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後漢の官職の郎中はどの程度の地位ですか?
後漢の官職の郎中はどの程度の地位ですか? Wikiを調べる比三百石とか書いていますが、いまいちイメージがわきません。 近衛兵の様ですが、近衛兵の中では一兵士か何かでしょうか? できれば現代と比較としていただけるとありがたいです。
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■前段 秦の時代に「郎中令」が制定された。前漢に名称変更され「光禄勲」と称し、後漢にも引き継がれた。これは当時の官職の一つ。 役割は,当初は宮門護衛.やがて皇帝身辺警護,皇帝出駕時の随行・護衛,使者,など. 「光禄勲」の制度で定められた職位としての「郎中」は ・五官中郎将1人(比二千) - 五官中郎(比六百) - 五官侍郎(比四百) - 五官郎中(比三百) の如く最下位。俸禄では、他系列の節従虎賁(比二百)をかろうじて凌ぐ。ただし、彼らの配下に一般服務者や衛兵が大勢いたわけです。 → これだけ見ると、職位としては余り偉くはなさそうですね。 参照: 中国の官職 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%98%E8%81%B7 光禄勲 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8E%E4%B8%AD%E4%BB%A4 ■なんと言っても官吏は偉いので、更に詳しく見ましょう、 注:以下中国語資料なので、関係する部分を適宜抜粋和訳。 古代官名-郎官 http://baike.baidu.com/view/2239606.htm 古代には,議郎,中郎,侍郎,郎中,等は官員の総称。本来は君主の侍従の官。 ~~ 任官に際し,父兄の功績で信頼出来る者,または相当の財産がある者を充てた.武帝(前漢=西漢)は董仲舒(儒学者)と相談して“毎年,地方の責任者に対し,孝順親長廉能正直(親孝行で清廉正直:武帝が定めた採用考査の必須項目)な者を責任持って推薦させ,郎中とした". 前漢後漢とも,郎官は地方の役人の長に就く機会が常にあった,その時代に於いては重要な出世の辿とみなされた.東漢(後漢)にあっては,尚書台が政務の中枢で,尚書郎が司る.郎官は侍従官を極めると,各行政部門の長官となり,再び光禄勛に属すことはない. ■「現在に置き換えて」の意図が不明快ですが、 ・総務省+警察庁+宮内庁+α. ・正規採用の公務員. ・公務員試験などの資格については分かりません(科挙は隋朝以降)が,文官ですから一定の教養はあったと考えたい(郎中自身は兵ではない). ・一方で親兄弟の功績や資産の多寡で任官者を選んだとすれば,中には怪しげな場合も懸念される. ・ところが、武帝(前漢=西漢)は儒学者董仲舒と相談し, 毎年“地方の責任者に対し,孝行で清廉な者を責任持って推薦させ,郎中とした". とあるので,地方の然るべき水準の子弟が集まったと考えても無理はないでしょう. ・地方の役人の管理職として転勤し,成功して更に出世すれば,行政部門の長官になる可能性もあった.少なくともその道は開かれていました. ⇒ さて、「郎中」のイメージは出来ましたか? *中央官庁での出世競争の緒についた,希望に溢れた若手官僚. * もしくは,力量不足で昇進に取り残され,不運をかこつ中高年官僚. それなりに出世した人は,未だ郎官であっても,既に郎中ではありません. 如何でしょうか?
お礼
イメージ湧きました。丁寧な説明ありがとうございました。