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キリスト教とその信者に反感を持つ理由

哲学のカテゴリーで、キリスト教について質問があったときに、必ず、少なからず反感を持った回答が寄せられます。 それは一体なぜなのでしょう。 ご先祖様がフランスの新教徒で、激しい弾劾を受け、アメリカに移民してきたという、私のバイブルスタディの先生は、ただ一言、”それは嫉妬のせいである”と切って捨てます。私は、さすがに、”それは違うだろう"と、感じるのですが、残念ながら、反論ができません。 彼と対等に話してゆくために、皆様からヒントをいただきたいと思います。 ご自分の意見でも、一般論でもよろしいです。 宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。

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  • Nucleus_
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回答No.16

外側からの眺めではなく、内側・只中においての眺めから見てみましょうか(河童の屁理屈は置いといて)。 「反感」というレベルの低い感情を持っている人間が歴史的背景など難しいことを判断してから反応することはないでしょう。 そもそも、「反感」というより、今そこにいる人間の在り方・言動・行為振る舞いに不快なものや欺瞞を感じるのではないですか。 キリストは自ら重荷を背負うと言ったそうですが。 それではキリスト教においては誰が・何が 重荷を背負うのでしょうか。決して弾劾され、磔にされることのないローマ教皇ですか?保護され、認知されている牧師・神父でしょうか。それとも「キリスト教」が背負うのですか。 キリスト教の、「キリスト者」なのだから、世界の責任の一端を担い、自らも重荷を背負う覚悟があって入信したのでしょうか。それとも、自分だけいい思いをしたい・甘い汁を吸いたい あるいは自分だけは救われたい と思って入信したのでしょうか。 艱難辛苦を甘受し、重荷を背負う覚悟もなく、単に優越感や特別意識を持っていればそれは不快でしょう。救われるつもりで、甘え・依存しているくせに、ときに偉そうに?していたり、嬉々としてキリスト教を語っているなら。 そういったことで批判され、弾劾されるなら、本望ではないですか。 もちろんこれはこのサイトでキリスト教について質問する人に対しての回答です。 「キリスト者」が反感を買い、弾劾されるなら本望でしょう。フランス人のバイブルスタディの先生も本望なのではないでしょうか。 キリスト教の欺瞞や、嘘が歴史として表れ、記されるのです。歴史が先にあるのではありません。 まさかとは思いますが、キリスト者・クリスチャンと言うのは キリストに甘える者・依存する者・ぶら下がっている者 という意味ではないですよね。 総括的 ? ですか。また河童が「馬鹿がまた引っかかった」と冷笑しているのではないですか。 河童もワルよのう

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れておりますが、何とか年内に片付けようと、発奮しております。 あまがっぱさんがお好きなんですね。 イエスさんは、人々の罪を許して歩かれて、最後に我々の罪を背負って磔刑に会い、お蔭で、二千年後の現在に住む我々も、彼に甘え、依存しているわけです。 他の何者にも、甘えたり、依存したりしてはいけない、と仰るのです。 そして、そのために迫害されたり、糾弾されたりされるのは、本望なのです。貴方のおっしゃるとおりです。 教会に集まって、礼拝をしたり、聖書の勉強をしたり、悩みがあるときにはお互いに励ましあったりしている信者さんたちに、なぜ欺瞞を感じるか、なぜ不快なものを感じるか。 それが質問なのです。 優越感や特別意識を持って、偉そうにしているからですか。それが嫉妬という感情と結びつくのなら、うちの先生は正しいことになります。 と、いうわけで、うちの先生に一票入りました。 ご回答、誠にありがとうございました。

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その他の回答 (20)

  • miko-desi
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回答No.10

キリスト教に限ってはないですが、欧米人は歴史をものすごく重んじます。 古代ギリシャ時代から欧米から発信された思想が 世の科学技術や経済、法体系などなどを発展させてきたかを誇りにしているのと察します。 日本は閉鎖的な国で鎖国をしていて思想や国家に歴史の蓄積がほとんどないと想像されていた。 だから東洋は西洋に嫉妬するのだと。 実は世界の片隅で、島国日本が鎖国している戦前に増して、 戦後の日本の発想の豊かさには日本人の私でも知るほどに驚愕します。 日本が蓄積していた水準に嫉妬した世界が!大戦を仕掛けたんじゃないかと。 これを心理学用語で「投影」といいますね。 欧米人は鏡を覗くが好きなんでしょう。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れてしまって、本当に申し訳ありません。 精神的な豊かさと、物質的な豊かさは、比例するものなのでしょうか。それとも相反するものなのでしょうか。 私は明治の時代に生まれた祖父母に極めて質素に育てられ、、昭和のバブルの時代についてゆけずに、尻尾を巻いて日本を逃げ出した人間です。物質的な豊かさに負けた訳です。ですから、回答者さんのおっしゃる、”戦後の日本の発想の豊かさ”言うのは恐怖と共に実感できます。 戦前から蓄えていた気概に、アメリカから輸入されたマテリアリズムが乗っかって、見る見るうちに経済大国になりましたね。それに嫉妬した西洋人が、鏡を覗くように自己の嫉妬心を、相手に投影したと仰る。。。。なるほど、なるほど、です。 いろいろな方のご意見を伺って、少しずつ、形が整ってきたように思います。 ご回答、ありがとうございました。

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回答No.9

私は40年以上前にカトリックの洗礼を受け、現在でもほとんど毎日曜教会に通って聖歌隊で歌っている熱心な信者ですが、未だに、キリスト教の根底である一神教的考え方に強い違和感を持っています。 表面的には、キリスト教社会に組み入れられ、信者仲間ともつきあい、精神的にも又生活面でも大きな恩恵と利便を受け、居心地の良い気持ちを味わわせて頂いています。カトリックは他宗教に対して融通無碍な所が多く、第二バチカン公会議以降、少なくても表面的に他宗教を攻撃するような所は少なくなり、社会に門戸を開いていると印象は格段に向上したと思います。 しかし、それでも日本人のクリスチャン比率が低い理由を考えると、どうしてもその「一神教的体質」が日本という社会に合わないような気がします。日本人は、自然や祖先たちに神の面影を感じたり、特定の宗教ではなく一般的な、超自然的存在である「神」の存在には親近感は持つものの、特定の、ましてや一神教への入信にはためらいを感じるからだと思います。私も全く同様であり、クリスチャンになったからと言っても、そのような一般的な宗派を超えた「神」を信じていることには変わりなく、キリスト教は単なる方便、アクセスの道具にしか過ぎません。寺や神社にも普通に参拝しますし、家には仏壇も置き、毎朝晩手を合わせます。坐禅にも通ったこともあります。 私のような考え方は、融通無碍なカトリックだから許されていても、これがプロテスタントだと、結構「原理主義」的傾向があり、「聖書」が唯一のよりどころ、神以外のものを少しでもほめたたえたり、入れ込んだりしようというものなら、全て「偶像崇拝」として退け、ましてや他宗教の聖像などに頭を下げるのはとんでもない、という空気が読み取れます。たとえ地獄に落ちようと、私は他宗教と融和しない宗教的立場には組したくありません。 現に、アメリカ中西部社会では、未だに進化論を信じるキリスト教原理派が幅を利かせていたり、異教徒を異質のものとして遠ざけたり排除したりする傾向が否定できないようですね。 →只今質問中の以下の質問への回答をご覧下さい。 http://okwave.jp/qa/q7205282.html そのような中でもなお私がカトリックに踏みとどまっているのは、プロテスタントの神学者が主に聖書の研究のみに没頭しているのと違い、カトリックの神学者は、キリスト教をグローバルな世界や他宗教との関係性において客観的に捉え、自己礼賛のみに陥っていないことです。例えば元上智大学教授の門脇佳吉神父の著書では、仏教の高僧たちをよく研究され、それらから学ぶという姿勢を通して、キリスト教とは何ぞや?という問いかけをされています。又、マザーテレサはヒンドゥー教が多数を占めるインドの貧民街で、コルコタの街で行き倒れになっている人々を助け、彼らの死に際しては希望する宗教で葬式を上げてやり、教派を問わず大きな共感を呼びました。 又、キリスト教は「隣人愛」を最高の価値として重んじていると言われていますが、本当にそうなのかという疑問もわきあがってくると思います。 「隣人愛」は同じ家族や、民族・宗教・価値観を共有する人々との間では機能しているとしても、果たして「異教徒」と呼ばれる我々やイスラムの人々にも及ぶものでしょうか? その答は、私としては「及ぶ」と好意的に見ていますが、中には上記のアメリカ中西部社会のように、キリスト教以外の人々を認めたがらない人々をはじめ、キリストの嫌った「パリサイ人」的な偽善者や差別主義者も多いことは否めません。 何よりも、キリスト教やイスラム教のような「一神教」は厳しい自然や民族間の葛藤の中で生き抜いてきた宗教であり、いくら「隣人愛」を重んじていると口では言っていても、人々を癒したり、許したりするよりも「裁く神」という印象もまぬがれない面があると思いますし、一部の仏教のように「念仏」さえ唱えていれば極楽に行けるなどというのとは違い「自助努力」を促しているようにも感じます。 この点に関しては、土居健郎氏が、「信仰と「甘え」」という著書で語っていたように、神様には甘えてもいいんだ、という考えもあり、決して神は厳しかったり、人間を裁くような存在ではない、というのが私の結論になっています。  それでも、古くから十字軍や植民地攻略の際も、キリスト教を異民族に広めることが「錦の御旗」のように利用され、キリスト教は直接間接にそのような世界攻略を助けてきたことは事実でしょう。この点に関しては、前教皇ヨハネ・パウロ二世が2000年、過去キリスト教が犯した十字軍をはじめとした過ちを世界に向かって認め、謝罪したことは記憶に新しいです。↓ http://www.st.rim.or.jp/~success/houou_ye.html キリスト教の信者は決して清廉潔白ではなく、皆と同じ人間であり、多くの過ちも犯し、矛盾をかかえていますが、それでも私はキリスト教信者になってよかったと思っています。

noname#202494
質問者

お礼

回答が遅れて大変申し訳なく思っております。 そうですね。隣人は一体誰か、と聞かれたときのお答えが”親切なサマリア人”であったことの深い意味を、もう一度考えなくてはなりません。この例え話の中では、差別を受ける側であったサマリア人が助けてくれる側であり、我々は、命を救われる側であるのは、大切なことだと思われます。 私は、父方が代々カソリック、母方は禅宗、夫が代々南部洗礼派で、現在は夫に従って、回答者さんの仰る原理主義者に満ちた教会に通っています。ひとついえることは、私達よりもひとつ昔の世代はずいぶん頑迷なのですが、世代が下がるにしたがって、どんどん融通が利くようになっています。 アメリカの教育は、州の中にまた細かい学区がありまして、その学区ごとに指定の教科書が違うのですが、もっとも保守的な州のひとつであるテキサスの高校でも、きちんと進化論を教えています。私達の年代でも、高校で進化論を習ってでショックを受けた人たちが多いので、この、”進化論を否定する教育”というのが、どこで行われているのか、調べてみようと思います。 徹底的に進化論を否定する人たち、世の中のマテリアリズムに反対する人たちは、家庭で子供達を教育しています。そのサークルに出席したことがありますが、カソリックとプロテスタントの家庭が半々であったと記憶しています。 私も、隣人とは、宗教を超えたものだと信じています。実際には、教会の中での活動が多いので、どうしても信者さん同士の交流が主になってしまいます。それも大切なことですが、その心地よさを打ち破って、外に出てゆく勇気があるのが、本来のキリスト教徒のあり方なのでしょう。その困難を打ち破った人たちが、カソリックでは聖人と呼ばれるのだと思います。 イエスを救世主と信じるかぎり、カソリックもプロテスタントも、同じ神の国を目指しているのですから、過去は洗い流して(神道的ですが)、共存共栄を図ってゆけるようになると良いですね。ただ、ご指摘の通り、プロテスタントは四分五裂で、代表となって、仲直りをしてゆける御仁がいません。 歴代の教皇は、プロテスタントを許してくださったのでしょうか。

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  • alwen25
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回答No.8

No4さんのような考え方をするなら 日本も天皇を神だと主張し、中国やアジアに 侵略戦争を行ったのですくなくとも (国家)神道には、反感がなければならないと思います。 豊臣秀吉などは、聖書を読んでいなかったのでしょうか 「私のために、ののしられるときあなたがたは幸いである」 「命を失うものは、かえって命を得る」 殉教者たちは、天国行きを確信していたはずです。 また、さすがに新約聖書には書いてありませんが 旧約聖書には、神の命令で「戦争をせよ」などと 書かれています。 戦争が悪というのは、日本国憲法の問題で、 宗教は、特に戦争は「悪」であるとは 言っていないと思います。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れて、申し訳ありません。 国家というのは、国民の安寧な暮らしを守るためのもので、戦争をする権限があるように思われています。その考え方が疑問視されて、人間の命の尊さが叫ばれだしたのは、ベトナム戦争以降のことではないでしょうか。 キリスト教を禁教にした豊臣秀吉も韓国に攻め入っています。 でも、No.4さんのように考える方が多いのも事実なのではないでしょうか。 この辺りは、私の質問とは関係があるようですが、全く別の問題であるように考えます。 alwen25さんは、信者さんのように思われますが、入信する際に、全く抵抗はありませんでしたか?周りからの反対があったとしたら、一体どんなものであったか、教えていただけると、嬉しいと存じます。 ご回答、ありがとうございました。

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回答No.7

 ▲( a ) J.カルワ゛ン( Jean Calvin ):《神認識と自己認識は結び合った事柄である。それらはどのように相互に関連しているか。》・・・(ジャン・カルヴァン:《キリスト教綱要》第一編第一章の章題 渡辺信夫訳 2007)  ☆( a-1 ) まづ《神認識》という言葉じたいに疑問がつく。自己認識と同じように・すなわち経験世界のものごとに対する認識と同じように 非経験の神について人間が《認識》できると表現することに違和感がある。  ただし 神の愛(神が人を愛することおよび人が神を愛すること)と隣り人の愛(人間相互の愛)とが けっきょく同じひとつのことだと言われるからには 上のことは表現の問題にとどまると見て 読み進めよう。  第一章には三つの節があるが その第二節を取り上げるなら 章全体の趣旨が分かると思われるので そうしたい。  ▲( b ) (同上 第一章 1 の末尾)・・・自分自身〔の悲惨やその無知〕についての知覚は 各々を駆り立てて神の探求に向かわせるのみではなく 言うならば手を取って導くようにして 神を発見するように各々を引いて行くのである。  ☆( b-1 ) ここでは 人間が自分の知覚や能力および努力によって《神を発見する》と言わんばかりに聞こえるが これも表現の問題にとどまると見ておこう。  ▲( c )(承前としての第一章 2) その反面 人間は神の御顔を先づ凝視し 次にこれの直視から自己自身の検討へと下って来るのでなければ 曇りなき自己理解に決して到り得ないということが確認される。  ☆( c-1 ) これほどキリスト信仰について誤解に満ちた発言はない。誤解も何もなく  ○ 神の直視(=真理なる知恵を見まつること)  ☆ はこの経験世界にあって生身のからだでいるあいだは できっこない。いまは鏡に映してぼんやりと見ている。すなわちたとえ人間が予感することはあっても 肉眼ではもとより心の眼でも見えない。  たしかに終わりから始めるとも言われる。けれどもそれは 《信仰》においてである。  たしかに信仰は すでに《直視》が得られたなら すでに目で見ている当のものを《信じる》必要はもうなくなるのだから 必要ではない。希望も必要なく 愛だけが残ると言われる。  ここまでは言えるものの  ▲ 人間は神の御顔を先づ凝視し  ☆ というこれほどの表現がどうして出て来たのか? これは表現の問題におさまるとも思えないのだが どうであろう?  神があたえたまうならば ヒラメキにおいて異言や預言を得てそこから  ▲ 自己自身の検討へと下って来る  ☆ ことはありうる。けれども  ▲ 神の御顔の直視から〔自己自身の検討へと下って来る〕  ☆ ということは あり得ない。  小さなことだが  ▲ 曇りなき自己理解  ☆ は たとえ未熟でもまったくかまわないと言うべきだ。われわれは 知識の精確さによってではなく 信仰によってあゆむ。  ▲( d )(承前) すなわち (これこそ我々万人にとって生まれながらの傲慢の然らしむる所であるが) 明白な証拠を突き付けられて 己の不義 汚らわしさ 愚かさ また不純を自ら認めざるを得なくされない限り いつも自分は義であり 完全であり 賢明であり 聖であるつもりでいるからである。  ☆( d-1 ) ここも完全にまちがいである。われわれ人間は キリスト・イエスの名を心に受け容れて そのあやまちが赦されているのであって しかもすでにそのことは すべての人に実現しているのであって(エレミヤ書31:31以下の《あたらしい契約》を引いて論じるヘブル書8:1以下のくだりを参照) 《おのれの不義をまづ認めて そこから心が駆り立てられて神の探求へとみちびかれ 神の発見につながる》〔=( b )〕という見方も 正確ではない。  しかもいまここ〔=( c )( d )〕ではそうではなく《神の直視から始めて 人間の自己認識に到る》とも言っている。  ここまでの批判で批判は足りると思われる。次はおまけである。  ▲( e )(承前) しかし 我々が自己を観察しているだけで主なる神に思いを向けずにいる限りは このように己を罪に定めることはない。  ☆( e-1 ) すなわちここでカルワ゛ンは まづおのれの人間としての無力と悲惨を自覚せよ つまりはただただあやまちを自覚しその罪を深く思え そこから話が始まるのだと言おうとしている。  《主なる神に思いを向ける》のは 何も人間の学識や品行方正なる努力によって成すものではない。そうではなく あたえられるものである。しかも それはすでに――上に触れたエレミヤ書のあたらしい契約の成就によって―― その信仰の自覚の如何にかかわらず あまねく実現したと宣言されたのである。  人間としての弱さの自覚 あるいは それをもまた存在の全体をもつつんでくれる何ものかナゾなる存在 これに対するきよらかなおそれ を持つこと これだけで人びとはすべてみなすくわれている。世界との和解ができるようになっている。(するかしないかは また人それぞれである)。  ★ 反感  ☆ がなくなれば あるいは薄まれば それでよいかという問題ではないと考えましたので カルワ゛ンはお門違いかも分かりませんが イエス・キリストの出現についての理解が得られていないという点で新教各派も旧教も似たり寄ったりだと思い これを取り上げて論じ回答としました。  (《第二節》のほんの始まり部分を取り扱っただけで批判はじゅうぶんだとして切り上げたのは わたしの判断ですが 冗長をきらい いまはそのままとします)。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。 私がキリスト教を信奉するのは、聖書で描かれたイエスの言動に終始一貫性があるからです。 喩え聖人であろうと、人間である我々はそういうわけには行きません。ギリシア、ローマ、トルコの同胞に書き続けたパオロの書簡にさえ、矛盾が見受けられます。 それは、我々人間が、自分の置かれた状況に反応した理論しか展開できないからでしょう。それはジョン・カルヴィンにしても同じことです。彼の生きた時代は、フランスでは王権神授説が唱えられ、教会では免罪符が発行された後のことです。 それを胸に刻んで、彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで、彼の思いをなぞるようにして、もう一度同節をお読みになってほしいと思います。 ご回答、ありがとうございました。

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  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.6

こんにちは。 反感と言うのは、個人的な意見や感覚の表明ではなく、全面的な批判ということでよかったですか? そういう回答を目にするので・・。 キリスト教も、キリスト教徒も、いろいろだけれど、 批判的な人は、たぶん悪い一面だけを知っているか、逆にあんまりよく知らない人か、 なんじゃないかな?と思います。 それに、勧善懲悪的な思考タイプなんだと思います。 わたしもキリスト教は好きになれない所もありますが、なかなかよい所もあるじゃないの、とも思っています。 たとえば、「ある人のことをキライ」ってなる時は、たいてい深くその人を理解していない時だと思います。 相手の深い事情や思いを知ることができると、全面的な批判ってできないんですよね。 勧善懲悪みたいな考えだと、「あの人は悪人」ってなっちゃいますが、 それはその人が善悪二元論的な考えをしているからそうなるのだと思います。 「自分にとっては敵のような人でも、その人なりの葛藤や事情があってそういう生き方をしている」と思います。 それを知ると、むしろ感動する気持ちさえおきます。 だから、愛をもって相手のことを深く知ると、全面的な批判にはなりません。 批判するタイプの場合、「これは正しい、善い」「これは間違っている、悪い」という思考だと思いますが、 視点を変えると、「すべての人は、その人の正しい道を歩んでいる」と気づくと思います。 先生のおっしゃる「嫉妬」ですが、「八つ当たりも入っている」という意味では、あたっているかも知れません。 批判的な人であっても、あまりストレスがたまっていなければ八つ当たりをしないと思いますから。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。 ”善悪二元論的な考え方”と、”ストレス”が批判や反感の元になるとのお考えですね。 性善論を軸にして、対象を文学的に捉える素養を持つ、寛大な方だと思いました。 仰るとおり、(キリスト教の教義は現代人の生き方にそぐわないところも多々ありますが、)信者さん一人ひとりを見ていると、愛すべき方が多いのです。それは、イスラム教徒や仏教徒、また、宗教をもたない方々と全く同じなのです。 ”全ての人は、その人の正しい道を歩んでいる、”と仰るのは、キリスト教の言い方では、”全ての人には神に与えられた役割がある、”という風になります。ただ、その与えられた役割を、粛々と、感謝しながらこなしてゆく、というのは、難しいことです。 可愛い盛りのお嬢さんを癌でなくされたお父さんが、”素晴らしい娘を与えてくださった神に感謝するお祈りを、霊安室で静かに捧げていたところ、それを見た救急担当の看護婦さんが、その深い平安の心に打たれてイエスキリストを信じたいと確信し、そこで一緒にお祈りをした、”などというお話しをここで書いても、たいていの方は、”偽善的である”と感じるのではないでしょうか。でもそれを、優しそうなお父さんから直接伺うと、それはそれは美しいと感じます。 愛を持って相手を知る、と仰るのは、それは大切なことであると思いました。 ご回答をありがとうございました。

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  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.5

全ての宗教は構造的に奥行きがあり、生涯をかけても極めがたい。よって、他宗教を理解する為の余力は残らず、偏見や浅学に留まる。 あとは愛着でしょうね。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。 すこぶる哲学的なご回答です。 噛み砕くと、宗教の奥義に無知であるため、それが、偏見や反感に繫がってしまうということですが。 デ・ローチ先生のいうには、 ”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。” 人たちが多いのだそうです。 キリスト教国の犯したたくさんの間違いを見て、キリスト教そのものの信憑性を判断することなのでしょうか。 あとは、愛着、と仰るところがもうひとつわからなかったのですが、神道や仏教への愛着、ということでしょうか。 教えていただけると、幸いです。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

キリスト教国家がやってきた歴史から だと思います。 1,アフリカに侵略し、土地を奪い、奴隷として  4000万人を輸出して大儲け。  お陰で、アフリカは社会、家庭が崩壊して今でも  飢餓大陸。 2,更に、歴史や民族、宗教を無視して、勝手に  国境を引いたため、現代でも内戦が絶えず、  立ち直ろうにも立ち上がれない。  これは、アフリカのみならず、中東も同じ。 3,アジアを侵略してやりたい放題。  アヘン戦争など、恥の極め。 4,米国では、明白なる神の意志だとして、先住民900万を  虐殺し、土地を奪う。  黒人を奴隷として輸入し、差別しまくる。 5,現在でも、建前は、愛だ人権だとしながら、やることは  差別や侵略ばかりで、勝手な価値観を世界中に押しつける。  当初、キリスト教に好意的だった秀吉も、やがて  キリスト教が侵略の先兵だと気づき、更に、日本人を  奴隷として売買していることが発覚するや、  キリスト教を禁止した。   要するに、偽善の代表みたいな存在だからでないですか。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れて申し訳ありませんでした。 正直なところ、一番判りやすくて、賛同を得やすいご回答だと考えます。確かにおっしゃる通りなのです。 先年ダライラマ14世のお話を聞く機会がありまして、その時彼は明確に、”他の地域に宗教の布教に行っては行けない”と諌めておられました。どの地域にもそこに住む人々が築き上げてきた歴史と文化があり、他宗教を持ち込むことは、その文化を破滅に導くことになるからです。 それをたくさん例を挙げて仰っているのだと思います。 その、偽善の代表であったキリスト教を改めていって、次の世代につなげてゆくにはどうしたらよいか、というのが、私達のテーマです。 何か良いお考えがありましたら、教えてくださると幸いです。 ご回答ありがとうございました。

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回答No.3

日本人の反応に限定しますが、キリスト教原理主義の国がいつも戦争ばかりしていること、そしてなによりもキリスト教原理主義の米国が異教徒の日本の一般市民に対して二度にわたって原爆を使ったことが原因じゃないかとおもいます。 これは歴史の必然ではなくて、歴史の偶然だとおもいますが、もし、イスラム教国のインドネシアが戦争ばかりして、広島や長崎に原爆を落としたら、やはり、日本ではイスラム教に少なからず反感をもったでしょう。 核兵器で他国を脅かす国と言えば、キリスト教国です。 イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、、、、。 これらのキリスト教国だけで核弾頭の95%以上を保有していますね。 キリスト教国が核兵器を持たず、核兵器を使わなければ、インドや中国も核武装をしなかったと思います。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れて、申し訳ありません。 そうですね。第二次大戦後、日本と同じような歴史を歩んできた韓国と比べて、日本でキリスト教が発展しなかった理由に原爆の投下が挙げられるかもしれません。 ただ、朝鮮半島は、いまだにひとつの国が二つに分割されて、戦後が終わっていないにもかかわらず、日本の戦後はずいぶん前に終わっているような印象を受けます。 その韓国の人々が、占領国である米国からもたらされたキリスト教に反感なくなじめ、日本人には受け入れられないのを見ると、木造さんの仰るとおり、原爆のもたらした傷跡が、いかに深いものであったかが判ります。 世界で唯一の被爆国の国民であった自覚を持ち続けてゆきたいと思っています。 ご回答、ありがとうございました。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.2

ひとつには、歴史的な知識によるものでしょう。 ヒュパティアの惨殺で知られる新プラトン主義の知識人の迫害や、 アレキサンドリア図書館の焼き討ち、 十字軍における、異教徒およびキリスト教異端に対する蛮行、 異端審問や魔女狩り裁判の異常性、 宣教活動における未開地への梅毒の持ち込み、 キリスト教文化圏の宗主国による植民地における財産略奪、 などが、他害的・利己的・侵犯的な出来事として認知されるためでしょう。 あるいはまた、聖書という書物の来歴を視野に入れると、 聖書に書かれている内容にのみ振り回されて読解しあうという信者さんたちの輪が、 盲目的で自己完結的な世界に見えるということもあるでしょう。 日本では、救世軍と有産知識階級が結びついての廃娼活動や歳末募金や社会鍋といった 社会的弱者へ向けられた事業が、戦争や震災や大不況で維持し切れなかった面があります。 階級差、身分差のおおきい欧米でキリスト教の持つ積極的介入の役割が、 日本には浸透しなかったと言えるのではないでしょうか。 そのため、キリスト教の歴史的特徴や組織的特徴といった外側からの眺めをうがつのかもしれません。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅れましたことをお詫びします。 客観的かつ総括的なご意見をありがとうございます。 そうですね。歴史的に見ますと、1492年が西欧地域において、キリスト教がイスラム教を凌駕した年で、その後のキリスト教の発展の歴史は、西欧諸国による、それ以外の地域への侵略の歴史とぴったり重なります。 歴史を、過去のあやまちを繰り返さないための座標とするか、或いは、そのあやまちにこだわり続けてゆくかは、将来をになう若い人たちが決めてゆくのでしょう。 二番目のポイントである選民思想から派生したキリスト教の自己完結性については、思い当たることが大変多いし、信者としては、反省をしてゆかなくてはならないところです。深く頷けるお説です。 三番目にあげて下さった、日本の社会にキリスト教が浸透するのを、戦争や震災が妨げた、というのは、今まで考えたことがありませんでした。それで、今に至っても社会とキリスト教の接点が広がることが出来なかったのですね。 私達が、将来、考えてゆかなくてはいけない課題を与えてくださいまして、ありがとうございました。

noname#202494
質問者

補足

質問をしておきながら、申し訳のないことですが、お礼が遅れております。 どうか、あと、二日間の猶予をいただきたいと存じます。

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  • 3711710
  • ベストアンサー率13% (109/805)
回答No.1

頭に思い浮かぶのはハムラビ法典や旧約聖書にある「目には目を、歯には歯を」の言葉です。 正規の意味は異なりますが、やったらやりかえすですね。 これに僕は反感をいだきます。 同じメッカである、同じ聖書からの分岐のユダヤ、イスラム教 もなじめません。自然を征服できると考えてます。

noname#202494
質問者

お礼

仰ることは、なんとなく判るように思うのです。 自然を征服できると考えている、そしてやったらやり返すような、浅はかな人間性を反映した神の属性になじめない、というより、一歩進んで、”それは神のあるべき姿ではない”とお考えなのでしょうね。 自然や環境を尊重し、相手を思いやる心に満ちた人たちの集まりであったら、お心に沿うのでしょう。 キリスト、ユダヤ、イスラム教徒共に、(現在も続いている聖地の取り合いなどを見ていると)、確かに譲り合いの精神などかけらもないように見えます。言葉では、いくらでも綺麗ごとは並べられるけれど、信者の行動の軌跡から、自分本位な、傲慢さをご覧になっているのだと思いました。 何か補足なさることがあるようでしたら、またよろしくお願いします。 ご回答、ありがとうございました。

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