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大阪城は大砲の存在を考えて作られてますか?
大阪城は大阪の陣で落城していますが、その際は大砲が大きな役割を果たしたといいます。 有効射程距離が4キロから6キロあったとか。。 豊臣秀吉が1583年に築城した際(完成は何年でしょうか?調べても築城にとりかかった年しかわからないのですが。)、大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか? また、そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?
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当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。 本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本格的な大砲攻撃を想定して造られた城ではありません。 織田信長も鉄甲船に大砲を積んで実戦に活用したりしていますので,秀吉が大砲の存在を知らなかったはずはありませんが,当時の大砲の威力からして,その攻撃に備えるために城の造りを抜本的に変える必要性までは感じなかったでしょう。 小田原攻めに大砲を使わなかったのは,わざわざ大砲を持ち込むのが戦略的に有効でなかったからであり,徳川家康も大坂城の実質的な主人が淀の方でなければ,大砲は使わなかったかもしれません。なお,大坂夏の陣の約20年後に起こった島原の乱では,オランダの協力を得て大砲攻撃が行われたものの大した戦果は挙げておらず,結局は兵糧攻めと人海戦術でようやく一揆の拠点・原城を落としています。 原城は,有馬氏によって築城され,一揆当時は廃城となっていた小城であり,そんな城を落とすのにも大砲が大した役に立たなかったということは,要するに当時の大砲では,城を物理的に破壊する役割はほとんど期待できなかったということになります。
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おはようございます。 考えを改めました。 大阪城は大筒に考慮して造られていないと思います。 秀吉は天下を統一し、戦が無いと思っていたはずです。 従って大筒に対して考慮していないと考えられます。 400年以上昔の話ですからね。 分からない事もあります。
お礼
ありがとうございます。 次の方の回答を見るとどうなんでしょうね。
大砲(当時は大筒)を考慮して造られていると思います。 その為に二重の堀があったのです。 徳川家康と豊臣家の交渉で埋めてよいのは外堀のみだったのですが、 内堀も埋めてしまって裸同然の城になってしまったのです。
お礼
そのために2重の堀といっても、堀を埋める前から天守閣にバンバン大砲が撃ち込まれましたよね。 これで考慮してたと言えるのですか?
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お礼
ありがとうございます。 でも、一発だけなんですか? 大坂城内にいた次女が大砲でバラバラになって死んだという話が残っているのですが、あたったのは その一発ということでしょうか。 大河ドラマとかだと、けっこう当たっていますが・・(笑)