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「何もやり遂げない」という病理
僕は少し前まで、「なにもやりとげない」ということを主義に生きて気ました。これは社会に対する反抗だと思います。しかし、何もやり遂げなめ、物事が成功しそうになると、意識的なときもあれば無意識なときもあるのですが、わざと失敗してしまうのです。心理学ではこれをフロイディック・スリップというらしいですね。 ところで、どうして僕はこのような性格になって毎日悩んでいるのでしょう?誰か、僕の病を説明してくれませんか?僕の分析では、社会のあらゆるシステムにのみ困れないように自分を守るために、「何もやり遂げない」という選択肢を選んだのだと思います。何かをやり遂げるということは、ある価値観の中で生きるということですから。 よろしくおねがいします。
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お礼
「何もやり遂げない」のは一つの価値観ですが、非常に弱い価値観だと思っています。生きていく上では何らかの組織化が必要だと思っています。例えば、社会に反抗してしまうとそれは、強い価値になってしまいます。何もやり遂げないということは、社会に完全に参加しないということを意味していません。少しずつ参加するということです。少しずつ参加しながら、すべての問題から適当な距離を撮るということ。すごく極端ですが、分かりやすく言うと「一神教」ではなく「多神教」ということでしょう。日本人の多くが「多神教」的な生き方をしていると批判されるかもしれませんが、僕の感触では、多くの日本人は「多神教」よりも「一神教」的考え方に限りなく近いと思います。(こう言う風に考えること、思いつめることが、僕の悩みの根本的な所かもしれません) だから、何かをやるけれど、何もやり遂げないということ です。それを、「漠然と」考えていました。ただ単に、今質問をするために言語化し「何もやり遂げない」と書いただけです。主義というのはまちがった言葉の使い方でした。 これから、少しの間普通の生きかたをして見ようと思っています。 回答ありがとうございました。