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情報AとB

情報Aは発信源が特定されている根拠のある確実な情報です。 情報Bは発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報です。 AとBの情報が一致した、或いは相似性があった場合には Bの情報はAに準じた情報として扱われます。 しかし、AとBの情報が一致する点がない、或いは正反対であった場合には Aのみが取り上げられ、Bは消去されてしまう可能性があります。 いわゆる消去法による情報選択です。 そこで 消去枠におけるBの情報量が膨大な量となった場合を仮定すると 数少ないAはBに対して、どれ程の優位性を保ち得るのでしょうか? 検証お願いします。 必要があれば情報Cなるものを加えても構いません。

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  • amaguappa
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回答No.12

歴史的に見て軍部というものはこの実験に興味を抱いてきたようで、 日本軍もデマゴーグの検証をしたことがありましたね。 情報は量ばかりでなく質も問われます。 情報Aは検証を要求される質の情報であり、情報Bは検証を求められない情報です。 情報Aは、確実性を尊ぶ環境において有用な情報であり、 情報Bは、共有や共感を重んじる環境において有用な情報です。 こうした確実性や、共有・共感は、 それらが何らかの環境において生産的に機能するからこそ、有用さを発揮するのですね。 情報の優位性、情報の価値、レゾンデートルとは、作用環境における有用性が高いことでありましょう。 すると、情報Aの脆さとは、検証に耐えられない事態、 つまり誤りがあること、精緻を欠くことなのですが、 情報Bはもちろん、もとより、検証に耐えるつもりもなく 誤りも織り込み済みで精緻であろうはずもなかったもので、 その脆さというなら、共有度が浅い、共感性が薄い、あるいは共有や共感の維持が期待できない、 という事態にほかならないでしょう。 こうしたことから、 有用な作用環境を得やすい情報Bの利点をもってしても、なお情報Aが優位性を保つと言いうるには、 確実性を尊ぶ、狭く小さな環境で引継がれることによって、それが長い時間の風雪に耐える、 という答えを導かねばならぬであろうと思います。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 >情報Aは、確実性を尊ぶ環境において有用な情報であり、 情報Bは、共有や共感を重んじる環境において有用な情報です。 前文はおっしゃる通りだと思います。 ですが、後文はどうでしょうか。 少し疑問があります。 Bのすべてが、共有や共感を重んじる環境において有用な情報 とは限らないのではないでしょうか。 Bの情報は、それを生じさせている環境、背景といったものの表れのように思えなくもないのですが たとえば、B的な環境、背景に、ある一石(情報)を投じたとします。 すると、そこから生じた数多くの情報Bは多様性に満ちたものになるかもしれません。 相反する情報もあれば、反共有反共感といった、有用ではないものも生じてしまう可能性があると思います。 このような虚実入り乱れた情報の波や渦が出来てしまうのも、B的環境における必然性かもしれません。 また、共有や共感のレベルの程度の問題もあります。 情報Bとは正に社会的背景を写し出しているのかもしれませんね。 >こうした確実性や、共有・共感は、 それらが何らかの環境において生産的に機能するからこそ、有用さを発揮するのですね。 プラス思考で考えればその通りだと思います。 ですが、Aはそうだとしても、Bが生産的な機能に結びつく場合は限られているのではないでしょうか。 いずれにしてもBの分類や整理といったものが必要なのではないかと思います。 >こうしたことから、 有用な作用環境を得やすい情報Bの利点をもってしても、なお情報Aが優位性を保つと言いうるには、 確実性を尊ぶ、狭く小さな環境で引継がれることによって、それが長い時間の風雪に耐える、 という答えを導かねばならぬであろうと思います。 う~ん、一気に感性的視点にもってゆかれたように思えるのですが・・・ いわゆる、真実と真理という言葉のニュアンスの違いのように思えなくもない amさんは、情報Aに真理という言葉を付けるのが適当と判断なされたのでしょうね。 私は情報の扱いにおいては、真実という言葉のほうが具体性が感じられていいと思えるのですが・・・ そのへんの事は後で、情報の扱いによる宗教の解析、といった応用面で論じてもいいように思います。 情報における「環境」・・・参考にさせていただきます。 ありがとうございました。

noname#156094
質問者

補足

環境や背景といったものを重視いくと 情報とはいったい、そもそも何なのか、といった疑問さえ湧いてきます。 環境が情報を生み、環境が情報を求める そらに、情報が環境を生み、情報が環境を求める といった相互関係さえあるように思えてきます。 そのへんは私にとってまだ未知数で興味のあるところです。 情報そのものとは何なのかという事が分からなければ 情報AとBという二極化の視点における優位性の検証とは まだまだ単純すぎることなのかもしれません。 情報とは無条件に受け入れているものが情報だと思っていますが 実はそうではなく、受け入れている環境から見れば、そこにはやはり何らかの条件や制約が働いているのかもしれません。 同じ情報であっても違った受け止め方が生じてしまう、というものになってくるのでしょう。 >有用な作用環境・・・ これだけではなく、非有用な作用環境も同時に存在すると思われます。 情報の肯定と否定の環境がある、ということになるのでしょうか。 消去枠内における情報Bに対する肯定と否定とがあるとすれば そこにはBに対するさらなる消去枠が存在するといったことも考えられます。 情報比較における消去枠だけではなく、情報そのものの中に消去枠が内在しているという可能性です。 情報の自発性とは内在する消去性に打ち勝つ働きかもしれません。 ここまできて・・・ですが 優位度とは何なのでしょう? (比較における)消去されないこと、消去に勝ることなのでしょうか? それとも、根本的に消去しきれない確かさの度合いなのでしょうか? 少しこんがらがってきたような・・・(情けないな・・・) amさんも皆さんも考えてください。 お願いします。

その他の回答 (19)

回答No.20

 少し情況を静観します。みなさんからの反応をです。  いちおう横山槍之進の刀は 竹光であったということで。

noname#156094
質問者

お礼

鞘の中を見せる前に行ってしまわれたか・・・少し残念。。。 竹光どころか 正宗か村正か孫六だったかも・・・見たかった な と リトルさんの再登場があるかもしれないので それを待って総括したいと思っています。 その上で続編としての新たな質問に入ってゆきたいと思っています。 新たな質問のタイトルだけあらかじめ告示しておきましょう。 「個人内部における情報AとB」 誰がどのような刀を抜かれるのでしょう・・・? 私も斬られる覚悟をしておかなければならない、ようです。 それでは。

noname#156094
質問者

補足

皆様から沢山のお答えを寄せていただきありがとうございました。 この場をお借りしてお礼申し上げます。 この質問を締め切るに当たって簡略ながら総括をさせていただきます。 AとBの喩えを用いた、確実な情報と不確実な情報との優位度の比較検証の結果は以下の通りです。 〇 AはBに対して常に優位度を保つ 〇 BがAに対して共有性や共感性を勝ち得た場合においてはその限りではない この2点に要約できると思われますが 付け加えさせていただけるならば・・・ 一つのAに対して数多くのBが生じてしまうという事態は 情報が作用する環境を表しているものであり Bは環境依存度の強い情報だともいえます。 またAは逆に独立性の強い情報だともいえると思います。 このような情報の持つ独立性や依存性といったイメージや捉え方は 常に受け取る側の人の主観に働きかけているものであり、優位度の判定や選択にも影響を及ぼしていると考えられます。 そしてこの事は、情報が個人内部において感性的変化がもたらされている事であり Aにおいては、その変化の度合いが少なく Bにおいては圧倒的に多い・・・といったものだと思われます。 Bが個人内部において優位度を勝ち得る場合における、感性的環境の優位性ともいえそうです。 このへんの事についても、まだまだといった感じはありますが・・・ 以上で質問を締め切らせていただきます。 次の質問の答えを自ら書いてしまったような感じがしますので、少し変更します。 尚、情報における「環境」という有益な示唆を与えてくださったamaguppaさんにポイントを差し上げたいと思います。 ありがとうございました。

回答No.19

 No.18を承けます。  ○ 情報が 一時的局所的な有用性を持つ場合 それは その場のクウキによるのであって またはそれとも合議制であるときにもその合議の仕方は決まっていないのであって いづれにしてもその情報の信憑性に応じて 度合いが決まるとは限らない。  この命題についての説明です。  だって原発の故障にかんして 国民に公表される情報というのは その事実としての確実性の高さに従って決められるのではないはずです。あとになって 情況を見て 事実にもとづくほんとうのことを発表するとしても その発表された情報が なおどれだけ真実の真実であるかは まだ分かりません。  情報 B のほうが 優位性を持つことがあり得ます。そのときには 辻褄を合わせる説明をこしらえるのでしょうが。

noname#156094
質問者

お礼

なるほど、永田町の生徒会のクウキでしたか・・・ その時、ボスだった菅さんが今になって言っていますね。 原発対応は大失敗だったと 混乱につぐ混乱、失敗につぐ失敗だったと つまり、未経験の重大情報をどう扱い、対応していいのか分からなかった、という事です。 それを、クウキのせいだったとするならば、生徒会はいらないという事になってしまう。 永田町のクウキで扱いきれる情報ではなかった、ということだと思います。 でも扱わざるを得なかった・・・だから(当然のごとく)失敗してしまった これは結果論ですね。 クウキの決定に対するものですが >その発表された情報が なおどれだけ真実の真実であるかは まだ分かりません。  情報 B のほうが 優位性を持つことがあり得ます。そのときには 辻褄を合わせる説明をこしらえるのでしょうが。 こうなってくると、まさに大本営発表のごときですね。 情報Aが、重大性をもつとき、どう扱うのか AをそのままAとして発表するのかどうかは難しい判断が求められる 情報が作用する環境に対して、どう配慮するかなど、ですが 単なるクウキだけの判断ですまされない感じがしますが・・・ 情報Bについては、クウキで判断してもよいが 情報Aについては、クウキだけで判断してはならない といった感じもします。 なぜなら、情報Aに確実性、重大性が認められた場合には誤った判断が許されないからです。 情報Aの優位度100%における対応です。 永田町の生徒会には無理だったか・・・ 実感です。 辻褄合わせ・・・してほしくないですね。

回答No.18

 へたのすけさん 質問の趣旨があちこちへと飛んでいます。  1.  ★ ~~~~~  Bさんのお答えから導かれる結論は  >★ 発信源が特定されている / されていない    ☆ において《根拠があるかないか》がすでに検証され判定されていますよという回答です。  という文言から  発信源の特定、不特定において、既に情報としての優位度は明らかである  というものですね。  ~~~~~~  ☆ ちがいます。  次のように答えています。  ○ (回答No.17) ~~~~~~   ★★(趣旨説明欄) ~~~~~~   情報Aは発信源が特定されている根拠のある確実な情報です。   情報Bは発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報です。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち   ★ 発信源が特定されている根拠のある確実な情報 / 発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報   ☆ とすでに規定しているからには 《検証》がそれとしてすでになされています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち  ★ 発信源の特定、不特定において、既に情報としての優位度は明らかである  ☆ というのは すでに趣旨説明欄に述べてありますよと言っているのです。  2. むろん一般的に言えば 《発信源が特定されている》からと言って《根拠があり 確実な情報である》とは言えません。ですが 質問者の問いの設定がすでに 上に見たように 《検証がすでになされた》と前提されていますよと指摘しているのです。  3. ですから ここから 検証を問うならば 次のように設定しなければなりません。  ○ ~~~   情報Aは発信源が特定されている情報である。  情報Bは発信源が特定されていない情報である。  いづれも まだ根拠があるかどうかは分からない。よって中身にかんして確実であるかどうかも分からない。  ~~~~~~  ☆ こう設定してはじめて たとえば振り込め詐欺から受けた情報について検証するという作業が開始されます。  4. このとき 根拠があるからその発信源である人を信用するとか 根拠がないから信用しないとか という問題は 検証とは別です。  根拠があってもなくても 相手を信用しようがしまいが 検証は おこなわれるのです。それは 情報そのものについて 真偽をたしかめる作業です。検証したから 相手を信用しなかったということにはなりません。  ほんとうの息子であっても かれにどうしておカネが入り用なのか その理由を尋ねます。信用していないからということにはなりません。  しかもこのことは 質問に言う検証とは また別の問題です。  もし検証したなら その発信者をうたがったことになるというのなら うたがってもよいから検証するにはどうするか であるとか あるいは 疑ったなら こちらの人間性がおかしくなるから疑わない場合もあると仮定する。そういう場合は 検証しないこととする。といった条件をつけて 問えばよいのです。  5. それからあと もうひとつお答えします。  情報 A にしろ B にしろ それが実際に人びとから共感を得たりして有用性を発揮する場合を考えるというとき それは A だからどう B だからこうという検証の仕方は 出来ないと考えます。  A も B も そのような一時的局所的は有用性を持つ場合というのは 一般に その場のクウキが決めるからです。クウキは 一般にボス(または ボスの意向を受けた者)が決めます。A になるか B になるか それは一概に決まらない。というよりは まったく決まりません。情報 A も B も それぞれが 有用性を持つ確率は 100%から0%まであり得ます。それぞれが です。  たとえボスの意向は関係ない場合であっても 合議制において A か B か どちらが優勢となるか これは 一概に決まりません。同じく 100%から0%までの可能性が どちらにもあります。《発信源の特定・根拠があること・確実なこと》といった条件は 決め手にはなりません。  ですから検証は ひとつに ぜんぶ疑えということですし ひとつに乏しい判断材料としての情報であっても次の一歩を決めなければならないときには その乏しい情報にもとづき人は決断することがあるということになります。そのように すでにお答えしています。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 >へたのすけさん 質問の趣旨があちこちへと飛んでいます。 分かっています。 元に戻しましょう。 >★ 発信源が特定されている / されていない    ☆ において《根拠があるかないか》がすでに検証され判定されていますよという回答です。 前提として検証済みであることのご指摘を、優位度の判定済みと読み違えてしまったようです。 失礼しました。 >情報 A にしろ B にしろ それが実際に人びとから共感を得たりして有用性を発揮する場合を考えるというとき それは A だからどう B だからこうという検証の仕方は 出来ないと考えます。 A も B も そのような一時的局所的は有用性を持つ場合というのは 一般に その場のクウキが決めるからです。 ・・・ 情報 A も B も それぞれが 有用性を持つ確率は 100%から0%まであり得ます。それぞれが です。 ・・・ 《発信源の特定・根拠があること・確実なこと》といった条件は 決め手にはなりません。 amさんもおっしゃっていますが 情報が有用性をもつ環境・・・があると クウキですか・・・? 有用性をもつ、ということが その場のクウキによって決まる? ということは 情報の優位度も、その場のクウキによって決まる? ということになるのでしょうか。 クウキ・・・がどうも分かりませんね。 クウキとかボスとか教えてください。

回答No.17

 ★★(趣旨説明欄) ~~~  情報Aは発信源が特定されている根拠のある確実な情報です。  情報Bは発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報です。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 発信源が特定されている根拠のある確実な情報 / 発信源が特定されていない根拠に乏しい不確実な情報  ☆ とすでに規定しているからには 《検証》がそれとしてすでになされています。    ★ 数少ないAはBに対して、どれ程の優位性を保ち得るのでしょうか?  ☆ この場合 A は学問の検証に耐えた情報だと考えられますが ひとつにそのようにすでに検証されているということ。ひとつに それでも人間の能力は限られているので 経験合理性という基準に耐えた内容であっても 間違い得るということです。   ゆえに A であろうが B であろうが すべて疑えという扱い方になり それよりほかに検証の仕方はないという回答です。  また質問の立て方からは  ★ 発信源が特定されている / されていない   ☆ において《根拠があるかないか》がすでに検証され判定されていますよという回答です。

noname#156094
質問者

お礼

検証へのご参加ありがとうございます。 Bさんのお答えから導かれる結論は >★ 発信源が特定されている / されていない   ☆ において《根拠があるかないか》がすでに検証され判定されていますよという回答です。 という文言から 発信源の特定、不特定において、既に情報としての優位度は明らかである というものですね。 誰がどう見てもそうである・・・という見方もできるでしょう。 ですが、 >A であろうが B であろうが すべて疑えという扱い方になり それよりほかに検証の仕方はないという回答です。 とおっしゃっているように この発信源を疑う・・・という検証の結果如何によっては、AとBが逆転してしまう場合もあります。 そうした事例を一つ上げておきたいと思いますが やはり、疑う、根拠を問うことは優位度に先立つ前提としての重要な検証なのでしょう。 事例 私の近所にいるおばあさんが振込み詐欺にあいそうになった例です。 おばあさんが家にいる時、息子から緊急の電話連絡があって お金が急に必要になったので銀行から振込んでほしい、と言われたそうです。 おばあさんは急いで銀行へ行き、ATMで振込もうとしましたが その様子を見ていた行員が、どうもおかしいと感ずいて話かけて事情を尋ねたそうです。 不慣れなATMの操作に加えて、心の動揺もあったのでしょう。 行員の眼には異常と映ったようです。 おばあさんは、息子に必要なお金を急いで送らなければならない、と話しましたが 事を怪しんだ行員が、一度息子さんに確認の電話をしてみたら、と言ったそうです。 その場から、念のためにと息子に電話をしてみると そんなことは言っていない、電話もしていない というのです。 おばあさんは驚いて何度も聞いたそうです。 それでやっと振込み詐欺と分かったので、お金も送らず被害にも合わずに済みました。 こうした出来事は銀行内では時々あるのかもしれませんね。 行員もそうしたお客さんの様子には注意をしているのでしょう。 この事例の場合ですが 発信源が息子からということで、本人(おばあさん)は何ら疑うことがなかった。 疑ったのは第三者の銀行員でした。 結果は、発信源が不特定の詐欺情報であったということです。 行員がいなければ、そのまま詐欺にあってしまったと思います。 Aの情報が、実はBの情報であった Aであると思い込んでいたものが、本当はBであったと分かったのです。 ここにおいて、「疑う」ことの難しさが表れていると思います。 おばあさんが後日話したところによると その電話の声は、息子の声そっくりだった、というのです。 まあ、そのように聞こえたのだと思いますが おばあさんは息子からの電話だと信じて何ら疑わなかったようです。 おばあさんにとっては、その電話が発信源が特定されているAであったわけです。 しかし、実際は発信源が不特定のBだったというものでした。 息子だと信じてお金を送ろうとしたおばあさんが少しかわいそうな感じがしたものです・・・・・。 根拠のある情報が、実際は見せかけだけの根拠のない情報であった 第三者によってもたらされた「疑う」という検証によって、その事が明らかとなった。 では、 始めから根拠のない情報として発信された情報をそのまま 根拠がないからといって捨ててしまってよいものかどうか? なぜ、根拠のない情報として発信されたのか? 根拠がないことと、真実でないことは一致するのか? まさに疑いの連続が起きてしまいます。 私は警察の鑑識の方とも知り合いですが その人が「疑うのが商売だからね」と言っていました。 犯罪捜査の現場は数多くの情報の現場でもあるのでしょう。 私の質問であるAとBの検証など、常に行われているかもしれません。 しかし、職務としての範囲の外にあることについても、そうであるかどうかは分かりませんし、別のようにも思えるのですが・・・。 すべての情報を「疑う」ことが可能であるのかどうか? どうなんでしょうね? それが人間的と言えるのかどうか? ですね。 また、ですが 不特定発信ということが、イコール無根拠であると言い切れるのかどうか? 発信のモラル面から見て、どうしても不特定発信という形を取らざるを得ない場合があるとしたら 情報の内的根拠があるともいえる・・・ いわゆる「匿名」というものですが おかげさまで、大分「疑う」ようになってきました。 疑って、疑って、また疑う・・・ 段々と人間ではなくなっていくような気分です。 結局、疑うという検証は信じるという検証の反対なのでしょう。 先の事例にあげた、おばあさんのように迷わず信じた方が人間らしい感じがします。 人間的な検証の基準みたいなもの・・・あってもいいのでしょうかね? ふとそんな事を考えます。 少しふところが広くなったように感じます。 ありがとうございました。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

hetanosuke様、こんばんは 「検証」するのも、個々が、そうせざるを得ないのでしょうね?。 あるいは「根拠のある確実な」とか「根拠に乏しい不確実な」という辺りから

noname#156094
質問者

お礼

>「検証」するのも、個々が、そうせざるを得ないのでしょうね?。 その通りです。 私における理由はNO.15の欄に書きました。 事実検証には誰でも参加していただけると思いますので お気軽にどうぞ。

回答No.15

 ★(No.14お礼欄) ~~~  横山槍之進さんから見れば、情報の比較検証など狭い論域かもしれませんが、私にとっては大切なものです。  なぜ大切なのかというと・・・ですが  Bさんと何度も論を交わした感性的伝達(ヒラメキ)と対になっているような気がするからです。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ヒラメキについても 人は検証しますよ。  ヒラメキと対になるのは 世界認識の妥当性や整合性 そしてそれらの精緻化 といった作業ではないでしょうか?  情報の比較検証ではなくて――情報 A と B とを比べるのではなく―― 情報 C 以下をもぜんぶ合わせて 全体として 世界をどう認識するか ではないでしょうか?  比べるなら A も B も C もすべて互いに似たり寄ったりである。となりませんか?  言いかえると つねに《わたし》〔たち〕が 得られる情報をぜんぶまとめて分析検証するというかたちです。  世界認識には ( a )事実認識と ( b )人びとの思いや考えについての真実認識とがあります。つけ加えるなら ( c ) 人びとの想像力の産物としての虚構の読みとしての認識があります。これらのうえに(または これらに先行して) ( x )ヒラメキの世界があります。  情報 A と B とのあいだで信憑性や優位性をきそうでのはなく 全部をまとめてその情報がいかに世界認識として妥当性があるか。これを 一般には( a )( b )( c )のそれぞれの(または全体の)領域において 競うものと考えます。よ。

noname#156094
質問者

お礼

>ヒラメキと対になるのは 世界認識の妥当性や整合性 そしてそれらの精緻化 といった作業ではないでしょうか? 大変申し上げにくいことではありますが・・・ 実体験におけるヒラメキを通して、まず最初に見えてくるものは 個人における無形の情報の有用性です。 その積み重ねにおいて、逃れられない疑問として生じてくるのが 有形の情報伝達そのものへの疑問です。 つまり、どうとでも言える概念化の作業とは一線を画すものです。 思う、考えるといったものを一歩踏み越えた、こうであるという検証が必要なのです。 その必要性は私個人だけのものなのかもしれませんが その必要性に対して、確かな検証事実の提示もない概念のみでは、私にとって無意味としか思えません。 失礼ではありますが 検証そのものに参加していただける事を希望いたします。

回答No.14

 へたのすけさん 例によっていぢわるの虫がおさまらず 横山槍之進の仕儀とあい成りました。  情報 A も情報 B も 似たり寄ったりだと見るのが 正解だという回答です。  ★ 情報Aは発信源が特定されている根拠のある確実な情報です。  ☆ そもそもこの《発信源が特定されている》ゆえに《根拠があり確実である》という判断が あやふやです。それとも 《大本営発表をただしいとして信じよ》ということでしょうか?  ですから 答えを補うとしたら:  ○ 情報はぜんぶ うたがえ。   となります。うたがいつつ そのときその場では得られている情報のみによって次なる一歩を考え実施せざるを得ない場合がある。というのみでしょう。  だって  ★ 〔知りえないナゾの〕真理と〔経験相対的な人間の持つ〕真実  ☆ を区別なさっているのですから 後者の人間真実については・つまりそれとしての情報については すべてうたがえ でしょうし 限りある情報にもとづき行動せねばならない場合がある。というのみなのではないでしょうか。  あとは きわめてどうでもよいような社会力学上の広い意味での情報操作にかんする社会学の問題だと考えます。ウワサの心理学であるとか 選挙戦で投票日直前の中傷合戦であるとか そういったたぐいの情報論になりませんか?    ★ ~~~  消去枠におけるBの情報量が膨大な量となった場合を仮定すると  数少ないAはBに対して、どれ程の優位性を保ち得るのでしょうか?  ~~~~~  ☆ このように規定した場合には 一般に  ○ 数少ない情報 A は 学問としての研究成果のことを意味する。  と見ればよいでしょう。ところが 科学としての情報も 単なる人間の得ることのできる相対的な真実の域を出ません。素人の勘としての情報が その科学的真実なる情報と変わらなかったという場合も出て来るのではないでしょうか。  ですから 問い求めの仕方を絞るべきです。  ・ 真理と真実。つまり 人間の得ることのできる真実は どこまでそれでも真理をかいまみさせるか。  ・ 人間の持つ真実としての情報は どのように操作されているか・どこまで操作されうるか。  ・ 特にクウキという社会力学における(また それに対する)情報の活利用のあり方は いかなるものか。  ・ 有限の情報にもとづき人は決断しなければならない場合――それが ふつうに一般なのであるが―― その情報の活用はどのようにしているか? むしろ情報には頼らず ただの勘だけで自分の判断をおこなっている場合さえあるか?

noname#156094
質問者

お礼

>いぢわるの・・・横山槍之進 と くれば、、、受けて立つのは春風亭若柳・・・と これまたB的会話の漫才になってしまいますよね。 私も漫才をやりたい気持ちをもっていますが この場に相応しくないので止めておきましょう。 >情報はぜんぶ うたがえ。 情報に対する基本的で重要な姿勢ですが、ここではとりあえず比較検証の立場から入っています。 延々とつづく検証の積み重ねが、結果的に基本的な事に連なってくるのだとしても、今はその検証そのものが大切だと思っています。 ですから、真実という・・・真の事実というもののほうが具体的情報として扱いやすい面があるので、Aに譬えて使っているわけです。 真理となると・・・真の理法といったものになってくるので、いわば概念的情報になりやすい面があり、個々の情報としては扱いきれないものになってしまうと思います。 比較検証の立場においては、あくまで真実と真理を混同しないように注意したいと思っています。 >真理と真実。つまり 人間の得ることのできる真実は どこまでそれでも真理をかいまみさせるか。 この問いは、情報における比較検証の域を超えていると思います。 宗教における真理性と非真理性、知識的真理と体験的真理の違いといった世界における問いかけのような気がします。 まだ、それらは私にとって早いように感じます。 少なくとも現段階のこの場で論じることではないように思います。 横山槍之進さんから見れば、情報の比較検証など狭い論域かもしれませんが、私にとっては大切なものです。 なぜ大切なのかというと・・・ですが Bさんと何度も論を交わした感性的伝達(ヒラメキ)と対になっているような気がするからです。 無形の伝達と有形の伝達と、さらには単純にどちらにも属しない伝達さえある かもしれないのです(少し喋り過ぎ・・) とにかく今は有形の方に力を注ぎたい感じがします。 有形の検証結果がどう出てくるのか、まだ分かりません。 そういう状況でいいと思っています。 それではまた。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.13

> 少し疑問があります。 > Bのすべてが、共有や共感を重んじる環境において有用な情報 とは限らないのではないでしょうか。 念のため確認です。 Bがどのように有用性を獲得するかという文脈を考えると、共有や共感の場に組み込まれることによるだろう、というのがBについてのわたしの主張です。Bはこの手段を経る以外には有用な情報にはならないと思うのですが、いかがですか。しかしながら、環境設定としての統御手段ではない別の有用さという側面も視点を変えれば掘り起こせます。それは、攪乱的である、統制不能である、秩序破壊的である、というアナーキズムの用を満たす側面でしょう。 情報の共有については、内容への賛否を問わず情報が認識されるだけでよいでしょうから、落書きやチラシやどこかの空に上がる烽火の目視でもかまわず、小耳にはさんだ音の聴取でもかまわないですが、人がそれを意識にとどめ、部分的であっても記憶し、認識情報として保存してくれないと、この情報は持続力に欠けてしまいます。 人が情報を共有すること、また、人のあいだで情報に対する共感があることは、情報に時間的な持続力を与えるでしょう。このことによって、情報の伝聞力が期待される以上に、限られた時間の枠組みで情報を活用し環境設定をおこなう際の統御が容易になるでしょう。 信じ続けてもらうことではなく、あるタイミングにおいて信じてもらうこと、ないし疑わせないこと、それが情報の旬および有用性ではないかと思います。広告会社の実力はそこにかかっているのかもしれませんね。 そして、或る空間や時間のもとで共有された情報や、より肯定的に共感された情報は、信じられた情報による行動と似た行動を人間社会にもたらす気がします。 こうした、特定的な環境下で信の疑似的意識を作り出すのを、情報の有用性と呼んでみたわけですが、もう一つの側面であるアナーキズムの機能も、Bの持って生まれた使命といえるかもしれません。情報統制の体制からすれば絶えざるテロリズムとなりうるわけですね。 それが、次のご応答のうちに示されているかなと思います。 > Bの情報は、それを生じさせている環境、背景といったものの表れのように思えなくもないのですが > たとえば、B的な環境、背景に、ある一石(情報)を投じたとします。 > すると、そこから生じた数多くの情報Bは多様性に満ちたものになるかもしれません。 > 相反する情報もあれば、反共有反共感といった、有用ではないものも生じてしまう可能性があると思います。 > このような虚実入り乱れた情報の波や渦が出来てしまうのも、B的環境における必然性かもしれません。 > また、共有や共感のレベルの程度の問題もあります。 > 情報Bとは正に社会的背景を写し出しているのかもしれませんね。 ここには、有用になるための前提が共有や共感であるということと矛盾しない事項が押さえられています。共有と共感の無い泡沫的状態として有用ではないものが生じるという事態についてです。 こうしたことが、情報の持続の問題をはらんでいるのは、やはり重要な点だと思われます。 Bが共有や共感によって一定の持続を得るにせよ、また泡沫よりは示威性のある乱発状態でアナーキズムを推進するにせよ、情報Aが維持される場合の時間の長さに匹敵することはないとおもうのです。 > いわゆる、真実と真理という言葉のニュアンスの違いのように思えなくもない > amさんは、情報Aに真理という言葉を付けるのが適当と判断なされたのでしょうね。 ちょっとわかりかねますが、わたしは、ある事項が真理であるから何であるというような考え方をまったく致しませんので、これがどういう事を言っておられるのか把握できませんが、 出自の確実な情報を収集記録し編纂して世相を描写する能力、さらに統御して発信する能力は、政治の成熟と文化の成熟に不可欠な能力ですから、つまりそれが国家であり図書館や大学の機構であるわけですから、虚か実かにかかわらず、情報Aには長期間保持される道の拓ける可能性があると言えるでしょう。そしてまた、情報Bも、何らかの情報Aの周辺に付されることによって、長期間引き継がれることは間違いありませんでしょうね。 さらにいえば、出自の不明な情報Bが、国家などの機構の手にかかれば情報Aに成り変わる。または収集編纂者がいれば文化出自的な透視図を与えられて情報Aに成り変わる。 こんなところも、面白いものですね。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 情報Bに対する考察においてamさんのご意見に賛同です。 情報における「環境」とは有益な示唆でした。 発信源不特定ということが、一種の特定であるというように情報B全体を分類してしまうことができると思いますが その場合、情報Aに対する以前の特定であるように思います。 情報Bそのものの中に、発信源の消去、隠蔽という働きの要素が常に内在しているようです。 その働きの狙いは、不特定であるがゆえに、共有や共感の枠を自由に解放しようとするものです。 amさんが仰っている「環境設定」なのでしょう。 しかし、そこには発信者の意図に反した別情報が生じてしまう危険性があると思います。 環境はあっても、常に設定以外のものが生じてしまうという事態も、Bの発信者からみれば予め予想されている事なのでしょう。 そのへんの事もamさんのご意見に表れているように思います。 情報Bの世界とは、常にそうした混沌としたカオスのような世界なのかもしれません。 見えない発信者が放つ情報Bとは、正にそれぞれが一石を投じるもののようです。 それは発信者から見れば、B的環境の確認なのかもしれません。 もしそうであるならば、情報Aの環境との比較において有効であるともいえそうです。 情報を与える立場からみれば、環境の比較の結果こそ、情報そのものの優位度よりも重要かもしれませんね。 少し怖くなってきました・・・。 >確実性を尊ぶ、狭く小さな環境で引継がれることによって、それが長い時間の風雪に耐える、 という答えを導かねばならぬであろうと思います。 この文章がどうしても感性的に思えたものですから 真実という具体性から、真理という抽象性に入ってしまったように感じられたのです。 でも、そうではなかったようですね。 私の早合点だったようです。 具体的情報の扱いに抽象性は禁物といった感じを持っているものですから・・・ 失礼しました。 先々、ですが知識情報と体験情報(体感、感覚情報)といったものにも触れてみたいと思っています。 まだ早いと思っています。 そのへんになると感性的、抽象的な面から逃れられないかもしれません。 またお願いします。

回答No.11

●私は(情報革命の)現在においての、情報の取り扱いについての 参考意見をお聞きしたいと思っています。 その事をご承知ください。 ↑ でたね! やっとでた。うんうん、いいね! だ・か・ら、化学反応なんだよなあー。 質問者の本意が何なのかわかんないから とりあえず、何か入れてみたの。 まだ、時間ある?もう閉め切っちゃう? ちょいと時間くれるんだったら何か用意する。 へへへ、明日はあたしのbirthdayあともう少しで日付が変わる。 5月の休みまで開けといてくれるとうれしいんだけど。 民主主義ー国民主権ー公共の福祉の制限がかかるー不開示

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 まだ時間はたっぷりありますから大丈夫です。 またお願いします。

回答No.10

PIECES OF A DREAM / CHEMISTRY http://www.youtube.com/watch?v=l9hu1iq9QL0 デタラメな夢を好き勝手にばらまいて オモチャにしていつまでも遊んでた 「見え透いた明日が一番くだらない」と はしゃぎながら気ままに生きたあの頃 Ah…せめてボクたちが一度背を向けたら 二度とは戻れない場所なんだと知ってたら ハンパな夢のひとカケラが不意に誰かを傷つけてく 臆病なボクたちは目を閉じて離れた キミに言いそびれたことがポケットの中にまだ残ってる 指先にふれては感じる懐かしい痛みが Ah…あの時のこともあれからのことも 間違ってなかったのかホントはまだ知らない 強がるわけじゃないけど立ち止まっちゃ いけない気はしてる 想い出のボクたちを責める気はないから キミが置いてったコトバだけポケットの中で握りしめた 手のひらになじんだ感触を忘れたくないから あれからキミはどう生きてるの?変わったのかな? キミが最後に詰めた夢のカケラたちは今どうしてる? ボクは…二度とは戻れない時代なんだと気づいた ハンパな夢のひとカケラが不意に誰かを傷つけてく 臆病なボクたちは目を閉じて離れた キミに言いそびれたことがポケットの中にまだ残ってる 指先にふれるては感じる懐かしい痛みが 化学反応 もうみた? まだ? まだみてない? うーん これがいいんだ~♪ うっとり。。。 「もう一度君に、プロポーズ」 竹之内(豊)くんと和久井映見ちゃん主演の春の新番組ドラマ。 波留(ハル)が言うんだ、可南子(カナコ)に おもいださなくていいよ だから もう一度 最初から… もう一度 君に恋をしよう

noname#156094
質問者

お礼

甘い夢ですね・・・。 Aから派生したBは、決してAに優位することはない・・・のでしょう。 現実と空想の違いです。 現実に失望するとき、その裏返しとしての空想が生じてしまうのだと思います。 Bが生じる原因がAのみにあるとすれば、BはAを超えるものにはならないと思います。 現実は空想に勝るという間違いのなさ でもその事が、現実よりも楽しい空想を生んでしまうのでしょう。 私は昔、小説を書いていた人から聞いたことがあります。 「虚構ほど面白いものはない、面白いからやめられない」 と 次から次へと生みだされる空想や虚構は 現実というAに対して、Bとは呼べない感じもします。 それらはAの産物であって、Bと相対的比較の対象にはならないのかもしれません。 Aの付録みたいなものなのでしょう。 Bの分類もちょっと考えなくてはいけないかもしれません。 リトルさんのお答えから感じることは Bだけでいい、Aはいらないといった感じですね。 それもまあ楽しいと言えば楽しいのですが・・・ 結局、正解は解りきったことだから論ずるに値しないと思っていらっしゃるのでしょうか・・・? もしそうだとするならば、そこに危険性が潜んでいるようにも思えるのですが・・・ 私は(情報革命の)現在においての、情報の取り扱いについての参考意見をお聞きしたいと思っています。 その事をご承知ください。

noname#156094
質問者

補足

リトルさん何度もありがとうございます。 この場をお借りして、今までのご意見もとに整理してみる事にしました。 皆さん共々よろしくお願いします。 情報AとBを単純に分けることには無理がある。 特定の対象枠内におけるAとBを比較することは容易でも、対象枠の設定によっては比較困難な場合もある。 対象枠の設定を定める基準情報が必要だと思われる。 情報Aにおける確実性の度合いの違いによっては、Aの扱いが変わってくる。 100%真実であれば、いかなるBとの照合も不必要とされる。 99%以下という、ほぼ真実であるという事からは照合が必要とされる。 この場合Bとの照合における比較対象枠の設定が必要である。 また、Bとの照合以前に、その確実性をもたらしている情報の確認が必要とされる。 情報Bにおける多様性の分類が必要である。 多様性の分類後に、Aとの照合にどれほど値する情報なのか段階的分類も必要である。 それらの分類的手法は、Aとの比較対象枠の設定に伴って定める。 情報AとBの照合の方法は、それらの情報の内容に応じて 機械的照合と人的(感性的)照合とがある。 またそれらを複合的に組み合わせることも有効である。 照合に伴う誤認の危険性を配慮しておくことが必要である。 以上の照合から、AとBにおける情報の優位度は結果的に明らかとなる。 とですが・・・ 少し言い方が固くなってしまいました。 柔らかく言えないところが仮定混じりの表れです。 皆さんよろしくお願いします。