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信仰心を保てる詭弁とは?
- 健康食品の価値と宗教の入信効果を比較して考える
- 宗教団体の手段としての浄財の追加と他の教義の糾弾
- 簡単な問題の解決と精進・浄財の関係についての疑問
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縋ろうと試みたがる不純な感情移入の助長が、 無心状態への解脱を阻害するのでしょう。
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- BuffaloAndJtp
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最初の取り掛かりの時点で深刻な洗脳が雄弁に行なわれますと、 小康状態からの悪化を防ぐ為の精進の継続の価値が刷り込まれやすくなります。
補足
初期状態のフォーマット形式の違いが重要なのですね。
原因は、 自信満々にうそをつかれて、 1そのうそを見抜けず 内容の検討より前に 2言葉に惑わされる というのが真相でしょう。 だまされるほうは感情に流されており、 理論を確かめていないのです。 つまり「自信満々なのだからうそでなないのだろう」という 安易な考えが、その根本的原因です。 他人に迷惑をかけているのだから 「やめろ」 といっても「絶対やめない」。 仲間からも独裁政権のようなものだといわれ、 それを聞いて 開き直り 俺には勇気がある 「絶対」は俺様の専売特許だ という意見でありつづける。 お前らが何をやっても死ぬまでやめない!とこころにきめており、 そういう 「痴漢の精神」が、正しい精神であると主張して やめない。 そして 他人を不幸のどん底に叩き込む そういうほら吹きが のさばるが、 少数であるとはいえ そういうやからが 支持されているというのも 残念ながら 事実です。 大事なことは、 他人をだまそうとしている人は 自分が話すのは つねに過去のこと 本に書かれてあるもの ばかりであるが、 未来については、 「俺の言うとおり」= 「しかるべく」 しろ、と 他人は俺に従えという論旨で ことばを組み立てるという事実です。 (「するの主体」=他人が そうするのが相場である。「みとめるの主体」=他人が 俺の主張を認めるのが正論である。) とくに 愛について 分析するとはっきりします。 他人が そいつの いうとおり に やって 愛が成就するのかというと それは「絶対ない」。 こいつの愛は自己愛であり、書と自分の間の愛が出発点であるからです。 人間不在。 この人の物語の中では、まともな人間は、人物としては、一人も登場しない。 AさんとBさんが、愛し合っているのを、 でしゃばってきて、 宗教的愛はどうのこうのと語るということです。 (説明しなくても存在しないものを後付して説明しようとする。さらには、 二人の愛には神の愛が根底にあるというすそをどうどうと触れ回る!) 結局 聖典に書かれている 文言 が大事だ といいだす。 ただしいのはおれである。 おれの聖典が正しい。「おれ」の聖典だからだ。 つまり「俺」の解釈で、聖典が生き返っている。 俺は聖典を生き返らせている。 という盗人の自信が人をたぶらかすための根底になっているのです。俺おれ詐欺のクソ力です。 でも 注意して よく みると 人間関係の基礎が 「おべんちゃら」と「金」だけになっている。 ようく観察してみてください。 つまり、もてないやつ かっこわるいやつ みにくいやつが 知った風に 「愛」を騙っているのです。 簡単なことです。 醜い年寄り(♂)にだまされないようにすることです。
補足
有り難う御座います。 宗教論だけに拘らず、怪しい健康食品販売等の営業トークの問題にも話題を広げますと、仰る通りに、自信満々の語り振りによる悪影響の存在が明確になりますね。 でも、此の御意見の内容は、特定の方(哲学のカテゴリの「大御所」)の事を指しているのでしょうか?
>自分達の勝因を相手達の暫時的な不調だと見做し、 >自分達の敗因を自分達自身の努力不足だと考えたがる、 >日本的な「建て前」論にも、それは関わっているのでしょうか? こういうものに引っ掛かる人たちは、日本的な「建前」論には無関係と思います。 それ以前のもっと純真ウブな人たちでしょう。 でも、こういう人たちも「お前達の敗因は、お前達自身の努力不足だ」と叱られれば、そうだと信じ込みます。 でも、こういう純真な人たちをバカにしてはいけないと思います。 このような人たちが日本の国を支えてきたのだと思います。
補足
有り難う御座います。 自己達の現状を堕落の結果だと見做させる、 ルサンチマン的な発想の方に、これは類似しているのでしょうか?
誰もが持っている「反省する心」に付け込まれたのでしょう。 反省とは、自分の行動や言動などを振りかえって点検し、間違いがあったらそれを正していくことです。 一般に、自分自身を客観視して評価することは案外難しいことです。自分が間違っているとは認めたくないし、そもそもそんなことを考えている余裕もないかもしれません。 しかし、逆に信仰心の強い人、自分に自信が持てず何かに頼りたい人は、「反省しすぎる」ことがあります。 他人に「間違いだ、努力が足りない」と指摘されるとそのまま信じ込んでしまいがちです。 そこで一生懸命(無駄な)努力します。 それでも一生懸命(無駄な)努力(精進、寄進)をしているうちは、心が安まっているのです。
補足
有り難う御座います。 自分達の勝因を相手達の暫時的な不調だと見做し、 自分達の敗因を自分達自身の努力不足だと考えたがる、 日本的な「建て前」論にも、それは関わっているのでしょうか?
- alwen25
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どこの宗教のことを言っているのでしょうか。 私の所属している宗教は、伝統的な宗教なので (1)も(2)もやっていません。
補足
確認の投稿でも有り難いです。 因みに、激しい対立を行なっている宗派の多くに、 此の事情が当て嵌まります。
補足
信仰の対象を其の外部から認識している時点で、既に其の状態は無心の境地から深刻な程に乖離していますね。