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政治家原口一博の詩に詳しい方へ
- 民主党の政治家原口一博の詩が物議を醸している。詩に詳しくない筆者はその理由が分からないため、詳しい方に説明を求めている。
- 原口一博の詩「花 そこに咲くだけで」は、そこに咲く花が人々に温かな心やおとぎの国の世界を思い起こさせるというメッセージが込められている。
- 心がささくれ立っていたり、忙しいときに花に目線を移すことで、心が解放され、凝り固まりそうになっていたものが溶けていくという詩の意味がある。
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私はその番組を見ていないので、コメントをした方々の意見を解説することはできないのです。が、私の考えということで言えば、 ・花に癒されるという、ありきたりなテーマを、 ・稚拙な表現で扱ったに過ぎない、 という判断の元で、コメンテーターは酷評したのではないか、と思います。 もちろん、コメンテーターらは、純朴な詩を書いたということを笑うことで、面白可笑しく番組を盛り上げようとしたのかもしれません。だから何が出てきても、酷評された可能性はあります。が、実際、作品に説得力がないのはなぜか。 端的に、似たテーマのものが、ありふれているのです。詩と歌という違いはありますが、有名どころでいえば、スマップの「世界に一つだけの花」とか、中孝介の歌「花」などです。他にもごまんと、思いつきます。実際、花が好きな人なら、誰だって、花に癒されるという経験をしたことがあるに違いないのです。しかし、ありふれたテーマを扱うなら、その分だけ、表現技巧を工夫しなければならないのです。 が、この作品、そもそも、統辞(文の構造、syntaxe)が、よくわからないのです。次の箇所は、もっと表現が整理出来そうなものです。『そこに咲くだけで、おとぎの国の小さな世界の入口を思い出させてくれる花、雨上がりの庭の花たちも、カンカン照りの夏の花たちも、心がささくれ立っているとき、忙しいとき、余裕をなくしそうなとき、【花に心の目線を移せば】、凝り固まりそうになっていたものも溶けていく』。【】でくくったところは、明らかに怠慢で、「花に」という語が、前の、「思い出させてくれる花」「庭の花たち」と重複してしまいます。推敲していないのか?と思われてしまっても仕方ないでしょう。 ことによったら、統辞を犠牲にしても、西洋の詩のように、あるいはラップのように、韻を踏もうとしたのかもしれません。が、ちょっと失敗です。詩が韻を踏むのは、単に音を重ねるということではなくて、意味として関係ない言葉を、韻の位置において、音の類似で印象付け、結びつけてしまうことにあるのです。が、そういう効果は、何らこの詩では発生していないので、統辞を犠牲にするほどの理由は見出せません。 また、詩の全体では、テーマを繰り返しているだけで、「そこに咲くだけで」と言っているが、もっと話を展開させてほしいとも思うところです。咲いているだけで人に感銘を与えられる花ってすごい、ってことだと思いますし、もしかしたら、作者も花のようにありたいな、と思っているのかもしれません。 が、中孝介の歌と比べてみましょう(作詞家は御徒町凧ですが)。「花のように、花のように、ただそこに咲くだけ美しくあれ」「花のように、花のように、ただ風に揺れるだけのこの生命」――よく似たテーマを扱っているでしょう(表現もほとんど重なっていますが)。この歌詞の全体は著作権に配慮して引用しませんので、検索して読んでいただきたいと思いますが、同じテーマで、もっと中身がぱっぱと展開してきます。表現技巧も、直喩や暗喩を使い、頓呼法で抒情的にまとめられています。要するに凝っているわけです。こういう風に似たようなテーマを扱ったものが念頭にあると、見劣りしてしまうわけです。加えて、コメンテーターには、創意工夫が行き届いていないものが、テレビという大きな媒体に、わざわざ紹介されて出てきたので、余計に、がっかりしたという心情もあったかもしれません。 とはいえ、他人の書いた詩をあれやこれやとクサするのは、趣味のいいことではありませんね。この作者は、純朴な人だと思うし、詩を書きながら、純朴な気持ちを思い出して一瞬を楽しんだのは、伝わってきます。誰もが傑作を書かないでいいのですから、「ひどい」という評言はないでしょう。森鷗外は山形有朋の詩歌にウンザリしていたようですが、政治家があまり上手くないというのは、過去も同じことです。逆にうま過ぎたら、本業を疎かにしているということは言えるのでしょう。
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小学校の学級文集で自分用のページに書くなら構わないけれど、選考者がいる発表媒体ではボツになるレベルの詩です。言葉の面白さ、視点のユニークさ、イマジネーションの広がり、技巧性も荒削りな素朴さもない。 花そのものをうたった詩にしては花の色、形、香りが何ら表現されていません。では、愛する誰かを花にたとえた詩なのかと考えてもおとぎの国なんていう表現が出てきて奇妙。年齢の割に詩をあまり読んだことがない印象を強く受けます。 強いて解釈するなら、当選確定時に飾られる花のことをうたっていて投票してくれた有権者を思えば議員の仕事に弱音は吐けないという心情を詩に託したのかも知れません。咲いた花にしか興味が無さそうですし。それでも「おとぎの国」や「心の目線」は、気持ち悪いです。
お礼
ありがとうございます。
- zephyrus
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出演者がどう批判したのか存じません。 読んでみた限りでは原口氏は、ひょっくり詩らしきものを書いてみたといった程度を越え、なかなか手馴れたもので、詩心があるなって私などは感じました。ありきたりで特に感銘も受けないけれども、下手ではない。 けれども、です。原口氏は同時に若き「政治家」であるし、世間はまずそういう公人としての原口氏に関心を持つ。場合によっては強く期待さえする。 政治家とは大変な職業です。みずからの理想を胸に熱くたぎらせ、それにはどうすればいいかを組み立て、聴衆に実ある言葉をもって訴えかけ、かつ実行力を備えていなければなりません。指導力ある人間的魅力とともに、まずなにより、ヴィジョンあるリアリストでなければならないのです。 ところが掲載の詩のなかには、そういったものが決定的に欠けている。そこに咲いているものだけでいいといっているのですから。 そこですべては解決される。と言うのが言い過ぎであるとしても、少なくともそこへ立ち戻るとたいてい安寧が得られるものだと吐露されてはいるでしょう。安寧というよりは偸安、一時しのぎ。庶民に許される感覚です。 そしてそもそもの、その場所とは何でしょう。奇妙に抽象的な「花」です。受け手にどんなリアルな具象性を思い浮かべてもらおうとしているのか。 原口氏はいったい、どんな志を抱いて政治家になったのか。ここにあるのは、口当たりのいいものを差し出し、現状維持がいいと言わんばかりに後ろ向きになった感性ではないのか。形骸化した思考法ではないのか。 こんなことは真のリベラルなら言わないし、コンサーヴァティヴ(保守)だって断じて避ける。 たかが詩とうそぶくなかれ。真情はおのずとあぶりだされてしまうものなのです。たとえば高杉晋作の、 三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい という都々逸がいつどんなときに唄われたのか私は詳らかにしませんが、三千世界の「烏」のまがまがしさと「朝寝」のささやかさとが劇的に対立し、デモーニッシュで切実です。 いま日本は内政にも外交にも問題が山積。文字通り内憂外患の季節。世界も限られた富の争奪に各国が血みどろの混迷を深めてきました。まさに食うか食われるか。一瞬先は奈落です。 こんなときに、危機意識の欠落した太平楽な詩を書いている政治家がいることに私も大きな落胆を感じます。 出演者の慨嘆ぶりが目に見えるようです。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。