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南北朝時代

いくつかお聞きしたいことがあります。 歴史を漫画で勉強しております。 足利尊氏と新田義貞が戦うのですが、どちらが誰に命令されて、戦うことになるのですか? 南朝は大覚寺統らしいのですが、大覚寺統の天皇は後醍醐天皇しかいないのですか? 崇光天皇は後村上天皇により廃位され、光明天皇と崇光天皇は拉致 と書かれていますが、そのあとどうなったのですか? 尊氏が敗れて南北は統一したのですか? そのあとも戦いがあったのですか? このへんのことが知りたいのですが、ネットで調べて読んでもよくわかりません。 いろいろ質問しましたか、どなたか教えてください。 お願いします。

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  • ベストアンサー
  • oska
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回答No.2

>足利尊氏と新田義貞が戦うのですが、どちらが誰に命令されて、戦うことになるのですか? 諸説様々ですね。 明治維新前と、明治維新後では多くの見解が180度変わっています。 明治維新までは、足利尊氏は「源氏の棟梁」として武家から崇拝を受けていました。 が、明治維新後は「天皇に弓を引いた逆賊」となります。 多くの武家が爵位を受けますが、足利将軍家子孫は無位無官のままでした。^^; 1945年の敗戦後、再度歴史観の見直しが行なわれています。 この新しい歴史観での回答です。 鎌倉時代末期。 足利尊氏・新田義貞ともに、後醍醐天皇の命で幕府側と戦います。 建武の新政(失敗)時: 「後醍醐天皇の世。天下大いに乱れる。国々に騒動起こり・・・」(妙見山縁起) 足利尊氏と護良親王(後醍醐天皇の子)が対立。 後醍醐天皇は、護良親王を鎌倉に流罪。後、尊氏の弟義直により斬首。 後醍醐天皇が、各地の武家が尊氏に従っている事を懐疑心を持つ。 後醍醐天皇が、尊良親王を対象として新田義貞に尊氏討伐を命令。 新田義貞・楠正成軍、尊氏軍に大敗。義貞は、叡山に敗走。正成一族は滅亡。 光厳上皇の院宣により、上皇の弟・豊仁親王が光明天皇として即位。 退位した太上天皇(後醍醐天皇)の子・成良王子を、皇太子とする。 納得できない後醍醐天皇は、3種の神器を持って吉野に逃げ込む。 結局は・・・。 足利尊氏には、光厳上皇と光明天皇(持明院統)がバックに存在。 新田義貞には、後醍醐天皇(大覚寺統)がバックに存在。 つまり、皇族間の権力闘争に武家が巻き込まれた訳です。 後醍醐天皇は、両統迭立を止めて、今後は大覚寺統だけが皇位継承を行なう事を画策したのです。 怒った持明院統は、尊氏に協力を求めた次第。 >そのあとどうなったのですか? 北朝(持明院統)は、光厳・光明・祟光・後光厳・後円融と5代の天皇が即位。 南朝(大覚寺統)は、後醍醐・後村上・長慶・後亀山と4代の天皇が即位。 足利3代将軍・足利義満のによって、後亀山天皇は三種の神器を後小松天皇(持明院統・一休さんの父親)に引渡し。 この時点で、南朝は終焉を迎え北朝が正式な天皇になります。 この時の南朝側条件が「持明院統の次は大覚寺統。大覚寺統の次は持明院統」と相互に即位する事だったのです。結局は、持明院統が平成の世まで続きます。 (昭和の世でも、我こそは南朝の正式な天皇だ!と称する一党が居ました) 後醍醐天皇が両統迭立廃止を画策した張本人ですが、子孫は再度両統迭立を求めたのです。 歴史は、面白いですね。 >尊氏が敗れて南北は統一したのですか? 先に書いた通り、最後には尊氏軍は勝利を得ています。 ですから、足利3代将軍・足利義満によって南北朝の統一がなったのです。 余談ですが・・・。 足利尊氏の子孫(阿波公方家)は、戦国時代には阿波に居ました。 細川家・三好家などの保護を受けていました。江戸時代には、蜂須賀藩の家臣として質素な生活をしています。 蜂須賀藩としても、元将軍家に莫大な禄を与えるのに危険を感じたようです。 幕末、紀州徳川家を頼って徳島を去り京都に入ります。(紀州藩から、毎年200両を受領) 明治30年まで、旧紀州徳川侯爵家から毎年200円の援助を受け現在に至っています。 昭和60年頃は、足利27代目当主がお住まいでした。 今では、28代目に代わっているかも?

bakayarou777
質問者

お礼

詳しく解説して頂き本当にありがとうございました。

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  • notnot
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回答No.1
bakayarou777
質問者

お礼

回答ありがとうございましたm(_ _)m

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