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内田樹氏の知らない比較優位とは?
- 経済学において、比較優位は効率の良い分野に特化することで、全体の生産量が増えることを示す概念です。
- しかし、比較優位のもとでの生産量や富の増加は、労働者の失業や移動により幸せの移動を伴うこともあります。
- また、経済学では有限資源の枯渇や環境への影響も考慮しなければならないとされています。
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質問者さんは『比較優位論』という複雑怪奇な理論の迷路に踏み込んでしまっているように見受けられます。ちなみに、池田氏のブログでの引用は比較優位論の正しい引用ではありません。理論の半分しか引用されていません。思うに、池田氏も比較優位論を理解していないのでしょう。経済学の基本的な考え方そのものも十分には理解できていないようにも感じられます。理論を理解していない人が間違った引用をし、それを読んだら余計にわからなくなるのは当然です。 私自身も、比較優位論をわかりやすく説明できるだけの理解はできていないので、これに関する詳しい説明は割愛させてください。 さて、『社会』というものはとても複雑であって、これを分析しようとしても一筋縄では行きません。そこで、まず社会を単純化したモデルを考え、そこに少しずついろいろな要素を付け加えて『社会』というモノを分析しようとするのが『科学』の方法論です。 ハヤブサを小惑星まで送り届けて小惑星のかけらを採取し、それを地球に持ち帰るというのは、ものすごく難しいことです。まず地球と月の重力によってハヤブサの軌道がずれます。さらに木星の重力と土星の重力、そして火星の重力の影響も考えなければなりません。さらに多くの小惑星の重力の影響も計算に入れる必要があります。それをいっぺんに考えようとすると複雑すぎるので、まず太陽の重力のみを考えてハヤブサの軌道を計算し、これに地球の重力が加わったらその軌道がどうずれるかを計算し、月の重力が加わったら、木星の重力、土星の重力、というようにしていろいろな影響を一つずつ加えて計算を修正し・・・、というようにして軌道の計算をします。 経済学も同じです。まず完全競争市場という、きわめて単純な、現実の市場とはかけ離れた性質の市場を考え、これにいろいろな要素を一つずつ加えて市場の動向が完全競争市場と比べてどう変化するかを検討して、考えている市場を現実の市場に近づけて行きます。 比較優位論は完全競争市場を前提とした理論です。完全競争市場では、労働者は労働という商品を売って対価を得ています。完全競争市場では商品には差がないとみなします。つまり、バラを作るときの労働とコンピュータを作るときの労働には質的な差がなく、バラを作っている労働者はそのまますぐにコンピュータを作る労働に従事することができ、給料さえよければ、労働者は給料が良い方の労働に従事する、とみなします。ですから、アメリカでバラを生産していた労働者はコンピュータ産業に転職し給料をもらいます。そしてコンピュータの方が沢山作れるので労働者はより多くの給料がもらえるようになるはずだ、と『みなし』ます。これが『完全競争市場での比較優位論』の考え方です。 もちろん現実の社会では、バラとコンピュータでは労働尾の内容も必要とされる技術も異なりますから、そんな転職は困難であるのは言うまでもありません。そこで、必要な労働内容や技術によって転職のしづらさはどれくらいか、それによって完全競争市場の場合とどんな差がどの程度生じるか、ということを考えてゆきます。 これを考えなければ、実際の市場に適用はできません。池田氏のブログはこの部分が欠けています。 >経済学というのは形式的なことが多く、人間の幸せについて考慮されていない(見えないふりをしている)と常々感じている者です。 人間にとって何が幸福であるのかは、個人個人によって違います。いろいろな幸福の形があります。これを全部考えに入れるのは不可能です。女性にハイヒールのかかとでぐりぐりと踏みつけられて『あ~ん、し・あ・わ・せ』なんてのは私には理解できません。誰にとっても『理解可能な』しあわせの『要素』として、『お金』というモノがあります。それが幸福のすべてではありませんが、幸福を『科学的』に、ということは『理論的に扱うことができて』『再現性がある』理論を組み立てるためには、扱いやすい要素であるのは間違いありません。そこで、この『お金』という要素を研究してみよう、というのが『経済学』という科学なのです。 もちろんお金以外にも幸福を考える要素はいろいろあります。しかし、物理学という科学はヤンバルクイナの生態を調べたりしませんし、ニュートリノの質量を生物学が調べたりしないように、『お金』を研究する『経済学』は異性と2人でいる幸せや、孫の笑顔を見る幸せを扱いません。それは分野が違いますし、複雑すぎて経済学の手に余るからなのです。 >経済学では生産量や富が増えることが無条件に是とされていると思いますが、 企業の売り上げから、給与以外の費用を引いた残りが給料として支払うことの可能な金額になります。労働者の給与が増えるためにはこの支払可能額が増加する必要があります。もちろん経営者が給料を増やしたくないと考えていたら、支払可能額が増えても労働者の給料は増えませんが、給料が増える前提(=必要条件)が支払可能額が増えることであるのは間違いありません。そこで、経済学では生産量が増え、企業の売り上げが増え、企業の付加価値額が増えることを『是』とみなします。支払可能額を経営者が給料として支払うかどうかは、その経営者個人の考え方の問題ですから、経済学はこれを扱いません。 GDPが増えることは消費者の収入が増えるために必要な条件であるので、これを『是』とするわけです。 これでご質問の回答になったでしょうか?
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- kawasemi60
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「経済的には役立たずだから、死ね」 経済学的にその通りです。 経済で扱うのは個人ではないという点から 重要とはされない。経済で扱うのは国家経済 であり銀行経済であり企業経済なのです。 個人は経済活動の廃棄物であり生産物では無い。 経済体の部品としての価値が個人に無くなれば 見捨てられ廃棄される。効率的廃棄が進む。 個人に眼を向けた本当の経世済民が欲しい。
お礼
ありがとうございます。 経済ってのは個人は関係ないのですよね。 何が違和感だったのか、謎が解けたような気がします。 経済ニュースとか政治ニュースとか見ていても、 なんでそんな上から目線で俺らも考えないといけないんだ、とどこかで感じていました。 参考になりました。
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
> これは結局のところ、生産量とか富(≒お金)が増えたということで、 > アメリカでバラ生産に従事していた労働者は職を失ったことで不幸になりましたよね? いいえ。 バラを作っていた労働者は、コンピュータを作ることになっただけで、やっぱり働いています。 現実世界では、こんなに簡単に別の産業に移ったりは出来ませんが、この話ではそこのところは簡単化のために無視しています。 > また、経済学では生産量や富が増えることが無条件に是とされていると思いますが、それらが増えることで有限資源がゼロに近づいているということは考慮されているのでしょうか? このバラの例を考えてもらえば分かると思いますが、アメリカ国内でバラもコンピュータも作っていた時代と、アメリカがコンピュータ、南米がバラと分業した場合とで同じだけの量の資源が消費されています。 > また、比較優位というのは効率の良いほうに任せるほうがいいということだと思います。 多分、比較優位と絶対優位が混同されているものと思います。 比較優位とは、それぞれが得意なことをするのが良い、という話です。 絶対優位とは、効率が良い方に任せる方が良い、という話です。 例えば、何の資源もなく、ただ労働だけでコンピュータとバラを作ることができるとしましょう。 J国は、労働力が100単位あり、コンピュータを労働10単位で1台、バラを労働5単位で1束それぞれ作ることができるとします。 C国は、労働力が400単位あり、コンピュータを労働20単位で1台、バラを労働8単位で1束それぞれ作ることができるとします。 すると、コンピュータもバラも、J国の方が効率よく作ることができます。 J国のコンピュータ1台はバラ2束と同じ労働力がかかっています。 しかしながら、両国で貿易が開始された場合、J国のコンピュータを1台持ってC国に行き、同じ労働単位のバラと交換するとすれば20/8=2.5束のバラを手にすることができます。結果的に、J国はコンピュータに、C国はバラに特化する場合が最も多くのコンピュータとバラを生産できることが分かると思います。 他の回答へのお礼なのでやや横ですが > 人は誰しも、幸せを目指してるのは絶対そうだと思うのですが、おっしゃるように、「幸せとは何でしょう」がまさに僕の疑問です。 これは多分、経済学の答えるべき問いではないと考えています。 経済学者が「こういう状態こそが幸福なのだ」と規定するのは、明らかにおかしいでしょう? 経済学が追っているのは、一つは社会というものを物の動き(その裏側にあるお金や信用の動き)から理解すること、そして効率的な社会(同じ量の物から最も幸福になるためには、はたしてどうすべきだろうか?)といったことであり、その延長として「××という社会にするためにはどうすればよいだろうか」があると、個人的に理解しています。 なので、効用関数(ある状態に対する満足度の指標)も、なんら定式化されていません。 一般的にはいくつかの仮定が置かれることが多いものの、多くの場合は単に簡単化のためです。 最低限度の仮定は「ある状態と別のある状態を示した時、どちらが良いか又は同じか、を判定することができること」というだけです。 ほとんど使われませんが、富を増やさない方が良いという効用関数も存在することができます(通常は非飽和性を仮定しますが、この仮定を緩めた場合です)。 > インフレは無限に値上がりする、デフレはゼロに限りなく近くまで値下がりする、という理屈です。 > でも実際の地球は、目に見えるもので言えば有限だし、ゼロ=存在しないということです。 > つまり矛盾しているということです。 これが成り立つためには、インフレが無限に続く、或いはデフレは無限に続く、というのが先に成立しなければなりません。 1.05^xは、xが無限に大きくなれば∞になりますが、xが有限なら有限になるのと同じ理屈です。 でも、実際には無限に続くものはありませんので、前提が矛盾しているとしか言いようがありません。 > 経済の仕組みでいえば、ガソリン1リットル1万円、100万円、というのも正常なわけです。 > でもそんな生活、実際の感覚で言えば異常に決まっています。 そうなったら、ガソリンを使わない生活になるのが、経済の仕組みとしては正常なのです。 例えば卵がここ数年で2倍ほどに値上がりしました(うちの近所のスーパーの話ですよ、念のため)ので、私は卵をあまり使わないようになりました。
お礼
ありがとうございます。 何か根本的に勘違いしていたようです。 >経済学者が「こういう状態こそが幸福なのだ」と規定するのは、明らかにおかしいでしょう? おかしいのだと気付きました。 加えて、何のための経済なんだ、と感じてしまいました。 経済というのはあくまで全体のもので、個人がそれを考える必要はないのだと思いました。 新聞やニュースで「経済」のカテゴリーとして報道するべきものではなく、 トップの人たちが秘密裏にやっておけばいいことだと思いました。 一見システマチックになってるので面白い人には面白いのでしょうけど。
- gooid_send
- ベストアンサー率15% (62/395)
池田信夫はバカなので需要は一定であると思い込んでおり、デフレがどんなに進行しようともインフレがどんなに進行しようともパソコンもバラも売れ続けると思っています。
お礼
ありがとうございます。 池田さんがバカかどうかは正直よく分かりませんが、 経済というのはそのような「無限感」がどこでも出てきますよね。 それが確かに違和感を感じます。 理屈の上ではそうなるんでしょうけど、 そんな理屈、理屈ですらないような気がします・・・。 なんでしょうか、このギャップは。
- aimaina
- ベストアンサー率48% (70/143)
>これは結局のところ、生産量とか富(≒お金)が増えたということで、 >アメリカでバラ生産に従事していた労働者は職を失ったことで不幸になりましたよね? >幸せがアメリカ労働者から南米労働者へ移ったということにはならない、 >そういう意味でプラマイゼロにはならないのでしょうか? 比較優位の理論では、労働者はみな同質と考えるので、アメリカのバラ農園の労働者がコンピュータ工場に転職することになります。 しかし現実にはそんなに簡単に違う仕事に転職できないので、いきなり自由化や市場開放をすれば失業が発生します。だからこそかつての日本のコメ農家、アメリカの自動車産業など比較劣位にある人々は貿易自由化に反対したのです。 しかし、ここでちょっと考えてください。全体の生産量がコンピュータ7万台増えるわけですから、うまく分配すれば全ての人の分け前を増やし、幸せを増やすことができます。ですから、実際の問題としては、十分な準備期間をおく、転業、転職の機会を用意する、場合によっては金銭で補償するなどの政策によって摩擦を回避しながら、自由化を進めればよいのです。 >また、経済学では生産量や富が増えることが無条件に是とされていると思いますが、 >それらが増えることで有限資源がゼロに近づいているということは考慮されているのでしょうか? これは重要な問いかけですけれど、比較優位やTPPとは全く別の問題です。 経済学では、有限資源が将来枯渇すると予想する人が、将来足らなくなって値上がりするので今のうちに買占めして(or売り惜しみして)ひと儲けしようとします。すると需給バランスが崩れて今すぐに値上がりし、結果として資源の浪費が節約され、希少な資源が将来にわたって効率的に利用されることになります。原油の値上がりはその実例です。 >また、比較優位というのは効率の良いほうに任せるほうがいいということだと思います。 >効率の悪いほうから効率の良いほうに任せた場合、 >効率の悪いほうの人(国・企業など)たちは一時的にしろあぶれるわけですが、 >その人たちはムダ(不要)ということですよね? >少なくともその比較の上では存在価値がなくなった。 >ということは、その人たちは突き詰めれば「経済的には役立たずだから、死ね」 >というのと同じなのでしょうか? これは、まるっきり反対です。誤解です。比較優位の理論は、アメリカと南米の例でいうと、南米はコンピュータ作りもバラ作りも絶対的能力としてはアメリカより劣っていても、相対的に得意なバラ作りに特化して、相対的にもヘタなコンピュータはアメリカから輸入するという生き方があるということを教えてくれます。「死ね」でもないし、他人(他国)の世話になって生きるのでもない。自分なりに得意な仕事をして、他人(他国)の役にも立ち、自立して生きていけるということです。 >そういう意味で、富は増えたかもしれませんが、 >幸せは移動しただけ、ゼロサム的になった、 >そういう意味とは違うんでしょうか? 幸せとは何でしょう?経済学では富は多い方が幸せ、労働時間は少ない方が幸せと単純に考えます。富の総量が増えれば、それを上手に配分することによりみんなをより幸せにできると考えます。ゼロサムではなくプラスサムです。 しかし、(ここからが重要です!)TPPの議論は比較優位の理論だけで結論づけられるほど単純ではありません。 例えば野口悠紀雄氏のような一流の経済学者もTPPには慎重な見解をお持ちのようです。
お礼
ありがとうございます。 大変勉強になりました。 >比較優位の理論では、労働者はみな同質と考える 確かに、僕の中でそこにギャップがあったのだと感じました。 >全体の生産量がコンピュータ7万台増えるわけですから、うまく分配すれば全ての人の分け前を増やし、幸せを増やすことができます 現状の経済では、経済のシステムとしては富の総和は増えているから全く正常だけど、 政治から見ればうまく分配できていないということですよね。 富が一極に集中している。 >自分なりに得意な仕事をして、他人(他国)の役にも立ち、自立して生きていけるということです このあたりがどうも引っ掛かるのです。 確かに、経済というのはそのように分業して効率を上げるという面があると思います。 しかし僕には、「効率を上げたところでどうするの」という感覚が拭えないといいますか・・・。 「富を増やすんだよ」と返ってきそうですが、「増やしてどうするの」と。 何を目指してるんだか分からないのです。 人は誰しも、幸せを目指してるのは絶対そうだと思うのですが、 おっしゃるように、「幸せとは何でしょう」がまさに僕の疑問です。 経済学ではそれらを単純に考えるということが知れたのはよかったです。 日本で以前バブルがはじけましたが、 経済というもの自体がバブルそのものだと思えます。 原油だって稀少なもになったとしても、 経済の仕組みでいえば、ガソリン1リットル1万円、100万円、というのも正常なわけです。 でもそんな生活、実際の感覚で言えば異常に決まっています。 凍え死ぬ人が多数出ます。 「実際の感覚で言う異常」に突き進んでていいのかな、という疑問です。 インフレは無限に値上がりする、デフレはゼロに限りなく近くまで値下がりする、という理屈です。 でも実際の地球は、目に見えるもので言えば有限だし、 ゼロ=存在しないということです。 つまり矛盾しているということです。 矛盾に突き進んでいていいのか、という疑問です。 最終的には、バブルやリーマンショックもそうだと思うのですが、 人間の心(信用)に依存してしまっているのが現在の経済システムで、 システムをうまくやっても、最終的に依存している「人間の心」をコントロールしないと 必ず破綻するシステムなのではないでしょうか。 絶対それでは行き詰まりがきそうです。 他に何か考えないといけないと僕は思います。 個人レベルでは、欲を少なくし、「満足するという心」が大事かと思います。 それを政治や教育で、全体で取り組んでいくとかどうかな、と思います。
- blackhill
- ベストアンサー率35% (585/1658)
経済学を学ぶ最初に『ウォームハートとクールヘッド』を持てと教えられます。これは、近代経済学の創始者であるA.マーシャルがケンブリッジ大学での教授就任演説で述べた言葉で、これを知らない経済学徒はいないでしょう。(以下引用) 『社会的苦悩を克服するために自らの最善の能力をすすんで捧げようとする、冷静な頭脳と温かい心情を持つ人々の数を、一人でも多くすることが私の念願である。』 質問者は、経済学は形式的だと言われるが、これは論理的の誤りではありませんか。クールに論理を展開できるからこそ、人文・社会科学の中で、唯一、自然科学に匹敵する実証性をかち得たと言えます。 さて、質問者は池田信夫氏の文章を、本人のブログ以外の場所から引いておられます。これは故意か検討不足か分かりませんが、本人のブログを参照すれば、きわめて分かりやすいクルーグマンの趣旨説明をご覧になれたはずです。 バラとかコンピュータなど具体的な例を持ち出したから却って誤解をまねくことになったので、色眼鏡抜きで議論するのであれば、具体例はないほうが話が通じますね。高校生で習う内容ですから。 さて、クルーグマンは20代でMITの教授、50代でノーベル経済学賞を受賞した天才ですが、ウォームハート派のチャンピオンとしても著名というか悪名高い人物です。アメリカにおける人種差別や格差の拡大が歴代の共和党の政策に原因があると追及した『つくられた格差』は、日本でも翻訳されて評判になりました。 論理的には、AB両国はそれぞれ生産性の高い産業に特化した方が、両国の経済的厚生が高まることは明白です。ここまでは、経済理論の分野です。それでは、生産性の低い分野で就業している労働者を、どうやって高い分野に移すか、これは経済政策や労働政策の分野です。以前は失業手当など社会保障で解決できると考えられていましたが、現在では職業訓練や企業への雇用促進補助金などのほうが有効だという証拠が増えています。 農業についても、ご存じのように関税自由化にともなって戸別の所得保障や規模拡大補助金など痛みを和らげ、転換を促進する手段が提案されています。 日本の農業は、一世代前の耕種農業ではありません。各種の農業機械を駆使し、ハウスなど高度の施設を管理する経営者に代わりました。こういうかたちで農業に従事するのが生き甲斐であり、環境変化に適応できない農家は、農外所得に依存するサラリーマンになりました。 経済のダイナミズムを理解しようとせず、机上の空論で幸不幸を論じることに疑問をいだきます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 すみません、サイトをちゃんとみておりませんでしたが、 元のブログから転用されたサイトだったようです。失礼しました。 私は池田氏がどうとか、内田氏がどうとかいうつもりは全くありません。 経済の仕組みについて疑問を持っているだけとお考えください。 >質問者は、経済学は形式的だと言われるが、これは論理的の誤りではありませんか そうですね、経済学は論理的だと思います。 しかし社会というのは複雑極まりないものです。 ましてや人間の心なんて、1秒ごとに移り変わっています。 それを論理的にしようとすることは不可能だと分かっているはずなのに、 それを妄信しているように見える、そういう感覚があるので「形式的」と感じてしまったのです。 逆に言えば、その「形式」に僕達が従っているだけなのだと感じたのです。 でも、経済学というのは妄信することが前提なのだと感じました。 僕のように、東京ひとり暮らしで手取り給与13万の生活でも「満足」する人間は 経済のしくみから外れているのではと感じていたので、こんな質問をしてしまいました。 >経済のダイナミズムを理解しようとせず、机上の空論で幸不幸を論じることに疑問をいだきます お金が多いほうが幸せだとう前提なのが経済でしょうから、 それとは違う見方もあるのではないか、という感じです。 そうすると何のための経済なのか、という疑問です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、経済というのは科学のひとつだと思います。 はやぶさの件と比べても、こんなに不確実な科学はないと思います。 なんとなく、経済の意味が分かりました。 人のために経済があるように思えて、 経済というシステムを守るために人が動いている。 だからこんなに「動かされている感」が多いのだと。 今の僕たちの生活の全ての価値が、お金にあるということ、それが経済。 なんとなく、幸せのために生きているのでなくお金のために生きる、 そういう経済というシステムを自分たちで選ぶまもなく選んでいたのだと感じました。 それを妄信しているからこんなおかしなことになっているのだと感じました。 最後の例で挙げてもらった給与のお話、 僕のような「給与が増えなくても満足」っていう人は 経済の科学からは外れてしまいますね。 ありがとうございます。 参考になりました。