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差別するななんて言える立場の人いると思いますか?

例えば国籍が○○で「私の国籍が○○だというだけで差別しないで下さい」 という立場の人はいると思います。 でも、例えばAさんが 「私は身長は△△cm以上ある人が恋愛対象です」と言うと Aさんに対し、『君の差別根性が一番問題だね』などと 他人の質問ですが恋愛相談でも焦点の合っていない回答を見かける事があります。 Aさんが身長△△cm以上を望むのは勝手だし、 それ以下を対象外とするのも仕方ないと思うのですが この世に全く差別をしない人なんていると思いますか? 『君の差別根性が一番問題だね』と言っている人も 結婚相手誰でも良い訳ではないと思います。 神様でもない限り絶対タイトルのような事を言える立場の人っていないと思うのですが 人に厳しく自分に甘い人なのでしょうか? あと、比較的差別しない人は他人にも差別するなと言わないし、 差別しているような人ほど他人に差別するなと言う傾向があるように感じます。

みんなの回答

noname#154297
noname#154297
回答No.11

>差別するななんて言える立場の人いると思いますか? いると思いますね差別は良くないと感じている人です。 ご自身も差別されてみるといい。差別される側の嫌な気持ちがよくわかりますよ。 小学生でないなら『君の差別根性が一番問題だね』という言葉が忠告であることが理解できるでしょう。

回答No.10

>この世に全く差別をしない人なんていると思いますか? いないと思います。ただ、大きさの問題。 それと、「差別」と「区別」は違うと言うのも重要です。 「私の国籍が○○だというだけで差別しないで下さい」 これは差別。 「私は身長は△△cm以上ある人が恋愛対象です」 たぶん差別だが、区別とも取れる。(私は区別に該当すると思う) >結婚相手誰でも良い訳ではないと思います。 確かにそうである。 しかしもしこれが、「私は男性だけが恋愛対象です」 これは差別と呼ぶ人はいないと思う。 「差別」とはステレオタイプで人を判断してしまう事。男性か女性の性別はステレオタイプではなく、生物学的に判断しているので「区別」になる。 そして、「この人は異性として気になる」「この人は顔は良いけど結婚相手には・・・」これらの判断は、ステレオタイプで判断している「差別」ではなく、個々の本人の現状で「良い」「悪い」を個別に判断しているので「区別」に該当します。 一見「差別」に見える「区別」もある(逆もある) 例えば、国際結婚にありがちだが結婚を考えた恋人が、実は○○教と聞いた時、結婚をためらってしまった。 一見「差別」に見えるが、その宗教がどのようなものかによる。 結婚した場合、その相手の宗教に合わせた生活が想像できる。食習慣や生活慣習など宗教によって全く違う事もある。それに合わせる覚悟があるのか、自分自身不安になる。その場合その宗教を差別して結婚をためらったわけではない。 しかし、その後結婚をあきらめ、別れたとして、振られた相手がもし立ちの悪い人なら、「宗教を差別して俺(私)を振った」と思い込んでしまうかもしれない。 差別の問題は、このような思い違いが多い。 >差別しているような人ほど他人に差別するなと言う傾向があるように感じます。 心理学的にみてそれは言えると思います。自分がそうしてしまう(差別)から、意識して気をつける。そしてそれを他人にも要求すると言うものです。

回答No.9

>>例えば国籍が○○で「私の国籍が○○だというだけで差別しないで下さい」 という立場の人はいると思います。 そうですよね。これは全く“差別”と言うものだと思われます。そして、世界中に多く居られる事と思われます。 >>でも、例えばAさんが 「私は身長は△△cm以上ある人が恋愛対象です」と言うと Aさんに対し、『君の差別根性が一番問題だね』などと 他人の質問ですが恋愛相談でも焦点の合っていない回答を見かける事があります。 Aさんが身長△△cm以上を望むのは勝手だし、 それ以下を対象外とするのも仕方ないと思うのですが こちらの例文は“差別”とした『意識』とは少し遠のいている様におもわれるのですが・・・。(失礼とは思いますが。) 差別と言うものよりも、“価値観的”要素の強いものに変っている様にも思われるのですが・・・。 言うなれば、美意識・容姿重視・美醜意識・と言った感覚に流れ(傾いて)て行き、そうした観点(視点)からの評価・批判・判断の様にも窺えるのですが・・・。 (こちらの読解力の無さかもしれないですが。) >>この世に全く差別をしない人なんていると思いますか? 人(人間)である限り、それは皆無に等しいと思われますね。 テーマは『差別するななんて言える立場の人いると思いますか? 』ですよね。 これは人間としての“心”(精神性・知性・知識・)の有り方であり、意識の上に置いての倫理観なり、無意識的配慮・などとした人としての“意識レベル”などが問われるものではと思われます。

noname#154561
noname#154561
回答No.8

こんにちは。 私は差別する人は大嫌いですが、あなたがおっしゃるように 私も含めて、差別を絶対にしない人は存在しません。 だから、私は自分のそんな部分が鬱陶しいと感じることも あります。 あなたは単純に男性に高いスペックを要求する自由を 侵されている、と感じていらっしゃいます。 イイ男を望んで何が悪い、と。 そのこと自体は全ての人に共通する当たり前のことです。 それが男性の身長や容姿、学歴、収入、才能、特技など 積み上がって行けば、その範疇に含まれる男性が減ると いうだけの話ですし、「自分のことを棚にあげて」という 批判にしても、現実問題相手から見た自分のスペックを 釣り合いが取れるかどうか悩むのが普通ですから、 他人がどうこう言うのは理不尽ですね、それは確かです。 自分のトータルスペックが劣れば、高望みの結果は 惨憺たるものになるでしょうが、それもまた本人の人生。 他人がとやかく言うのはみっともない劣等感を垂れ流して いるようなものです。 でも、そういう歪んだ劣等感の垂れ流しを理詰めで批判 し返すのは決して得策ではありません。 百害あって一利なしですから。 負けておいた方が賢明な 場合も現実にはあるでしょう。 要は、あなたを批判する人は間接的に「あんたなんか 眼中に無い」と自分が言われたように感じるのです。 特に、恋愛中で無い人に取っては、です。 ずっと恋人が居なかった人は、スペックの高い男性しか 眼中に無い、と書かれた文字を読むだけで、自分が ダメ男だと言われたように感じて怒るわけです。 勿論、恋人が出来ないのは本人に原因があるのですから、 「高慢な女の鼻っ柱を折ってやる」などと憤るのは 見当違いの言葉の暴力と言えるでしょう。 若い綺麗な女性、ハイソサエティな令嬢を性的に 汚辱したいと歪んだ性欲をたぎらせる、恐ろしい 男性心理が一部の男性の心に存在しますが、 それはつまり、そういう心理が裏側にあります。 劣等感丸出し、とも言えます。 そこに男性のスペックの高さを要求する可愛い女性が 現れれば、彼らの煮えたぎる性的憎悪の対象になると いうことを、自己防衛のために知っておいて損はありません。 責めるつもりは無いのですが、あなたもまた、劣等感に 苦しむ世間の男性に、女性ゆえの理不尽な攻撃を 無意識にしている、というのは事実でしょう。 頭の良い女性は本音を滅多なことで口には 致しません。 (もしここで、「じゃ、あたしは頭が悪いってこと?」と 感情を害されたら、それこそが彼らの憤りと同質の ものということはお感じになって頂けると思います。 自分のことを悪く言われた、と彼らも感じている訳です。) 少なくとも、自分の好みを表明することさえ、現代の ヒステリー社会では他人への間接的な誹謗と受け取られて しまいがちです。 人は、怖いと怒るのです。 ところで、私は危ない考えを一つ持っています。 差別は、生き物の種族存続のために遺伝子に刻まれた 欠陥排除機能に違いない、という考えです。 差別を単なる悪意と言い切る風潮は、先の大戦での 中国人や朝鮮人に対する仕打ちという、歴史的な背景を 持つことは想像に難くありませんが、昭和以前の田舎に 良くあった精神異常者のいる家と付き合わずに村八分に するのは、単に人権意識に乏しい旧態依然とした慣習、 では無いと思うのです。 例えば、「頭がおかしい者」は、血縁によって遺伝する。 それを体験的に知っていたからこそ、排斥しようとした わけです。 精神異常者の中で暴力衝動を持つ者の割合はとても 少ないという学者の意見もありますが、小さな閉鎖社会の 恐怖心を払拭することは難しいでしょう。 強姦されて妊娠すれば、自分達の家にも悪性の遺伝子が 組み込まれてしまう。 子供がエンガチョをやるのも、もっと言えばイジメでさえも 動物的な生存本能のためだとも考えられます。 先程の心理的な理由で、この話を、例えば障害を持つ人や その家族の視点で見れば、「あんたなんか眼中にない」より 桁違いの誹謗とも受け取られる可能性もあるでしょう。 もしも、差別が生き物に必要な機能として組み込まれた ものだとしたら、と考えると、逆に完全に差別され得ない 人など存在するのだろうか、完全なる遺伝子など存在 するわけがないのに、と感じると同時に、私自身もまた 時には淘汰されかねない者なのか、と深い失望感を 感じます。 ただ、差別は減らすことは出来ても、遺伝子に組み 込まれた機能であるなら、消滅させることは出来ない だろう、と言いたかったのです。 あなたも私も「差別という生存本能」を持つ者として、 それらを制御する術を学ぶ必要があると思うのです。 勿論、他の人々も。 恋愛とは全然違う話になってしまいました。 お許しください。

回答No.7

質問者様のおっしゃるとおりです。 何らかの集団に帰属して、その集団の差異化を求めたがるのが人間ですから 差別=見下す・見下されるの関係はどこにでも生まれます。 A嬢の例は、一定以下の身長の男性と結婚する女性は負け組に入るという 彼女の認識に基づいているので、 差別は彼女自身の中にあるという指摘もこれまた正しいと思います。 人間は建前と本音で生きているものなので、 差別するなと言う言わないは、 建前の方を前面に押し出してくるかどうかだけの違いでしょう。

  • hrsmmhr
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回答No.6

人の意見を否定するというのは、一種の差別だと思うのです 回答者の意図は、 「そんな差別意識を持っているなら、それに対する私の否定も否定できないでしょ?」 みたいなニュアンスではないでしょうか? 回答者もそんな否定を受け入れられることも無いと思ってますでしょうし 質問者もそれを真に受けてコメントしたりする必要もないかと思います 議論し始めても絶対に平行線のままですし… 差別することは生きていくうえでなくてはならないもののようにも思いますが、 他人との折り合いをどこかでつけていかなければ、 ストレスがたまってしまうものでもあろうかと思います

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 御質問のことばを「区別」「選別」「識別」に置き換えて考えてみました。 「試験」を選別と呼ぶのはなぜだとお考えでしょうか。そして「試験」の意味は何にあるでしょうか。一般的な答なら「一定の基準をクリアした者」を選ぶのが「試験の意味」でしょう。  ではその「基準をクリアできなかった場合」にはどの様な「評価」がなされるでしょうか。「合格」に対する「不合格」ならば、「不合格」として「選別された人」は人格的にも劣っているとの評価につながると断定できるものでしょうか。  「基準」とは一つの物差しにしかすぎません。それも二つの意味で「相対的」な意味を持ちます。一つは「対象とする者(もしくは物)」の能力や品質にも一定の条件内でのバラツキがあること。二つ目はそれに対する「評価の視点」が他にもありうること、です。  簡単な例なら、前者は「学校教育での『相対評価』と『絶対評価』」。後者は「与党と野党」の違いです。 学校では「マネジメント(イヤな言葉ですが)」の一環で、クラス内の生徒をランク付けしなければなりませんが、これはあくまでも「テストの成績」を指標とした評価基準の一つの表現にしかすぎません。それも「科目毎」といった極めて小さな基準であって、直ちにこの結果が生徒の能力や人格全てを示しているとはいえません。  つまり「相対評価」の考えが「全体の中で“どのポジション”にいるか」を問いながらも「実質的に“ランク=評価”」となっていることが問題であり、被験者からすれば「相対的」なはずが何時の間にか「絶対的」なものにすり替わり「烙印」を押されてしまうとの不条理にこそ問題点がある、となります。  後者の事例は逆に単純です。「一つの対象をどう評価するかの意見の相違」です。人間の思考や思索に「絶対」はありません。もし「絶対」があったなら、思索の歩みはないと同じ意味になってしまいます。にもかかわらず「ヘーゲル以後」も様々な思索が登場するのはなぜでしょうか。それは「絶対の正解などない」からです。  こうした質問を設定している質問者様ご自身も既に「差別化」を無意識のうちに図っているようにお見受けしますが。

noname#155097
noname#155097
回答No.4

>人に厳しく自分に甘い人なのでしょうか? 人は誰しも本音と建前というのは違うものです。 甘い。というのとはちょっと違うかな。

  • hunaskin
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回答No.3

>神様でもない限り絶対タイトルのような事を言える立場の人っていない まあ、何をもって「差別」とするかについては社会や時代で変化します。 また「差別」ということばを牽強付会に使う人もいるし、公正に使おうとする人もいます。 そこのところに気づけばこの質問のような、1でなければ0かみたいな回答はお求めにならないと思います。 >差別するななんて言える立場の人いると思いますか います。 他人の差別に気づいた人、全てがそれにあたります。 先にも書きましたが何を差別とするかどうかの見解の相違は様々でしょうが。 >この世に全く差別をしない人なんていると思いますか いないでしょうね。 差別しないように努力する人はいるでしょう。 >人に厳しく自分に甘い人なのでしょうか そういうひともいるだろうし 自分にも人にも厳しい人もいるでしょう。 自分により厳しい人が他人の目に余る言動を見たときに「差別するな」ということもあるでしょう。 十把一絡げで答えは出ませんよ。 >比較的差別しない人~中略~傾向があるように感じます そのように思えば「差別するな」という人の価値を下げられるわけではありませんけどね。

回答No.2

個人的な感覚としては、差別というのはある立場や力のある人がその立場や力を誇示して、周囲に差別対象者に自分と同様の対応を共用することと思います。 例えば、小学校などで仮にクラス委員であっても人の好き嫌いはあるわけで嫌いな人とは話もしないし、遊んだりしないのも自由だと思います。 が、クラス委員がクラス委員として学級会で嫌いな人には発言させないとかクラスメイトに仲間はずれにするように仕向けたらそれは差別でしょう。 ご質問の例からすれば、Aさんが身長の低い人を恋愛対象にしないのは個人の自由だと思いますが、 Aさんが身長の低い男性に対して、「そんな背の低い人はどんな女性とでも付き合う権利が無い」などと言うのは、差別ではと思います。 更に余談で言えば、『君の差別根性が一番問題だね』と発言することも逆にその人の自由ではと思いますが、Aさんがそれに従う必要もないでしょう。

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