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黒人奴隷について

18世紀末にアフリカから年間5~8万人の奴隷がカリブ海や南北アメリカに連れて行かれたそうです。 私が疑問に思っていることは、どうして黒人は白人に対して抵抗をして、連れて行かれることを阻止できなかったのか、そして、なぜ多くの黒人を黒人の数よりも少ない人数の白人が支配できたのかということの2点です。 知っている方がいらしたら、どうか教えてください。よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • DieMeute
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回答No.5

黒人が連れて行かれる事を阻止できなかったのかという事については、白人の奴隷商人に黒人の支配者(国王や部族長)が、敵対する国や部族の黒人、自国に不必要な黒人を貿易の商品として引き渡すという奴隷貿易に加担していたという面があり、黒人の全てが奴隷貿易に反対の立場ではなかったという事があります。 当初、白人の奴隷商人はアフリカの黒人の国や、黒人の部族長にところに、交易品として帽子や銃や装飾品や布、食料を持っていき、奴隷が欲しいと要望すると、その国や部族長は社会に不必要な犯罪者を渡したり、他部族に戦争を仕掛けて捕虜を得てそれを渡したり、他部族の子供を誘拐して渡したりしました。その取引する規模が拡大するにつれて白人の奴隷貿易の拠点としての港がアフリカ沿岸に幾つも確保され、そこで黒人奴隷の取引が大々的に行われるようになり、黒人奴隷を供給する黒人の国や黒人の部族がその貿易で潤う事になります。 つまりアフリカの黒人は反奴隷貿易で一つにまとまっていたわけではなく、自国や自分の部族が潤うために、他の黒人を白人に奴隷として売り渡していた国や部族がいるという情勢でした。黒人が連れて行かれるのを阻止するどころか、同じ黒人が奴隷貿易に加担していたのです。だから阻止できませんでした。 ただし、この事に心を痛める黒人の国王もいました。コンゴのムベンバ王は1526年にポルトガル国王に奴隷貿易をやめるよう手紙を送っています。ただしその効果は全くなく奴隷貿易が止まる事はありませんでした。 なぜ多くの黒人を数の少ない白人が支配できたのかという点については、簡単に言えば武力による支配です。 アメリカ南部では1791年~1810年の20年間だけでも40もの黒人奴隷の反乱がありましたが、大きくなる前に鎮圧されています。以後も1831年のターナー暴動事件などが起こりましたが、これも軍が出動して100人以上の黒人を殺害して反乱が大きくなる前に潰されています。 訓練され優れた武器を持つ軍隊の前には、たいした武器を持たず組織化されてもいない奴隷の反乱の成功は難しいという事でしょう。 ただし奴隷の反乱が成功する場合もあります。それが1804年に独立を宣言したハイチです。 ハイチはフランスの植民地でしたがアフリカ黒人奴隷が反乱を起こし白人の支配から脱しました。 「ハイチ革命」とも言われます。 「ハイチ革命」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81%E9%9D%A9%E5%91%BD ただハイチ革命の場合はフランスが全力でハイチの反乱を鎮圧できる状況になかったという点もあるかと思います。 ところで、人口についてアメリカの場合一言言うと、黒人の人口が白人の人口を超えた事はありません。 アメリカは1865年に奴隷制を廃止しますが、その5年前の人口では白人は2692万人で黒人は444万人であり、白人にたいして黒人は約6人に1人程度の割合でしかいませんでした。 ですからアメリカの場合は多数の白人が少数の黒人を支配したというのが正しいかと思います。 なお、黒人のアメリカでの反乱は前述したように失敗していますが、白人の支配から抜け出すために逃亡するという手段があります。その逃げた黒人奴隷はかなりの数に上ります。 アメリカでは1830年~1860年までの30年間だけでも6万人もの黒人奴隷が逃亡しました。彼・彼女達は逃亡する事によって自由を獲得しようとしました。 この逃亡という行為こそ黒人奴隷にとって主要な抵抗形態だと言う人もいます。

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その他の回答 (6)

  • poomen
  • ベストアンサー率34% (784/2278)
回答No.8

 蛇足気味ですが、例えばアメリカに連れてこられた黒人奴隷についてですが20年ほど前に興味深い論文を読みました。  アフリカから連れてこられた黒人奴隷同士は相互にコミュニケーション可能だったか?という論文ですが、答えは否です。様々な言語集団=部族がまとまった形で一つの農園に集められるわけではありません。  奴隷狩りや奴隷売買の過程で集団や家族も解体されてしまい、さまざまな異なる言語や文化を持つアフリカンが農業奴隷として一つの農園に集められます。  従って彼らは身分は同じ奴隷同士ですがコミュニケーションが不可能です。さらに本来親や言語集団から継承すべき文化を学ぶことも出来ませんでした。このような人間は無力です。考えることも行動することも、ましてや自分のおかれた境遇を理解し改善することも不可能であったろう、と書かれていました。  古代ローマの「スパルタクスの反乱」の様に、虐げられた奴隷が一致団結して農園場主やアメリカの社会制度に反抗することは原理的に無理なんですね。  彼らがアメリカ社会や奴隷制度に自らの意思で反抗、反対の意思表示をし始めるのは二世、三世の世代になって農場主の命令後である簡単な「日常英語」が奴隷達の中に広まってからです。  この「日常奴隷英語」を修得した奴隷達によって相互の意思伝達が可能となり組織化も出来る様になったそうです。  悲惨ですよね。

nattounattou
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

述べ4000万が輸出されましたね。 1,当時のアフリカは、今でもそうですが  国家というものがあまり無かったのです。  だから、部族単位で英仏などの国家と対決せねば  ならず、圧倒的に不利でした。 2,武力が異なります。  アフリカ人は,何度も反乱を起こしていますが  英仏の軍隊に鎮圧されました。 3,英仏得意の間接統治がありました。  これは、現地人を使って現地人を支配する  というものです。 余談ですが。 (1)成人式では槍と盾だけでライオンを仕留める  マサイ族は、奴隷にされませんでした。 (2)イエズス会が日本人を奴隷貿易をしたため、  秀吉は、キリスト教を禁圧するようになりました。

nattounattou
質問者

お礼

ありがとうございました。

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回答No.4

ほいほい・・・元教師・現役予備校講師が「ほめられてのびるラジオ」を聞きながら回答! >18世紀末にアフリカから年間5~8万人の奴隷がカリブ海や南北アメリカに連れて行かれたそうです。 私が疑問に思っていることは、 (1)どうして黒人は白人に対して抵抗をして、連れて行かれることを阻止できなかったのか、 ほいほい。正確な文献がないので明言は出来ない質問だったりするけど、おおよその可能性は、19世紀のアメリカの史家が見解を提示しているので、それを踏襲しませう まず、黒人奴隷は、同じ黒人によって供給されています 意味不明かもしれませんが、簡単にいえば、黒人社会では人売りが普通だったのです 日本でも江戸時代の大飢饉の時などでは食わせられない子どもを売り払ったりしていますし、中世のアラブ諸国でも人を売り買いすることは多々あります。(『マムルーク』って言えば分かるかな?)  アフリカ黒人奴隷の多くは、その地域の政情不安などの関係で売れた人・・という可能性が高いでしょう。 部族社会であれば、部族長が「おまえの家の三男坊は売ってしまえ!」という命令がまかり通ったでしょうし、そういう社会はアフリカ諸国だけの話でもありませんので・・・ まぁ、暴力的に身体拘束された可能性もあるでしょうが、現代では想像もつかないほど、人身売買は当然の時代がある・・・というのが現実ですので、あしからず ちなみに、奴隷売買というのは非人道的な職業と思われるかもしれませんが、合理的な穀物生産を行う上では、必要だった部分も指摘できます (アフリカでは1しか生産できない奴隷でも、アメリカでは10生産できるなら、そっちの方がいい・・というレベルの話だけどね) 残酷だと思うかもしれませんが、冷静に考えてみる奴隷として売られた先では生き残れたわけですから、ある意味では幸福だった・・かもしれませんね。 そのまま郷里に残って餓死を待つよりは・・・という考えもアリだと思いません? 『帰る場所がないから反抗しない』 (「マイホームしか居場所のないダメオヤジが、怖い奥方に忍従するしかない」そんな光景とも被りますが・・・・・俺のことだw) >(2)そして、なぜ多くの黒人を黒人の数よりも少ない人数の白人が支配できたのかということの2点です。  上記したように、故郷に戻っても居場所がないなら・・・ということもあったでしょう まぁ、実は知られていませんが、黒人奴隷の大反乱ということは、それなりにあった可能性も指摘できますし、その恐怖に苛まれ続いているのが現実です。  ある史家は、 「女子供などの弱い人間を人質として囲い込んで、屈強な男どもを支配した」という指摘もあるようですが、これがどこまで有効だったのかな?とは疑問視してしまう話です ちなみに、こういう見解もあります アメリカの大統領であったジェファーソンの考えをアレンジしたものですが ・・・・ 黒人奴隷たちが反乱した時に、彼らは白人抜きにして社会を形成できただろうか? 強制連行された黒人たちは、見知らぬ土地で生きてゆくために、白人が提供する生産手段が必要であって、生産手段を牛耳っている白人に反抗すれば、彼らの明日はない。 仮に彼らが生産手段を支配できたとしても、白人がそれを買わなければ、黒人社会は維持できないだろう。「生産手段を生産する技術」はそれこそ白人が独占していたものだし、学のない黒人には技術習得には限界はあるだろう 黒人奴隷を解放したとして、彼らは生産手段・技術を持ち得ていないのだから、必然的に白人社会に戻らざるを得ないだろう ・・・・ まぁ、この見解は至極適切だったことをアメリカの黒人奴隷史が証明してしまいます。 有名なリンカーンの『奴隷解放宣言』で奴隷は奴隷身分から解放されます。 しかし、生産手段・技術を持たない彼らが自由人になっても、食べてゆけないわけです。 したがって、悲しいかな解放奴隷は、元の地主(奴隷主)の元に戻ります ちなみに、心優しいように思える一部のアメリカ人は、アフリカのリベリアという地域に黒人国家を形成して、奴隷たちを”祖国でもない地域”に移民させます・・移民させられた黒人奴隷たちの移民先での生活は・・・・・・(あとは調べてね。リベリア殖民協会がいいかな?) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8D%94%E4%BC%9A 止む得ず白人社会・白人支配の鉄鎖に拘束され続けることになるわけです このような黒人奴隷の構造は、アメリカ独立戦争において活躍した奴隷が解放された時にも確認されているのですから、 「奴隷解放の課題」は、政治的な奴隷解放ではなく、奴隷身分を脱するための技能・技術・経済力を持ち得ることが重要だったわけです・・・ これも後の公民権運動でも繋がるわけですが、権利を政治的に付与しても、その権利を行使できるだけの経済的裏打ちがないと・・・ということになるわけですね  リンカーンの奴隷解放宣言は史家では、評価は分かれます。 リンカーン自身は「解放します!」と宣言しただけで、解放奴隷の生活の保障などしていないわけですから、無責任とも言えるわけ・・・ これに対して、奴隷制維持だったジェファーソンはまだマシだった  「奴隷解放のためには、奴隷に技術を持たせる必要がある!」と認識していたので、所有していた奴隷に様々な技術を提供し、訓練させた。 奴隷身分は変わらなくても、生産手段・技術をもった彼らが高い生産性をもつ有能な奴隷になった上に、自由人になれば自立できた・・・と考えられたでしょう  もっとも、「黒人が作った?そんなもん買えるかよ!」という白人が多かったので、作れたのはいいが、売れない、という悲しい末路だった可能性も指摘できるかもしれない なんとなく分かりますか?彼らは自らの生命を盾にされて支配されたわけです ・・・・・・・・・・・・ 非人道的という批判は別にして、奴隷主が、子どもを人質にとったり、奴隷たちの大事な財産を人質にしたりすることは日常茶飯事です 上記したように、居残っても地獄だったわけですから、一概に奴隷身分は不孝とも言い切れないわけです まぁ、こういうことは実はアフリカ奴隷だけの話ではなくて、日本でも同じことです 『日本には奴隷はいなかった!』というイメージが強いでしょうが、記録残されないだけで、地方農村部では普通にいた、と考えられています。『農奴』といいます 彼らも黒人奴隷と同じく、生産手段・技術を持ち得ないが故に、支配者に従うしかなかった・・というのが現実です まぁ、この話は、『共産党宣言』のマルクス的な説明にも通じる部分もありますが、一番大きい話でしょう まぁ、圧倒的道具による暴力性を実現できた白人の暴力に従うしかなかった・・という見解もあるわけだが、技術格差が乏しかった古代の奴隷の説明が出来なかったりするので、説得力はないわけです ちなみに、文献的に農奴は、チベットでは戦後まで確認できます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 補足 聞いてないことだろうが、奴隷制度では、奴隷価格が急上昇すると、奴隷間の婚姻が推奨されます。 家庭を営めないのが一般的奴隷なのですが、婚姻させ、家族を形成させ、奴隷二世・三世を作らせる必要性があったのですが・・・・  南米の黒人奴隷は、早々と消滅するのは、奴隷に家族を持たせるよりも、新規購入したほうがいい!という浅慮が原因だと言われています。 奴隷に多くの生産物を作らせたい地主と、出来ればサボりたい奴隷との様々な駆け引きも面白い話があるわけだが、そういう駆け引きから黒人文化が形成されていたりするのは・・自重しておこうw 長くなったが、こんな程度の話で理解されるのがいいだろう 糸冬

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  • kuroneko3
  • ベストアンサー率42% (250/589)
回答No.3

 黒人奴隷の問題は,概ね16~18世紀と,19世紀とに分けて考える必要があります。  16~18世紀までは,白人のヨーロッパ諸国もアフリカを支配していたわけではなく,せいぜい航海や交易の拠点を築いている程度に過ぎませんでした。熱帯で資源にも乏しいので,南アフリカなどの一部を除いては,特に支配する価値もないと思われていました。  インド航路を開くためにアフリカを探検していたポルトガル人は,現地の黒人とも商売や交流をしていましたが,黒人から買える物は対立する部族の捕虜(奴隷)くらいであり,当初は買ってもあまり使い道がありませんでしたが,新大陸の発見に伴いブラジルで大規模な砂糖生産を始めるようになると,黒人にも農場の奴隷として使い道があるということになり,わざわざヨーロッパから武器や繊維製品,ラム酒などをアフリカに運び,そこで奴隷を買って新大陸に運び,新大陸からは奴隷を使って生産した砂糖や綿などをヨーロッパに運ぶ「三角貿易」が発達しました。この時点では,奴隷を売ったアフリカ人達は,白人に支配されているという認識もなく,自分達が同じ「黒人」であるといった仲間意識もありませんでした。  一方,19世紀になると,それまでヨーロッパ諸国の経済を支えていた新大陸の植民地が相次いで独立してしまい,イギリスやフランス,ポルトガルなどの諸国は,その代わりになる植民地としてアフリカに注目し,アフリカの植民地化が本格的に始まりました。アフリカの各地で貴重な鉱物資源が発見されたことも植民地化の追い風でした。  こうなってくると,さすがにアフリカ人も自分達が支配されていると認識せざるを得なくなり,各地で抵抗運動が起こりましたが,武器も戦術も国家組織も格段に優れていた当時の西欧諸国には,アジア諸国なども敵わない状況であり,国家も文明も未成熟であったアフリカ人が敵う相手ではありませんでした。  現在は,アフリカ諸国も概ねヨーロッパ諸国から独立していますが,独立とは名ばかりのことで,実際には今でも内部対立と宗主国への経済的従属を余儀なくされているところが多いようです。

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  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

支配などしていない。単に商売をしただけ。 部族抗争があったのです。負けた部族は賠償金替わりに奴隷を取られます。勝った方は奴隷を白人の奴隷商人に売る。売った代金で鉄砲と弾薬を買う。鉄砲と弾薬があれば、部族抗争が有利になる。国などなくて部族社会があっただけ。白人の奴隷商人は商売をしただけです。そうやって勝ったり負けたり、お互い様でどんどん奴隷が売られていく。その奴隷を新大陸で売れば奴隷商人の儲けになる。黒人は頑強で、過酷な奴隷労働にも耐え抜いたので高く売れました。新大陸のインディオはひよわで奴隷労働に耐えられずにばたばたと死んで労働力不足になっていた。その穴埋めに黒人奴隷が鉱山主などに売られたわけです。

nattounattou
質問者

お礼

黒人奴隷の背景に、アフリカの部族社会が関わっていたことを初めて知りました。 ありがとうございました。

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  • ka28mi
  • ベストアンサー率41% (969/2315)
回答No.1

まず、持っている武器、兵器のレベルが非常に違います。 素手の人間10人に対して、ピストルを持っている人が1人いたら?抵抗なんてできないでしょう? 次に、奴隷にされたというのは結果を見るから分かることです。 詐欺でもそうですが、そうすることが正しい事のように、自分にとって利益になるように騙されてしまえば、分からないでしょう?

nattounattou
質問者

お礼

相手がピストルのような武器をもっていたら、怖くて相手の言うことに従ってしまいますよね。 回答ありがとうございました。

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