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五智如来について

五智如来 密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもの。金剛界五仏のことである。 現実では五智如来はどのように役に立っているのでしょうか? また、5つの知恵がある世界観とは?

みんなの回答

noname#156094
noname#156094
回答No.3

>現実では五智如来はどのように役に立っているのでしょうか? 今日のお昼は何を食べよう? 夕飯は何がいいかな? 津波の復興支援の募金はいくらにしよう? ボランティア活動もいいかな? ペットも可哀そうだから引き取ってあげてもいいだろうか? あ、そうそう、隣のおばあちゃんが入院したから見舞いにも行かなくては・・・etc 現実の諸問題の解決に結構役に立っているようです。 >また、5つの知恵がある世界観とは? 三界は客舎のごとし 一心は是れ本居なり かな・・・?

  • mmky
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回答No.2

○法界体性智とは、簡単に言えば霊界全体の構造やそこでのありようがわかるということですね。空海はその一部を捉えて、十住心論に表していますね。でもこれは空海の悟りに基づくものですから釈迦大如来(盧遮那仏:大日如来)の認識の法界全体のごく一部なのですね。 空海は霊界を十分類したわけですが、中国の天台ちぎは一念三千論で三千分類してますね。 釈迦仏教の優等生はこの二人ですね。それ以外で霊界分類に至った坊さんはいませんね。 それはさておき、霊界構造がわからないと仏教修行でどこを目指すかわかりませんね。まあ、天国・地獄程度の宗教であれば、衆生救済型の浄土宗やキリスト教でよいわけですね。空海が密教を起こした本来の目的は、仏の住まう世界を目指したからですね。目指すためには霊界世界、つまり構造やそこに住まう条件がわからないと、修行者として何をして良いかさえわかりませんね、 まあ、後代の人も衆生でいたくはないが故に仏道にはいるのでしょうから、目指す世界を示せない宗派なら修行する意味はないのですね。南無大師遍照金とか南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏とかを毎日唱えてもどこへゆくのやらということですね。蛙の合唱団にはなれるかもしれませんね。 ということで、法界体性智とは仏道修行で最低限必要な指針、修行のありかたと、結果としての行き先表示ですね。これがわからない修行型仏教宗派は早く解散したほうが良いように思いますね。なぜなら、仏の世界ではなく、道に迷って地獄の獄卒になる坊さんがたいへん多いからですね。 まあ、強いて言い換えれば、法界体性智とは修行僧にとっての二河白道の白道のことですね。

回答No.1

僕も確認のためにネットで少し検索したのですが、 ”密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもの。金剛界五仏のことである。” はWikipediaから引いてきたんですね。 だとしたら、引用先・リンク先を示さないとね。 さてさて本題。 >>現実では五智如来はどのように役に立っているのでしょうか? 金剛界とは、仏の悟りの世界、精神世界や密教行者の修行階梯などをあらわしたものですよね。 ですが、 金剛界五仏に祈れば、すぐさま、その仏智を獲得できるって安易なものでもないし、 また、何か現世利益(げんせりやく)があるわけではないので、 現実では、あまり役に立たないのではないでしょうか。 僕の実家は真言宗なので、 小さい頃、僕も人並みに五智如来を拝んだりしていましたが(祖母が篤信家だったので)、 賢くなったわけでもなければ、何かご利益があったわけでもないし… でもまぁ、宗教とは、そういうものでしょう。 >>また、5つの知恵がある世界観とは? 法身仏である大日如来の悟りの世界。 悟りに程遠い、煩悩だらけの僕にはまったく分からない世界、うかがい知ることさえできない世界です。 と言いつつ、 実は、僕、密教がなぜ五つの智慧を立てているのかが、よく分っていません。 金剛界の大本(おおもと)になった金剛頂経は、 仏教の唯識思想(この世のものは、すべて心が作り出したみないな教え)の延長上にあるお経というか教えなのですけれども、 唯識思想では仏の智慧を大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四つしか立てていないのですよ。 仏の智慧は、この四つで足りるという立場なんです。 ちなみに (1)大円鏡智:曇りのない鏡のようにすべてをありのままに映し出す智慧 (2)平等性智:あらゆる現象、存在の差別、区別を取り払い、すべて平等とみるような智慧   (もちろん、自分と他人も区別しません) (3)妙観察智:事物の個別性や普遍的特質をありのままに見る智慧 (4)成所作智:自利と利他を完成させた智慧 みたいな感じ。 ここから少し専門的な話になるのですけれども、 ☆大円鏡智は、この世のすべてを作り出す根源識(アラヤ識)から汚れ(煩悩とか迷い)がすべて消え去り、アラヤ識が智慧に変わったもの〔○○識が△△△智に変わることを転識得智といいます〕 ☆平等性智は、アラヤ識を我(アートマン)と誤解し、それに執著する根源的・潜在的自我意識(マナ識)から汚れが消え去り、マナ識が智慧に変わったもの ☆妙観察智は、言葉による概念的思考をする意識から汚れが消え去り、意識が智慧に変わったもの ☆成所作智は、視覚などの五感(前五識といいます)が智慧に変わったもの。 で、唯識思想では、人間の心は前五識、意識、マナ識、アラヤ識の8種類しかないから、法界体性智に変化する心がないのです。(※) ということで、 密教の説く【法界体性智】は『諸法の体性となる智慧』くらいの意味らしいのですけれども、 諸法を生み出すのは、迷いの世界ではアラヤ識なので、 ”諸法の体性となる智慧は大円鏡智になるんじゃないか。なぜ、新たに法界体性智を追加したのだろう?” と疑問に思っています。 何しろ、唯識では「根源的な大円鏡智を基盤に平等性智、妙観察智、成所作智が活動する」とされていますから。 『たぶん、法界体性智は大円鏡智の特殊な形態・ありようなのだろうなぁ~。  五仏だから、その数に合わせて、五智にしたのかしら?  それとも、[当時の]インド人のご都合主義的・羅列主義と  ”数が多いほどすごい”みたいな発想から  増やされたのだろうか』みたいな、罰当たりのことを考えています。 これは、信仰心があるのか、ないのか分からない、真言宗の、いち在家の戯言です。これを読んだ真言宗のお坊さん、怒らないでください。 なので、 法界体性智が何なのかよく分からないままに、 どうせ、その正体が何であろうとも、法界体性智が認識に関与することはなさそうなので、 四智の範囲で仏の悟り(五智)の世界を推測すると、 「汚れのない眼(まなこ・比喩的な表現です)、心で、自他の区別をせず、さりとて、すべての個別性はしっかりと見極め、そして、すべての生きとし生けるものを救ってくださろうとなさる」 とっても”ありがたい”悟りの境地・心のありよう のようです。 (※) 『アラヤ識の上に、第九識として、無垢清浄(むくしょうじょう)のアンマラ識があるだろう。 それが法界体性智になるのだ』という反論があるかもしれませんが、アンマラ識は”汚れのないアラヤ識”の別名なので、僕はこの考えには賛同しかねます。 また、仏性・如来蔵も、識論的には、法界体性智になりえません。

sarasuva
質問者

補足

Wikipediaから引いています リンク先載せないで大変失礼致しました。 非常に分かりにくい世界なんですが、「日々五智を研いて魂を養はむ。」 日々五智を研くとは、肉体的にも精神的にもズレがないように(ハイレベル)見受けられますが、どういうことなんでしょう?

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