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「何もやり遂げない」という病理

僕は少し前まで、「なにもやりとげない」ということを主義に生きて気ました。これは社会に対する反抗だと思います。しかし、何もやり遂げなめ、物事が成功しそうになると、意識的なときもあれば無意識なときもあるのですが、わざと失敗してしまうのです。心理学ではこれをフロイディック・スリップというらしいですね。 ところで、どうして僕はこのような性格になって毎日悩んでいるのでしょう?誰か、僕の病を説明してくれませんか?僕の分析では、社会のあらゆるシステムにのみ困れないように自分を守るために、「何もやり遂げない」という選択肢を選んだのだと思います。何かをやり遂げるということは、ある価値観の中で生きるということですから。 よろしくおねがいします。

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  • neuro
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回答No.2

 マラソンや勝負事とは違い、社会の物事には終わりはないのでは?あなたは何をもって「やり遂げた」と感じるのですか?仕事にしても、一つの小さなことをクリアすると、そこから次が始まります。よって個々の小さな仕事は「やり遂げる」というような程度のことではないと思いますが。ようするに、明確な人生目標が無い場合においては、「やり遂げる」という概念そのものが成り立たないのですよ。普通は。多分、あなたは世の中の物事を小さく見積もりすぎているのではないでしょうか。  言いたいことは何となくわかります。私も人に不用意に褒められるのがイヤで、物事が巧くいきそうなときや先の予測がついてしまうと突然モチベーションが下がる時期がありました。  「何もやり遂げない」と思っている時点で世の中の「やり遂げる」という相対的な価値観にとらわれているように思いますが。  物事を相対化することをやめて、素直に目の前の物事を見れば、自己の絶対的価値観で生きることができます。  それがたまたま社会的に重宝なものでしたら、飲み込まれることなくあなたの人生を歩むことができるでしょう。それが社会的に役にたたない場合には放っておいてもらえるという安心感もあります。

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  • cse_ri2
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回答No.4

一つお聞きしたいのですが、「何もやり遂げない」という ことも、一つの価値観ではないのですか? そうだとすれば、何かをやり遂げる・やり遂げないにこだわる ことすら、無意味なことかと思います。 もし悩んでいるとすれば、そういうことも考えられませんか? 私からのオススメですが、普通に生きてみたらどうですか。 学生ならば適度に勉強をして、社会人ならば普通に会社勤めをして 一日の仕事が終わったら、飲み屋でいっぱいやりながら、 その日の疲れを癒す。 そういう生き方もいいかもしれませんよ。 考えても考えても答えがでないときは、まずは体を動かすことです。

tricleore
質問者

お礼

「何もやり遂げない」のは一つの価値観ですが、非常に弱い価値観だと思っています。生きていく上では何らかの組織化が必要だと思っています。例えば、社会に反抗してしまうとそれは、強い価値になってしまいます。何もやり遂げないということは、社会に完全に参加しないということを意味していません。少しずつ参加するということです。少しずつ参加しながら、すべての問題から適当な距離を撮るということ。すごく極端ですが、分かりやすく言うと「一神教」ではなく「多神教」ということでしょう。日本人の多くが「多神教」的な生き方をしていると批判されるかもしれませんが、僕の感触では、多くの日本人は「多神教」よりも「一神教」的考え方に限りなく近いと思います。(こう言う風に考えること、思いつめることが、僕の悩みの根本的な所かもしれません) だから、何かをやるけれど、何もやり遂げないということ です。それを、「漠然と」考えていました。ただ単に、今質問をするために言語化し「何もやり遂げない」と書いただけです。主義というのはまちがった言葉の使い方でした。 これから、少しの間普通の生きかたをして見ようと思っています。 回答ありがとうございました。

  • Mizyu
  • ベストアンサー率41% (245/593)
回答No.3

鬱病の一種でしょうか? 私は専門家ではないので、詳しいことはまったくわかりませんがご容赦ください。 一つ気になったのが > 何かをやり遂げるということは、ある価値観の中で生きるということですから。 言葉の意味が私には全然分かりません。 その時点で「あなたの価値観の中で生きている」ということになると思いますよ。 それにそう断言できている今、やり遂げられない現状に不満は無いのでは? 素人考えですが、「本当の失敗」をするのが恐いのではないでしょうか? 「やればこんなことは簡単にできるけど、自分はやらないんだ」 という感情を免罪符にしているだけではないかと思います。 私も若い頃は同じような傾向にありました。 ただ、やればできる、というのはやれないのと一緒。 周りには「何をやってもやれない奴」と見られます。 周りに何といわれようと、気にしないというのらそれもアリだとは思いますが、 「自分の価値」を決めるのは「自分」ではなく、「周囲の人」です。 まぁ世間体だけを気にして背伸びするのは良くないことですけど。 ですので私が思うに > 社会のあらゆるシステムにのみ困れないように自分を守るために、 ではないように感じます。 社会のあらゆるシステムにのみ困れないようにするのであれば 自分の信念を貫き、何事も自分で成し遂げて「人に頼らない」生き方をするはずです。 何もやり遂げられないのを社会のせいにするのはよくないです。 社会が気に入らないのであれば、山にでも篭って自給自足をすればいいんです。 もしくは「自分がこの腐った世の中を変えてやる!」という信念で行動すればいいです。 それらができないで、社会に依存するのであれば、その中で生きていく力を身につけなくてはならないと思いますよ。 行動しない(できない、も含みます)人間が批判したところで社会は変ってくれません。 生きる為には何事も自己責任、ということを忘れないでください。 真剣に悩んでいる方に鞭を打つようなコメントで申し訳ありませんがこれが私の感想です。

tricleore
質問者

お礼

僕は確信を持っているのですが、 >自分の信念を貫き、何事も自分で成し遂げて「人に頼らない」生き方をするはずです。 は、多かれ少なかれ傲慢です。自分以外の考えを排除する傾向にあります。それは、本人にも回りにも気づかれていないのが一般的です。なぜなら、「自分の信念を持ち物事をやりとげる」ということが無条件で評価されているからです。でも、まぁ、それが完全に悪いことではないし、世界で生きるために僕もこの傲慢な能力を身につけようと思っています。 >「本当の失敗」をするのが恐い 昔はそうだったのかもしれません。しかし、僕はもう将来のことは真剣に考えていないし、「本当の失敗」というものがどういうものかどうか分かりません。あらゆる可能性を放棄してきました。(ちょっと言い過ぎたかも) 僕は山篭りと似たようなことをしようと考えています。 回答ありがとうございました。

  • mld_sakura
  • ベストアンサー率20% (264/1282)
回答No.1

それだけ自分自身のことが分かっているならいいのでは? 私の場合は、一つ一つをクリアしてかないと生活出来ません。家族の生活を守ってる訳ですから。 逆にあなたはやり遂げなくても生活出来る(あるいは生きていける)のは羨ましいです。 資本主義国家では、基本的にがんばった人間が評価されます。要するにやり遂げた者が富を得るのです。 富を得るということは、生活が保障されるということです。 これだけは言わせてください。 今あなたの持っている信念「何もやり遂げない」で他人(あるいは家族)に迷惑を掛けなければいいと思いますよ。 やり遂げなかったリスクを、あなたの家族や配偶者に負わせることだけはしないでください。 自分の信念を貫くことはすばらしいことです。 それによって自分自身が満足できる訳ですから。 それにはリスクもあるということです。なので、 自分独りでちゃんと生活するべきです。 社会的に差別されても卑下しないことです。 他人を羨むことをしないことです。

tricleore
質問者

お礼

僕の態度は信念と呼べるものではないし、それを貫いたからといって自分自身が満足できるといったたぐいのものではありません。これは、ただ単に、「今この瞬間」を生きるために作り出した、苦肉の策でしかないのです。 これからは、自分自身が満足できる目標を設定してがんばりたいと思っています。。。

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