわけである。句構造を考えることで、たとえば〈白い犬と猫〉には、  [[白い犬]と猫]、[白い[犬と猫]] という二つの場合がある、というようなことがとらえられる。  このほか、シンタクスでは、たとえば主語と動詞の間の人称・数の一致(ヨーロッパ諸言語で見られる)とか、文中の代名詞と名詞の間の指示関係(指す・指されるの関係)など、いわば[3]〈単語間の呼応関係〉にも注意する必要がある。さらに、近年では、当該の文だけを見るのではなく、[4]〈関連諸構文との関係〉というとらえ方が盛んになり、これによって研究はにわかに充実の度を加えてきた。関連構文とは、当該の文と文法上の関連を認め得る文や句(ごく単純な例としては能動文に対する受動文など)のことである。たとえば、(i)(a)Johnpersuaded Mary to come to the party. と(b)John wanted Mary to come to the party. とは同じ文型のように見えるが、(a)に関しては関連構文として受動文 Mary was persuaded by John tocome to the party. が作れるのに対し、(b)に関してはそれができない(Mary was wanted by Johnto come to the party. とはいえない)、また(ii)(c)〈招待した村長が遅れて来た〉という文の(d)〈招待した村長〉という句は、(e)〈(誰かが)村長を招待した〉という文の関連構文である場合と、(f)〈村長が(誰かを)招待した〉という文の関連構文である場合と、二つの可能性がある(すなわち(e)(f)の二通りにとれる)、というように、関連構文への考慮が必要あるいは有効な場合は数多い((i)(ii)はともに基礎的な一例にすぎない)。実は、文に樹を与えるのにも、ただ直観的に切れ続きや係り受けをとらえて与えるのではなく、[3]や[4]の性質までよく調べた上で与える必要がある。たとえば、上記(i)に基づいて、文(a)(b)には違う形の樹を与えることを検討せねばならない、というように。  だが一方、文がもつ[3]や[4]に関する文法的性質をすべて樹一つに盛りこめるわけではない。上例でいえば、(a)(b)が違うタイプの文であることは樹の形の違いとして示せるにしても、それ以上のこと(上記(i)のような内容)までは、それらの樹自体には示されない。また、文(c)については、句(d)の部分が(e)(f)どちらの関連構文である場合にも、その表面的な形をあらわす樹としては同じものを与えざるを得まい。そこで、そうした[3]や[4]にする諸性質をいかなる形で示すかが問題になる。ごくおおまかにいえば、たとえば(c)に対しては、それ自身の表面的な形に該当する樹を与えるほかに、それがどちらの関連構文であるかに応じて、文(e)または(f)に該当するような樹(今少し正確にいえば、(c)の表面的な形に該当する樹のうち、句(d)に当たる部分を文(e)または(f)の樹に近いもので置き換えたような樹)をも与える、というように、一つの文に対してその[3]や[4]の性質も浮かび上がるような複数の樹を与える考え方が、近年広くとられている。そして、それら複数の樹の形の相互の対応(をつける規則)を、一般性の高い形で示すのである。  以上のように、文のもつ[1]~[4]などの文法的性質に注目し、それらを(イ)各単語固有の性質(その品詞など)、(ロ)樹の形、(ハ)樹の形相互の対応づけ、などのファクターに基づいて、一般性の高い科学的な形で記述・説明するのが、シンタクスの課題である。なお、シンタクスは意味とは無関係に独立の体系をなすと説かれることも多いが、少なくとも当面のところは、文法的な性質と意味的な性質の区別からして、実はそれほど明白ではないのが実状で、完全に独立の体系をなし得るのか否かは、なお予断を許さない。  永い言語研究史上、シンタクスの研究が盛んになったのはごく最近、すなわちアメリカの言語学者チョムスキーが1950年代に〈生成文法理論〉を提唱してからのことである。だが、それ以来研究は急速に進展、特に前掲の(ロ)(ハ)に関してあたかも数式のような観を呈するフォーマルな方法での記述が進み((ハ)はそもそもこの理論のアイデアである)、(ロ)(ハ)をさらにいろいろな角度から規定する抽象度の高いファクターや規則性も相次いで見いだされてきた。それとともに、各言語は表面的な語順等こそ違っても、きわめて抽象度の高い観点から見ると多分に共通の性質を有するのではないかとの見通しも強まりつつある。こうした観点の深まりとともに新たな研究課題も次々と浮かび上がり、いわばその奥深さへの認識をしだいに深めながら、今日も各言語および言語一般に関するシンタクスの研究は、主としてこの生成文法理論に拠って盛んに行われている。  日本語については、やはり最近はこの新理論による研究が徐々に進みつつあるが、このほか、これ以前から橋本進吉、時枝誠記ら国語学者によるシンタクスの基礎的研究も少しずつ行われてきた。〈文節〉相互の切れ続きに基づく橋本の堅実な研究は現在も学校の国語教育における〈文の構造〉の教授内容の基盤となっており、また、人間の心理的過程に即して文を説こうとする時枝の構想の継承発展をめざす研究者も少なくない。  なお、論理学やコンピューターなどにおける人工的な〈言語〉(記号体系)についても、記号が並んで式などを構成する場合の規則をシンタクスという。 分かる?

noname#175206
noname#175206
回答No.7

単語とは、ことばの最も基本的な単位として、我々が日常的・直観的に思い浮かべるのが単語である。そして我々はこの単語を一定のルールに従って結合させ、より大きな単位である文を構成し、それを表出することによって、他人との間にコミュニケーションを成立させているのである。したがっていわばことばの基本的な〈駒〉として、日頃用いる辞典は単語を集めその意味を記したものという意識があるし、外国語の学習にあたっても、何はともあれ一定数の単語の習得が養成されるのである。もちろん、単語はより小さな単位である音韻から成り立っているわけだが、個々の音韻は特定の意味と結び付いているわけではないのであり、この意味で単語は話者の意識では基本的かつ最小の単位と普通はとらえられていると言えるだろう。このような、単語的なものが、各言語の話者の意識内に存在することは、たとえば古い書記記録(碑文など)に、単語間のくぎりを示す記号が用いられていたり、スペースがあけられていることからもうかがわれるように、決して近代になって言語の科学的分析が行われるようになってからのものでないことがわかる。  では、この単語には厳密にどのような定義が与えられるであろうか。実はこれはかなりやっかいな問題であり、文とは何かという問いかけ同様、単語についてこれで十分という答えを出すことはできない。たとえば、〈山〉〈川〉〈花〉〈時計〉〈歩く〉〈食べる〉〈寒い〉〈なつかしい〉等に対して、〈の〉〈が〉〈れる〉〈だ〉などは、どうであろうか。また〈おはし〉の〈お〉や〈ごはん〉の〈ご〉は単語なのだろうか。また〈神〉と〈お神〉は別の単語なのか、〈お神〉は1単語かそれとも2単語なのかという疑問も出てこよう。同じく〈読む〉〈読もう〉〈読め〉は別単語かどうなのか、どう考えたらよいのだろうか。このような事情は日本語に限らず、多くの言語について見られるのである。これらの問題は文法全体をどう構築するかという問題ともかかわってくるのであり、その中で単語をどう取り扱うかによってそれぞれ答えが違ってくるわけである。  ただ一つはっきりと言えることは、我々が考える単語は必ずしもことばの最小単位ではないということである。すなわち一定の音韻連続と一定の意味(文法的意味をも含む)が結合したものは、たとえば〈寒い〉の〈‐い〉や、英語の playing の〈‐ing〉などもそうであり、これは単語の意識からはかけはなれたものである。言語学ではこの最小の有意義単位を〈形態素〉と呼ぶ。したがって単語は一つ以上の形態素から成り立っているということはできるわけである。しかし、これだけではなんら定義をしたことにはならない。そこでつぎに、文法的分析・記述を行う際に、単語というレベルをまったく立てないという立場は別にして、我々の素朴な意識に根ざす単語の姿を漠然とした姿のなかから少しでも輪郭をはっきりさせることは、むしろ文法記述の上からも有用であろうという見通しに立って、定義の試みのいくつかを以下に検討し、そこからどんな特徴を引き出すことができるかを見てみよう。 (1)書かれた場合にその前後にスペース等のくぎりが置かれ、しかもその中にはくぎりをもたない。――これは英語などの書かれた形についていうことができるし、上述のように古代からそのような例は見られる。しかし同じ書かれた形から定義してみても、これは日本語などの場合にはあてはまらないし、そもそも世界中の言語を見わたした場合、書記体系をもたない言語が圧倒的に多いという事実からすれば、書かれた形から単語を定義する試みは普遍的基盤を欠くと言えよう。 (2)音声的特徴を手がかりにする試みもある。――たとえば、書かれた場合のスペースに相当するものとしてポーズ(休止)を取り上げ、前後にポーズがあり、その途中にはポーズがないまとまりを単語とするのである。しかし、これも現実にはコンスタントに存在するわけでなく、実際の発話は音のとぎれない連続であることが普通なのである。また実際のポーズではなく、ポーズを置ける可能性としてみても大して変りばえはしない。たとえば日本語の場合だと、普通は仮名1文字分に相当する音(連続)ごとにポーズを置くことが可能であるが、そこからすぐに単語へと結びつけることは困難である。このほかに、アクセントや母音調和といった現象が手がかりになる場合もあるが、これもどの言語についても言える性質のものではない。 (3)意味面から、ひとつの意味的まとまりをもった単位とする。――これは何をもって〈ひとつの〉とするかが問題となるし、そもそも意味をどう考えるかという大きな問題を含んでいる。 (4)次に機能的な面からの定義として、アメリカの言語学者 L. ブルームフィールドの定義がある。これは、言語形式のうち文としてあらわれることのできるものを〈自由形式〉とし、最小の自由形式を単語とするものである。――しかし、この定義に従うと、日本語の多くの助詞や助動詞が、単語ではないということになる。  これらの例からだけでも、単語が決して一つの視点からだけでとらえきれるものでないことが明らかであろう。一定の意味と音形をもち、しばしばそのまとまりが音声的・音韻的特徴によってしるしづけられているだけでなく、機能面でもそれらの特徴の単位として働きうるのであり、またそれを構成する内部要素は一定の順序に緊密に結合されている、といった形で複合的にとらえることによってのみ浮かび出させることのできるのが単語なのである。  なお、こうして輪郭を与えられた単語は、さらに種々の観点から分類が可能である。すなわち、語形成に着目すれば、単純語、複合語、合成語といった分類が、また形態や意味などを基準にして名詞、形容詞、動詞などの品詞に分けることができる。 分かる?

noname#175206
noname#175206
回答No.6

〈行く〉と〈来る〉のような反対の意味をもった対語(対義語)antonym のこと。これにはいくつかの種類が考えられる。大―小、老―若、長―短のような対立は実際には〈相対的〉なもので、その間にはある基準の存在が予想され、それに基づいてこの対の一方が選ばれる。そしてこの対のいずれを否定しても、さらに大でも小でもないといった中間状態が可能であるし、暑―寒の間にさらに暖―冷のような対が認められることもある。このような対の関係に対して、男―女、生―死、表―裏、既婚―独身などでは、一方の否定は他方を指示する。この対は〈相補的〉で中間を許さない。しかし開―閉の対では、さまざまな開閉の程度が考えられ、その意味では大―小の関係に類似している。つぎに売―買、貸―借、あげる―もらう、夫―妻のような対は互いに〈逆の関係〉にあり、一方が同時に他方を成立させる条件をもっている。  反義語の成立のしかたは言語によって違っている。英語、ドイツ語の deep―shallow、tief―seicht〈深―浅〉の対はフランス語にはみられない。そこでは profond〈深い〉の反対は peuprofond〈あまり深くない〉であらわされる。ちなみにラテン語では、altus が〈高い〉と同時に〈深い〉を兼ねている。日本語の紅―白なども日本語特有の独自の対語である。 分かる?

yingtao7
質問者

お礼

ふ~ん、それで? niceの質問の続きですか? 私も何かの本で読んだことがあります。

noname#175206
noname#175206
回答No.5

>ご苦労様でした。  んで? ぐうの音もでない(2度目)?(苦笑) 偉そうな割に情けない人ってフランス語でなんていうの?  aとmyは辞書までどうぞ。

yingtao7
質問者

お礼

>偉そうな割に情けない人ってフランス語でなんていうの? C'est justement de vous qu'il s'agit!

  • kendosanko
  • ベストアンサー率35% (815/2303)
回答No.4

冠詞の感覚はむずかしいよ 英語ウン十年学んでいる自分でも、今でも悪戦苦闘しているから 基本的に、数えられて、どのひとつでもいいものはaとかan 複数形の総称は一般論を話すときに使う 前に話があったものはthe of以下に続く名詞の修飾を受けて範囲が限定されるときもthe myは所有者を強調するとき だれが所有者かわからないときや、だれが所有者でもいいときは 所有格を使わない 所有格は冠詞と同じように「範囲を限定する」ので、 共存しないんだよ。同じ概念の言葉は2回使えないからね。 馬から落馬する というのと同じ。

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。 >所有格は冠詞と同じように「範囲を限定する」ので、 共存しないんだよ。同じ概念の言葉は2回使えないからね。 これは私が質問で書いた、普通の先生がするような典型的で月並みな説明だね。 >馬から落馬する というのと同じ。 これは「贅語法」と呼ばれるものですが、日本語では多く使われますね。 例えば、「軍隊に入隊する」するとか。これは日本語の性格上、漢語系で「~する」 をつける動詞は漢語が2字でないとかっこ悪かったり、意味が通じにくくなるからだと思われます。中国語だと「参军」と言うんですが、日本語は漢字を導入しても声調はまるっきり無視してしまったので、耳で聞いても理解しやすいように 余計な漢字で補う必要があるのでしょう。でも、これはこの質問の趣旨とはあまり関係ない気がしますが。

noname#175206
noname#175206
回答No.3

 で、aとmyだがね。その単語感覚が分からないと、駄目だろうね。  駄目教師がいたとして、それの説明は御免蒙る。  そもそも、あなたはなぜその二つが分からんのだ?  This is a/my pen.  これでもいいだろう。This(≒これ)という大枠が出てくる。ここで数を気にする英語だ、もう単数だ。  それは、beなんである。ここで数を気にする英語だ、意識が継続されていれば、「今」という意識が生じて、現在形のisとなる。「存在する」まで意識してるか、イコールなのかはどうでもいいけどね。  それで、aなのかmyなのかになる。後者であれば、はっきり意識されている。なぜなら「私のペン」ということは話し手の意識にあり、それを伝えたいから、myと言う。分かっていることは伝えるわけだ。  じゃあ、となる。ペンは一つだ。話し手にもそれ以上のことは分からない。myじゃないから。そこで「一つだがそれ以上は分からない」のaが出てくる。なんだかしらんが「一つ」で聞き手との間を埋める。  そして、話し手の最終判定であるpenが出てくる。これがmyの場合は違うことに注意したい。my時点で全て意識は確定しているからだ。分からないから、一つだけどなんだか分からないから、とりあえずaという。  もちろん、この例に限定した説明にしか過ぎない。冠詞と複数はもっと深い文化背景がある。説明しきれない。  さてつまり、途中の単語でも意識の違いはあるわけだ。英語のロジックもあるしね。aとmyでは違う。myで意図が確定していることは重要かもしれない。theを考えるにおいてはね。  それがa my penにならないわけ。普通はね。英語の語順で、どう思考が定まって行くか、分からないと、そういうことが分からない。  そういうことくらい勉強してこい、と前の質問の回答で教えてあげたわけ。少しは調べればよかったのにね(苦笑)。  最も効率的な質問方法を教えておく。 「それは何を勉強したら分かりすか?」

yingtao7
質問者

お礼

ご苦労様でした。

noname#175206
noname#175206
回答No.2

 英語ではそうだから。  あのね、名詞に冠詞がつくなんて、ネイティブは発想していないのです。  もし、そういう発想なら、冠詞は名詞のあとに来たでしょう。  そうではない。カテゴライズがあって、そうなる。それだけですよ。  反省しないなら、分かるね?

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。 > もし、そういう発想なら、冠詞は名詞のあとに来たでしょう。 そう言えば、デンマーク語やスウェーデン語では定冠詞は名詞の後に来るんですよね。

回答No.1

所有格を用いた my ~というのは もともと一冊しか私が持っていないか,さっき話した私の本とか, すでに特定された一冊の本です。 すなわち,S is my ~. という表現は「~のうちに含まれる」というのでなく, 「一つしかないそのものだ」と同値的につなげるものです。 my father というのと同じ感覚が my book でも当てはまります。 だから「任意の一つ」という a がつくのはおかしいし, my ですでに特定されているので the もいらない。

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。 私が疑問を持ったきっかけは、私の本が何冊かあって、そのうちの一つを提示する時は イタリア語では “Questo è un mio libro.”というように冠詞と所有代名詞を並列できるからです。

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